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照魔機関 最終話 桑原の巫女



みとし村を見ている

 異界が消え、天井裏から田原梅の遺体が降ろされた。
 冷たい祖母の体を、田原は強く抱きしめた。たった一度の過ちで、永遠に奪い去ってしまった祖母の温もりを、追い求めるように……。

 その姿を見た逢は、田原が自分達を殺そうとしたのは、保身の為じゃなくて、機関の捜査官である自分達から、悪霊になった祖母を守ろうとしたからだったんじゃないか、という考えが浮かんだ。

 サイレンの音が近付く中、一瞬——生きていた頃の姿を取り戻した梅が、田原を抱きしめている光景を見た。
 瞬きをすると消えていたその光景を、逢は、田原の祈りが通じたのだと思うことにした。

 神虫は怪異を食べるが、消化するのは怪異が纏う穢れだけ。悪しきものを浄化し、本来の姿に戻す。しかし、もし怪異が穢れに完全に侵されていたのなら、その魂は穢れと一緒に消化されてしまう。

 梅の魂が戻ってきたのは、田原の祈りが通じ、悪霊に堕ちた彼女が本来の性質を寸前で取り戻したからだと、逢は考えた。

 彼女の罪は神虫によって裁かれ、魂が溜め込んだ穢れは祓われた。だからもう、彼女はこの村に縛られず、田原が罪を償う時も、その先も、ここではない別の世界で安らかに見守ってくれるはずだ。

 警察車両が到着すると、中島は田原に寄り添うようにして玄関へ向かった。

 四辻と逢は責任者に報告を済ませると、村へ来るときに乗っていた車に乗り込んだ。既に加藤はおらず、迎えが来た後のようだった。

 車の内側にはべったりと札が貼られていた。札は四辻が車を降りる直前、重ねて貼っておくように運転手に渡したものだった。

「これ、綺麗に剥がせますか?」
「もちろん」
 四辻が手を翳すと、札は全て独りでに剥がれて手の中に収まった。

「おお~……。ちなみに、あたしみたいに術が使えない人はどうしたらいいですか?」
「んー、角を爪でつついて、そっと剥がす?」

「地味というか普通!」

 二人が乗ったことを確認すると、
「おつかれさまでした。あとで加藤君にも、事の顛末を説明してあげてください……」
 運転手はそう言いながら、エンジンをかけた。

「そうだ、加藤捜査官は大丈夫でしたか?」

「落ち込んでいたので、捜査官を続けるように伝えました。太田もそれを望んでいるはずですから」

 発進する寸前、運転手は逢と四辻を一瞥した。

「太田は自分の、調査官時代の相棒です。自分は向いてないとわかって、裏方に回りましたが、あいつとは喫煙所で愚痴を零し合う仲でした……。加藤君のこと、随分可愛がっていたようです。辛いでしょうけど、頑張ってもらわないと」

 四辻が電話で本部に報告を始めると、逢は隣でノートを開いた——みとし村で起きた事象について、仲間の命を奪った悲しい怪異と、その結末を、忘れないように、思い出せるように、一文字一文字念を込めた。

 ふと、手を止めて耳を澄ませる。

——はははあはアハアハはハハあはは

 複数の人の声が混ざったような声が聞こえた。

「笑い声?」
「おみとしさまだよ。今、辻を一つ通り過ぎたから」

 いつの間にか報告を終えていた四辻が、呆れた顔を窓の外に向けていた。

「事件の全貌を知ったおみとしさまは、しばらく話題に困らないだろうね」
「……どうして人の不幸を、こんなに笑えるんでしょう」

「さあね。でも、確かな事が一つある。あの村は、変わらなくちゃいけない」

 逢は、何となく四辻の言いたい事が分かった。

 おみとしさまの正体は、村人達の魂。よそ者を嫌うのも、仲間外れを作りたがるのも、あの村の人間の習性だ。
 おみとしさまが村人を見ているのも、囲を行ってきた村人の習性を引き継いだから。

 囲が廃止されたはずの今も、村人達は囲に縛られている。仲間外れを攻撃するのが、結束を高める行為だと信じている。憂さ晴らしの為に、どれだけ追い詰めても良いと思い込んでいる。

 間違いに気付いても、次の標的にされるのが怖くて、言い出せずにいる。

 トミコさんや、梅さんを追い詰めたのは、みとし村の因習だ。

 あの村は、変らなければならない。

 もしそれができないなら……きっといつか、あの村は……。

「機関の計画が実行に移された」

 ポツリと四辻が呟いた。

「今まで照魔機関がおみとしさまを見逃していたのは、おみとしさまが、あの霊が生まれやすく、溜まりやすい土地を縄張りにすることで、社会を脅かすような怪異があの土地から生まれるのを防げると考えていたからだ。

 でも、いくつか懸念事項があって、機関はみとし村を調査し続けていた。その一つが穢れの量。機関はその原因が因習に苦しめられた人の念による物だと考え、おみとしさまが穢れにより変質しないか、囲いの調査と一緒に観察を続けていた。

 しかし、今回の件で、おみとしさまの弱点が明らかになった。おみとしさまは、村人の霊を自分の一部と認識してしまうため、村人の魂が悪霊になっても見逃してしまう」

「おみとしさまは、梅さんに気付きませんでしたもんね……」

「彼女だけじゃないさ」

「え?」

「天井下り事象に関わっていなかっただけで、ずっと見ていたんだよ。
 さっきの電話で、【みとし村事象についての報告】の閲覧制限がほぼなくなったと聞かされた。これで君に隠されていたものが、見せられるようになった。外を見ていて」

 車は、もうすぐ村の境に差し掛かる。窓の外には、木々に覆われた暗闇が広がっている。

 四辻の手が逢の肩に触れた。

「え……」
 木々の間に人影が見えた。それも一人や二人じゃない。子供や大人、老人、赤ん坊を抱えた女性、あばら骨が浮き出るほどやせ細った男。たくさんの人達が、逢達の乗る車を視線で追っている。

 村の境界を過ぎた途端に人影は途絶えた。

 おそるおそるリアウィンドウに目を向ければ、さっき通った道の上に、人影が見える。林の中からぞろぞろと、何十人もの人間が、村を去る車を睨んでいた。

 その中には、捜査資料を通して顔を知った人物——池柁トミコの姿があった。

「記録から想像すると、足立さんの祖父母もそうだったんだろうね。あの村はあまりにも犠牲者を出し過ぎた。
 囲に殺された人間が、みとし村と自分を殺した人間達おみとしさまを恨んでいないなんて、そんな都合のいい話はないよ」

 逢が姿勢を戻すと、四辻も座り直した。

「今回は危なかったね。村人に危害を加えた梅さんに刺激された彼らの動きは、非常に活発だった。トミコさんもきっと、彼女に影響されていたんだろうね」

「じゃあ、今のは……」

「みとし村の因習、囲が生んだ悪霊達だよ。おみとしさまの方が強いから、穢れを撒いて弱らせながら、機会を窺っていたんだ。

 あの村に住む人間がいなくなって、信仰という糧を失ったおみとしさまの力が弱まるのが先か、悪霊になった人達の力が、おみとしさまの力を上回るのが先かは分からないけど。どちらかが起こる前に、機関は手を打つと決めた。

 しばらくは支部で待機だね。全部食えと言われているから、僕はありがたく頂戴するよ。放置すれば、村だけじゃなくてこの辺り一帯が、霊障の被害を受けてしまうからね」

(そっか……。四辻さんは、怪異なら何でも、好き嫌いなく食べちゃうから……)

【みとし村事象についての報告】に、『おみとしさまへの信仰が途絶える前に、神虫しんちゅうを招く』という記載があったのは、機関が——悪霊が村を滅ぼして社会に放たれる前に、神虫に食べさせること——を計画していたからだった。

 さらに、機関は残り少ない村人達を、二度と囲が行われないようにバラバラに移住させ、みとし村を消し去るつもりでいる。

「おみとしさまは?」
「廃村に、村の神はいらないよね」
 舌なめずりをする四辻に、逢は苦笑した。

 神虫は悪鬼を食らう為、善神として祀られている。だけど、神無四辻にとっては、悪鬼も悪霊も、おみとしさまも、同じ——食料のようだ。

「四辻さんには、悪霊達やおみとしさまが、どんな御馳走ごちそうに見えているんですか?」

「悪霊はともかく、おみとしさまって、舐めたら美味しそうじゃない?」

「グロイ目玉を飴玉みたいに言わないでくださいっ」

「ははは! あの土地に新しい神が招かれて土地の霊障を抑えるまで、僕は食事に困らないだろうし、楽しみだな~」

 四辻からノートに目を戻した逢は、ふと、思い付いた事を口にした。

「大野さん達は、どうなるんですか?」

「捜査に協力してくれたからね~。機関も悪いようにはしないさ。新しい生活を始めるのに十分な援助を受けられるだろう」

「もしかして、その為に大野さんに、引き続き捜査協力を要請したんですか?」

「いやいや。まさか、そんな」
 四辻は笑って誤魔化した。

「……四辻さんって、実は何者なんですか? 人間を気遣ってくれたり、捜査官を名乗ったり……ただの怪異じゃないですよね」

「何者って、僕は僕だよ。僕は、悪鬼が目に見える所にいなくなったから、辻に出る辻神を食べていた。それも出なくなったから、こうして怪異を探しに出向いてやることにした。僕は、ただのしがない神無四辻だよ」

「……じゃあ、どうして四辻さんは、機関に入ったんですか?」

 何かが引っ掛かる。そう思うのは、ほんの一瞬、四辻が目を虚空に滑らせ、考える素振りを見せたからだ。

「機関の中でも、四辻さんの正体を知る人はごく僅かです。四辻さんを神様として祀るのは、あたしだけじゃないですか……。どうしてあたしを、巫女として傍に置いてくれるんですか?」

 自分の過去を、四辻は知っている。でも彼は、それを教えてくれない。
 彼の態度の理由を、自分は知っている。そのはずなのに、何も分からない。思い出せない。覚えていない。

 逢はノートをペラペラ捲り始めた。しかし当然、その中に答えは無い。このノートは、捜査内容をまとめる為に、今回新しく作ったものだった。

(このノート、何冊目だっけ?)

 地に足を着けたいのに、その地面がない。記憶がない彼女にとって、それはいつもの事。正気を保っていられるのは、四辻が導いてくれるからだった。だけど……。

「頭痛を感じる度、何かが頭から抜け落ちていくんです。でも一つだけ忘れずにいられる記録があります」

 逢はタブレッドに報告書を表示した。■で塗りつぶされた記録を見て、四辻の琥珀の目が僅かに揺れた。

「フィルターで読めませんが、内容を思い出しました。これは【神無四辻事象】あなたの偽名の由来ですね。名前を聞いてこの記録を思い浮かべる人がいないことから、閲覧は限られた人しかできないと予想できました。

 前半は、機関が神虫を目撃した時に書かれた物だと分かります。でも、後半は違和感しかありません。特に『この世に招かれた理由、召喚方法、依代にしている青年の詳細は不明』って、本人がいるのに分からない訳ないでしょ。

 どうしてなのか疑問でした。でも、簡単なことだったんです——神無四辻事象そのものが、虚偽のレポートなんですよ」

「……面白い発想だね。でも、どうして機関は虚偽のレポートを作ったのかな」

「理由が必要だったからです。どうして神虫が機関に所属して人の味方をしているのか、説明する為に。

『多くの神を神たらしめるのは、祟りを恐れる人の心』と聞きました。でも、機関が祭るのは照魔鏡。あなたの名前はどこにもありません。
 祭神があなたを封印している事から、仲が良くないことは想像できます。機関は照魔鏡に気を遣って、あなたを神としては迎えずに飼い慣らそうとしたんです。

 このレポートは、神虫という恐ろしい怪異が機関に従う虚偽の理由です。読んだ人は、神として祀らなくても、神虫は餌を与えられている間は機関に味方してくれると、そういった印象を抱くのではないでしょうか?

 だけど実際、四辻さんは食欲の為だけに動いていません。四辻さんは足立さんを見逃しました。足立さんと夏目さんのお別れを優先したからですよね」

「お腹が空いてなかったのかもしれないよ」

「嘘ですね、お腹空いてるって言ってたでしょ」

 いつになく鋭い逢の目に、四辻は困ったような笑みを浮かべて返した。

「どうしてなのか分からないけど、あなたは機関に従っています。
 教えてください、四辻さん。あなたの秘密が、あたしの過去に繋がるんです。あと少しで全部思い出せそうなんです。忘れちゃいけない、大事なことだったんです……。ずっと心に穴が開いたようで……悲しくてしょうがないんです」

 四辻は逢を一瞥した後、「帰ったら、全部話すよ」と宥めるように言った。

 それから、視線を運転手に向けた。いくら無口な彼とはいえ、これ以上の秘密を聞かせる訳にはいかなかった。

「中山さん、僕はイレイザーが嫌いなので使いませんが、先程の僕らの会話は、くれぐれもご内密に」

「太田の相棒だって言ったからですか? レポートにあった自分の名前、覚えていただいていたんですね……」
 中山がハンドルを握る手に緊張が走った。


神無四辻事象

 支部で用意された部屋に戻ると、四辻はコンロに水を張った小鍋をかけた。

「もう遅い時間だから、コーヒーって訳にいかないけど」
「コーヒーでも構いません」

 ソファに座る逢はノートを手にしていた。過去を知るまで、寝る気は全くないらしい。四辻はコンロの前に立ったまま、何でもないように口を開いた。

「神無四辻事象か、そんな記録を書かされたこともあったっけ」
「あなたが書いたんですか?」

「君が言う通り、機関には虚偽の記録が必要だった。理由は少し違うけどね。
 僕達の、未特定怪異特別対策課は、機関の中でも手におえない怪異に対抗する為に作られた。機関の最期の砦だから、悪鬼羅刹を滅する願いを込めて、みんなは僕らをクワバラと呼ぶ。だけど真実を知れば、僕らを見る目は変わるだろうね」

 一瞬、不安げな表情を浮かべた逢を横目に見たが、四辻は話を続けた。

「あの記録さ、実は最初と途中で書かれた時期が違うんだ」

四辻はタブレッドに記録を表示して、中央で線を引いた。


【神無四辻 事象】

 当機関が初めて存在を確認した時、彼の神は、守り神の加護が及ばぬ辻に顕現し、辻神を食らっていた。
 その食欲たるや凄まじく、中世以前は朝に三千、夕には三百の悪鬼羅刹を飲み干していたと推測される。


 その凶暴さから、一時は辻神と混同されたものの、後に辟邪絵に描かれた善神と同じ類の怪異であると判明した。

 機関が有するこの怪異の記録は中世以降のものであり、この世に招かれた理由、召喚方法、依代にしている青年の詳細は不明。
 近代に入ってからは、常世に潜む怪異を見つけて捕食する為か、彼の神は機関に隷属する素振りを見せている。

 神の名は【神虫】
 底無しの胃袋を持つ八脚のサンである。

 人の姿をとるときは、神無四辻を名乗っている。


「この線から下が僕の書いた記録。君が覚えていられたのは、たぶん、君が出来損ないのイレイザーを打たれた後に読んだからだ」

「でも、イレイザーとは症状が違うって言ってたじゃないですか」

「今は特定の記録だけ狙って消せるとか言われているけど、昔を知る僕は、あの薬そのものが好きじゃない。あれは、狙った記憶を消す為に広範囲の記憶障害を起こさせた。そうやって、昔の機関は僕達から大事なものを奪った」

 琥珀色の目が憂いを帯びた。

「ここに来る前にさ、どうして仕事用のシャツを着たまま寝ていたのか、疑問に思わなかった? ノートのページが昨日の日付で止まっているのも、もしかしたら怪しまれちゃうかと思ったけど、幸いにも逢さんは僕がノートを破った事に気付かなかった。

 本当にごめんね、でも、こうするしかなかったんだよ。そうじゃないと、囲の被害者の記録を読んだ逢さんが、イレイザーの発作を起こしちゃうから」

「囲の記録って……情報部がフィルターを解除してくれないから、見れなかったはずじゃないですか」

「支部への派遣が決まった時、みとし村に関する記録のフィルターは全て解除されたんだ。でも、記録が君の発作を誘発したから、情報部に情報を遮断させた。彼らは、君の発作がギリギリ起こらない範囲を予想して、少しずつ情報を開示してくれたんだ」

「仮に、あたしの記憶障害が薬の所為で、機関が何かを忘れさせるために使ったのだとしたら……どうしてその記録が、あたしの記憶障害を引き起こしたんです」

「もしかすると君が、僕を看病してくれていた頃を思い出した所為かもしれない。あの頃の僕は、家族にさえも見放されて、決して人目に触れさせないように離れに閉じ込められていたから」

 逢の脳裏に、暗い屋敷の影がチラついた。閉ざされた襖の奥で、何かを噛み砕く音が聞こえた気がした。

「ある日、医者を名乗る機関の男が家に来た。神虫を追っていた彼は、僕がサンの、神虫の依り代になったと知っていた。彼は僕に怪異を食わせて、羽化させようとしていた。

 僕はサンと一つになって、人間じゃなくなっていったよ。でも、サンは僕の心を生かして、自分は記憶になって僕の中に溶ける事を選んだ。

 でもね、サンは消えた訳じゃない。

 羽化した僕には二つの姿がある。一つは、今君が見ている繭。本来なら消えるはずだった、珠月の姿。もう一つは、神虫。僕の中で今も生きている、サンの姿。

 二人で繭の中にいる時は苦しかった。今はもう慣れたけど、怪異だと知った直後は食べられなくなってしまったから。とても見せられたもんじゃなかったね。
 自分自身が変化する恐怖と、サンが消える悲しみで、パニックを起こしていたんだって、今ならはっきり分かるよ。僕にとって、サンは兄のような存在だったから……。

 羽化させようとした機関の人間ですら、僕を恐れた。

 でも君は、僕の本性を知っても逃げなかった。夜の間は、絶対に僕の部屋の襖を開けちゃいけないって忠告したのに、君は僕を心配して、襖を開けてしまったんだ。

 これをきっかけに、君は機関と関りを持つようになった。君が怪異を解明すると言ったから、僕もそれに付き合った。君が機関で成果を上げて、研究を始める頃、僕の体は羽化寸前だった。だけど、君は諦めず、僕の為に研究を続けてくれた。僕を人間に戻す為、僕の体からサンを分離して生かす為に……」

 四辻はソファに座る逢に目を向けた。逢は、両手で頭を押さえたまま、気を失っていた。

「……どうして、僕は話してしまったんだろう。アイが、真実を知りたがっていたからなのか? それとも、僕が彼女に思い出して欲しかったから?」

 思い出す記憶が鮮明であればあるほど、記憶障害は広範囲になる。

「ごめんね。アイは思い出したいと言ってくれたのに……」

 四辻は逢をベッドに寝かせ、涙の線を指で拭った。

「……僕に、人を祟る程の度胸が無くてよかった。そうじゃなければ、もうとっくの昔に、僕は祭神を食い殺して機関を滅ぼしていたよ。

 人の世を守れるのは機関だけ、その為に神虫の力は必要だった。分かっていても納得できない。

 僕は、君の記憶を奪って僕を羽化させた機関が嫌いだ。そんなのに神として祀られても僕の怒りは収まらない。

 だけど、僕は力を貸している。人間じゃなくなった僕達を人らしく生かしてくれるのは、機関だけだから。君の記憶を戻せるのも、機関しかないと思っているから。だから僕の祟りを恐れる機関の為に、彼等の罪を隠す為に、嘘のレポートを書いてやったんだ」

 零れ落ちた涙が逢の頬に落ちた。

「記憶を失くしても傍にいてくれてありがとう。僕を信じてくれてありがとう。思い出そうとしてくれてありがとう……。
 でも、たとえ君が僕を完全に忘れてしまっても、僕は君を忘れないよ。君の幸せを、祈り続けるよ……」


アイの夢

 気が付けば、逢は見覚えのある日本家屋の中に立っていた。辺りは暗く、屋敷の奥から聞こえる音を頼りに進んだ。

(この先に、珠月様がいる)

 記憶が鮮明になっていく。

 神虫を見た時、機関はどうしても欲しいと思った。でも、神を飼い慣らすなんてできるはずがない。機関は怪異を駆逐しようとしていたから、放っておけば、餌場を失くした神虫は弱って死んでしまう。

 神虫を探していた機関は偶然にも、死にかけた神虫が新しい依り代を求めて取り憑いた子供の噂を聞いた。

(サンが惹かれてしまったのも、分かる気がする。だって、あんなに綺麗なんだもの)

 機関は珠月を羽化させる為に、怪異を食わせた。

 珠月が吐き戻して苦しんでいるのを見た逢は、機関に入り、珠月を人間に戻す為の方法を探した。

 やっと捕まえた神虫を手放したくない機関にとって、逢の研究は邪魔だった。だから研究は潰され、逢は記憶を消され、珠月は神虫として羽化してしまった。

 イレイザーが不良品だったから、研究に関する記憶だけじゃなくて、研究を始めた理由、珠月に関する記憶まで全て消えてしまった。

(でも、よかった。サンが珠月様を残してくれて)

 離れの襖を開けた。

 そこにいたのは、怪異の血肉を吐き戻して苦しむ珠月ではなく、穏やかな微笑みを浮かべて横たわる、小さな珠月だった。

(まるで、最初に会った時に戻ったみたい)

 サンの手足になって珠月とアイを助けていた怪異達は、いつか珠月が神虫になって、自分達を守ってくれると思っていたのかもしれない。
 そんな彼らの想いを汲んで、珠月は特設寮に住まわせている。彼らは人に化けて、今も四辻と逢の手伝いをしてくれていた。ヘリコプターでしか行けないような隔離された場所だけど、二人にとっては、あの離れと同じように温かい場所だった。

(いつもありがとう)

 珠月の傍に座ると、あの日のことが思い起こされた——珠月がお饅頭を食べさせてくれたこと、頭を優しく撫でて慰めてくれたこと。

(その後は、何があったんだっけ)

 珠月の小さな手が、おそるおそるアイの手に触れた。

「父が僕の世話をさせる為に、アイを買ったとサンに聞いたよ。でも僕はこの通り、サンが助けてくれるから、僕の為にアイが我慢することはないよ。怖ければ、逃げていいんだよ」

 けれど珠月の手は、アイの手に触れたまま放そうとしなかった。

「ごめんね。もう少しだけ、こうしていてもいいかな? 誰かの手に触れるのは、久しぶりなんだ。ここにはもう、誰も来なくなってしまったから……」

 珠月の手は震えていて、琥珀の目は大粒の涙を零した。大人びた彼が、その時だけはアイよりも幼く、か弱く思えた。

「大丈夫、あたしは、あなたの傍にいます。あたしには見えませんが、サンも、あなたの傍にいてくれます。珠月様は、独りぼっちじゃありませんよ」

(思い出した。全部、その為だった。苦しそうな姿ばかり思い出すから、この時の気持ちを忘れてしまったんだ)

 逢は珠月の手を握り、強く願った。

「サン……神虫様、あたし達の神様、どうか寂しがり屋の珠月様を一人になさらないでください。兄のようなあなたが、珠月様の中に溶けて消えてしまうだなんて、そんな薄情なことはなさらないでください。

 研究を重ねました。新しく依り代を作る事で、珠月様を人間に戻す方法でした。そしたら、神虫様は珠月様の体から出て、自由になれるはずでした。でも機関はきっと、珠月様の中に神虫様が溶けていくことに気付いていた。人の心を持った神様なら、支配できると考えたんだ……!

 あたしの研究は、間に合わなかった。全部消されてしまった」

 頭痛が酷い。消える記憶の中で、逢は祈り続けた。

「神虫様、どうかこれからも、あたしを珠月様のお傍に置いてください。あなた様の代わりに、あたしが珠月様を支えます」

「巫女になった理由も思い出しました。桑原の巫女は、神虫になった珠月様を孤独にしたくないと願った、あたしの夢だった。ずっと一緒にいられるように願ったから、神虫様が叶えてくれた」

 記憶は消えていた。でも、神無四辻事象に名を借りて神無四辻を名乗る珠月を見たアイの中で、何かが動いた。

 アイは、神無四辻の隣にいる為に、神虫になった彼を飢えさせない為に、日暮逢と名乗った。怪異が現れる薄暗い夕暮れ、逢魔時おうまがときに名を借りた。

「今なら、アイをどの字で書くか、珠月様に教えてあげられる」

 涙が止まらない。だけど、頭が痛い。また全部忘れてしまう。

「神様……どうか、もう一度あたしの願いを叶えてください」

「どうかあたしから、珠月様の思い出を奪わせないでください。珠月様が大事にしているあなた様の記憶を、苦しみの記憶で塗り替えないでください」

「あなた様を恨みたくないのです」

「珠月様を苦しませたくないのです」

「心の底から、愛していました」

「あの穏やかな日々を思い出せるのなら、どんな苦しい記憶だって抱えられるから」

「どうか……」




 目が覚めると、見慣れない天井があった。

「おはよう、逢さん」
 ソファの上に美しい青年がいた。灰緑の艶やかな髪に、琥珀色の目、まるで繭のように白い肌。

「昨日はごめんね。どうしても、全部話してみたくなったんだ。もしかしたら、全部思い出して、忘れずにいてくれるんじゃないかって、身勝手な願いを押し付けてしまったね」

 沈んだ表情で、ポツリポツリと彼は零した。

「こんなこと言われても、困るよね。ごめんね。それより、ここがどこかわかるかな? 僕の事も分からないよね……。自分の名前は、思い出せるかな?」

「ヒグラシ アイ、です」
 逢はノートを開いて、ペンを走らせた。

「逢魔時から名前を借りました。神無四辻を名乗るあなたの傍にいられるように、魔寄せの願いを込めて、日暮ひぐらしあいと書くんですよ——珠月様」

 逢が微笑むと、琥珀の目は見開かれた。





最後までお読みいただき、ありがとうございました。