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「続ける」の妙味

今日は車屋さんに行ってきました。
車の任意保険の更新だったのです。
一通り、営業の方の説明を聞かせていただき
無事に更新契約となりました。

その時の感想は
「これでまた安心して継続して車に乗る準備ができた」
という安堵感を強く感じました。

このケースは自分がお金を払うので
「安心を買った」という表現になるのでしょうか?
どちらにしろ生活に便利(必要不可欠)なことが続けられる「安堵感」の方が強かったです。

昔のことわざに
「石の上にも三年」という言葉があります。
あまりにも有名です。が、
今では、あまり良い意味では使われません。

ノーベル平和賞を受賞されたマザー・テレサ。
彼女が日本に初来日したときに通訳をされていたのが故渡辺和子さんです。

渡辺さんの著書に「置かれた場所で咲きなさい」という本があります。

その中で著者の渡辺さんは
「置かれた場所」でただ黙って耐えるのではなく神が置いてくれた場所、環境で生きた証明になることを薦められているようです。

「石の上にも三年」や
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉にも
全て「我慢すれば良い」というニュアンスが
感じられます。
しかし、それは本来の意味とはあい入れません。

「続ける」や「続けられる」ことは
全て生きる上で「幸せなこと」だと私は思います。
それは「続けた」人にしかわかり得ません。
否(いな)、noteを続けている方なら
ほとんどねnoterさんが、理解していただけると思います…。

どんなに一世風靡(いっせいふうび)する生き方も「続ける」ということは別の意味の生き方のです。
ニュアンスが違うと思うのです。

「続けられる」安心や幸せを感じた時に初めて
先の「石の上にも三年」の意味が初めて理解できるのだと私は思います。
理屈ではないと私は思います。

近代の文明は
簡単に地球を破壊することができるくらいに
発達しました。
先の大戦では多数の犠牲があって終わりが迎えられました。大変残念なことです。

それを反省に
フランクフルト学派では
今まで培った人間の「理性」を「道具」として使用してしまった人類の誤りであると批判しています。

人類が2000年以上もかけて
積み重ね続けた文明(理性)が、
人々の単なる「生活の快適さ」の「道具」とでしか扱われない「もの」になっていないでしょうか?

文明だって
数千年も人類が「続けた」結果によって
培われたものなのだと思います。

私のイメージは哲学者のヘーゲルのいう「世界精神」の歴史に匹敵するくらいです。

単なる「道具」ではないと、私も思います。


重ねて述べますが
「続けられる」ということは
幸せなことなのです。

「今の生活がなんとか続いている」のは
これだけでも昔の歴史に鑑みれば
ものすごく素晴らしいことなのです。

幸せは求めるものではないと
よく言われます。
何故なら、それは感じられるものだからだと
思います・・・。
それには時間を待つこと、続けてみることも
多少は必要なことなのではないでしょうか。

今回は「続ける」ことの妙味について
述べてみました。
読んでくださった方の
生活の一助になれたら幸いです。

最後までお付き合い
ありがとうございます。

それでは また
おわり

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