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人の評価って適当だなと、思った。

初めまして。巨鬼と申します。

タイトルにもある通り、私は、人の評価ってとても適当なものだと常々思っております。
特に、友達や親友、恋人や配偶者などからの、いいねの数やフォロワー数などで数字化されない評価はその傾向が顕著です。

過去に、こんなことがありました。
私は、当時中学生で、夏休みの真っただ中。例年であれば頭を空っぽにして遊び尽くす毎日ですが、今年は、一つ気がかりなことがありました。

――課題が異常に多いのです。

昨年は、まあ精々十日分の課題くらいだったのですが、教員の入れ替わりなどがあり、その十倍ほどのページ数に。

当然、すべての課題をこなそうとすれば、夏休みに遊ぶ時間など無く、友達と遊ぶ時間は皆無になります。

中学生の私にとって、それは非常に由々しき事態です。
私は悩みに悩んだ末、結局、課題をやらないことにしました。

課題の軛から解き放たれ、自由な時間を手に入れた私は、大いに満喫し始めます。
そうこうしているうちに夏休みはあっという間に過ぎてしまいました。

そして、八月の一日。白紙のままのテキストブックを背負い、私は憂鬱な気分で教室へ足を踏み入れます。

きっと、怒られるんだろうなあ。どうやって言い訳しようかなあ。

頭の中は、ただそんなことでいっぱいでした。

しかし、みな考えることは同じ。

どうやらみんな、課題をやってきていないようでした。

先生が教壇に上がる前の教室は、今年の課題量の多さ、「俺、宿題やってないわ~」「うちも~」「わかる」といった会話、ある種の集団同調性バイアスのようなものが働いて、課題忘れが大勢いる割には楽観的な雰囲気に包まれていました。

やがてHRが始まり、課題の回収が行われました。

当然、課題の未提出者の続出に、先生は大激怒。
課題の未提出者は、遅れてでも提出するように厳命。

その叱責が効いたのか、真面目な生徒は次の日に、そうでない子も一、二週間で提出を済ませていたようです。

しかし、それでも私は課題をやりませんでした。

面倒くさかったから、というのもそうですが、主に中学生特有の反抗心によるものが大きかったと思います。

いやいや、バカみたいな量の課題出すほうがおかしいだろう、と。

私が件のテキストブックを提出したのは、八月一日から、三か月ほどたった頃でした。

私は、先生に怒鳴られることを覚悟で職員室までテキストブックを提出しに行きました。
「先生、課題の提出遅れてすみませんでした」
そう謝りながら、先生にノートを渡します。

しかし、思っていたのとは裏腹に、先生からのコメントは優しいものでした。
「おお、やっと提出してくれたか! 大魔王くんはやればできる子だって信じてたぞ!」
そう快活に笑い、なんのお咎めもなしにテキストブックを受け取ります。
私は、「え? あれ?」と戸惑いながらその場を後にしたことを覚えています。
あれだけ怒られるだろうと思ってビクビクしていたのに、全く怒られることなく、むしろ褒められたとさえ受け取れる先生からの評価に、私は少なからずショックを受けました。

そして、気づいたのです。人からの評価って、チョロくね?と。

今回の例では、もう先生の怒りも収まっていて、課題をちゃんと提出したという事実だけがそのまま評価に繋がっています。

皆さん、他人の評価ってのは適当なものです。
いくら頑張っても機嫌が悪い人からは悪い評価、頑張らなくても機嫌がいい人からは良い評価を受けることができます。
認められない、頑張っても報われないという方は、また違った視点から、評価というものを観察してみてはいかがでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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