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裁きのない世界

「コンプライアンス」
「ハラスメント」
なんだかすごくヒヤッとする言葉を
並べてみました。
しかし、これらの言葉は
「法令遵守」や「嫌がらせ」など
現代社会にはなくてはならない言葉として
生活に浸透している言葉です。

その昔、エジプトの奴隷だったユダヤ人が
預言者モーセによって作られたのが
ユダヤ教でした。
ユダヤ教の神は「裁きの神」ヤハウェでした。
彼らは律法(トーラー)を守ることと引き換えに神に救われるという「選民思想」から
苦難を試練と考えて乗り越えようとしたのです。

その「裁きの神」や律法主義に
異を唱えたのがイエスでした。
彼は、ユダヤ教を受け継ぎながらも
「裁き」から「愛」へ。
「律法主義」から「隣人愛」を唱えたのです。

それが面白くなかった一部のユダヤ教徒は
厄介な存在としてイエスを
ついには十字架にかけてしまったのです。

今の日本の社会は
確かに法律も行政も行き届いています。
弱者にも寄り添う法律も次々にできています。
(差別やいじめの解消、マイノリティーやフリーランスの保護など)

その代わりに出てきたのが
コロナ禍でいう「自粛警察」などです。
「自粛警察」などの日本固有の同調圧力が逆に
「コンプライアンス」などの言葉が幅を広げる
どちらかというと「裁き」に似た社会を
作り上げてしまったのではないでしょうか?

マスコミは芸能人や政治家など著名人の
スキャンダルを暴き立て
それを見た大衆は「裁き」の十字架にかける
様子は近頃のニュースにいとまがありません。

「法律」「モラル」「常識」というものは
本来なら国民や市井の人々を
守るためにあるものでした。
それが今では「大衆」のフラストレーションのやり場と化して
「裁き」のためのものになってしまったと
感じてしまいます。
とても悲しくなってしまいます。

人の性が「性善説」かを考える前に
歴史上の思想や哲学は全て
「人は本来、善を求める」ところから始まります。
「性悪説」というのは「人間は本来悪」という
単純な考えではなく
「人は放っておくと怠惰になる」程度の
人間観の認識から生まれた言葉です。

要は人間観の切り口の一つであり
どこかのAIが「人間は滅べばいい」と唱えた
本末転倒な支離滅裂な考えを=「性悪説」とは
言いません。
冷静に「倫理」や「中国哲学」を学べばそれは解ることです。

今、私たちは「裁き」の社会にいると個人的に感じています。
この風潮はいずれは崩れるような気がするのです。
それは歴史が証明しているからです。
今まで私たちは文明や歴史からいろんな知識や知恵を得ました。
何もイエスのような救世主を求めるまでもないくらい、今は情報が溢れているのが現代なのです。

これからの社会を作っていくのは私たちです。

人を非難する前にその人を理解することは
本当にできないものでしょうか?
今、人が何者かに試されている瀬戸際だと考えます。

今日、スーパーでとても素敵な光景を見ました。

レジは今はセルフ化になり
高齢の方が利用するとそのシステムに戸惑う方も多々いらっしゃいます。

その中でその店員さんは、自らセルフレジに
戸惑う方に寄り添った形でレジ作業を肩代わりされていました。

一歩間違えば「越権行為」とも見做される可能性の中せっせと業務に励んでおられたのが印象的でした。「裁き」とはとてもかけ離れている
光景に感じたのです。

こういうと日本では「優しい」と言いますが
海外では「勇気がある」と評価します。

少しでも「勇気」のある人が増えて
「裁く世界」から「思いやりの社会」へと転換できないものでしょうか?

そんなことを考えた一日でした。

おわり

macapyさん素敵なフォトありがとうございました。

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