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照魔機関 第13話 天井下り事象 大詰め


住処

 午後10時近く、中島は呼び鈴を鳴らした。
「中島さん? どうしたんですか、こんな時間に——」

 戸を開けた人物は、中島の後ろにいる二人を見て表情が強張った。

「こんばんは、田原さん。先日、うちの加藤捜査官が、札をあなたに渡して、そのときに結界の張り方と注意点を説明したそうですね。

『一度張った結界は、ある法則で札を破かない限り、破られる事はないから安心だ。そう言って実演して見せた』と、つい先程彼から伺いました。

 結界を張ったのは、お婆様のお部屋ですか? 綻びがないか、確認しに参りました」

 閉まるドア。中島を押しのけ、四辻はドアの隙間に片足を挟んだ。さらに片手でドアをこじ開けながら、玄関の中に体をねじ込んでいく。

「お婆様の部屋を見せてください」
「ひいっ」
 べったりと笑顔を貼り付けた四辻に、田原は悲鳴を上げた。

「祖母はもう寝ました! お引き取りくださ——むぐっ」

 四辻が田原を抑え込んだ隙に、逢が玄関から廊下の奥へ走り抜ける。

 祖母の部屋の場所は、以前彼女を見舞いに訪れた中島から聞いていた。

(廊下の突き当り……あった!)

 襖を開け放つ。

 悪臭。

 廊下から差し込む光が、部屋の中を仄かに照らす。腐った食べ物が床に散乱し、そこに沸いた虫の羽音が微かに聞こえる。掛け布団はめくれ、乱れたシーツの上に寝ているはずの人物は、見当たらない。

 部屋の隅に置かれた机には、錆色の液体が流れた跡がベッダリとついていた。さらには、その下の床にも同じ色のシミが広がっている。

「……四辻さん。そのまま田原さんを押さえていてください」

 ——ゴトッ。
 部屋の中を覗いた中島は、懐中電灯を取り落とした。

 まるで電池が切れかけたおもちゃのように、ゆっくりと玄関の方を向くと、四辻に拘束されて連れてこられた田原に虚ろな目を向けた。

「お前……梅さんをどうした?」
「……知らない。ここにはいない」

「知らないってお前、これは……」

「俺は悪くない」
 俯く田原は、それ以上中島の質問に答えようとしなかった。

「四辻さん、机のシミからルミノール反応が出ました」

「田原さん、あれは誰の血ですか?」

 田原は鼻で笑った。

「誰の血? ルミノール反応だけじゃ、人間の血かどうかまで分からないだろ」

「逢さん、他には?」

「靴を探します。大野家の庭に、あたしと四辻さん、中島さん以外の足跡がありました。その足跡は泥濘を踏んでいるので、朝に機関の人間に付けられたものじゃありません。昼に降った雨が上がった後につけられたもの……つまり、石を置いて札を剥がした犯人の足跡です。

 その足跡と全く同じ足跡が、最初に調べた空き家にもありました。空き家に入ったのは4人、あたしと四辻さん、中島さんと、田原さんだけです。

 あたし達を霊に殺させようとしたのは——田原さん、あなたですね?

 この家を調べれば、あの足跡を付けた靴が見つかるはずです」

「田原——」
中島はふらふらとした足取りで、中島の前まで行くと、襟を掴んだ。

「本当の事を言ってくれ。お前が殺しなんてするはずないだろ。ましてや、自分の婆さんを殺すなんてありえない。梅さんは、お前の育て親だろうが! 
 これも、悪霊の仕業なんだよな? お前は脅されて、仕方なく嘘を吐いているだけだよな? なあ……そうだろ? そうだと言ってくれ……」

「中島さん……。俺を、信じてくれるんですか?」

「田原さん!」
 田原に向けられた逢の鋭い声が、中島の返答を押さえつけた。手には、スマホが握られている。

「加藤捜査官のタブレット、まだ見つかっていないんですよ。おそらく霊が持ち去って、まだ異界に残されているんです。
 あれは機関が捜査官に配布している特別なもので、世界を隔てても通信できる優れものです。もしこの家の天井に霊が住み着いているなら、着信音が聞こえるはず!」

 逢がスマホの通話ボタンを押すと、間を置いて着信音が聞こえ始めた。

「聞こえますか? 霊が住み着いているということは、この家には、何かが隠されているということです。天井裏を見せていただきます」

「そんなはずはない! あれは、壊して庭に埋め——」

 田原は口を押えたが、遅かった。口を衝いて出た言葉に、中島は目を丸くしていた。

「ところで逢さん、僕らのタブレッドには、いつからそんな便利機能が?」

 わざとらしい四辻の質問に、逢はとぼけた顔で自分のポケットを探り、激しく鳴動しているスマホを取り出した。

「あ、これ四辻さんのスマホじゃないですか~。間違えて四辻さんにかけちゃったみたいですね。
 それによく考えたら、あのタブレッドには異界とこっちを繋ぐどころか、通話機能すらありませんでした」

 田原は肩を震わせた。喉の奥から込み上げる笑いは、遂に口から溢れ出した。

「田原?」
「悪霊が婆ちゃんを殺したなんて、そんな訳ないだろ」

 田原は中島を睨み付けた。

「中島さん。俺はあんたも、村の人間も、大っ嫌いだった!
 婆ちゃんが病気になんてならなければ、俺の人生はもっと自由だった。俺は疲れたんだよ。婆ちゃんの介護に! 

 食事の介助、オムツの交換、洗濯、掃除。ほとんど動けない癖に、ベッドから這い出して転ぶ……。仕事で疲れているのに、毎日毎日毎日毎日、俺は面倒を見続けた。

 病気になってから婆ちゃんは、自分が囲の対象にされるんじゃないかっていう妄想に取り憑かれた。そのせいで家に引き籠るようになった。
 あの馬鹿げた風習を、婆ちゃんはずっと怖がっていたんだ……。引きこもるせいで、婆ちゃんはどんどんボケていって、最後は俺の顔を見て『泥棒』と叫んだ。

 俺を睨んで、ふらふらしながら歩いてきて、殴りかかろうとした。

 俺の苦労が全否定された気分になった……。

 でも、でも……殺す気なんか無かったんだ……」

 田原は泣き崩れた。

「ついカッとなって、手を出しちまった……。倒れた婆ちゃんは、頭をそこの机の角にぶつけて、動かなくなった……。頭から血が溢れて、呼びかけても返事がなかった。死んでるって、すぐに分かった」

「そんなになるまで……どうして俺にまで黙っていたんだ。俺は……囲なんて、あんなものに加わった覚えは、一度もないぞ」

「信用できる訳ないだろ。村人はみんな、親切を装って探り合っているんだ。
 あんただって、間違ってるって思っても、何も言わなかったじゃないか! 俺もあんたも、対象になるのを怖がって、トミコさんを見殺しにしたんだから!」

「……梅さんが死んだことを黙っていたのも、囲のせいなのか?」

「……せっかく警察官になれたのに、こんなことで辞めたくなかった。
 思わず体が動いてた。遺体をビニールシートに包んで、天井裏に隠した。時期が来たら遺体も証拠も処分しようって思っていたんだ。でも……」

「できなかったんですよね?」

 逢は部屋の電気をつけると、再び部屋の中を眺めた。

「この部屋、事件があった日のままになっています。
 証拠を処分できなかったのは、田原さんが、お婆さんを愛していたからなんじゃないでしょうか。辛いできごとが多くても、この部屋にあるのは、お婆さんとの思い出が詰まったものばかりだから……」

「違う! 違う、違う! 何も思い出したくなかった! 隠していたかった! 全部なかったことにしたかったんだ! だから俺は婆ちゃんを天井裏に隠して、この部屋を……閉じておくことに、したんだよ……」

 脱力した田原から四辻は手を離した。
 頭を抱えて蹲る田原は、自虐的な笑いを零した。

「あの家にあんたらを閉じ込めれば、また婆ちゃんが殺すと思った。前の捜査官達も上手く騙せたから、今回もやれるって思ったんだ。それなのに……どうして婆ちゃんが死んでるって分かったんだよ。俺はあんたの前で、婆ちゃんが生きてる証拠を見せたはずだろ」

「あの着信のことですか?」

 田原の沈黙を肯定と受け取り、四辻は説明を始めた。

「あれ、タイマーのアラーム音ですよね。音を着信と同じものに変えて、僕達と一緒にいる時にアラームが鳴るように仕掛けておけば、どのタイミングで鳴っても構わない。鳴りさえすれば、お婆様が生きているという事を、僕達に印象付けられるからです。でも、それがあなたの犯した最大のミスでした」

 恨めしそうな田原の目に、四辻は鋭い視線を返した。

「動けないお婆様を心配して、天井から落ちてくる遺体を警戒していたはずのあなたが、お婆様からの着信に応答しないのは違和感がありました。
 いつも大したことない用件の電話がかかってくるとしても、本当に警戒していたなら、毎回電話に出るはずです。もしかして、今度こそ何かあったんじゃないかと、心配なはずですから。

 おみとしさまへの質問を終えた後、霊がこの村に住み続けていた村人の霊と知ると、僕の中であの時の違和感が膨れあがりました。もしかすると、あの時あなたが電話に応答しなかったのは、応答したくてもできない事情があったのではないかと。たとえば、応答したフリをして僕に演技だと見抜かれるのを恐れた、とか。だから中島さんを揺さぶってみたんです」

四辻はチラッと中島を一瞥して、再び田原を見据えた。

「思った通り、やはり彼はお婆様に会っていなかった。二人で交代して村中を確認していたようですが、まさか相棒の家族まで確認しようとは思わないでしょう。だって、中島さんは田原さんがお婆様の介護を熱心にされていたことを知っていますから。ついさっきまで、彼は本当に、梅さんが生きていると思っていたんですよ」

 中島の深い溜息が聞こえた。逢が視線を彼に向けると、眉間に深い皺が刻まれているのが見えた。同僚が犯してしまった罪と、それに気付けなかった自分を責めているのかもしれない。

 四辻は田原に向けていた視線を天井に移した。頭上で膨れ上がる気配を警戒し、「踏み込む前に札をありったけ貼ったのに、本当の住処じゃこの程度か……。どうも結界は苦手だな」と、ぼやきながら、札を取り出した。

 その横で、

「とにかく、まずは梅さんを天井裏から出してやろう。点検口はどこだ?」

 中島は田原から天井裏への入り口を聞き出し、逢の横を通って部屋の中に入った。


正体

 現場を見た中島は、今まで積み上げてきたものが音を立てて崩れていくような気分を味わった。
 中島は、田原が子供だった頃から知っていた。早くに両親を亡くし、祖母の梅が親代わりをしていることも、梅本人から聞かされていた。

「お爺さんもいないし、私が一人で家の事しなくちゃいけなくってねぇ。遊びに連れて行ってあげることもできないの」

 田原を紹介されたとき、梅は申し訳なさそうにそう言ったが、田原は一言も文句を言わなかった。両親を失くして辛いだろうに、祖母を気遣っているのだと、中島はすぐに気付いた。
 可哀想だと思った。だから、よく遊びに連れ出していた。田原が警察官になる夢を話した時、中島はその夢を応援した。まるで息子を持ったような気分だった。

 田原を支えているつもりでいた。しかし、思い返してみれば、彼は梅の介護が必要になったとは言ったものの、その大変さを、一度も中島に相談したことがなかった。

 彼は、梅の本当の状態を、中島に偽っていた。中島は、田原が問題なく梅の世話をしていると思い込んでいた。特にここ最近は、忙しさのあまり、見舞いにも訪れていなかった。

 だから田原が誤って祖母を死なせてしまっていた事に、気付けなかった。 

 村人達はお節介なようでいて、噂好きだ。それも、面白おかしく悪い方向へ話を転がしていく。田原にとって、中島はそんな村人の一部に過ぎなかったのだろう。

 田原は囲に違和感を持っていたようだが、村人に介護の悩みを打ち明ければ、梅が恐れていた通り、梅が囲の対象にされると思っていたのかもしれない。

 きっと、誰にも相談できず、思い詰めてしまったんだろう。

 全部、この村の因習を黙認し、断ち切れなかったせいだ。

 中島は様々な思いが込み上げ、口の中で謝罪を繰り返した。

 気付けば、押し入れの前に立っていた。襖は固く閉じられているが、中に入っていた衣装箱は引っ張り出されたままになっていた。遺体を持ち上げるのに使った踏み台も、出しっぱなしになっている。

 天袋を開け、天井を押す。思っていたよりも簡単に板が外れ、闇に塗りつぶされた天井裏が露わになった。

 懐中電灯を付けようとして、廊下に落としてきたことにようやく気が付いた。仕方なくスマホのライトを付け、天井裏を照らした。

 仄かな明かりが、暗闇に呑まれていたビニールシートを露わにした。

 丸く膨らんだそれに手を伸ばし、触れる。

 違和感。

 勢いよく引っ張れば、ビニールシートが捲れ、中身が露出した。

「なっ——」

 慌ててビニールシートを引っ張り出し、部屋の中に戻る。

「どういうことだ! ビニールシートの中に、誰もいないぞ!」

 半ば叫ぶように訴えた中島は、部屋の様子を見て、さらに悲鳴を上げた。

 部屋の中にあった何もかもが消えている。箪笥も、机も、ベッドも、家具という家具が、綺麗さっぱり消えていた。

 部屋の隅には、田原を庇うように覆いかぶさる逢がいた。二人の為に壁となり、頭から血を流す四辻は片膝を付いている。

「いったい何が——」

 突然光が消えた。身動きできないまま床に落とされ、引きずられる。

 再び光が戻ると、目の前には四辻の顔があった。

「間一髪でしたね」
「何だコレは、糸か? クソッ糸が体中に巻き付いてやがる! いったい、どういうつもりだ!」

「緊急事態だったので、この糸で引っ張らせてもらいました。それとも、蓑虫になるくらいだったら、下敷きの方がマシでしたか?」

 四辻が指さした場所では、天井から降ってきた机が踏み台を粉砕して、床に突き刺さっていた。

「ところで、見たんですよね? 天井にあるはずの遺体が消えているのを」

「あ、ああ。ビニールシートの中に、梅さんの遺体は無かった」

「ふっふふふ。あはははは!」

 肩を震わせて笑い出した四辻に、中島は異様なモノを見る目を向けた。

「はぁ……中島さんが戻るまで、彼女を引き付けた甲斐があった。遂に、辿り着けましたよ。天井下り事象を引き起こした霊の正体に。やっぱり、田原さんを庇う為に自分の遺体を異界に隠していたんだ」

 四辻が糸に触れると、中島を巻いていた糸はシュルシュルと解けて札に変わった。横になったまま驚いたように目を瞬かせる中島を田原の隣へ転がすと、天井に向かって複数の札を投げた。札は空中でほどけて展開し、薄い白い糸が繭のように部屋の隅を覆った。

 ——ガンッ!

 硬い物が繭にぶつかり、落ちた。顔を上げた逢の目は、繭の向こうにちゃぶ台が転がっているのを捉えた。

 ガリガリ、ガリ、ドンッドンッガリガリガリ

 見えない何かが、繭の上を這いまわり、爪で引っ掻き、叩いている気配がした。

「中島さん、田原さん、絶対に四辻さんの繭に触れないでください。この繭は外からの攻撃には強いですが、内側から触れれば簡単に壊れてしまいます」

 田原の上から体をどかすと、逢は四辻の様子を窺った。
 逢は背中に冷たい汗が流れるのを感じ、冷静さを手放さないように必死だった。しかし、四辻は汗一つ流さず、涼しい顔をしていた。血を流してはいるものの、息は全く乱れていない。

「何とかしてくれ!」
 中島の声は裏返り、震えていた。

 四辻を気遣いながら、逢は中島に説明した。

「お祓いは、もう始まっています。そのために、こうして怪異の正体を暴いたと報告しているんです!」

「報告? 何にだ!?」

「照魔機関の祭神に、です。怪異の正体を暴けば、神様の力で怪異は隠れることも逃げる事もできなくなります。それからじゃないと、封印を解いちゃいけないことになってるんです!」

「封印?」

 一際大きな音がして、繭に穴が開いた。真上に落ちた箪笥が、バランスを崩して床に落ちていく。

「霊の本当の目的は、自分を殺した犯人を庇う事だった。だから、あなたは、自分自身の遺体を異界に隠したんだ。 

 遺体を盗んで降らせ続けたのは、自分自身の遺体を隠し続ける為に、霊として存在を保とうとしたから」

 四辻は振り返り、壁にもたれかかっている田原を見た。彼はぼんやりとした表情で、繭に開いた穴を眺めている。

「大野家の周りで遺体を降らせたのは、疑いの目をこの家に向けさせない為。捜査官を殺したのは、村中の家を調べられたら、あなたがいないことがバレてしまうから。ですよね? 田原梅さん!」

 部屋の電気がフッと消えた。

 天井から影が落ちて、ぶら下がる。障子から差し込む月明かりが、両手をだらんと伸ばしたまま、ゆらゆらと揺れる人影を照らし出した。

 揺れる度に、白髪に赤色の混ざる長い髪が、水辺を揺蕩う藻のように宙を漂った。

「ようやく、姿を現してくれましたね」

 四辻が懐中電灯を向けると、血の気の引いた青白い顔が浮かび上がる。その顔には深い皺が刻まれ、目はきつく閉じられていた。

「あなたが天井に姿を隠していたのは、顔を見られるかもしれないという不安と、変わり果てた自分自身の姿を田原さんに見せたくなかったからだ。

 でもね、この部屋の様子が分かりますか? お孫さんは、あなたを殺してしまった証拠を、処分できなかったんです。

 廃屋で田原さんが本当に恐れていたのは、霊障ではなく、自分が最愛の祖母を殺してしまったという事実。彼は、あなたに会う事を恐れていたのです。
 この先、あなたがどれだけ遺体を増やそうと、吊るそうと、お孫さんはきっと、自分の罪から逃げられませんよ」

 梅は何も答えない。肯定も否定もせず、天井にぶら下がって揺れていた。しかし、彼女がこの場に留まっているのは、四辻の推理が真実だという証拠。梅は真実を得た祭神の力に縛られ、逃げられない。

「梅さん……あなたは、ご自身の行動が、どんどん恐ろしい物になっていることに、気付いていますか? 穢れによる変質が起こっているんです。お孫さんを庇う為に悪霊になることが、お孫さんの為になると思いますか?」

 揺れる影は、部屋の中央で制止した。

「終わりにしましょう。……逢さん、準備を——」

 突然、鋭い痛みが脇腹に走った。
 床に倒された四辻は脇腹を押さえ、痛みに耐えながら視線を前に向ける。視界の端に、血に染まった刃物が転がるのが見えた。

 運悪く動脈か臓器を傷付けられたのか、血が流れて止まらない。
 全身を支配する痛みに、四辻は舌打ちした。顔を真っ青にして叫ぶ逢の悲鳴をどこか遠くで聞きながら、視線だけで自分を刺した相手を探す。

「婆ちゃん……」

 部屋の隅で震えていたはずの田原が繭を破り、天井からぶら下がった祖母の方へと歩いて行くのが見えた。繭には、田原が四辻を刺した時に浴びた返り血が付いている。

「婆ちゃん、婆ちゃん……ごめんよ……こんな姿にしちまって……。婆ちゃんだって、好きで俺を忘れた訳じゃなかったのに……。泥棒が来たと思って、怖かったんだよな……怖がらせてごめんな」

「近づいちゃ駄目です! 梅さんはもう、田原さんが知っているお婆さんじゃありません!」

 逢の制止は一歩遅かった。

 梅は鬼灯のように赤く光る目を見開いた。
祖母の形をした怪異は、穢れを振り撒く悪霊に成り果てていた。孫を守るという願いを胸に抱いたのに、彼女は自分の孫がどんな姿形をしていたのかすら、もう思い出せなくなっていた。

「ひぃっ」
 尻餅をついた田原めがけて、天井からベッドが落とされる。叫び声を上げる間もなく、田原はベッドの下敷きに——ならなかった。

 間一髪、息も絶え絶えに起き上がった四辻が、投げた札を繭に変えて田原を守った。

 その後ろでは、逢が狐の窓を通して四辻を覗く。

「報告の通り、あたし達は事象の原因を特定しました。
 照魔の神様、我が神の封印をお解きください。

 我が神よ、お目覚めください。
 繭を破り、悪鬼羅刹を胃の腑にお収めください」


 逢の中で、思い出せなかった記憶が鮮明に蘇った。


当機関が有する桑原珠月についての記録

————フィルターの解除に成功しました————

【神無四辻 事象】

 当機関が初めて存在を確認した時、彼の神は、守り神の加護が及ばぬ辻に顕現し、辻神を食らっていた。
 その食欲たるや凄まじく、中世以前は朝に三千、夕には三百の悪鬼羅刹を飲み干していたと推測される。

 その凶暴さから、一時は辻神と混同されたものの、後に辟邪絵に描かれた善神と同じ類の怪異であると判明した。

 機関が有するこの怪異の記録は中世以降のものであり、この世に招かれた理由、召喚方法、依代にしている青年の詳細は不明。
 近代に入ってからは、常世に潜む怪異を見つけて捕食する為か、彼の神は機関に隷属する素振りを見せている。

 神の名は【神虫】
 底無しの胃袋を持つ八脚のサンである。

 人の姿をとるときは、神無四辻を名乗っている。



「喰らい清め給え」

 逢の願いに応えるように、四辻の体が糸のように解けて足元の影に沈み込む。同時に、影からは鎧のような外皮に覆われた巨大な手が伸びて、天井異界ごと悪霊を捕らえた。

「待って! 待ってくれ!」

 田原は叫び、繭を破ろうとした。しかし、繭は破れずに叩きつける手を弾き返した。

「俺の婆ちゃんだ! つれて行かないで! 俺の……俺の、ただ一人の家族なんだ!」

「田原さん……梅さんはもう、あなたの知るお婆さんじゃありません。だけど……」

 逢は、諭すように田原に話しかけた。

「一番最初、自分自身の遺体を隠した時の梅さんは、まだ梅さんのままでした。きっと泥棒と言ってあなたを怒らせてしまったことを、悔やんで霊になったんです。

 でも、穢れに侵されて、次第に梅さんは、梅さんじゃなくなっていきました。遺体を粗末に扱うことも、人を殺めることも、平気な悪霊になってしまったんです。

 自分自身を見失った梅さんが、それでも大野家の周りに遺体を降らせ続けたのは……必死に、あなたのことを思い出そうとしていたからだと思います」

 逢は懇願するように、田原を見つめた。

「悪い怪異をこの世に留めるのは、人の負の心です。でも、故人の死後に平穏をもたらすのもまた、人の心なんです。
 祈ってください、田原さん……悪霊になってもあなたを愛し続けた、お婆さんの、死後の安らぎを」

 やがて、神虫の手は、悪霊となった梅を影の中へと引きずり込んだ。

 逢は闇の中に投げ出されたように何も見えなくなり、僅かな浮遊感のあと、照明が戻った部屋に立っていた。部屋の中の荒れ具合が、先程の出来事が夢や幻じゃないことを物語っている。

 一部始終を見守っていた中島は、手を合わせて祈りを捧げている田原を一瞥し、暗い表情で視線を床に落とした。

 ただ一人、神無四辻だけが満足そうに自分の腹を擦っていた。体は元通りの青年の姿に戻り、傷は跡形も無く消えていた。