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物語を書く、ということ。

しばらくぶりに何か文章を書いてみようと思って書く。
正直、内容は決めていない。今書きながら考えている。

最近、移動中にふと、物語の種が浮かぶことがある。
大抵の場合「もしも、、、だったら」みたいな、現実に起こり得ないことを想像することが多い。それでも、その種から物語を広げていけるからいいのだけれど。

もしも、あの時プリンを食べていたら。
もしも、あそこで猫を助けていたら。
もしも、手を伸ばして命を救うことができたのなら。

深く考えれば、実際に起こりうるかもしれない物語の種。
けど、やっぱり起こらない。起こらなかったとしても、そういう出来事に遭遇することが少ないように思う。


そうやって物語を書くことと向き合っているうちに、ふと頭の中で浮かんだ考えがあった。

なぜ、人は物語を求めるのだろうか

私は小説を読むことや演劇を見にいくのが好きで、お話が進めば進むほど、登場人物に感情移入してしまい、時に泣いたり怒ったりする。
決して私はその登場人物ではないし、1人の読者であったり観客であったりする。しかし、物語に前のめりになり、没入し、いつしか自分がその登場人物であるかのように錯覚し、感情を抱く。

登場人物になっているかのような気持ちにいるとき、自分が自分ではないかのような感覚に襲われることもある。それは良いものだったり、時として悪いものだったりする。嬉しさを感じたり、逆に悲しさや苦しさ、殺意さえ覚えることもある。

だけれど、それは不思議なことだが、私はその感覚を好んでいる気がする。

本来体験することのない出来事を、ある登場人物を借りて体験する

私が物語を求めているのは、そんな理由なのかもしれない。
生きているうちに体験できることには限界がある。ある選択肢を取れば、それ以外の選択肢は消えてしまう。だけれど「もしも、この道を選んでいたら、私はどんな体験をしていたのだろう」と思いを馳せる。そして、その馳せた思いを、物語に照らし出すのではないか、と思ったりする。


逆に言えば、私が物語を書こうとするのも、そうした体験を誰かに届けたいと思うからかもしれない。生きている間にどんなことを知って、どんな行動をして、どのように死んでいくのか。それは人それぞれ。
けれど、そうではなかった未来や過去を描くことができるのが物語の良さであると思う。実際私がそんな体験をしてきたように。

もちろん、同じ体験をしても、人によってどう感じるかは異なるから、それは良いものであったり、悪いものであったりする。
だけれど、その感情を共有できたら、その人は別の選択肢を追体験しているような感覚になるのかもしれない。

ゆえに、一瞬の感情を見逃してはいけない。
たとえ忘れることがあっても、それは人生の中で得た感情の1つとして残り続けるのだから。


私もそうした感情の動きを、書いていきたい。
一本道ではなく、無数に広がった道を。


2024/7/1 「物語を書く、ということ」

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