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祈りにも似ている

宝石商の女社長の教え


小さい頃、テレビで宝石商の女性社長を見た。
豪華なお洋服を着て上品な話し方をしていてお茶目だった。
そしてその方が発した言葉が永久保存されることになった。

人は、何度も思い出すと忘れない。
思い出さなくても忘れないこともあるかもしれないけれど、
事あるごとに思い出していたら例え一時的に忘れても覚えていたことになるだろう。

その言葉とは、正確には覚えていないけれど、商売が成功したらそのお金で人の役に立つことを「させていただきたい」ということだった。
具体的には宝石商の社長は東南アジアに学校を建てていた。
当時思ったのは、お金を出しているけれどやってあげるではなく、させてほしいなんだな、ということ。

それを機に、私も大きくなってお金を稼ぐようになったら、少しでも何か人の役に立つことをしたい、いや違う、させてもらいたいなと思うようになった。

寄付ができるって幸せなこと?


独身の時はスポットでささやかな寄付をした。
特にこれというポリシーもなく。
今思えば、健康で働けて、生活が成り立って少額でも寄付ができるなんて恵まれている。
当時はそんな自覚はなく、同世代の知人友人を羨み劣等感を抱いて、ストレスを溜めていた。
けれど、反射的に地震や洪水が起こるたびにコンビニのレジに置かれる募金箱にお釣りを入れ、海外出張で余った外貨も両替屋さんの募金箱に入れていた。
女社長の実践とはかけ離れていて、なんとなく、寄付をしていた。
そうすると気持ちがいいというより、ストレスを溜めて澱んだ自分が少しだけ透明になる気がした。それはもう祈りにも似ている。

世界は優しさで溢れているんじゃないか


結婚してからは夫婦でほんのささやかな寄付をしている。
それは食料品の調達手段である生協で毎月引き落とされているもので、ひとり親家庭の小中学校の子供たちの学校生活を支えるためのもの。ささやかで寄付の存在を忘れてしまいそうになる程。夫はもう忘れているかもしれない。
年に一度、会計報告や利用者の声が掲載された会報誌が届く。
コロナで一般に生活は苦しくなっていると聞くけれど(最近は物価高騰も顕著だけど)寄付をする人の数は右肩上がりと書いてあった。
この世の中には優しさと気配りが溢れていると思う。
悲しいニュースももちろんたくさん目にするけれど、元気にしてくれたり癒しをくれる出来事は毎日そこここで起こっている。

私自身が意識的にそして自主的に寄付を始めたのは長男が生まれてから。
それもささやかではあるけれど定期的に始めて次男の産育休でも絶えず続けてきた。決して、余裕のある暮らしではないし贅沢は全くしていないけれどこれだけは続けようと思って続けてきた。
寄付の先は有名なフローレンス。

実はフローレンスの存在は随分前から知っていた。
友人が代表の方と繋がりがあったからだ。
子供ができてから誰かのために何かをしたいならこの団体を通してにしたいと強く思うようになった。だって、フローレンスがしてくれていることは社会に救いを求める術を持たない赤ちゃんや子供の未来を照らすこと。もちろん他にもたくさん団体があって私が無知なだけだけれど、ここなら助けてという声に耳を傾けて動いてくれそうだと思った。
寄付金で税金の控除が受けられるという大人の仕組みも初めて知った。
つくづく、この世界の一部は、優しさでできているよなと思う。

やっと本題。寄付してよかったこと。

フローレンスに寄付してこんなことがよかったよ、という話は置いておこうと思う。というか、実際あまり気にしていない。
私は不真面目なのでどのように寄付金が役立ってどんな笑顔につながったかを確認することもなく、ただ、手離れたお金に未来を託しているだけ。なぜなら、活動の良し悪しを判断する能力もないし、金額もささやかだから。
だけど、noteに書きたいくらいには、寄付をしてきてよかったと思う訳がある。

以前、息子が不意に保育園でもらってきた病気をきっかけに入院してしまったという出来事があった。もう言葉も話せるし考えもしっかりしてきているので、辛そうな姿を見ていられない。そして、やっとこさ入院できた。渦巻くのは、この事態を防げなかった後悔とか、救急に行くタイミングがよくわからなくて焦燥感に駆られたこととか、いざ救急に行ったら案の定入院を勧められてこんな小さな子を初日にたった一人で病院で過ごさせなければならないことへの不安で胸が苦しく締め付けられた。

結果としては医療関係者の皆様と付き添ってくれた夫のおかげで回復し、普段の生活に戻ることができた。医療崩壊していなくて本当によかった。本気で医療インフラを支えている方々に感謝した。

最初の1、2日はすぐ様目に見える進展がなくてどうなってしまうんだろうかと心配で心配で仕方がなかった。何もしてあげられることがない。できるのは精々着替えを届けることくらいで、コロナ禍で面会も禁止されていた。この間、私は当たり前なのにちっとも理解できていなかったことがあると気がついた。それは、できることがないことがこれほどまでに辛いということ。

話を聞いてあげたい。
背中をさすってあげたい。
少しずつ、できるようになったことを褒めてあげたい。
優しい声で、よく頑張っているねと言ってあげたい。
そのどれもできなくて。

できることがあるうちに。
それは自分の子でもそうでなくても。
助けてほしい人がいて助けたい人がいて、それに対して何かをしたいと思ってできる手段があるのだから。
だから私は寄付をしていてよかったと思う。
何か少しでも私にできることがありますように。
祈りの貯金をするように寄付をする。

#寄付してよかったこと

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