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【小説】嬲(なぶ)る 23 スーツを着た人が偉い! なんてことはない。

 

三  スーツコンプレックス
あの年は大雪だったな。東京も大雪にまみれていた。一面の銀世界のなか、実家をあとにした袖子は、以来、実家との音信を一切断った。
「どうしてる、元気か」 
 親父からは留守番電話に幾度かメッセージが残されていた。
 しかし、袖子が返信することはなかった。

「一度口に出したことは、命に代えても実行する」
 袖子のことだから、こんな理由だったと思うぜ。売り言葉に買い言葉ってことが通用しねぇんだよな、袖子には。

 売り言葉どころか、3歩で忘れるのが、親父と衿子だ。言いっぱなしというか、何を言っても許されると思い込んでいる、親父と衿子は。
 その点では親父と衿子は、一卵性親子なんだよな。世間にわるい人はいないと信じて疑わない世界の住人なんだよな。
 
 自分のしたいことを、すべて許してくれるいい人。許してくれないことはナイショでやればいい。それも許されると、信じて疑わない。
 報連相。
 3つともないんだよな、この親子。みごとなくらい、ない!
 
 衿子の亭主が藤枝クリーニングに入社したときもそうだったんだ。

     ***
「専務にしたから」
「えっ!? 会社どうするん?」
「辞めた。また転勤になるらしいんだけど、ブツブツ言ってるから『じゃ、辞めたら』って私が言ったのよ」
「ふ~ん、そうか」

 その翌日から、亭主は藤枝クリーニングに出勤した。
 2~3日後には、専務と印刷された名刺もできた。

 亭主は、クリーニングの作業など全く経験がない。当初こそ、工場に出て、汗を流していたが、まもなく工場には顔も出さなくなった。
 未経験者がいきなり手伝っても、従業員にとっては邪魔にしかならない。相手が専務の肩書であれば、指示することもできない。

「休みか? 今日もいなかった」
 このころはまだ親父も自ら工場で汗を流していた。親父は、社長だ。専務なら当然、工場の仕事もするものだと思っていた。
「皆、口がわるいから。うちの夫には向かないのよ。事務仕事しかしたことないんだから」

 亭主は、作業着を着なくなった。事務所の仕事と、得意先とのつきあいしかしなくなった。やがて事務仕事もそっちのけにし、平日の昼間からゴルフに興じるようんなった。
     ***

 衿子は、亭主をかばうばかりで、文句の一言も言ってないんだよな。
 一つには、ネクタイコンプレックスがある。

 親父は、若いころから作業着しか着たことがない。スーツも持ってはいるが、衿子も袖子も親父のスーツ姿を目にするのは、せいぜい年に2~3回。
 たまにスーツ姿になった親父は、身を固くし、ぎこちない。観光地で見かけるだろ、義経の絵に、穴の開いたところから顔だけ出す。あれと、大差ない。

 というわけで、スーツを着た人間は偉いと思い込んでいる節があるんだよな。
 これが、勘違い!
 袖子一族のDNA、勘違いだ。

 もう一つ、考えられる理由は、引け目だ。
 衿子は、亭主に引け目を持っているんだ。だから、強いことが言えない。
 これには、袖子が大いに関係している。主犯と言っていいだろうな。これも勘違いDNAのなせる所業ではあるんだがな。

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