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純喫茶

 雑居ビルかオヒィスビルか分からない建物の四階という珍しい立地にも関わらず、席が半分以上埋まっていた。
  ビルの入り口にある喫茶店の看板は、数年前から目に付いていたが今日まで入る勇気がなかった。今日はどうして足が向いたのだろう。自分でも不思議なくらい、吸い込まれるようにエントランスをくぐりエレベーターで四階に立った。
 正面には藤崎法律事務所という案内板のしたに、左向きの赤い矢印のあとに紫陽花喫茶という看板があった。パネルで区画された通路の先に、小さな置き看板でかろうじて喫茶店だと認識できるその入り口は、小さな会社を思わせる。
 置き看板がなかったら絶対引き返すよな。と思いつつも思い切って中に入った。

「いらっしゃいませ」
 マスターと思われる年配のロマンスグレーは、大きすぎず、小さすぎない落ち着いた声をかけて、好きな席に着いて構わないという目配せをした。
 濃い茶色で統一された店内。カウンター内には先ほどの男性と若い女性が一人。二人の背には壁一面の食器棚があり、そこには白地に花柄のカップとソーサー、ワイングラスのような透明の磨かれたグラスが、整然と並んでいる。
 先客達はいずれも一人客のようで、本を読む女性、ノートに何かを書いている若者など年齢層はまちまちだが、皆音も立てずに静かな空間を共有していた。
 少し奥の四人掛けのテーブルに腰を下ろし、ポケットから電子タバコとスマートフォンをテーブルに置いた。テーブルの隅にメニュー立てがあり、覗き込もうとしたとの瞬間、

「コーヒーは一種類だけですが大丈夫ですか」

 と、ロマンスグレーのマスターらしき人がお冷やをテーブルに置きながら声をかけてきた。

「あ、はい。アイスコーヒーはありますか」
「はい、承知しました。ミルクとシロップはいかが致しますか」
「結構です」

 落ち着いた声で注文を取った彼は、お待ちください。といってカウンターに戻っていった。

 コーヒー一択の喫茶店は初めてだ。一応メニューを確認すると、そこにはブレンドコーヒー七○○円、アイスコーヒー七○○円と二つのドリンクと三種類のケーキしかなかった。
 元よりコーヒーの味が分からない身としては、あれこれ種類があってもアイスコーヒーしか頼まないので何ら問題ないが、この店のストイックなメニューは何故か惚れ惚れするような気持ちになった。

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