嬲(なぶ)る 元同級生
第一章
一 学生アパートの一夜
気づかなかったぜ、まったく。
ウワサの勘違い女が、袖子のことだったなんて。どっちかっていうとおとなしくて、目立たないほうだったもんな。
成績はよくも悪くもなかったんじゃないかな。中くらい。容姿も……、まぁそこそこ、ということにしておこう。何といっても女だもんな、容姿に言及すると、思わぬとばっちりを受けかねない。
好意も悪意も持ってなかったな。思い出すこともなかったし、強いていえば、そんな同級生もいたなという感じ。とにかく目立たない、芸能人でいえば「ひな壇芸人」っていうところだ。
待てよ、そういえば、下北沢の安アパート。学生向けの古びたアパートでの夜だったな。
あのときは、驚いたよ。突然だったし、どうしていいかわからなかった。袖子が大胆なことをする女だとは思ってもみなかった。
***
初めてのひとり暮らし。叔母の嫁ぎ先に下宿していたが、会話はほとんどなかった。方言丸出しで話しても、孤独を感じるだけ。最小限の会話しかしなくなった。
大学に行けば、方言は飛び交っていた。俺も郷里にいるときのように話したが、一々反応する。
「やったらあかんの」って言ったら、「もう一回、もう一回」って、北関東の強いなまりで懇願された。
西日本風の方言は珍しいのだろう。
ひと言しゃべるたびに、二度も三度も同じセリフを繰り返さないといけない。うざいから、やはり必要最小限しかしゃべらないことにした。
袖子から電話があったのは、そんなころだった。下宿先の電話番号は、郷里の家に電話して教えてもらったのだと言った。
教えられた住所を尋ねると、下北沢だった。駅の近くだったが、繁華街の喧騒は届かなった。鬱蒼と茂る樹々に囲まれて、古びたアパートが一棟、建っていた。
205号室。
ノックすると、袖子がドアを開けた。
4畳半に0・5畳ほどの流し台。典型的な学生向けアパートだ。
4畳半の中央に折り畳み式のちゃぶ台が1つ。ほかに家具らしい家具はない。
ちゃぶ台の前に座ると、袖子は皿とナイフを置いた。
刺されるのか!?
そこまでは思わなかったが、リンゴが現れて正直ホッとした。人気のない樹々を抜けたかと思うと、薄暗い古びたアパートだ。心細くなってもしかたない。
ここまで分厚いリンゴの皮を見たのは、初めてだった。
袖子は不器用らしい。
皮をむかれたリンゴは、3分の2ほどに小さくなっていた。
三日月形に切ったリンゴを8つ皿に載せ、差し出した。
俺が掴もうとしたとき、袖子が言った。
「北村くんのこと、ずっと好きやったんよ」
***
突然、言い出すなよな。俺だって男だ。いたって健康だ。据え膳くらい、いつでも食ってやる。
しかし、突然はないよな。筆おろしとかってやつもまだ済んでなかったんだぜ。飢えた狼だって、態勢を整える時間くらいほしいんだよっ!!
あの夜、俺は結局、ひとかけのリンゴも食わないまま袖子のアパートを後にしたんだった。
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