亡くなった母のこと
上島竜兵さんの訃報を朝のニュースで聞き、1年前に亡くなった母のことを思い出した。
離れて暮らす母の不調を聞いたのは2019年の夏ごろだったと思う。
「最近眠れなくて睡眠薬を飲んでいる」
私は更年期でしょ?とか言って聞き流していた。
その頃、結婚前の旦那と暮らしていた私は月に一度実家に帰るくらいで、実家には父、母、兄が住んでいた。
年が明けてコロナが蔓延したのが2020年2月、その直前に母は叔母と姉妹で海外旅行に行った。
母が出発したあと、次のツアーからは中止となっていた。
旅行中も、眠れないから強めのお酒を飲んでいたそうだ。
2020年の秋、私は結婚。
あとから聞いたのだが、母は躁鬱の症状を繰り返しており両家顔合わせのときは躁の状態で表面上は元気な時期だったという。
人によって、躁鬱は数日~数カ月のスパンで繰り返される。
月に一度しか母に会っていなかったため、私は落ち込んでいる母を見ても「体調悪いんだな」くらいにしか思っていなかった。
躁鬱にも波の大きさがあって、上下のふり幅がどんどん大きくなっていった。
躁のときは散財をしたりいろんな人にLINEを送り続けた。
夜勤中スマホから少し離れただけで、母から80件近くLINEが来ていることもあった。
気分が高揚してしまい、眠れないのだった。
元々おしゃべりが好きな母だったが、久しぶりに会うと食事中もずっと喋り続けた。
妄想も増え、ひとりで出かけた花屋で「ハサミを突き付けられた」と言い
コンビニでお会計前の雑誌をコピーして兄が謝りに行ったこともあった。
2021年になり、鬱の薬によって身体に力が入らなくなってしまい精神病院に入院。
監視カメラ付きの病室。
これまでも何回か「失敗しちゃった~」と自殺未遂をしていた母は、入院中、食事とお手洗い以外拘束衣を着させられることになった。
好きだった本を読むことも、手紙を書くこともできない。
コロナということもあってお見舞いに行っても会うことはできず、手紙を渡すことと看護師さんに電話をつないでもらうことしかできなかった。
そして2020年の4月も終わるころ、母は病室で自分の首をしめた。
お手洗いに行き、監視カメラの目を盗んでのことだった。
15分後くらいに看護師さんによって発見されたのだが、そのあいだ脳に酸素がいかなかったことにより意識はもうなかった。
たまたま実家に泊まっていた私は、父と兄と一緒に病院へ駆けつけた。
医師から事の経緯を説明されたのだが、もう少し発見が早ければ回復が見込めたのだが、意識が戻っても障害が残ってしまうことを告げられた。
このようなことは病院でも前例がなく、医師も憔悴していた。申し訳ございません、と謝られた。
医師から説明を受けても、私は「治るだろう」としか思っていなかった。
コロナで面会できなかったが、緊急事態のため私は約1ヵ月ぶりに母と対面した。
思い出すと心臓のあたりが締め付けられるのだが、あの光景はおそらく一生忘れられない。
一時期仕事から離れていた私は、そこから毎日病院に通った。
数日して医師から「脳死」と告げられた。
思考回路が止まっていたため理解できず質問もできず、検索ワード「脳死 回復」「脳死 生存」などで検索しつづけてなんとか希望がないか探し続けた。
家にいてもずっと考えてしまうため就活をし、ハローワークに行ったり面接を受けに行ったりして気を紛らわせた。
そして5月17日に日付が変わり寝ようとしたころ、兄から「病院から連絡があった。今から行ってくる」とLINEが入る。
すぐさま着替え、ペーパードライバーだったが深夜に車を走らせた。
病院に着いたころには、母はもう息を引き取っていた。
不思議と涙は出ず、父も兄も気丈にふるまっていた。
事故ではないかなど調べるために警察が病院に来て、私たち家族のこと、母がどんな人であったか聴取を受けた。
母の通っていた高校、勤めていた職場を聞かれ、家族でおしゃべりな母の話を思い出しながら話した。
母の死後、初めて泣いたのは葬式で棺に花を入れるときだった。
急に沸点を通り越したように涙が溢れてきた。
悲しみというより、後悔と何もできなかった申し訳なさで涙が止まらなかった。
いまも時々思い出して苦しくなるが、家族が自死を選んでしまったことは、悲しみより後悔の念が大きい。
上島竜兵さんの訃報を夜11時のニュースで観た。
涙があふれて止まらなかったのは、まだ1年前の後悔が消えないから。
結婚してから母にいちど「沖縄に行こう」と誘われた。
あのとき一緒に行ってたら、何か違ってたのかな。
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