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待つ、見守る・・・

「心理的安全性」という言葉を
最近よく耳にします。

組織の中で軋轢があっても
お互いの言いたいことを「安心」して
言い合える世界のことです。

noteをやっていると
「なんだか調子悪いなぁ〜」という時も
あると思います。
なんだか全体的に
フォロワーさんのスキが
みんな平等に落ちていたり・・・。

たまに、う〜んとうなってしまう
琴線に響く素敵な
noteもお見かけます。
私はお節介な性格なので
何か、お役に立てるコメントをしようか?
なんて考えたりもします。

人は価値観は十人十色です。
誰の言っていることが一番で
それが、必ずしも正しいわけではありません。

誰にでも「一言」言いたいことがあります。
それを表現することもnoteの役割だとも思えます。
だから、自分の意見を書いてみることも
大切です。

私も以前は、「正しさ」を求めていました。

しかし、今はそれも辞めました。

「他人と過去は変えられない」と
言われますが、真実だと思います。
自分の意見より
他のnoterさんの意見を一応心で一度
肯定する方が
何倍も自分自身のためになると考えるからです。

少し距離を置くこと。
少し自分の時間で待ってみること。
成り行きをおもいやりを持って見守ること。
なるたけそんな風にやり過ごすことにしています。

禅語に「八方ふけども動ぜず」という言葉があります。
世の中に出ると必ず自分に合わない人とも出会います。
逆に「何故こんなにも応援してくれるのか?嬉しいな〜」と
自分を肯定してくれる人も必ずいます。

そんな世の中の
毀誉褒貶(きよほうへん)に惑わされることもなく動じないという意味です。
いや、スルスルやり過ごす、とでも言いましょうか・・・。

仮に私自身が、多少でもそんな力が
付いたとしたのなら
読書のおかげだったり
誰かとの会話だったり
noterさんの何気ないコメントだったりします。

そうすると
人としての幅が広がれば
良いと考えるからです。

中国の大先生である「孔子」も
その語録「論語」で
「中庸の徳至れるかな」と言います。
物事のバランスを取れることは
「徳」として最高の境地であるというのです。

ニーチェもこういています。
「あなたが奴隷なら友達にはなれない。
あなたが専制者なら友達はできないだろう」

何事にも「そうだね」だけで追従するだけの人なら真の友達や他人との共感は得られそうは
ないかもしれません。

逆に自分が一番偉いと思っている人には
何を言っても届きません。
誰だって遠ざかってしまうでしょう。
(私も気をつけたいです)

何かを言う前に
「待つ」「見守る」とは
一種の大人の「やさしさ」だと思うのです。
インターネットの弱点は
そんな書き手、読み手のノンバーバル(非言語的)な態度が見えにくいことでしょう。

そんなことを考えながら
noteとのお付き合いを考えている
今日この頃です。

今回は「待つ、見守る」という
noteとの付き合い方から
大人的な優しさについて
言及いたしました。

季節が寒暖差を迎えています。
どうかお身体を気をつけてくださいね。

では また
おわり

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