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【小説】嬲(なぶ)る 21 給料3倍でも、働きたくない事業所

五 春の気配
 新しい事務員は、美声の持ち主だった。それも、人並外れた美しさだった。本人も認めている。

「来た人は、事務所内をぐるりを見回すんです。電話に出た人はどこにいるのか探しているんだと思います。私が目の前にいて、応対しているのに。若いときから、そうだったんです。うふふ」
 妖精が森の中を軽やかに飛び回るような声で答えた。

 冴子の後任探しに、袖子が出した条件は、3つ。
1.大手企業に勤務経験があること。
1.円満な家庭を持っていそうなこと。
1.40歳以上、70歳未満。

「あとは、冴子さんに任せるわ」
 新しい事務員は、峰子。大手企業勤務を経て、結婚と同時に退職。以後は専業主婦として、3人の男児を育ててきた。
 夫は、地元の伝統的な企業に勤め、それなりの地位に就いている。

 
 進学期を迎えた息子たちのために、少しでも収入が欲しいのだと言う。
「スーパーのレジならあるんですけど、夫のことを思うと決心がつかなくて。世間体とかつまらないと思っていたんですけど、いざとなるとやっぱり」
 この年齢の主婦には、ありがちな動機だ。

「うち、いつ倒産してもおかしくないのよ。時給だって、役所の規定ギリギリの最低額。そんなところでいいのかしら」
「事務職ならいいんです」
 袖子の狙い通りだった。

 冴子は、袖子よりはるかに藤枝クリーニングに詳しい。東京にいながら、指示を出すだけでよかった。
 峰子は、そうはいかない。

 袖子は、月のうちの後半、郷里にもどることにした。
 これがまた、袖子をますます窮地に追い込むことになるんだけどな。

      ***
 空気が変わった。春風のような峰子の声のせいかもしれない。
 無表情だった冴子の顔も、別人のようにほころんでいた。
 
 手帳を開いて、袖子に見せた。小さな文字がぎっしりと詰まっているなかに、〇△✕の記号が見えた。
「誘われていた会社のリストなんです」

 藤枝クリーニングがいつ倒産してもおかしくない状態にあることは、取引先では公然のことになっていた。
 そして冴子が優秀な事務員であることも知れ渡っていた。
 冴子の引き抜きを図った取引先のリストというわけだ。

「この大きな×がついているの、何」
 冴子の顔から笑みがこぼれた。
「お給料、藤枝の3倍出すって言われました」
「すごいよ、それ。藤枝のことは心配しなくていいのよ、自分のことだけ考えていいのよ」
 今度は、いたずらが見つかった子どものような笑みを見せた。

「信用できません。もう、うまい話には乗らないことにしました」
 立浪給食株式会社。学校給食や社員食堂をはじめ、ラーメン店やレストランなどを手広くやっている会社だ。職員の作業着などを藤枝クリーニングに依頼する顧客だった。

 冴子の決断は、失業保険をもらいながら、職業安定所がやっている職業訓練所に通うことだ。
「とりあえず経理の勉強してから、どこか探すことにしました」

 冴子の目が輝いていたことが、袖子の救いだった。
 退職金は、未払いの給料を残したままで、冴子は退職した。
「何かあったら連絡してください。いつでも、飛んでまいります」
      ***

 立浪給食株式会社。決して規模は大きくはないが、経営不安はまったくない。社長の立浪は、何かと悪評の持ち主で、金回りはすこぶるいい。
 本業の給食のほかにも、様々な事業を展開しているが、いずれも乗っ取りだ。それらの就役もあるんだろうが、最も金を生んでいるのは金貸しだ。
 銀行が貸さなくなった会社に、高利で金を貸す。どうにもならなくなったところで、M&Aをするか、破産させて二束三文で資産を自分のものにする。

 100万円の金も満足に動かせない爪マニキュア男とちがい、1億円規模なら即座に動かせると思うぜ。
 その分、恨みを買うことも多い。
 冴子が×をつけた最大の理由は、そこだろうな。

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