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やさしさに救われて。誰かの中にちょっとずつ自分の人生がある。
もう20年ほどの付き合いになる、元同じ職場の人たちと3年以上ぶりに食事をした。
それぞれ違う場所にいるけれど、年賀状やたまにラインのやり取りで様子をうかがう機会はあった。けれど集まればもう、積もる話が尽きなくて3人で3時間があっという間に過ぎてしまった。1人あたり1時間もしゃべっていたことになるのだけど一瞬で終わった気がした。
女同士のおしゃべりは時空が歪んではいないか?
懐かしい人たちの名前をたくさん耳にした。
誰がどうなった、子どもができた、定年でゆっくりしてる、などなど。時の流れに目を細めるばかりである。同世代のひとがパパやママになるのはもう何とも思わないがさすがに「部長」になってたりして腰を抜かしそうだった。まあ、それもそうか。そのうち、孫の誕生なんて話題にもなるかもしれない。くわばらくわばら。
忘れていることも多いが、10年以上前のことでも覚えていることも案外あるし、突然思い出したり、過去と今が繋がって新たな人脈が発掘されたりもした。逆に、久しぶりの知人との会話を通してずっと会わなくても私のことを覚えてくれている人も多いと知らされとても驚いた。
大したことしてないサラリーマン人生だと思っていたけど、確実に年輪を重ねていたのかと感慨深い。
人生は、終わりに近づいていくしかないし、自分という存在は肉体的にも社会的にも弱くなり小さくなっていくのかもしれない。
けれど、生きていく過程で、自分の片鱗がいろんな人の心の中に散らばって誰かの心の中にほんの少しずつ生きていると思うと、さみしくない。むしろ、距離も時間も超えてどんどん自分は、たんぽぽの綿毛のようにこの世に漂い根を下ろし大きくなっていく気にすらなる。子どもなんかはその最たる例なのかもしれない。良くも悪くも。
自分のかけらを受け取って胸に入れてくれている人、思い出の箱に納めてしまっておいてくれる人。そんな人たちに生きているうちにたくさん出会える。
やさしい人たちの中に自分がいる。
嬉しいことだ。
私の中にも、やさしい人、強い人、楽しい人がたくさん生きている。
何かあるたびにそうした記憶の中の人たちも私を救ってくれる。
思えば社会に出るまでに20年以上、社会に出てからおおよそ20年、もう平均的な寿命の半分近くを生きてきたことになる。
悲しいようなさみしいような、不安になるような気持ちもある。だけど、離れていても心の中の思い出を共有しながら間接的に共に過ごしてきた仲間がいるのを心強く思った。
この先の人生でどれだけ、自分以外の心の中にやさしさを届けられるだろうか。命が終わるときやりきった、と思えたらいいなと思う。
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