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水平線の夜

夏の匂いはうだって、彼方、水平線から吹く潮風は、海沿いの家の蛇口を錆びつかせている。テトラポッドの上に座る女の子は、独りぼっちになったサワガニを右手の指に乗せた。てくてくと歩くカニの足がくすぐったくて、ちょっと笑うとえくぼができる。
退屈で、暑い……。
カニを岩場に戻してあげると、女の子は立ち上がった。カニは、テトラポッドの隙間に消えた。蛇口に吹き付けていた風は、翻って、水色のワンピースをはためかせる。夏の陽射しを全身に、大きく伸びをすると、女の子は、限界まで吸い込んだ息を勢いよく吐き出した。
はーっ。
一瞬、突風が吹き、女の子の麦わら帽子が飛んだ。慌てて押さえようとしたが、あごにかかったゴム紐は、伸びきって、帽子がしばらく宙に浮く。ペタンと背中に張り付いた。ゴムがあることを忘れて、焦ったことが少し、恥ずかしい。一人で微かに、顔を赤らめる。
女の子は、意識を帽子から海へと向け直し、遠く、水平線に向けた目を輝かせた。テトラポッドにぶつかる波の音が、テンポよく繰り返されていた。
海の遥か、遠くの遠く、空とぶつかるところを「すいへいせん」と呼ぶんだと、先生が教えてくれたのは、昨日の道徳の授業だった。海に関するお話で、先生が授業から「だっせん」して話してくれた。
「すいへいせん」は、どんなところなんだろう? 
海の終わるところ。空と海がぶつかるところ。だからきっと、空にさわれるんだ! 空は宇宙だから、宇宙にさわって、滝みたいに、海の水が宇宙に向かって流れてて、星がキラキラ光ってて、すっごく、すっごくきれい。
宇宙の触り心地は、どんなだろう?
女の子は、膨らんだ期待をさらに膨らませるかのように、磯の香りのする潮風をもう一度大きく吸い込んだ。
「ミツル!」
幼い声に、突然名前を呼ばれて、吸い込んだ空気がポンと抜ける。女の子は振り返った。
「ご飯!」
堤防の下から弟のタツキが呼んでいる。
「今行く!」
ミツルは、堤防を降りる階段に向かって、全力で走り出した。


小学校3年性の夏休み。自由研究。ミツルは、「すいへいせんのひみつ」というタイトルで、絵を描いたり、工作をしたり、作文みたいなものを書いたり、絵日記みたいにしてみたり、なんか色々しようと思っていた。要するに、大人から見れば、特に細かいことは決まってなかった。
すいへいせん。素敵な響き。まずは、タイトルにした「ひみつ」を解かなきゃ。海は、家の目の前だから、毎日毎日、何度も見てきたけれど、不思議にも思ってこなかった。あそこまで行くと、空に触ることもできるなんて、考えてもみなかった。
「お母さん! 『すいへいせん』に行ってみたい!」
ミツルは、輝く目を今度はお母さんに向けて、大きな声で言った。
「水平線?」
お母さんは、不思議そうにミツルを見る。
「ミツル、水平線っていうのはね、行けるところじゃないんだよ」
穏やかな笑顔を見せながら、お母さんは答えた。
どうやら、地球は丸くて、宇宙に浮かんでいて、「すいへいせん」というのは、遠くから見ると線のように見えるだけで、どこまで行っても、「すいへいせん」には行けないらしい。
お母さんは頭が悪いんだなあ。ミツルは思った。
「船に乗って行けば、地球の丸いところの端っこに行けるってことだ!」
お母さんは、どう説明したものかというように、とても困った顔をした。
「そうね。でも、今のミツルには、まだ船の操縦はできないから、大きくなったら行けるかもしれないね」
と言う。
ミツルは、ちょっとカチンと来た。
お母さんは、全然、真面目に話を聞いてくれてない。
もういいよ。ますます困り顔になったお母さんを置いて、ミツルはまた、テトラポッドに向かった。


サワガニを手の甲に這わせ、ミツルは、お母さんのケチがついたせいで、ちょっと色褪せてしまった海をちらちら見ながら、テトラポッドの上に座っていた。お昼を過ぎ、夏の日差しはますます暑く照りかかる。額に流れる汗を、ミツルは手で拭った。
「ミッちゃん、どうしたの?」
後ろから声をかけられる。びっくりしながら振り向くと、ウキノおばちゃんだった。
「お母さんにダメって言われた」
ミツルは、また不機嫌な顔を海の方に向け直し、言った。と、同時に、手の甲に乗っていたサワガニが、テトラポッドの隙間に落ちてしまう。
「何を?」
「『すいへいせん』に行くの」
体操座りの膝の間に顔を埋める。「すいへいせん」って響きは、やっぱりすてきだな。輝く海が、変にまぶしい。
ウキノおばちゃんが、くすっと笑う気配がして、ミツルは、再び振り向いた。
「なに?」
「連れて行ってあげよっか?」


大海原に向けて、ウキノおばちゃんの「ぷれじゃーぼーと」が出航した。酔い止めはしっかり飲んできた!
太陽が夕日で、オレンジ色の海に、黒くまだらまだらしてる。これからあの太陽のある場所に行くんだ! と、思うと、ホントにわくわくする。「すいへいせん」に着く頃には、もう太陽は沈んじゃって、太陽にさわるには間に合わないかな?
「ミッちゃん! 捕まっときな!」
プレジャーボートには、真ん中に屋根のついた操縦席がある。海釣り用なのだろう。丸い操縦桿の横には、モニターがあって、複雑な海図の横に魚群探知器の映像が映っていた。お魚がたくさんいるところには、お魚さんのマークがたくさん出てきて、すっごくかわいい!
操縦席は、金属の手すりに、ウレタンが巻かれただけの簡素な作りだった。大人は足がつくからいいけど、ミツルが座ると足が浮き、ひどく不安定だ。自然とウキノおばちゃんにしがみつく。
やや高い波に船が跳ねた。ジェットコースターが落ちる瞬間みたいに、すくんで股間のあたりがソワっとする。
「大きいのくるよ!」
おばちゃんの声と同時に、船は再び高く跳ね、ざぶんと落ちる。船の動きに合わせて、ミツルの体は、身長の半分くらい浮いて、どすんと再び尻餅をついた。ミツルは、首を前に出して渋い顔をし、ウキノおばちゃんが高笑いをする。
「笑い事じゃないよー」
「今日は少し、海が荒れてるね」
お尻が痛い。笑い事じゃないのに、とミツルはムスッとした。
おばちゃんの「ぷれじゃーぼーと」は観光用で、お客さんを乗せて半島の周りを見て回ったり、海釣りをしたいお客さんを沖に連れて行ってあげたりしているそうだ。
波の激しさのあまり、操縦席のところまでしょっぱい水しぶきが飛んでくる。冷たくて気持ちいい。暑さを残す夕方に、ちょうどよかった。

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すでにどれくらいのあいだ、海にいたのか分からなくなってきた頃、突如として海は静かになってきた。
海は、シワを寄せた黒い布のように滑らかで、触ったら、なんか温かそう。日は、太陽が動いているのが分かるくらいのスピードで、水平線へとゆったりと沈んでいく。夕方は次第に終わり、太陽と反対側の空には、すでに星が見えた。
プレジャーボートが、水平線へとたどり着き、ウキノは、エンジンを切る。
静か。
波も、音を殺すようにうねり、しかし、揺れを感じさせない。なんだか耳が痛くなってきた。
「屋根の上に登ってみる?」
ウキノおばちゃんがそう言ってきた。おばちゃんに肩車してもらって、操縦席の上の屋根に乗る。
怖い。すごく揺れる。とっさに屋根の縁を握って、ごろんと空を見上げた。
満天の星空に向かって、背中側にあったはずの海が流れ出す。プールの底を、下から見上げ、底には無数の穴が空き、そこから水が溢れるように、海の水は、無数の筋となって空へと落ちていく。
「ミッちゃん、一回降りてきな」
ウキノおばちゃんがそう言ってきた。おばちゃんに受け止めてもらって、操縦席の上の屋根から下へと飛び降りる。
舳先を見ると、そこには、足下の方まで空が広がっている。
きれい!
夢中で船首へと走り込み、船の外へと身を乗り出す。ポテンッ、と頭がぶつかった。
えっ?
見開いた、まん丸のミツルの目が向かうそこは、水平線だった。
空へと昇る水の柱に囲まれて、海の途切れた空に向かって、右手を伸ばす。
ポテンッ、と指の腹が触れると、空間が波打った。おそるおそる、波打つ空間に手のひらをヒタリと付ける。再び、空間に新しい波紋が広がる。
あったかい。
空間の向こうには、無数の星が広がって、足下の海は、ナイアガラの滝のように真下に落ちていく。横を見た。足下の宇宙へと向かう滝は、どこまでも横に広がっている。
「ねえ、ウキノおばちゃん!」
満面の笑顔を振りまいて、後ろを向くと、船は消え、遥か遠く反対側の水平線が見えた。どこに行っちゃったんだろ? 不思議と、怖くはなかった。だから、もう一度、足下まで広がる空の方を見た。
満天の星空。天の川。そして、起き上がると、ミツルは、操縦席の屋根の上に、ちょこんと一人、座っていた。
海の上とは思えないほど穏やかで、揺れ一つない。
「そろそろ帰ろっか」
お尻の下から、ウキノおばちゃんの声が聞こえた。ミツルは、目の前に広がる黒い海と夜空を、プレジャーボートの舳先の先に見据えながら、しばらく黙った。
「うん!」
元気よく返事をすると、屋根から甲板に飛び降りた。こらっ! 危ないでしょ、とウキノおばちゃんに怒られる。照れ隠しのようにミツルは笑って、再び操縦席に座った。
無音の暗闇の海に、エンジン音が再び響く。そして、場違いなくらい豪快な音を立てて、プレジャーボートは海面を走り出した。

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「ミツル、何してるの?」
弟のタツキが、真っ白な画用紙を覗き込んできた。
「自由研究!」
気合いを入れて、ミツルは、学校で使っている絵の具まで出してきていた。初めて使ったときから洗っていないパレットには、混濁した青黒い水彩絵の具がべったりと張り付いている。
夜空の色みたいできれい……。
うっとりと汚れたパレットに見惚れたミツルは、残っている青黒い絵の具を使おうと、たっぷりと水を含ませた筆で溶かし始めた。
「じゆうけんきゅうって何するの?」
タツキもいっしょになって、もう一本の筆で絵の具を溶かそうとパレットをこすっている。
「『すいへいせん』を見てきたから、その観察日記を描くの!」
おもしろそー! と言って、タツキの筆に力が入る。
溶けた絵の具を白い画用紙に塗りはじめる。
「全部ぬるの?」
「うん」
タツキもいっしょになって塗る。真っ白だった画用紙は、一瞬にして、一面、美しい夜空であり、海となった。
ここからは一人でやるから、とミツルが言うと、えー、何でー? とタツキが駄々をこねはじめる。ミツルは、タツキを押さえつけながら、白い絵の具で星を描き、空へと昇る柱を描き、ナイアガラの滝を描いた。

8月18日(金)「すいへいせんのよる」

家の中には、窓の外から、規則正しい波の音が、微かに聞こえてくる。


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