エッセイ「一緒に走る」

部活。校舎の外周を走るトレーニングは、定番の練習だ。自分が中学生だったころ、運動部はみんな走らされた。自分の意思で、走ったわけじゃない。まさしく、「走らされた」のだった。楽しくバドミントンをしたいだけの自分にとっては、「ガチ」の人たちだけが、一生懸命やる時間だった。

勤めているこの学校は、1周何メートルくらいなのだろう。暇なときは生徒に混ざって走る。個人的には、1周でギブアップしたいところではあるものの、アラサーとなり、思いの外、走れなくなっている事実に、走らなくてはなあ、と思ったりもする。
ただ、元々、長距離は苦手なのだ。

学校で走っていると、サボっているやつを見かける。自分が顧問をしている部活の生徒が、和気藹々と談笑しながら歩いている。なめとるなあ、と思って眺める。そんな、ついさっきまで喋っていた連中が、俺が近づくと笑いながら逃げていく。失礼なやつらだなあ、と思ってまた眺める。
そんな奴らを、一生懸命走る別の部活の生徒たちが追い抜かす。立派だなあ、と思って、追い抜く生徒たちに感心する。まったく……、うちの部活の連中にも、見習ってほしいものだなあ、などと思いながら、疲れて自分も歩きはじめてしまう。
「先生、限界ですか?(笑)」
うちの部活の、真面目に走っている2年生が、息を切らしながら、そう俺に声をかけて、笑いながら追い抜かした。
「うるせえ、まだじゃ」
そう答えて、ちょっと早歩きにした。

先生と呼ばれる人たちの中には、子どもたちを「走らせる」知恵をしぼる人がいる。ルールを作り、監視をし、走らない生徒に罰を課す。先輩と後輩の上下関係をしっかりとする。子どもたちは、いつしかそれを身につけ、ある者は、一生懸命走るようになり、またある者は、いやいやながら走るようになる。
それでも、サボるやつは出てくる。
だから、子どもたちと「一緒に走る」なんていう知恵を得る。
「一緒に走る」ことで、生徒たちは走るようになる。先生が走る姿を面白がるやつがいる。純粋に喜んでくれるやつもいる。うざがるやつもまたいる。
でも、先生は、なぜ走るのだろう? それは、「走らせる」ために走るのだ。
その意図に勘づくやつらがいる。その走りに、純粋に走ることの意味なんてものが、何も含まれていないことに、気がつくやつがいる。
本当にスポーツで戦っている人は、他人を「走らせる」ために、走らない。少しでも長くコートで戦えるように、スタミナ切れで悔しい思いをしないために、ライバルと、最後まで全力で戦い抜くために、走る。
そしていつしか、それが習慣となり、ただ、走るようになる。

「走ること」が、好きな少年がいた。彼は、「体力をつけるために」とか、「肺活量を高めるために」とか、「脚力をつけるために」とか、そんな、「何かのために」は走らない。
「走ること」が、ただ、好きなのだ。
彼と話して、初めて、走ることが、こんなに難しいことなのだと知った。こんなに面白いものなんだと知った。ただ、走るだけのことに、様々な技と、知恵があることを知った。
太ももでなく、腸腰筋で足を引き上げる。ハムの背面で、後ろに足をふる。つま先で蹴っちゃいけない、ふくらはぎを肉離れしてしまう。腕は、肘が伸びないよう、引く方を意識する。足の着き方は、つま先から接地する、踵から接地する、足の裏を地面と並行に接地する、三つの接地の方法がある。人の走りを見るときは、ピッチとストライド、足の接地を見るといい。
少しでも遠くに、少しでも速く……。足を前に出す、その単純な動作に、他の誰よりもこだわり、思いをかける少年がいる。

人は、いつから自分の意思で走るようになるのだろう?
鬼ごっこが楽しくて、いつまでも走り回る小学生たち。大人になって、健康のためにジョギングをはじめた人。部活で、クラブチームで、トレーニングのために走る中学生や高校生。そんな人たちを横目に、結局、一生走らない運動嫌いな人もいる。
きっと、自分はそういう人たちと「一緒に」走ったり、走らなかったりもしたいんだと思う。

俺を笑いながら追い抜かした2年生は、もうかなり先に行ってしまった。知らぬ間に、サボってた1年生にすら距離を離された……。腹立つなあ、と思って先を見る。
しばらく歩いて、呼吸もずいぶん整った。少しずつ加速する。もう一度、走り出す。

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