畏れがあるから、傲慢にならずに済む

私の心の奥は、批評家気取りで鼻持ちならない人間だ。

だけど、尊敬する人がいることで、自分の傲慢さを牽制することができる。

「この人には敵わない」とか「自分もこんな風になりたい」とか思える人がいることって、謙虚さを忘れないようにする上で大事なことだと思う。

そういう存在がいないということは、必然的に自分が一番と思い上がり、独善的になりやすい。

子供の場合には、親という絶対的な存在がいる。ところが、家庭内で親が親として機能せず(言い方が悪いな)、親を見下している子供は、ルール(権威)に従うということを知らないから、学校という社会でも規律やモラルを守ることができない。(10代の意図的な反発心とは別問題で、幼稚園~小学校低学年とかの話)

「お父さんには敵わない」とかそういう畏敬の念があることって、人を規律的に倫理的にすると思う。

大人になってしまうと、そういう存在ってなかなかいないのだけど。

大人の場合は、

"自分の身より大切な守るべき家族がいる"とか。
"尊敬する人がいる"ことだったり。
"神様が見てるから良い行いをしよう"というマインドでもいい。

恐い人に圧力でねじ伏せられろって意味じゃない。自分が心からひれ伏したいと思える人がいるか?ってこと。

身近に尊敬する人がいたらラッキーだけど、そういうのがいない人にとっては、神様がその役割を担っているんだと思う。古代より。

俗では「推し」も神様的存在といえるだろう。(一方的に崇めるという意味で)

実際に神様が存在するかどうかの問題ではなくて、自分より上の敵わない存在、“畏れ”が自分の中にあることで、人は傲慢にならずに済む。そして、そこに救いを求めることもできる。(だから、推しブームなのでは?)

怖いもの無しってのは、人を大胆にするから、社会の秩序を乱すことに繋がり、危ない。

「自分はまだまだだな」と素直に思える存在がいることって気持ちいいことだ。

私の場合、「こうなりたい人」とか「尊敬できる人」とかが自分の中にいないと、モチベーションも上がらないんだよな。本質的にはただただ働くというタイプでもない。

最近エニアグラムの本を読んでいて気づいたのだが、私には「タイプ1」的な理想主義な面も少々あるようだ。(本によると私はタイプ5というより、タイプ4だった。)


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