稲作のような素敵なこと【思考と表現】
先日、綱田康平さんという、素晴らしい絵を描くひとのツイートを見た。
"何を描くかではなく、如何に思考し、身体を動かしたかを残したい。"
わたしが今年考え続けてきたことの答えだと思った。
文章を書きたい、何かを表したい、たくさんの人に見てもらいたい、繋がりたい。
でもわたしはプロじゃない。
豊富な知識にいろどられた、美しく素晴らしいものを、みんな見たいはずだ。読みたいはずだ。
わたしもそう。
裏付けがあるほうが、カッコよくてほんものに思える。
11月の中村佳穂ちゃんのライブでも、悪口という曲でくらって、数日間無気力になった。
「文字をあつめて 歌人のそぶり
縦に並べて 腐らせている」
わたしには詩集を出すという目標がある。
でも、経験も知識も知名度もカリスマ性もない者の詩を誰が読みたいんだろう?
わたしの言葉は陳腐な夢のようなものではないか?
「悪口」の歌詞と、佳穂ちゃんの圧倒的なパワーはわたしをとことん落ち込ませた。
今思えば滑稽でしかないんだけど、その時のわたしは真剣で深刻で、あきらかにうちひしがれていて、動揺していた。
だけどわたしはわたしの感じ方が、表し方が好きで、興味があって、いろんなことを試行錯誤しながらやってみたくて…
綱田さんのツイートは、その悩みのループを断ち切ることば。
やっぱり言葉って、すごい。
とにかく素晴らしい絵描きさんの、何気ないひとりごとにより、わたしは詩集を出すという目標を取り戻し、表現の、実験の場をもうけることにした。
何を描くかではなく、如何に思考し、身体を動かしたかを残す。
ただそれだけ。
稲を植えて、大切に育てて、刈り取って、自分と大切な人で食べるようなこと。
もっとおいしくなるように、あれこれやってみるようなこと。
ワクワクします。
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