エッセイ「絵を描く」

普段、あまり話したことのなかった少年が、ノートに描いた一枚の絵を持ってきた。クジャクヤママユと、手のデッサンだった。上手だなあ、と思った。
きっと、もっと上手な人が描けば、いくらでももっと上手なデッサンを見ることはできるんだろうと思う。ただ、上手いとか、下手とか、そういうことじゃない。「少年の日の思い出」という一編の小説を授業で読んで、彼が絵を描いたこと、それを見せに来てくれたことが嬉しかった。彼の絵は、すてきな絵だった。

以前、自分の受け持った子に聞いたことがある。
「美術の先生が描いた絵と、幼稚園児が描いた絵。どっちの方が、上手だと思う?」
正直者の彼らは、
「美術の先生が描いた絵って、答えたくなるけど……、」
と言って、苦笑いをした。きっとぼくが、「幼稚園児の描いた絵」と答えようとしていることを、分かっていたんだろうと思う。
前の職場で、まだ幼稚園に通う息子さんが描いてくれた似顔絵を、スマホの待ち受け画面にしている先生がいた。子煩悩なお父さんだなあと、思いながら、飲みの席で同僚が嬉しそうに息子さんの話をするのを聞いた。
たとえ、どんなに美術の先生の絵が上手でも、この同僚は、美術の先生の絵を待ち受け画面にはしないだろう。誰かのために、描かれた絵。誰かに、見てもらいたくなった絵。そういう絵を描いてもらえたことが嬉しい人たちは、きっと、たくさんいる。

とある女子たちは、国語のノートいっぱいに落書きを描いてくる。国語のノートに落書きがされているのか、落書き帳に板書が写されているのか、もはやよく分からない。1ページの半分以上が落書きだから、たぶん、あれは国語のノートなのではなくて、落書き帳なんじゃないかと、個人的には思っている。
とある男子は、ピクミンの絵を描き、「戸部ミール」というオリジナル(?)キャラクターを描いてきた。「戸部ミール」は、「そうか、そうか、つまり君はーーあたかもしれない」と、こっちを見ながら言ってくる。
そんな落書きを見て、授業をなめとるなあと、思う。でも、本当に描きたくて描いた絵は、絵が楽しそうに見える。

ぼくの兄は画家で、藝術大学の大学院まで卒業した。絵はセンスだとか、絵は自由だとか、よく言われるけれど、兄と話していると、そうでもないことがよく分かる。
絵にも、基礎基本があり、確立された技術があり、理論がある。絵で、本当にプロを目指したり、自分自身の描きたいものを本当の意味で「表現」したりするには、ただ、好きに描いているだけでは、辿り着けない場所があることも、また事実だろう。
けれども、「いい絵だな」と思う絵は、そういったものとは、また別なのだとも言う。
人が絵を描くとき、そこには必ず、描きたい「かたち」がある。それは、思い出の風景かもしれない。大好きなマンガやアニメのキャラクターかもしれない。現実にいる、誰かの姿かもしれない。
誰しも初めは、そうした、元の「かたち」の真似をする。そして、初めはそんなに上手に描けない。思い出の風景とは、なんか違う……。大好きなキャラクターは、もっとかっこいいのに……。あの人は、こんな顔じゃなかった……。
何が違うのか。自分の絵と、元の「かたち」を見比べる。線。色。質感。微妙な違いに気がついて、理想の「かたち」に近づける。
「いい絵」は、自分の描きたい本当の「かたち」を、じっと、よく見ている。そうして、白い画面に描かれた一本一本の線の中に、自分の目で見たたくさんの気づきが、たくさん詰まっているものだ。

落書きをする女子が、言った。
「まだ、完成してないんです!(笑)」
理想の「かたち」になるまで、彼女たちは、何度も何度も描き足し、描き直す。

少年が、今度はスケッチブックに描いた絵を持ってきた。女子たちが、せっせとノートに落書きをしている。
『文章理解の心理学』という本によれば、中学生の子どもたちが文章を読解している際中に、文章内容と関係のない情報や活動を与えると、著しく理解度が落ちるそうだ。落書きをしている子たちは、俺のせいで、国語の成績が下がってしまうのではないかと心配になる。

でも、そこに描かれた絵を見ると、やっぱりちょっと、笑ってしまう。

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