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泣いてもいいよ・・・。

古代ギリシアの哲学者の中の
一人、アリストテレスは
「人間はポリス(社会)的生き物だ」と
言ったそうです。

なるほど、人間は生物的にも群れを作りますが
文明人として同時に「言葉」を使いますし、文章にして知識を未来に向かい残してゆくこともできます。

社会や組織は言うまでもなく
人間関係で成り立ちます。
アリストテレスは「共和制」の政治を理想としていましたがそこは人間の集団です。

あつれきや思い通りにならないことも
昔から今までも多々あることです。

そんな時に
慰みになるのが
物語や歌、詩、文章です。

古代にも悲劇の物語もありました。
アリストテレスは「悲劇」を聞いて
涙を流すことにより
気持ちを浄化することを大切にしました。
それを「カタルシス」と呼びます。

近代でも「カタルシス」の大切さを
言ったのは精神科医のフロイトです。

彼は催眠療法から自由連想法に移るまでに
クライエントの自由な無意識からの「表現」に
より、それ自体が「カタルシス」(心の浄化)になりいろいろなノイローゼが癒されていくと
考えたのでした。

私たちは
日常、嫌なことに、嬉しいことに
まみえながら生活しています。

心理学で、今は「トラウマ」や「PTSD」で
苦しんでいる方に当時を思い出させるような
方法は行なわなくなっています。

それにより、心の傷がもっと広がってご本人が
もっと辛くなってゆくことが
懸念されることがわかってきたからです。

社会は十人十色です。
しかも、「他人は変えられない」ことが
わかっている今の人類。

はたして
嫌なことに苛(さいな)まれてしまったら
どうしたらよいのでしょうか・・・?

過去は取り戻せません。
だから、よく「忘れる」ことが良いと言います。

しかし、無意識に抑圧してしまった
心の傷を簡単に気にしない程度に
忘れてしまうことは可能なのでしょうか?

誰かの一言くらいなら
気にしないくらいは出来ます。

悪意のある一言は
聞いた人にとっては
一生忘れることはできません。

さて、天台宗の僧侶であり
作家でもあった瀬戸内寂聴さんは
「辛いことをくときは
一緒に泣くことしかできない」と
述べられています。

寂庵に来られた方にも
「辛い時には泣きなさい」と
仰っていたようです。

人間の「喜怒哀楽」は
生まれてから自然に身につく心の
作用だと思います。
「悲しみ」や「怒り」はあまり良い
感情ではありませんが、でも誰にでも
ついて回る感情です。

悲しい時は、瀬戸内さんではありませんが
私も思いっきり泣いてもいいと思います。
(TPOを考えることもかな…)

人は悲しみの感情を漠然とでも
きちんと頭で「認識」できないと
「泣く」と言う行為ができないと思います。

「認識」できない悲しみ怒り、それが心のトラウマのようなものかも知れないと私は考えています。

「泣いても何も変わらない」と言う人も
いらっしゃいます。
しかしそれは「思考」であって、「感情」ではありません。
「感情」で溢れるからこそ「涙」が出るのであって
「思考」は答えを求めている論理的さを残しているからです。

何歳でもどんな肩書きを背負っているとしても
「泣いてもいい」のです。

それは、心のひだを必ず豊かにしてくれます。

読んでくださった方に寄り添うような
優しい文章にはなれたか分かりませんが、
少しでも読んでくださった方が心から「泣ける」ことのちからを感じていただけたら
幸いです。

今回は「泣いてもいいよ」と言うことについて
述べてみました。
いつも最後まで読んでくださり
ありがとうございます。
感謝いたします。

では また
おわり

kokoronikewoさん素敵なイラスト
ありがとうございます。

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