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【長編小説】競う子

   娘よ、聞け、かえりみて耳を傾けよ。

   あなたの民と、あなたの父と家を忘れよ。

   王はあなたのうるわしさを慕うであろう。

   彼はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ。

        詩篇45章10:11

    1 灰色の紳士

  去年の秋の終わりだった。夜明け前から細い雨がふっていた。日付ははっきりと覚えている。妹の九歳の誕生日だった。令和二年(二○二○年)十一月二八日、土曜日の午後。未知の感染症が二度の緊急事態宣言のあと、終息の兆しを見せていた。カオスの前兆だとほとんどの人が思いもしなかった頃に、父から電話があった。

「由衣のために……バースデーケーキを用意してあるし……詩子にもプレゼントがあるから……友人の家へきてくれ……迎えをやる……たのむ詩子」

 受話器をおく前に、父は、周囲の騒がしい声をさえぎるように意味不明の言葉を発した。週末にパーティがあって余興か何かに、娘二人を呼び寄せたかったのだろうか……。ピアノ教室から帰ってきた由衣に父の伝言をつたえると、彼女は、いきなりマシュマロのようにやわらかい指をわたしの手にからめてきた。

「パパのね、お友達の女の人が住んでる、すっごく背の高いマンションが三ノ宮にあんの。いっしょに出かけようよ」

 由衣は、上目づかいに言った。父は友達と言っただけなのに、妹はなぜ、性別や建物のある場所や形状まで知っているのか……。

「パパの友達を知ってるの?」

「由衣とパパとお友達の三人で、ときどき、会うの」

 妹の華奢な指を振りはらった。父と妹の秘密の遊びが感染したような気がした。由衣は片目をつぶり、「ママには内緒よ」と言った。もう長い間、独りきりの世界の住人のわたしは、近頃では、由衣とは食事も別々なので、〝分母〟が同じ姉妹だという感覚はとっくになくしていた。

「一人で行きなよ」

「ねぇ、行こうよぉ。お、ね、が、い」

 なぜ、あの日にかぎって、二階にいるわたしが、階段下で鳴りひびく固定電話に出る気になったのか。父が、わたしを呼んでいるという突拍子もない思いつきにとらわれたせいだ。わたしは携帯電話を持っていない。というか持たされていない。〝引きこもり〟のわたしには贅沢品だからだ。父は、母や由衣のいない時間帯を見計らって電話をかけてきたのだと思う。――なのに、学齢期に入った頃から、だれに対しても拒絶反応を示す、わたしの口からこぼれ出た言葉は想いとは対角線上にあった。

「ウチに帰ってこない、パパになんか、会いたくない」

 由衣は小首をかしげた。「ウソでしょ?」

 小学四年生にしては小柄な由衣は、黒目がちの瞳でわたしをじっと見上げた。二重まぶたの瞳をのぞきこむと、人の心を溶かすような色合いの虹彩が見えた。

「ねぇ、ほんとにだぁーめ?」

「外に出たくないって、おねぇちゃんは、ゴネまくってるとパパに言ってくれる?」

 言ったとたん、後悔した。父がわたしに頼みごとなど一度もしたことがなかった。それに、受話器のむこうから聞こえる、男たちの嬌声が父の身辺の異変を告げていた。

 電話がかかってほぼ三○分後、午後四時頃に、父は迎えの車をよこした。軽のワゴン車から降り立った男性は汚れたスニーカーを履き、サイズの合っていないツイードのスーツを着用していた。背がわたしより低く、骨太の体型の男性は彫りの深い浅黒い顔の頬をゆるめることなく後部座席のドアを開け、鳶色の瞳で乗るように示した。足が止まった。男性の額から眉にかけて深い傷跡があったからだ。車体のそこかしこにある凹みも気になった。住宅街に近い場所に〝ハラール〟の店ができて以来、中東系の風貌の人々を通りで見かけることは珍しくなくなっていた。拒絶反応を気取られないように、秋色に染めあがった目の前の六甲山を仰ぎ見た。雨にけむる急峻の稜線は、この街を背後からいつもとかわらず支えていた。

 レモン色のレインコートをはおった由衣はキティちゃんのバッグを持ち、先に乗りこんた。「おねぇちゃん、早くぅ、早くぅ」

 鼻にかかった声に急かされ、堅い座席に座った。車体が動きだすと、一分もたたないうちに頭の中まで湿ってきた。雨のしたたる街並は輪郭がはっきりしなかった。人見知りのはげしいわたしは、初めて会う人間に挨拶をするのが何よりも苦痛だった。人と向き合い、目を合わすことが、恐怖心を呼び覚ますのだ。原因はいくつもある。中学生の頃に女性教師から受けた不当な扱いもその一つだった。年齢に関係なく二足歩行の人間そのものへの嫌悪感と不信感がいまもぬぐえない。

 乗り物アレルギーの社会生活不適格者の娘を家の外へ引っぱり出そうなんて、傷を負った猛獣を檻の外へ解き放すようなものなのに――娘が強度の対人恐怖症であることは親なら当然、知っているはずだ。そう思う反面、父と接した時間の総数の短さを考えると、知らなくて当たりまえだとも思う。父にとって、わたしという存在は、父の愛してやまない妹の付属品にすぎない。不出来な添え物が必要な場合が、大人の世界にはあるのかもしれない。女友達や男友達に娘二人を紹介するさいに、美少女をより美しく見せるには損なわれた対象と比較してこそ際立つ。

〈容姿はサイテー〉と、つぶやく声が頭の中に侵入してきた。

 脳内の元凶――頭の一部に、もう一人のわたしがいて、好き勝手につぶやくのだ。意地悪の固まりのような、こいつが苦手だ。

〈あんたは家族のお荷物〉いつのころからか、頭の中で生まれた〝つぶやき〟は事あるこどに神経を逆撫でした。

「宇梶詩子と、妹の由衣でまちがいないか?」

 乱暴な口調だが、中低音で響きのいい日本語を男性は話した。香辛料のにおいが車内にこもっていた。男性の体臭のようだ。不快な違和感があった。爪をかむ。歯ぎしりの癖を抑えるために、自分なりに考えた治療法が新たな癖を生んでいた。

 ドアハンドルのロックに手をかけた。「停めてッ! キャップを忘れたから、取りにもどる」

 男性は車を停止し、振り返った。「時間が――押してる」 

「だめだったら、ここで降りて帰る」

「半ドアになってる。閉めろ」

 ワゴン車は猛スピードで引き返した。見知らぬ複数の人に巻き毛のもしゃもしゃ頭を見られるのが苦痛だったこともあるが、黒いキャップを目深にかぶれば視線を避けられると思ったのだ。

〈だれも見ない〉〝つぶやき〟の独り言が耳障りだった。

 地球の日毎の動きとは無関係に自分だけの小宇宙に潜んでいるかぎり、だれの目にも止まらずに時間をやり過ごせると安易に考えていた。しかし、思いがけないことは、突発的に起きた。八ヵ月ぶりに聞く父の声は風邪でもひいたのか、しゃがれていた。受話器から聞こえる、荒い息づかいからもそれは感じ取れた。周囲で囃し立てる男たちの声にも身震いするような、いかがわしさが感じられた。妹のいう女友達もその中にいるのだろうか?

〈被害者のフリが得意〉〝つぶやき〟は、またつぶやいた。

 父の男友達の笑い声を、孤独に慣れているわたしの耳が勝手にねじまげて変換して聞いたのだと、〝つぶやき〟は言いたいのだ。

 一旦、引き返したワゴン車は、わたしが家にもどりキャップをかぶり、わざとゆっくりと乗車するのを待って、ふたたび神仙寺通りに面した高台の家の前の通りを東へ進み、角をまがって坂道をくだった。急傾斜した道は道幅が狭い。運転しづらいはずだが、格闘技選手のような顔と身体に似合わず、ハンドルさばきがスムーズなので、酔う前に広いバス道に出ていた。雨粒のしたたる車窓に映る景色を見るともなしに見ていた。黄色い落葉にまじって、ペットボトルや空缶が街路樹の銀杏の木の根元に無造作に積み上げられていた。父からの電話のように残念な気がした。

〈どうでもいい〉〝つぶやき〟の声に気分はさらに下降した。

 気のせいだと、自分自身に言い聞かせた。集団生活で仲間はずれにあう経験を重ねるうちに、父からの思いがけない招待を素直に喜べない性格になってしまったのだと。

 いや、何かがおかしい。

 両手を膝におき、奥歯をかみしめた。父は、たしかに言った。「たのむ詩子」と。二、三年前から借金の取り立て屋が家にやってくるようになった。彼らを避けるためだったのか、父が帰宅しなくなって八ヵ月ほど経つ。その父が、由衣といっしょに来いだなんて、よほどのことがあったのだ。眉間のあたりが、ざわついた。引きこもりのわたしに、何を頼みたいのか。手助けできることなど皆無だ。狭い座席の右と左に離れて座る由衣に相談したくても、日頃から会話のない姉妹なので、どう切りだせば気持ちが通じるのか、見当もつかない。不器用で要領のわるいわたしは、家からさほど遠くない坂下の小学校に通う六歳下の妹を見ていると、自分を臆病者に感じる。ちょっとした仕草や視線で相手の気持ちを察し、気に入られるように妹は対応できた。借金取りが来なくなったのも由衣の〝めそめそ泣き〟のおかげかも……。片や、わたしときたら十五歳になるというのに、十数分後に起きる見知らぬ人たちとの対面を想像するだけで目が泳ぎ、表情がこわばった。

〈どこへ行っても嫌われ者〉〝つぶやき〟はいつものようにわたしを全否定した。

 車内にアイドルグループの曲が流れた。由衣は、キティちゃんのバッグから赤い皮のケースに入ったスマートフォンを取り出し、お菓子のようにちっちゃな指先で画面をつよく叩き、青く光るワイアレスイヤホンをさくら貝のような耳につけた。わたしの不安をよそに、由衣は着信画面に見入った。目と目のあいだが、やや離れ気味なので、焦点が合うと寄り目になる。映し出される何が、十歳に充たない少女の心をとらえて離さないのか想像すらできなかった。

 異星人を見るように妹を見た。「あのさ……」と声をかけたが、寄り目に反応はない。ついさっきまでの無邪気に振る舞う少女はどこへ消えたのか。湿り気のある指をからめてきたときの由衣の、つぶらな瞳は左右に離れていた。わざとつくった表情だったのか?

〈妹は信用できない〉〝つぶやき〟の声とわたしの思考が、その日はじめてシンクロした。

 三月頃まで、父は週に一、二度の割合で帰宅していた。その頃の由衣は始終、クラスメートを家に連れてきていた。びっくりするような声ではしゃぐが、みなが帰ると、自分の部屋のドアを叩きつけることがしばしばあった。わたしの見ている前でわざとらしく父に甘ったれているかと思うと、ふいに黙りこむ。そんなときは廊下ですれちがっても、熟れたサクランボみたいな唇をすぼめて視線をそらし、凍った壁をつくった。その表情は、小学校や中学校で、わたしを苦しめた男子や女子とそっくりだった。

  雨の降りしきる中、ワゴン車は途中、曲がりくねった道もあったが南へくだった。JR線の高架下沿いに東へむかい、左折し、タワーマンションに通じる通りに出た。周囲の景色は繁華街特有の雑多な風景に変化した。飲食店の看板。人波と車列。爪をかみながら何げに前方を見た。曇天に屹立する、正四角形の建物がフロントガラスのワイパーごしに見え隠れした。南側の正面玄関に着いたら、全速力で走って逃げ帰るつもりだった。右折したせつな、目の前をよぎる落下物がワゴン車の前方をさえぎった。クラクションとブレーキの音が頭の芯に響いた。道路は立ち往生する車で混乱した。

「くそッ」男性は声と同時にハンドルをこぶしで叩いた。

 物体が地表に激突した瞬間の物音は、戦争映画でよく耳にする爆発音に似ていた。衝撃で軽い車体が一瞬、浮いた気がした。

 由衣は赤いスマホを握りしめたまま額を車窓に密着させた。

「きっとパパだよ」妹の声は無邪気だった。「決まってる」

 由衣のそばににじり寄り、ドアハンドルのロックに手にかけ、なんども引っ張った。

「やめろッ」男性は運転席から素早く降りて、ドアを開けた。

 真っ先に由衣が車道へ飛びだした。

「パパが……まさか……」わたしは自分の声でつぶやいた。

 頬が痙攣し、手足が小刻みに震えた。歯ぎしりが止まらなくなった。由衣を連れもどしたいが、膝がぐらついて座席から外へ出られない。男性が、「早く降りろ」と怒鳴った。開け放たれたドアの外へ両足を投げ出し、体を車の外へ押し出したとたん、膝から下の力が抜けて濡れた地面に崩れ落ちた。男性がわたしの後ろから脇の下に手を入れて抱き起こしてくれたが、足が萎えて立てない。

 地面が揺らいで見えた。「だいじょうぶか」と訊かれても、返事ができなかった。男性の心臓の鼓動が聞こえた。背中を支える堅いの手を振り向きざまに払いのけた。男性のいかつい顔に緊張が走った。わたしは手のひらで自分の頬を張った。よろける足できびすを返し、由衣のむかった方向に近づいて行った。

 街中のざわめきが、次第におおきくなっていった。

 目に映る景色は歪んだままだった。

  父はタワーマンションと接する車道にうつぶせの姿勢で倒れていた。赤みかがった黄色の縦縞のセーターとカーキ色の作業ズボン姿の父は右手にグレイブルーのスカーフを握りしめていた。灰白色の顔の半分が見えた。残りの半分、頭蓋骨と顔面は砕け散り、アスファルトにめりこんでいた。涙も悲鳴も出ない。脳味噌が路面に広がり、耳の穴と見開いた目から流れる血と混じり合い、ふしぎな形状の模様を描いていた。左の手のひらは上向きに、左足首は内向きねじ曲がっていたが、右足は、いまにも駆け出しそうだった。呼吸をしていないことは触れなくてもわかったが、服装に違和感があった。記憶に残る父は外出時にはスーツを着用し、普段着のときも気に入ったものしか身に着けなかった。二、三年前から、外泊することが多くなっていたので断言できないけれど、子どもの頃に見慣れた父の装いと、目の前の父の衣服とは明らかに異なっていた。

 傘をさした二人の男性が、父のすぐそばで見下ろしていた。

「救急車、救急車、救急車……」と、由衣は繰り返し、スマホをわたしの手に押しつけた。使い方がわからないと言おうとしても声が出ない。たとえ、何かの拍子で〝119〟に繋がったとしても現在地が言えなかったと思う。舌が上顎に張りついていた。キティちゃんのバッグを手に追ってきたアラブ系の男性は二人の見物人を押しのけ、わたしの手からスマホを奪い取ると、救急車を手配した。通りがかりの野次馬は、あっという間に傘のバリケードになった。携帯電話のフラッシュが雨に打たれる父をとらえた。やめてくれと叫びたいのに喉の奥がヒッヒッと鳴るだけだった。

 由衣は、軽ワゴンを運転していた男性の手からスマホとキティちゃんのバッグをひったくると、「パパは、自分から死んだのね」とつぶやいて、片側しか残っていない父の顔面のすぐそばにしゃがみこんだ。妹は白い頬にかかるまっすぐの髪をピンク色の耳にかけると、人差し指で父の額にわずかに触れてささやいた。

「ぐっすり眠れて、よかったね」

 全身の血が凍って手足が硬直した。わたしの知らない生きものがそこにいた。由衣は首をねじって振りむくと、寄り目になった。

「おねぇちゃんが、帽子なんか、取りにもどるからよ」

 行き場のない感情の爆発で毛穴という毛穴が粟立つのがわかった。耳の奥で悲鳴が聞こえる。もう一度、震える手で自分の頬を張った。雨水で薄まった血だまりの中に、魚の〝しらこ〟のようなものがふわふわと浮いていた。勝手に腕が伸び、由衣の背中を押していた。由衣は〝しらこ〟の上に両膝をついた。レインコートの下の花柄のワンピースの裾に血の色が染みこんでいった。

 由衣はゆっくりと立ち上がった。「このお洋服、パパがきょうのために買ってくれたのよ。なんにも知らないんだから!」

 胃がねじれた。群がる人たちを蹴散らすようにかきわけ、もつれる足で路肩まで行き、排水溝に嘔吐した。車で送ってくれた男性が背中をさすってくれた。彼の携帯が鳴った。雨脚が速くなった。雨粒が路面で跳ねた。黒のキャップはいつのまにか、頭から消えていた。渦巻く髪の毛先から雨のしずくがしたたり、顔を濡らした。学生服のハーフコートのそで口で口元をぬぐい、振り返った。走り抜けた場所は人垣で埋まっていた。彼らの足の隙間から父の足元が見えた。裸足だった。父のそばに駆けもどった。薄汚れたセーターが背中にずりあがっている。手のひらで自分の顔のしずくを払った。目を懲らす。作業ズボンのポケットが携帯電話の形にふくらんでいた。これをつかって最期の言葉をつたえたのかと思うと、もう一度、吐きそうになった。父の足元にうずくまり、膝の間に頭を入れた。地面を打つ雨音が恨めしかった。

 けたたましいサイレンの音が辺りに響いた。

 頭をあげた。みなの視線がいっせいにそちらにむいた。わたしの内側で何かがうごめいた。大きく息を吐いて、深く吸った。歯ぎしりがぴたりと止まり、意識が遠のくような感覚があった。気づくと父の隣で独り言を言っていた。「ぬけだせるぬけだせる……」

 救急車と同時にパトカーが到着した。一○人足らずの警察官のうち数人は遺体を中心にして、半径五メートルくらいの範囲に黄色いテープを張った。残る警察官は交通規制を行なった。わたしと由衣は規制線の外側に追いやられた。不透明の防水シートが、壊れた塑像のような父の周囲を覆い隠した。防護服をまとった男性が三人、シートの中に入っていった。警察官のカメラのフラッシュの白い光が灰色のシートを突き抜けた。

 たったいま目の前で起きたことが、現実だと納得するには時間が足りなかった。いつのまにか、雨のしずくが肩と背中に溜まり、はじめて腕を通した濃紺のハーフコートは重みを増していた。横なぐりの風と雨が舗道をすぎて、駅前の遊歩道にむかって吹き抜けていった。父が落下した真上のベランダを見上げた。目の中に雨が入り、正方形の建物がはっきり見えなかった。広い通りのむこう側に建っているビルに、大型書店が入居している。前の年まで二ヵ月に一度くらいの割り合いで、父からおこづかいをもらったときに、大型書店をのぞき、センター街と元町の古書店を徒歩で訪れていた。そのとき、タワーマンションに面した道をかならず通った。記憶に誤りがなければ、このマンションには東西南北にベランダがある。父の転落した位置は、建物の北側だった。古い中層住宅の多くに見られる非常階段などない。屋根つきの石張りの柱にささえられた門扉のあるエントランスは南側にある。父は、北に面した部屋に住む女友達の家で暮らしていたのか? それとも呼び出されたのか? 複数の男性の嬌声は何を意味していたのか?

〈妄想の固まり〉〝つぶやき〟の声は冷めていた。

 低くたれこめた雨雲にとどきそうな建物が、倒壊するような錯覚にとらわれた。もう一度、うずくまった。

「家族の方ですか?」肩をゆるく小突かれた。

 背中をむけた姿勢でいると、「ゆくよ」という由衣の声が聞こえた。雨に濡れた顔を上から下へぬぐい、振り返った。防護服の男性が二人、立っていた。テントのようなシートの中に入った三人のうちの二人だった。兵庫県警と明記された白い大型車両に乗るようにうながされた。

 右と左のどちらの足から踏み出すべきか一瞬、迷った。

 喉仏が目立つ細い顎の刑事が車のスライドドアを開けた。わたしが先に乗った。二人の私服警官は、防護服と頭と靴をおおっていたビニールカバーを脱ぎ捨てると運転席と助手席から身を乗り出した。目撃したときの状況やこの場所にきた経緯を訊かれた。ひと言も話せないわたしにかわって、由衣は小学生と思えない言葉づかいで住所と氏名と年齢を答えた――わたしのぶんまで。細顎の若い刑事は手帳に書きこみながら飛び降りた部屋がどの階の何号室か、電話の声はたしかに父親だったかと立てつづけにわたしに問うた。父の声を聞き間違えるはずがないと思う一方で、自信がなかった。いつまでも口をつぐんでいるので、繰り返し同じ内容を訊かれたが、目を合わせるのいやで満足に答えられなかった。

「どこの高校?」細顎の刑事は制服のハーフコートを指さした。

 うるさい、黙れと、喚きそうになったとき、助手席の脂ぎった顔の刑事が言った。「あとでゆっくり訊いたらええがな」

 由衣は、血の染みついたスカートの裾が気になるのか、小さなハンカチでしきりにぬぐっていた。整髪料のつよい臭いが、車内に充満していることに気づいた。前の二人から臭ってくるのではない。ゆっくりと首をねじった。オールバックの髪型に黒縁の眼鏡をかけた男性が、腕組みをした姿勢で後部座席にいた。男性は灰色のコートに身をつつみ、わたしたち姉妹と刑事とのやりとりをレンズごしに見つめていた。わたしの視線に気づいた男性は両目を閉じた。繰り返し読む、ミヒャエル・エンデの『モモ』に登場する、人間の時間を奪う灰色の紳士が目の前にいると思った。わたしは由衣の手からハンカチを引き取ると、横向きになって妹のレインコートを拭いた。視野の右端に後部座席が映った。灰色の紳士のいる座席は、わたしたち姉妹のいる座席同様に外部の視線を避けるための目隠しシートが車窓に張られていた。

「このくらいでええですか、監察官」脂顔の刑事が問いかけた。

 年齢の読めない灰色の紳士は、まぶたをあげ、横長の口の両端を引きさげると、わずかにうなずいた。横に広がった鼻が顔の下半分を占領していた。眼鏡の奥の鋭い眼光は由衣にむけられていた。由衣は気づいているのか、いないのか判断できなかった。細顎の刑事は、白い手袋をした手で由衣のスマホを使い、母に事情を伝えた。死亡していることははっきりしているのに、「生死は不明です」と最後につけ加えた。そして、「ちょっと失礼」と断ってスマホの履歴を点検した。由衣の白い顔が瞬時に青ざめた。細顎の若い刑事は薄笑いを消すと、スマホを由衣に返した。

「指紋がない」という声が車外から聞こえた。

「身元を知られたくなかったんやろ」細顎の上司らしい脂顔の刑事はひらいひとりた毛穴の頬をひと撫ですると、「五十前やのになぁ」と言った

 灰色の紳士が顎をしゃくると、脂顔の刑事にうながされ、わたしたち姉妹は車外へ出た。入れ代わりに、防護服の刑事一人と大きなカバンをもった制服警官が警察車輌に乗りこんだ。

 雨は小降りになっていた。冬の到来をつげる秋雨が通行人の関心を洗い流したのか、ビルの谷間を埋める飲食店のネオンが人影をもとめてまたたいた。遺体は葬儀会社の車で搬送された。追いかけてすがりつきたかった。頭が半分でもいい。揺り起こしたかった。

 雨のせいでくすんで見える通行人の顔が、何事もなかったように通り過ぎていった。細顎と脂顔の刑事二人はわたしと由衣に傘をさしかけて、母が現れるのを待った。塵ひとつ落ちていない舗道に小降りになった雨が血だまりを薄めていった。マンションの管理人だろう、ゴム手袋をした合羽姿の男性が、父の砕けた頭から飛び散った血と内容物をホースの水で流し、噴霧器で消毒液を散布した。

 寒さと恐怖で背骨がポキリと折れそうだった。由衣の唇も小刻みに震えていた。三ノ宮でもっとも人通りの多いセンター街にむかう高架橋から母は降りてきた。遅くも速くもない歩みだった。ショッキングピンクの傘をさした母は遠くからでも目についた。無我夢中で駆け寄った。母はわたしの顔を見るなり、「なんもかんも、あんたのせいや」と言い放った。

 蛇口をひねったように涙があふれた。会社の資金繰りで悩んでいた父の精神状態を、さらに悪化させた原因が引きこもりのわたしにあると母は言いたかったのだろうか。神経を病む娘の気質が父親に伝染したとでも言うのか……。わたしは人間が嫌いなだけだ!

     2 言霊ジジ

  父が転落死して、令和二年はあっという間にすぎていった。借金取りのかわりに、コロナ菌が急速に拡散した。本屋をのぞくこともなくなり、完全にひきこもっていると、わたしのいる世界とは異なる異世界の災厄に思えた。時間の凍った世界に長くいると、外の世界は三六○度の位置から観劇できる円形劇場のお芝居のように感じられる。観客席のわたしは、永遠に帰ってこない父を待つことで一層、時間は存在しないものになった。

 噂を怖れた由衣は寄宿制の山奥の学校に転校したらしい。気づく前に、いなくなっていた。もう、妹を羨ましがらなくてもいい。そう思うと、心象風景がセミの羽のように透き通った。でも、雨が降ると、ひどい頭痛がして何時間もつづけて眠った。自分が自分でないような不安な気持ちも、襲いかかってくる睡魔のおかげで怖れを感じる前に眠りに落ちた。無気力なのではない。考えようとすると、意識が拡散するか、逆に集中しすぎて記憶が消しとんでしまうのだ。何がどうなっているのか、よくわからないうちに誕生日がやってきた。頭の中の記憶装置はずっと空き箱のままだった。

 令和三年(二○二一年)五月七日木曜日。今日から十六歳だなんて、なんて、悲しい日なんだろ。生まれなきゃ、よかった。怒りや悲しみを意識する脳の機能が疎ましかった。

 半睡状態のわたしに母は情け容赦なかった。「定休日やし、きょうしか、行く日はない」

 父の亡くなるずっと前から週六日、母は弁当屋で働いていた。

「蔓延防止なんたらが出てるけど、入院させてもらえるねんて」

 母はカーテンを引き、張り出した窓を開けようとしたが、すぐに諦めたようだ。回転させて開ける把手が錆びついていたのだ。

「何事も心機一転や。このままくすぶってたらあかん」 

 ひたすらひきこもる暮らしのどこがいけないのか。時間が光速で流れる外の世界へ引きずり出そうとする母に、布団の中にもぐりこみ、両腕をひろげてベッドにしがみついて見せた。

 母は掛け布団を引き剥がした。「あんたを産んだせいで、せんでもええ苦労をいやというほどした。もううんざりや」 

 声を殺して泣いた。この手の〝めそめそ泣き〟が、大人にはもっとも効力があると妹から学んだ。借金取りもこれに負けたのだ。

「その手はくわへんで」母は平手でわたしのお尻を叩いた。「気にいらんことがあると喚くか、暴れるか――それだけでは、たらんと――まぁ、すんだことは言うてもしょうがない。本人に自覚がないんやから話にならへん。とにかく一日中、寝てられたらうっとうしい。時は金なりやねんで」

 暴れたり、喚いたりしたことなど一度もない。母はいつだって、わたしを悪者にする。自分のしていることは棚にあげて、わたしを追いつめる。父が生きていたら、これほど邪険にあつかわれなかった。恨めしげな目つきで母を見上げた。母は、「観念しいや」と吐き捨てると埃まみれのスクールバッグを物入れから引っ張り出し、〝ニトリ〟でいちばん安いチェストの抽斗を引き開け、着古した衣類を手当たり次第につかみ、床に放り投げた。

「入院するんやから支度せんとあかん。先に言うとくけど、朝ごはんは検査があるから食べられへんで」

 母の言う朝ごはんとは、シリアルに冷たい牛乳をかけただけのしろもの。あんなもの、何年も食べていない。昼ごはんだって、ろくに食べていないのに……。

「もうじき競売にかけられる、この家ン中に逃げ場はないねん」

 競売……。家が売られるということか?

「洗面用具は――自分で用意しぃ」

 歯ブラシの他に何を持てばいいのか、修学旅行と縁のないわたしには皆目わからない。一階から二階へ行く階段の途中に父の書斎がある。天井の低い部屋の中を何も考えずにうろつき、もどると母は、スクールバッグの中に必要最低限の衣類を押しこもうとしていた。母の手からスクールバックを引き取り、お気にいりのマンガをめいっぱい詰めこんだ。大切な『モモ』も忘れずに入れた。

「ろくに学校へ行ってへんのに、マンガの漢字は読めるねんな。ふりがなが、振ってあるからやろけど」

 母は、キャリーバックを取りに階下へ降りていった。

  九時過ぎには、そろって玄関におり立った。母がドアを押し開けると、見知らぬ男性が車寄せに立っていた。父の車が処分されてどのくらい経つのだろう。大阪から訪ねてきたという男性は痩せて背が高い。それ以外は、マスクのせいもあってか目立つところのない容貌をしていた。父が亡くなったことを知らなかったのだそうだ。人づてに聞いて、驚いてやってきたという。

 母は腕時計を見た。「いまから出かけるんです」

 男性は、くたびれた黒の上下のスーツを着用していた。同色のマスクをとって、お悔やみを言ったあと、「ご遺骨は?」とたずねた。彼は薄い唇を動かさずに話した。

「ありません」母は間をおかずに言い足した。「献体しました」

「いまからどちらへ?」

「高槻です」

「せめて高槻駅まで、ごいっしょさせていただけませんか」

 母は仏頂面で承諾した。母とわたしと男性の三人で、JR三ノ宮駅から快速長浜急行に乗車した。車内は〝蔓延防止等重点措置〟とかで乗客はわずかだった。一年と少し前には考えられなかった光景だ。外の世界ではマスクの着用が義務らしい。週刊誌の中吊り広告の見出しに疫病に関連する言葉が躍っていた。「パンデミック」「COVID・19」「リモートワーク」。わたしがまどろんでいる間に、目の表情だけで感情を読みとらなくてはいけない事態に世相に変わっていた。

「宇梶さんは、ジュセンされておられました」

 わたしの隣に座った男性は角の擦りきれたバッグを膝にのせ、小声で話した。マスクごしなので聞き取りにくいうえに、ジュセンという言葉にどんな文字を当てはめるのか、わからない。

「おとうさんは、わたしが、牧師をさせていただいている教会に足繁く通っておられました」

 母は、わたしたちとは離れて座っていた。

「おとうさんの会社は、年末に倒産したそうですね?」

 うなずくと、彼は上着のポケットに手を入れた。

「もし、困ったことがあれば、難波駅に近い四ツ橋教会を訪ねてください。不在のときは、アタリヤの名で、アモン宛てに電話かメールをください。すぐに駆けつけます」

 アモン……外国人か? よそ見をしながら聞いていると、彼は、まるめた小さな紙クズをわたしの足元に落とした。

「そこに書いてある番号に連絡してください」

 わかりましたかとたしなめるように言った。わからないが、スクールバッグのサイドポケットに紙くずを拾ってねじこんだ。

「番号を覚えたら捨てずに飲みこむこと――これから、あなたの訪れる場所には多くの困難が待ちうけています」

 約四○分かかって大阪府内の高槻駅で下車した。男性とはホームで別れた。去りぎわに、彼は言った。「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にありますように」

 母は男性にむかって、「うちのひととナニがあったか知らんけど、あたしらには関係ないから」と吐き捨てた。

  高槻駅前のバスターミナルは、見晴らしのいい迷宮のように広かった。路線バスの地図を見ても、行き先の停留所を捜すだけで何分もかかった。ここも人影はほとんどない。母と二人、病院行きのバスを待った。目的地の正確な地理は知らない。平日の昼間なので、バスの運行は一時間に二本のようだ。母はベンチに座り、金属製の腕時計ばかり見ていた。デザインが母の好みでないことは、ひと目でわかった。文字盤がブルーで、角形の腕時計は妥協を許さない印象を見る者に与えるからだ。

「あんたのためなんや。いまは、あたしを恨むやろけど、時間がたったら、よかったときっと思う……」語尾が小さくなった。

 どこへ連れて行かれようと、わたしのせいで父が自死したのなら受け入れるしかない。ただひとつ、港の見える家から遠ざかることが、無性にさびしかった。林立するビルのすぐむこうに、キリンとよく似たガントリーグレーンや、上屋と呼ばれる倉庫群が、山裾に建つ古い家のテラスから眺望できた。晴れた日には、鏡のような平らな海の彼方に淡路島が見えた。いつか時間のない世界へと何者かが導いてくれると夢見ることができた。

  バスの車輌が迷宮に停車した。運転手が降りてきた。母は舌打ちをし、「休憩する気なんや」と文句を言った。空車になったバスに乗りこんだ。昇降口をあがったとたん、「詩子、ガム、いらん?」と母は明かるい声で訊く。窓側に座ったわたしは背中にとどきそうな縮れっ毛の頭を車窓にあずけた。交替した運転手も制帽にマスクに手袋の完全装備。こっそりとマスクを顎の下にずらす。窓に顔を映すと、頬のそげた顔にライオンのたてがみが見えた。産まれたとき、毛がまったく生えていなかったので、母は〝アロエ〟でつくった化粧水を毎日、坊主頭に降りかけたそうだ。その頃はすこしは愛情があったのだろうか。おかげで、つむじが二つ。髪を洗うと、縮れた髪の毛の一本一本が、くるくると巻いてアフロヘアのかつらをかぶったようになる。だから、自分で適当にカットする。

 バスは一○時二五分に発車した。

 電柱とふぞろいのビルの群れがうしろへうしろへと流れていく。頭の中心はキリキリうずくのに、考えることを放棄した大脳の大部分には靄がかかっていた。座席に吸いこまれるように眠い。酔い止め薬を飲んだうえに、母の手づくりマスクのせいで、酸素の供給が足りなくなって脳の働きが鈍くなっている。

「歯ぎしりする癖やけど、どうにかならへんの? マスクをしてても聞こえてくる。根ぇは図々しいくせに、神経質なところがほんま鼻につくねん。日本人にようあるタイプや」

 悲しみを分かち合えない母娘は隣同士に座っていても、肩先が触れることはない。妹の由衣とも心が通うことはなかった。今頃、どうしているのだろう……。

「死んだ人間を悪く言うのはイヤヤけど、パパは、ひとでなしのろくでなしや。自分では何ひとつカタをつけんと会社も家族も放り出して――そのあげくに、土壇場で裏切ってからに――許せんわ」

 後ずさるビルの屋上に浮かぶひとひらの雲は、ひろい空をうしろに背負っているけれど、繋ぎとめてくれるものが何もない。余白に浮かぶ雲は、わたしみたい……。『モモ』に出てくるクルシメーア女帝の有名な台詞を叫びたくなる。『なんたることじゃ! ああ、わたしは……』。

 そのときだった。唯一の友〝言霊〟が耳元でしゃべりだした。
 〝つぶやき〟に代わって現われた彼はわたしのお気に入りだ。

〈なんで、やり返さねぇンだよォ!〉

 今朝からずっとひとりぼっちだったので、頬がゆるむ。

〈どこのどいつが、いっとう、ひとでなしのろくでなしなのか、このオレさまが、はっきりさせてやろうじゃねぇか〉

 彼と出会ってどのくらい経つのか、さだかではない。もともと音声多重放送の脳内環境だったけれど、〝言霊〟を名乗るオレさまが出現するまでは〝つぶやき〟に占拠されていた。

 それが、ある日、ある時を境に戦闘意欲まんまんの〝言霊〟が、わたしの頭の真ん中に棲みついたのだ。これを人は狂気というのかもしれない。彼は毒舌家で、独断と偏見にみちみちている。そんな彼の言語感覚を気に入っている。わたしは彼に、モモの仲間のジジと名づけたが、〝言霊〟は、オレさまをジジィなどと呼ぶなと言う。でも彼の不思議な力のおかげで、〝つぶやき〟の時とは違って、頭の中で会話が可能なのだ。それも超高速で、互いの言葉が意識化される。〝言霊〟はスパコンの〝富岳〟みたいに伝達速度能力が高い、頼れる友なのだ。

〈さっさと言い返せよ。てめぇこそ、極悪人なんだってな。なんで黙ってんだよ。イジメられる側より、イジメル側にまわろうぜ〉

〈オレさま以外と話せないのに、イジメル側になれっこない〉

〝めそめそ泣き〟をはじめるつもりでいると、どうしたことか、母がわたしの肩をぎゅっとつかんだ。

 母はわたしをにらみ、「どう考えても、他の方法が思いつかへん。切り札は薄っぺらい紙一枚や。あんたには、なんのことやら、わからんと思うけど、これさえあったら勝負できる。そうやろ?」

 親娘は似るというが、母は「そうや」とうなずき、「人生は一か八かなんや」と独り言を言った。肩をつかむ母の手の震えが、心の揺らぎを伝えていた。娘の十六歳の誕生日に、神経内科専門の病院へ入院させることに後ろめたい気持ちが多少、残っているのか。

「なんとかなるやろ」母はハンドバッグを開け、茶封筒を取り出し、車窓の陽ざしにかざして中身の有無を確かめた。糊付けされた封筒の裏側に〝兵庫県保険環境部医務課〟の文字判が見えた。母は茶封筒をもどし進行方向に向き直り、化粧直しをはじめた。コンパクトの鏡を食い入るように覗きこみ、パフをはたき、口紅を塗り直し、上唇と下唇を重ね口の中に飲みこみ、音を立てて口を開けた。

「ブスやと言われても気にしたらあかん。ろくに食べへんから棒みたいになるねん。入院したら寝てばっかりしてんと三度三度、きちんと食べなあかんよ。食欲増進の胃薬も出してもらえるようにたのんどくわ。そうしよ。それがええわ」

 身長一六五センチ、体重四二キロ。悲嘆と欝屈はあってもBMIの数値に異常はないつもりだが、母に言わせると、眠ってばかりいるわたしの脳と胃袋は正常に機能していないらしい。

「こうなったんは、みんな、あんたの病気のせいなんやからね。つらいなぁ」

 母の場合、ジキル氏とハイド氏が、わたしのように脳内で分裂せず、人格そのものが二重構造になっている。不幸な出来事の責任はわたしにあると言いきる反面、体調を気にしているふうを装う。

 オレさまに言わせると、〈クソババァには、あってしかるべきの、ごくごく平均的な常識的かつ普遍的な母性愛がねぇんだ〉

 透明な陽光は吹出物の肌の上で無遠慮に乱舞する。おしつけがましいオレさまの言い草は、なんの益も心身にもたらさない。

〈意識を集中しろよ。そうすりゃ、過去と現実が見えてくる〉

〈できないできないできない……だって、オカンのくれるアレルギーのクスリのせいで眠いんだもん〉

〈情けねぇぜ。なんで、すっからかんに忘れるんだよ!〉

〈忘れる……何を?〉

 肘のぬけそうなジャケットのそで口を見る。布地のほつれた、そで口からのぞく左手首には、赤いミミズが這っている。

〈いつ、怪我したんだろ?〉

〈じれってぇな。頭のネジが二つ三つ、ぶっとんでんだな〉

〈もしかして、自分でやったの? 何も覚えていないけれど……死んじゃったパパのあとを追おうとしたのかな? なんでギザギザの傷跡なんだろ? もっときれいに切れなかったのかなぁ〉

〈人はさ、嘘いつわりのない気持ちでいることが最良なんだ。おのれを苦しめる記憶は覚えていたくないもんさ。だがな、真実は隠しようがねぇ。ごった煮の脳ミソを整理整頓して、じっくりと考えてみるんだ。自分に不都合な記憶でも思いださなくちゃ、前へ進めねぇぜ〉

〈自分で切ったの? ないない。学校は死ぬほど嫌いだけど、観たいアニメや、映画や、読みたいマンガや、読んでもわからない本がまだいっぱいあるのに――数学の本だって、解き方もなんにもわかんないけど、小説みたいに読むのが、なんとなく好きになったくらいなのに〉

〈ろくでもねぇことに熱中すンのは、オヤジ似なんだなぁ〉

 わたしが幼い頃、父は気の重くなる話がきらいだった。歯切れのいい言葉づかいでしょっ中、わたしを笑わせてくれた。それがいつのまにか、会社の経営が思わしくなくなるにつれて、笑顔が消えて、わたしの問いかけにも生返事を返すようになった。

〈詩子はさ、クソババァに言われて、ちょっとばかし手伝ったことがあっただろ? 売上伝票の品目と価格をPCに打ち込んで気づいたはずだ。閑古鳥がギャアギャア鳴いてるってな。借入金も半端じゃなかったじゃねぇか〉

 母は父の経営する会社で働いていた時期があった。その頃の母は帰宅したあとも、赤字をたれ流す社員ばかりだと父に愚痴っていた。ロクデナシのアホボンと、父をののしったこともあった。

〈パパはなんでもできたって、本人から聞いたよ。短距離ランナーとしても活躍したし、学校の成績も、ダントツだったって……〉

〈だったら、なんで、家業に専念しなかったんだよ。真剣に働かなかったじゃねぇか。あげくに闇金にまで手をだしやがった〉

 父の宇梶周平は関東圏の大学に進学し、薬学部を卒業後、新薬を開発するベンチャー企業に就職した。その後、震災のあった年に一度帰省したきり、実家に寄りつかなかった。しかし十八年前、医薬品の卸し販売が主業務である、祖父の経営する会社を引き継ぐために帰神した。祖父がやまいに倒れたせいだったようだ。それは父の本意ではなかったと、わたしが中学校に行かなくなったときに本人からじかに聞いた。父は、わたしを慰めるつもりで話してくれたのだと思う、たぶん。なぜなら、普段の父は、わたしに関心がなかったから。

〈ひがんでねぇで、脳ミソの回転速度をあげろよ〉

 会社を引き継いだ二年後に祖父が亡くなり、会社の経営をめぐって祖母と諍いになり、祖母とは縁をきったという。顔も名前も知らない祖母と父の間にどのような確執があったのか、わたしは知らない。わたしたち家族がいま住んでいる家は、かつては祖父母の住まいだったと父は言っていた。

〈オヤジさんの〝守護霊〟にたずねるのが、手っ取りばやいんだけどさ。残念ながら、オレさまは〝言霊〟だからチャネリングは自信がねぇのさ〉

 たしかなことは、平成十七年(二○○五年)の五月七日にわたしが生まれたということだけだ。

〈あせらず、ゆっくりと、と言いたいが、MAXのスピードで時間をさかのぼるんだ。いつ、どこで何があったのかを思い出せ!〉

 爪をかむ。バスが長いトンネルを通過した。光の中から暗闇へ――闇から光へと。

〈あの日……雨がしょぼしょぼ降ってて……パパは……〉

〈電話がかかってきたよな。最期になんて言った?〉

 父の発した謎めいた言葉が、直後に起きた衝撃が強烈すぎたせいで記憶から抜け落ちていた。どうしても思い出せない。

 母は化粧直しがすむと、息苦しくなる匂いの香水を耳たぶと手首につけた。「このさい、ほんまもんのアタマ専門のお医者さんに診てもろたほうがええわ。そしたら、おクスリもかわって、きっと、ようなる。家にも帰ってこれるかもしれへん」

 いままで偽物の医者に診てもらっていたわたしは、家が競売にかけられると言った母の言葉を信じるなら、どこへ帰るのか? 

〈情け知らずの尻軽女め。年下の男とくっついて、いけしゃあしゃあと生き恥をさらしやがって。クソババァ、くたばれ~ッ。そンくらい、じかに言ってやんなよ〉

 オレさまはののしるけれど、言葉が声にならない。舌をひっこぬかれたわけじゃない。爪をかみ、歯ぎしりしているうちに物事のほうが先へ先へ進んでしまうのだ。いまも無抵抗のうちに事態は秒速で悪化している。

「あんたは誤解してるみたいやけど、センセは大恩人なんよ」

 母は妹の担任だった教師をセンセと呼ぶ。

「あたしはありがたいと思てる。いろいろ嫌なことやたいへんなことが仰山あったのに、ぜーんぶなんとかしてくれはって……」母は言いよどむ。「損害賠償を請求されてもしょうがなかってんからね。そやから余計に、いつまでも甘えてるわけにはいかへんのよ。借金は残ってるし、あたしはこのさい、相手がだれであっても、腹をくくって事にあたるつもりや。あんたのためでもあるんやで」

〈センセとやらは、セレブマンションの住人の知り合いらしいからな。部屋にケチがついたっつーことで、なんか言われたんだろ〉

 自宅のテラスからも見えるタワーマンションの先端が脳裏によみがえる。全身から血の気がひいていく。あの日、父の頭の内容物は雨水と一緒に排水溝に流された。焼却されなかった脳の一部は今頃、汚水に混じって神戸港で漂っているのかもしれない。

〈ちっぽけなことでもいいからさ、何か思い出さないか?〉

 あの日へと記憶がさかのぼる。
 細顎と脂顔の二人の刑事とわたしたち親子三人は交差点も、狭い通りも、サイレンを鳴らして突っきる車に乗り、生田神社の西側に隣接する県警本部へ直行した。一階の最奥にあたる、本部長室に通された。応接用のソファとテーブルがあり、わたしたちは白髪頭の制服警官とむかい合って座った。起立した姿勢の脂顔の刑事が、父が飛び降りたタワーマンションの部屋は宇梶家と近しい人物の所有物件だと本部長に告げた。部屋を借りたいと、父は申し出たらしい。その人物から鍵を借り、二十二階の空き室の下見に出かけた。借財に苦しむ父が唐突に思いついた死に場所だったと、刑事はつけ加えた。うなずきながら聞いていた本部長は供述調書をとるように命じた。脂顔の刑事は、わたしたちを階上へ連れていった。

 取調室では、母とわたしたちは別室に入れられた。妹の隣に婦人警官が腰かけた。訳知り顔でうなずく、このタイプの女に好感がもてない。意味のない相づちで人の心が安らぐと思っている。

「たいへんだったわねぇ。わかるわぁ。つらいわよねぇ」

 由衣は、得意の〝めそめそ泣き〟をはじめた。婦人警官は「もうだいじょうぶ」と言って由衣の肩を抱いた。細顎の刑事がやってきて、ノートパソコンをスチールのデスクにおき、パイプ椅子に座り、県警車両の中でした質問を繰り返した。

 鼻の奥がむずむずした。寒いところから急に暖かい部屋に入ったせいで、アレルギー性鼻炎のわたしは、くしゃみと洟水がとまらなくなった。婦人警官が用意してくれたティシュの箱から何枚もひっぱりだし、洟をかんだ。ふいに思い出した。二人の男が父の遺体のそばにいたことを。彼らは野次馬ではなく刑事だった。

「もう一度、さいしょから話してください」

 細顎の刑事の声は軽かった。視線恐怖症のわたしはティシュを鼻に当てて相手の目を盗み見た。細顎の目が嗤っていた。

「わたしたちが着く前から、あそこに、いましたよね?」

 刑事の喉仏がゆっくりと上下した。そして、ノートパソコンのキーにのばしていた手を膝にもどした。由衣はうつむきひたすら泣きつづけた。わたしは、婦人警官の目尻が吊り上がるようなくしゃみをしたあと、洟をかみ、飛び降りる前の父の周囲には、複数の男性がいたはずだから調べてほしいと言った。

 別の刑事が入ってきた。細顎は直立した。その男は、「鑑識の結果は明日になる。いまのところ、飛び降りた室内に、死亡した本人以外の人物がいた痕跡はいっさい認められない」と言った。

 何階の何号室に父はいたのかと問いかけたとき、別室にいた母が来た。母は紅潮した顔で、「保険に入ってたら、いかんのですか」と男を問い詰めた。男は、淡々とした口ぶりで、「こういう事故の場合、どなたにも、おたずねすることになっているんですよ」

「えらそうに何様やのん。保険金欲しさにあたしが突き落としたような言い方してからに。黒縁の眼鏡かけた、鼻の大きなヒトのなまえ、教えてちょうだい」

 母は灰色の紳士のことを言っているのか?

お気を悪くなさらずに」テラテラ光る脂顔は頭を下げた。

 細顎と脂顔に付きそわれて家へ帰った。家捜しがはじまった。中二階の父の書斎にある机の抽斗から自筆の遺書が見つかった。

 脂顔は言った。「死体発見現場で行政検視を刑事課の係長が行いまして、事件性がないと判断しました」

 父の死に、だれも異議をとなえず、不審に思う者もなかった。

 県警本部での事情聴取がなければ、話せなくなるなんてことも起きなかったかもしれない。いや、もっとあとだったか……。

「センセはね、あんたのことも、親のあたしがびっくりするくらい気にかけてくれてはるから、コロナやなんやらでむつかしい時やのに、入院さしてくれる病院を見つけてくれはって、手配までしてくれはったんよ。あたしも大昔に診てもろたことがあって――」

 オレさまの怒りは凄まじい。〈クソ教師のあいつに魔男と名づけてやったよ。とがった耳が異様におおきいから、タロットカードの悪魔を連想させンだよ。だがな、悪魔ほどクールじゃねぇ。目、鼻、口とデキのわる苺のように小ぶりでサエねぇ。美少女アイドルにイカレてるゲス野郎は、たまたま居間で『レ・ミゼラブル』を観ていた詩子に、女のような細い声で暴言を吐いたよな。覚えてるか?〉

〈あの男のことを考えると、頭が重くなってよけいに眠くなる〉

〈コゼットが、もしもブサイクだったら、ジャン・バルジャンは命がけで育てなかったとか、貴族の御曹司だって自殺をあきらめて結婚しなかったとか、この世は不公平で非情なもんだって言ったじゃねぇか! あのヤロウ、ただじゃおかねぇ〉

 眠い目をこすり、あくびをした。マスクの内側の布地が口の中に吸いこまれる。母の手作りだと思うと、それだけで雑菌が付着している気がした。

〈やつは、優先座席は、美少女限定だと詩子にむきつけて言ったよな。並んで座っていた由衣には、かわいい女の子は天使の生まれ変わりだなんて、虫酸が走るようなことをニヤけながら言いやがった。それだけじゃねぇぜ。東京と大阪限定で販売されているフィギュアを、こっそり由衣に手わたしやがった。陰気臭い顔をして、残酷な言葉を平気で口する魔男の正体を、いつか世間に曝してやろうぜ。この世から排除してやるんだ〉

〈オレさまの声が頭ン中で響いて、ぐっすり眠れやしない〉

〈響くから言霊なんだ。全身を耳の穴にして聞きやがれッ〉

 眠気覚ましに、リサイクルショップでただ同然の値段で買った手のひらより小さく薄っぺらいウォークマンで、ヨーヨー・マの奏でる「リベルタンゴ」を聴く。いまでは言葉のない楽曲しか聞けない。

〈だァだァだァだだだだ……だァだァだァだだだだ……〉

 オレさまのハモる声が、ブスはキモイ、ブスはキモイ、ブスはキモイと聞こえる。どうすれば、この不毛な精神状態から脱けだせるのだろう。

〈言葉を吐け、言葉を吐け、言葉を吐けつってンだろうが〉

 だれかが書いていたように一分間に一万語、時速百キロでしゃべりまくりたい。そして、溜めに、溜めこんだ言葉を、だれかに向かって投げつけたい。

〈ターゲットは、すぐそばにいる!〉

 もし復讐にいたる定義があるとしたら、それは憎悪の増幅による感情の実力行使だと思う。無慈悲で無責任な母親と、その愛人は嫌悪と侮蔑の対象である。

〈このまンま、あいつらの思い通りになってたまるかってんだ。呪ってやれーッ! やつらこそ、オレさまの呪力で呪い殺される醜い怪物なんだ〉

〈しゃべりだすと、止まらないのが、あんたの欠点だよね〉

〈言ってみろよ。二人、たばねて、ぶっ殺してやるってな〉

 バスの揺れが殺意をうばうのか、揺りかごに乗っているようにいつのまにか居眠っていた。

  大きな窓のある部屋に閉じこめられている。畳四枚ぶんはありそうな、その窓から外を見ると緑のしたたる芝生がひろがっていた。そのむこうに深い森が見える。目を懲らすと、木々の間を、背中に緑色の羽根のある少女が走っていた。どこかで会ったような気がした。目で追いかけた。少女は森の中にまぎれてしまいそうだ。声をかけたくて、窓を叩くが微動だにしない。

 継ぎ目のない窓は、景色は見えるがけっしてひらかない。灰色の扉を見つける。押し開けると、廊下があって手すりがあり、階上にむかう階段がある。早足でのぼろうとするけれど、ここにも目に見えない透明な壁があって跳ね返される。倒れていると、羽根と同じ色の葉っぱを頭に貼りつけた少女が、ふいに目の前に現れた。

「壁があると思ってるから、脱け出せないんだよ。ないって思えばいいのよ」

 ぬけだせると言って、少女は見えない壁を通り抜けた。水の中にもぐったように窓にさざなみがひろがった。見つめていると、少女は長い階段の途中で立ち止まり、わたしを振り返った。

「こっちへおいでよ。一緒に行こうよ」

 指で壁を突ついた。波紋ができた。

 緑の羽根の少女は、心の中で呪文を唱えればいいと言う。

「ぬけだせるぬけだせるぬけだせる……」

 どこへ行くのか、訊いた。少女はにっこり笑い、頭の葉っぱをむしり後ろをむいた。後頭部が空洞だった。

「ぎゃあッ!」母の悲鳴で目覚めた。「ごめん、ごめん、こわい夢を見てしもた。昔のことやのに、何年たっても、忘れられへん」

 川に沿ってバス道はつづく。用水路で隔てられた、低階層の集合住宅群と戸建ての家がゆるい傾斜地に張りつくように建っていた。バスは右折し、しばらく走ると、色彩調整をしたような緑色の波に視界が洗われた。

     3 異次元へのゲート

  二○分足らずで目的地の停留所に着いた。バスを降りると、ただっぴろい空の下に田園風景がひろがり、農家らしい戸建ての家が離れ小島のようにぽつんぽつんと見える。電信柱と電線が家々をつなぐ唯一のもので、生いしげった雑草が空き地を占領していた。母はピンクのマスクを外し、右上の方角を指さした。

「ほら、お碗をふせたみたいな山が見えてるやろ?」

 息を吸うことすら忘れて、目を大きく開けて、人気のない道に立ちすくむ。住んでいた坂道のある街では指で差さなくても、密集した家々の背後が六甲山だった。目の前の、こんもり丸い小山とは比較にならない。ここは盆地なのか、風が停滞していた。蒸し暑い。風がさざめきながら坂道から港へむかって吹きぬけていた神戸とは異なる地形のようだ。真冬の六甲おろしさえ、なつかしい。

〈なんてこった。コンビニもないのか〉とオレさまはぼやく。

 仮にコンビニがあっても、母は素通りするだろう。一分でも一秒でもはやく、言葉を失った不登校の娘を厄介払いしたいと思っているのだから……。

〈クソババァは、魔男さえいりゃ満足なのさ〉 

 唯一の希望は母がわたしの哀しみを感知し、見知らぬ景観の中から見慣れた景色のなかに連れ帰ってくれることだけれど、それは叶わない望み。ペンキのはげた標識を、母はじっと見上げている。

〈おいおい、ババァは行き先もよくわかってねぇのかよ〉

 母はハンドバッグのファスナーを引き開けた。「先に脅しをかけとかんと――」

 強い日差しが、雲の隙間から頭を照らした。見たことのない鳥が羽をひろげて青い空を横切っていった。母はニンジン色のスマホを取り出し、結婚指輪を外した手で画面にタップしてから耳にあてがい、「あたしです。いま、バス停に着いたんやけど」と言って、相手の返事を待って、「わかってるわ、そんなん」と答えたあと、「二時間後に、そっちへ行けると思うわ。詳しいことはそンときに――これ以上、待つつもりはないし、こんどは昔みたいに、ごまかされへんからね。切り札は、ひとつだけやないのやから――」

 通話している相手が、野崎でないことはたしかだ。

〈新しい男でも、つくったンじゃねぇのか?〉

 わたしと身長の変わらない母は髪を明るい栗色に染め、ピンクベージュのシャネルのスーツを着て、太い足首を細く見せるために踵の高い靴をはき、だれもがブランド物だと認める茶褐色のルイ・ヴィトンのハンドバッグを腕にかけている。矯正下着で下腹とウエストを締めて、もともと大きな胸をさらに大きく見せることも忘れていない。視野に入れるだけで、うっとおしい装いだった。

 スマホをハンドバッグにもどし、もう一方の手にキャリーバッグの把手をつかみ、鼻の下をちぢめて唇をとがらせたかと思うと、人食い鮫のような赤い口をひらいた。

「ちょっとでええから、代わって引っ張ってよぉ」

 わたしはマスクを顎の下にずらし、舌を突きだしてやる。

〈よーし、よしよし。その調子だ。淫乱、ブタ女に迎合するな〉

 肩に斜めがけしているスクールバッグにはマンガ本が一○冊以上、入っている。そのせいで、身体が一方に傾く。たんぼ脇の道路に沿って、骨と皮の間に少しの肉を装着したわたしは、前かがみになってよたよたと歩きだす。

「ちゃっちゃっと歩きなさいんか。間にあわへんやないの」

 地面から生えたような象足の母の歩行とちがい、つぎはぎだらけのジーンズをはいたわたしの足元はおぼつかない。裏がヤスリのような靴のせいで歩きにくいのだ。氷の上でも滑らないそうだ。父のものだったのでサイズが合っていないこともあるが、形見の靴をはくことで父の記憶をすこしでも心にとどめておきたかった。

 母はわたしの足元に目を止めた。「なんで自分の靴をはかへんの。自分勝手なヒトの遺品なんて、見るだけでぞっとするわ」

 オレさまは負けていない。〈痩せ薬を服みながら、焼き肉を食いまくり、ついでに男のアレもくわえてンだから、てめぇはさっさと忘れたいだろうよ。献体とやらで、葬式もせず、何もかも魔男にまかせっぱなしだったんだからな。ぞっとすンのはこっちだぜ〉

 樹形と葉かげを照らす陽ざしが、目を刺激した。まぶたをなんども上下した。太陽がまぶしいというだけで、人を殺す小説だってある。殺意がないほうが、人を殺せるのか? 

〈クソ女をヤるときはいつでも言ってくれ。手を貸すぜ〉

 母が何か言った。マスクをもどした母の声はくぐもって聞きとりにくい。はっきり聞こえたところで状況に変化はない。

 しばらく歩くと、カイワレを束ねたような青々した丘が見えた。近づくにしたがい、深い森だとわかる。グワァ、グワァとカラスの啼き声が耳を脅かした。

〈真っ昼間からカラスの雄叫びが聞こえるなんぞ、おあつらえむきの舞台だと思わねぇか? ヤるならいましかねぇぜ。切れ味のいいカッターナイフでクソババァの顔をザックリ切り裂くとかさ。どうよ。一度あることは、二度あるっつーだろ〉

〈一度ある……何よ、それ〉

 住宅用の造成地をすぎると、ざわざわと揺れる竹林の一画があり、森へとつづく。人通りの絶えた横断歩道をわたる。木立と路肩の交わるあたりに凹地にくだる石段があり、その先には、玉砂利の小道が傾斜してのび、ツタのからまる灰色の建物が、深緑色の木立に埋もれるようにして建っていた。車両の侵入路は両サイドが掘り下げられ、地中にもぐるように造られていた。

「ここやわ!」

 宝くじが当たったような表情の母はひび割れた石段をおり、門扉の横にうっすらと見える病院名「TATUKI・メンタルクリニック」の錆びたプレートを、黒のベースにピンクのバラを描いた付け爪の指でなぞった。その指で鉄柱に取り付けられたインターホンを押し、来意を告げると、鉄製の扉が鈍いを音を立ててひらいた。コロナ禍のせいで、外来患者は午前九時から一○時までに受付をすませ、十二時までに扉の外へ出なければならないと母は言った。

「あんたは入院患者やから通してくれたんやと思うわ」

〈ついに異次元へのゲートがひらいたか。地雷を踏むなよ〉

〈だったら、ネイバーが出てくるかも〉

 背中をさすってくれた男性の強面の顔が、ふと頭に浮かんだ。

〈アニメで『ワールドトリガー』ってあんのよ。そこに登場する異世界の侵入者のことをネイバーっていうの。オバQとナメクジが結婚して変異した子どもみたいな、ぶさかわいい怪物なんだけどね。一応、悪者なのよ。わたしにはそう見えないんだけど〉

 扉の中に入ると、斜面をおおう植物の群れは小道を飲みこみそうな勢いを見せていた。ざわっざわっざっざっざっざーと木立を抜ける風が鳴っていた。空から真っ黒の虫が降ってくるような予感におののく……。

〈たのしみで観てた『蝨師』を思い出すわぁ〉

〈肝心なことは覚えてねぇくせによぉ、アニメの記憶は残ってんだから始末におえねぇな〉

 わたしとオレさまの言語空間に母が割り込む。

「摩耶山にあったホテルみたい……」

 母は、樹木とシダ類に覆われた病院を、廃墟で有名になった山中に埋もれたホテルにたとえることで娘を追い払う名目が立ったと思ったのかもしれない。

「あんたが羨ましいわ。あたしはいまからが正念場やねん。きっちりと落とし前はつけさしてもらうつもり。時間はかかるかもしれへんけど……」

〈クソババァ。わけのわかるように言いやがれッ〉オレさまは怒り狂う。〈何が、落とし前だ。てめぇの悪だくみが、人様に知られるのを恐れてンだろが〉

「いつか、あんたがマトモになって、独り立ちできるようになる。それだけが、いまのママの願いやわ。あたしなんて、あんたのトシにはもう働いてたんやで。住み込みでな。ほんまにつらかった」

 自身をマトモだと自負している母は父の存在を丸こど消し去ると、外泊を重ねるようになった。わたしと妹は心細い夜を二人で耐えるしかなかった。

〈――んなことねぇだろ? オヤジのPCのアマゾンプライムで、ポテチを食いながらアニメを見まくってたじゃん。いつもはよそよそしい由衣が、びっくりするくらい盛り上がってたしな〉

〈わたしたちはカラ元気を出して、悲劇に耐えていたのよ。そんなこともわからない〝言霊〟だったら頭ン中から出てってよ〉

〈困るのはオレさまじゃねぇぜ。記憶と声を取りもどすためにオレさまが出張ってきたんだろうが、わかってんのかよ。魔男の野郎と、はじめて会った日くらいは思いだせンだろうが〉

 問われてみれば……。どうして、あの男との出会いを忘れていたのだろう。片鱗さえ思い浮かばなかった。

 たぶん、去年の夏の終わりだったと思う。父がまったく帰宅しなくなり、落ちこむわたしを、母はむりやり散歩に連れ出した。家の周辺を歩くだけだと思っていた。自分の愉しみのためなら何キロでも歩けるが、だれかに命じられて歩くのは半歩でもいやだった。私鉄の三ノ宮駅の北側、北野坂に面した画廊まで連れていかれた。

 油絵の個展だった。

 いつものわたしなら通りで、母を待っただろう。気づくと母の背中にくっついて店内に足を踏み入れていた。ギャラリーのウィンドウに貼られたポスターに、どこかで会ったような少女が描かれていたからだ。その少女は下着姿で寝そべっていた。タイトルは「横たわる少女」。不思議な絵だった。塗り重ねられた絵には背景がない。暗闇の中に漂う少女の目はじっとこちらを見つめていた。その目には苦痛しかないように感じられた。

 天使のように美しい少女が、透明の花瓶の中でたたずんでいる絵にも惹かれた。「花瓶の少女」は右側の真ん中、一番目立つ場所に展示されていた。その絵の前に、二人の男性と一人の女性がいた。細身の男性が絵の前に立ち、彼よりはるかに年長に見える男性に語りかけていた。フレームが鼈甲の眼鏡をかけた白髪の男性は杖をついていたが背筋がのび、人の手をかりる必要を微塵も感じさせなかった。影のように老人に寄り添う和服姿の女性は年齢不祥で老人の妻にも娘にも見えた。

「無垢な肉体に惹かれるんです。具象画であっても、メタファーを感じさせる表現でないと、ぼくの求める美にならない」

 花瓶の口が歪んでいるので少女は永遠に逃れられない構図だった。母が遠巻きに近づくと、熱く語る若い男が振り返った。

 彼は目を細め、「きみが詩子ちゃんだね、会いたかったよ」と言った。それが、妹の担任教師であり、母の愛人でもある野崎隆行との初対面だった。いまになって思う。この男と、父はどこで知りあったのか? おそらく、母が紹介したのだろう。いや妹か?

〈はじめて会ったときから、魔男だったろ?〉

 とがった耳は気になったけれど、第一印象はわるくなかったと、オレさまの意見に逆らった。たいていの人は、わたしをひと目で変り者と判断し、ぎこちない態度を露骨に見せる。隣にいる老人がそうだった。いらだたしげに杖の先でなんども床を叩いた。少なくとも野崎は、あからさまな嫌悪感は表情や態度に見せなかった。和服の婦人は半歩さがり、わたしから目をそらした。

 画廊のガラスドアを押し開けて、大胆な色づかいのワンピースを着た少女がゆっくりと入ってきた。由衣もかわいいけれど、その少女には人を寄せつけない雰囲気があった。長い髪をお団子に結っているので、首から肩にかけてのなめらかなラインが鮮明に見えた。それが少女の繊細で優美な顔を引き立てていた。手足の長い彼女が絵のモデルだと瞬時にわかった。

 野崎は母に近寄り、耳打ちした。「ソウカが気分を壊すからさ、きょうのところは連れて帰ってよ」

「この子に……ひと言、挨拶させたかったんやけど……」 

 彼らのやりとりを、わたしの耳がとらえたことに当然、老人と婦人は気づいていた。しかし二人は気にとめなかった。彼らの内緒話に、わたしが興味をもつなど想像すらしないのだ。母がわたしに挨拶をさせたかった白髪の紳士はいったい何者だったのか?

〈魔男が、ウチへ寄生するようになったのはいつだ?〉

 歩きながら爪をかむ。あれは……たしか……。父が死んでひと月とすこしたった頃、今年の一月十五日。母の三七歳の誕生日に野崎はわが家にやってきた。グレーの薄汚れたリュックを背負い、イーゼルを肩にかつぎ、古びたボストンバッグをぶらさげていた。母が、自慢していた金持ちの御曹司にしては学生ふうの身なりもだが、彼自身の雰囲気が貧乏臭かった。

〈浮気女のクソババァは、勉強の遅れている詩子のために野崎を家庭教師にしてはどうかと、お為ごかしを言って家に連れこみやがったよな。魔男はギリだけど二十代だぜ〉

 母は二九歳の野崎より、八歳年上だ。父と母は十二歳ちがっていた。母は二○代のはじめに、三○代の父と結婚したようだ。年齢差が不和の原因だったのかもしれない。父と母がどこで出会い、どういうきっかけで結ばれたのか、二人は一度も語らなかった。会話の少ない夫婦だった。母は年下の野崎と、妹を通じて知り合ったのだろう。年齢差など気にせず、リアルに充実していたい、恋する中年女にとって野崎は格好の相手だった。先端がとがった耳をのぞけば、切れ長の目元と鼻の幅しかない唇が彼を年齢より若く見せていた。眉にかかる切りそろえた前髪も少年のようで、母の心をとらえるのに充分だった。その証拠に、思春期の娘の存在などなんの障害にもならなかった。

〈尻軽女と魔男は結託して、詩子を現実の世界から排除したあげくに抹殺する魂胆なんだ〉 

 父の経営していた会社は父の死後、破産の手続きをとった。抗議にやってきた父の部下と、野崎がそのことで口論になった。築年数が半世紀をこえる家の客間で怒鳴りあう男たちの声は、斜め上のわたしの部屋に筒抜けだった。

「あんたは役員でもなんでもない」と言って迫る社員に、野崎は父の名を出し、「本人の遺言により、わたしが代理人になることは、法的に問題はない」

「銀行の融資さえあれば、会社は持ちなおす」

「この負債額を、どう処理するんですか。自己破産以外の方法があるんだったら、教えてくださいよ」

「社長は、亡くなる前日まで金の工面をしていたんだ。家を売却して、従業員のためになんとか頑張るから心配するなって」

「この家はすでに抵当に入っています。それに負債の大半は、使途不明金ですよ。おそらく、社長が私的に流用したのだと思いますけどね。あんたたちも騙されてたんだよ」

「この野郎ォ! ひとごとみたいに言いやがって、奥さんを出せッ。社員には退職金をもらう権利があるんだッ」

「ごたごたぬかすなッ。警察に通報するぞ!」

 その日の出来事は脳裏に刻まれている。客間と隣接する寝室に隠れていたらしい母は玄関のドアの閉まる音がしたとたん、客間に駆けこんだ。しばらくすると、母の喘ぎ声がもれ聞こえた。自分の耳を引きちぎって、暗い海の底に沈めてしまいたかった。どうして母は……あんな男に夢中になれるのか……。

 いきなり頬をつねられた。

「ぼぉーと立ってんと、歩きなさいんか。どんなに遅れても午前中に手続きをすますように、センセから言われてるねんからね」

 母の声が、記憶の流れをさえぎった。

「立ったまま、寝てるわ、この子」

 あの日は目覚めていた。時間なんて、自分の外側にあるものだったのに、わたしはあのとき焦っていた。由衣が、学習塾から帰ってくる時間だったからだ。爪先歩きで階下に降り、鍵穴からのぞいた。喘ぎ声がとまった。ソファに脚をひろげて座る、野崎の局所に母が頭を寄せていた。わたしの視線に気づいた野崎は、両手で母の髪をつかみ引き寄せながら口の端をあげて嗤った。口が、とがった耳まで裂けたように見えた。あの、いまわしい記憶が、妄想癖のあるわたしの創りだした幻想なのか、現実に目撃したことなのか、はっきりしない。父の死後、眠っている時間が長すぎたせいか、あやふやな記憶がほとんどで鮮明に記憶している部分を侵蝕していた。

     4 灰色の男たち

  母は病院の周囲を見回し、「おとぎ話に出てくる森みたい」と言って、マスクを下げ、歯を見せて笑った。前歯に口紅がついている。忠告してやるべきか、迷った。黙ることにした。

〈クソババァは、グリム童話を読んだことがねぇんだな〉オレさまは嘆息した。〈残虐にして非道。シンデレラのねぇちゃんの一人はデブのせいで、ガラスの靴に自分の足を合わせるために爪先と踵を切り落とすんだ。てめぇのように横にも縦にもデカい足が、ガラスの靴をはけば、木っ端微塵だ。そんときなって泣きをみても、おせぇんだよ〉

「いつか、森の中の一軒家に住みたいわぁ……みんなで」

 母のいう〝みんな〟とは、だれとだれをさすのか。

〈トボけるのもいい加減にしろよな、象足女。一寸先は闇だぜ、闇。人生には信号も方向指示器もねぇのさ。いまに、てめぇも、いやというほど目の前に立ちふさがる壁にぶつかるんだ。さっきみてぇに悪夢にうなされンだよ〉

 小道の両脇には、白い花をつけたユキヤナギが植わっていた。母は急ぎ足で、一方のわたしは片足をひきずりながら病院の建物に向かってくだって行った。バス停からここまで歩くだけで、左足の爪先が痛くなった。サイズが大きいので、爪先に脱脂綿をつめていたが、不具合が生じて履き心地がわるい。

 一歩進むごとに、二歩後退りしたい心境だった。

 妄想の世界が現実になって、モモとモモの友達のつどう〝草の茂った石段〟にいますぐ座れたらどんなにいいだろう。

〈ケッ〉オレさまは吐き捨てた。〈ちったぁ、大人になれよ〉

 花壇には、バラとクロッカスと三色スミレが咲いていた。アールデコ風の古い洋館を思わせる建物を目にした母はあらぬ方向を見て、うふっと忍び笑いをもらした。

「センセがススめてくれはるだけのことはあるわ。ほんま立派よねぇ。立派すぎて笑えてくるわ。庭があっても、だれもおらへん。伝染病のせいやない。散歩の時間なんてないんや」

 母はたるんだ顎を上向けながら乾いた笑い声をたてた。目に涙がにじんでいる。母らしくないと思った。無慈悲で自堕落な女は、どんなときも強気だと思いこんでいたからだ。

 驚いた目で見つめると、「いつか、詩子にも、ママの気持ちが、わかる日がくるかもしれへん。たぶん、けぇへんと思うけど……。ひとつだけ、知っといてほしいねん。小学生のときに両親を亡くしたあたしには、頼る人がおらへんかった。そのせいで、さんざん、いやなめにおうた。やっとの思いでそこから逃げ出して、パパと結婚して、あんたが産まれてしばらくは、まあまあ幸せやった。でも、すぐに何もかも、あかんようになった。あんたのパパは――」

 母は、あとにつづく言葉を飲み、頬につたう涙をぬぐった。

「いずれ、知る日もくるやろ。知らんほうが、ええかもしれへんな。知った日から、あんたは、いまよりもっとヘンになるかも」

 オレさまは、母の言葉を打ち消すようにまくし立てた。

〈ハートが平均値を下回る男でも、わが子より大事なのさ。子どもが母親をどう思っているかなんぞ、ゲス女は一ミリグラムも想像しねぇ。物事を縦、横、平面と立体的に考察しねぇ鈍感女にできるのは年下の男に媚びへつらうことだけだッ〉

 母は下唇をほんの少しかみ、遠い目をした。「あんたを守ることだけ考えて生きてきたつもり。そやけど、それにも疲れてしもて……しょうもないこともいっぱいしてしもたけど、センセと出会って、やっとほんまもんの幸せをつかめる気ぃがするねん」

 ほんまもんの幸せなど、現実の世界にあるのか……。

  ガラス張りのオートドアから一階ロビーへ入ったとたん、照明の明るさに爪先の痛みを一瞬忘れた。デパートの化粧品売場のようだ。チェリーピンクに彩られた受付カウンターがあり、同じ色の制服を着た女性職員数人がマスクをし、自分と他人の息が混じり合わないようにする透明のビニールシートごしに応対していた。

 床と壁はオリーブ色。円形の柱も二色の市松模様にぬられ、パステルカラーに統一されていた。観葉植物とライムグリーンのソファの置かれたオープンスペースに外来患者らしき男女がゆったりと座っていた。彼らはマスクをし、置物のように待っている。BGMは、心のやすらぐ、ショパンのピアノ曲が流れていた。

〈気を引き締めろ。気を許な〉とオレさまは叱咤し、警告した。〈油断すると、魂を食われてしまうぜ〉

 母は受付カウンターに向かって颯爽と歩いていく。わたしは左足を浮かせて案山子のように立っていた。母は、受付の女性に深々と頭をさげている。見栄だけはひと一倍ある母は、自分の利害に影響をおよぼしそうな相手に対しては礼儀ただしい。

 重い靴の片方を脱ぎ捨てソファに腰をおろした。なんの予告もなしに、「夜の女王のアリア」が耳を刺激した。

「アッアッアッアーッ、アッアッアッアーッ……アーアーアー」

 周りの人はなんの反応も示さない。超絶技巧のソプラノが鼓膜を震わす。モーツァルトのオペラ『魔笛』で歌われる「復讐の心は地獄のように胸に燃え」だった。耳鳴りがする。

〈きたきたきたッ。復讐の幕開けだーッ〉

 オレさまの掛け声に同調したわたしは、ふいに立ち上がった。カウンターの前にいた母が振り向いた。鬼面の形相が、わたしへ向けられた。頭の中で何かが弾けた。全身の血が逆流し、胸に溜まった鬱積が出口を探した。もう片方の靴も脱ぎ捨てた。母が小走りに走ってくる。わたしは、たったいま放り出した靴をつかんだ。重い靴を、母の顔をめがけて投げつけた。自分自身を制御できないことにはじめて気づいた。喚くつもりなどまったくないのに、声をかぎりに叫んでいた。全身をめぐる血が突破口を見つけたようだった。

「ぎゃーっぎゃーっぎゃーっ……」

 両足が円を描いて歩行し、叫び声が止まらなくなった。周囲にいる人たちは、魔物でも見るようにわたしを見た。彼らは臆病な猫のようにわたしの前から姿を消した。入れ替わるように、ダークグレーの制服をまとったマスクマンたちが現われた。男たちはわたしを取り囲み、容赦なく手足をとらえた。『モモ』に出てくる、時間を盗む灰色の男たちと彼らは瓜二つだった。

 床を踏みならしてもどってきた母は、灰色男たちに言った。

「すぐにおさまりますから、放っておいてください」

 男たちが手を弛めるやいなや、母はマスクを外し、必死でもがくわたしの頬といわず、頭といわず、平手で張りまくった。わたしのマスクは母の手にひっかかった。母は、わたしの顔からマスクを引きはがすと、怒鳴り散らした。

「ヒトの気も知らんと! このバカ娘が!」

 空間を切り裂いて異世界のゲートがひらき、ナメクジ頭の巨大なネイバーが、危険区域を越えて出現したようだった。

〈オレさまに、オカンネイバーをやっつける武器をよこせ!〉

 オレさまの声は聞こえるが、わたしの口から発っせられる喚き声は止まらない。手足もじっとしていない。それでも、なんとか、〈異境防衛機関ボーターの武器は、隊員じゃない、わたしやオレさまには使用不可。トリガーを引けない〉と彼の思い違いをただし、なおかつ、〈オカンネイバーの殲滅は不可能〉と注意力を喚起しようとしたが、〈じゃかましい! ガチ勝負だぜ!〉

 母には、オレさまとわたしのやりとりはつたわらない。

「なんで、ここまできて、あたしを困らせるんよッ」

〈クソババァ、黙りやがれッ〉

 頭の中で、オレさまと母の二つの声が激突した。母は背伸びをすると、わたしの渦巻き状の伸び放題の髪をつかみ、頭突きを一発、顔面にかましてくれた。鼻の骨が砕けたかと思うほどの衝撃が走った。行動を起こす瞬間に記憶を失っていたことに気づいた。

「おかあさん、落ち着いてください」

 灰色の男たちはこんどは母を捕獲しようとしたが、オカンネイバーの大きな手は縮れっ毛を離さない。鼻血が、唇にしたたり、鼻の奥から喉に流れこむ。わたしは、ぎゃあぎゃあと叫びつづけた。男たちに、はがいじめにされた母は、スーツの襟元が締まって首まで締まりかけている。

〈目にもの見せてやれーッ〉オレさまの怒りが炸裂する。〈トリガーON!!!〉

 弾みがついた右膝に勢いをつけ、矯正下着で隠しおおせない母の三段腹に膝頭をのめりこませた。ウーッと呻いた母は、わたしの縮れっ毛を握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。ここぞとばかりに、胸の谷間がのぞける母のうなじに噛みついた。

〈頚動脈を噛みきってやれッ〉オレさまは勢いづく。

 母は握った手をひらいた。縮れっ毛が数十本が、はらはらとリノリウムの床に散った。わたしは鼻血を手の甲でぬぐい、喉が張り裂けそうなほど胸に蓄まった声を振り絞った。

「ギャォーッ!」

「これが、あんたの正体や」と母は言った。「病気やからしょうないと思うて辛抱してきたけど、親の我慢にも限界がある」

 とっさに、ソファにおいてあったスクールバッグを持ちあげ、母の脳天になんどもぶつけた。マンガ本を入れておいたおかげで波状攻撃をくわえることができた。

〈ザマァ思い知ったか。借りを返すのがオレさまの主義なんだ〉
                                  ピーポー、ピーポー……。        

 この音を耳にすると、全身が凍りつく。めまいがする。父の死亡事故以来、この音と雨がトラウマになっている。しかし、病院内の狭い世界――ここでは、「夜の女王のアリア」にも、母娘の取っ組み合いにも、救急車のサイレンにも、カウンターにいる職員は無反応だ。例外は灰色の男たち。彼らはわたしと母を放置して、救急搬送専用の出入口にむかって駆け出した。

 ロビーにたむろする人びとの関心は、そっちへ変更された。場面転換が起きたようだった。それぞれの登場人物は、まるで決められた脚本通りに動いているかのようだった。観客の去ったあとには、前髪をたらし、毛先を内巻きにセットした母の若造りのヘアスタイルは、見るも無残な状態に変貌していた。母は呆然としているわたしの眼前で仁王立ちになると、右腕を振りあげた。本物のネイバーには頭髪がないし、手はオットセイのように短い。しかし、異次元の怪物と化した母は、ボーダーの正規隊員ではない、わたしごときの噛みつきやマンガ爆弾のトリガーを引いたくらいで殲滅できる相手ではなかった。情け容赦ない複数回のビンタをくらい、弾ぎれしたマシンガンをもつ反政府軍の一般市民のように一気に戦意を喪失したわたしは、ライムグリーンのソファに倒れこんだ。

 復讐は叶わないと思い知らされた。このやり切れない気持ちをどこへ、だれに向かってぶつければいいのか。怒りは母にではなく、わたし自身の心と身体に表れる。唇の端が右頬にむかってびくびくと痙攣しはじめる。上あごと下あごのズレがどんどん大きくなっていく。試練の詠嘆は果てしなくつづく……。

〈トリガーって、引き金のことだよな? 引き金を引いたわりには迫力不足だったぜぃ。敵は、血の一滴も流さなかったしよ〉

 試練の詠嘆が、壁にぶちあたる。

〈噛み合わせがよくないのよ。歯茎をむいて小さな鏡で点検するとね、上あごの前歯と下あごの前歯との隙間が三ミリほどあンのよ。口を閉じ、舌の先でふれると七ミリはズレている感じなんだよね。ぬめぬめした口の中にある歯と歯茎の間に、ポッカリとひろがる空間が存在してるわけよ。まるでブラックホールみたいに〉

〈舌も身の処し方に苦慮しているってか? 明太子が歯の外に突き出ている感じがあンだな。ふーむ。実体があるから不具合が生じるんだ。気の毒になァ。へへへへ〉

〈歯と歯がズレてるから、移動が自由な舌が隙間を埋めるしかない状態なわけ。だから噛みついてもさ、歯形が少しつく程度の傷しか負わせられないのよ〉

〈戦士に、武器は必須じゃねぇか〉

 手足の震えがとまらない。

〈なぜ、下あごと上あごは不等式になったんだろ? 先祖返りなのかなぁ? なぜなぜなぜなぜ……〉

 悲観と絶望の合わせ技に希望の入る余地はない気がする。

〈上の前歯だけが、唯一の凶器か、ふーむ。なんとも情けねぇな。十六歳の乙女の屈辱だわな〉と、オレさまはからかう。

〈トリガーを持つほんものの隊員には、頑丈なボディスーツがあるんだけどね。隊員じゃないわたしにはそれもないし……。一生、落胆の底に沈みながら日常生活を生きなくてはならないと思うと、パパにならって引力に身をゆだねて、地面に激突したくなる〉

〈テキトーなこと言うなよな。オレさまはゼッテー認めねぇぞ〉

〈この負の感情を押しとどめるにはさ、ありのままの自分を肯定する必要があると思うわけよ。それには統合された自我を一時的に解体しなくてはなんないしぃ、自分にとって都合のいい情報だけを選んで脳細胞に溜めこむしかないという結論に達するのよね〉

〈解体の結果が記憶の隠蔽であり、オレさまの出現ってことかよ。ムズイやつだぜ、ったく。意識下の膨大な記憶は、消せねぇのによぉ〉

 ようやく震えが止まった。

〈いまさ、ほんのちょっと、うれしいんだけど〉

〈何がだよ〉

〈暴れたり、喚いたりなんて絶対にしていないと思ってたんだけど、ほんとのわたしというか、もう一人のわたしは、手のつけられない子どもだったんだね。学校でも、こんなふうだったのかな? だったら、嫌われてもしょうがないよね。なんか、自分が自分に騙されてた気がする。ずっと夢の中にいたみたい〉

 ナースキャップをかぶり、マスクに手袋をつけた看護師が近寄ってきた。非接触体温計で検温したあとで、「初回ですので、院長の診察があります」と何事もなかったように言った。

 母は目尻をさげる。やっとこの日かきたと、内心で小躍りしている表情を隠そうともしない。母の取り柄はわかり易いことだ。

〈腐れ縁を断ち切りたいのは、こちとらも一緒だぜ。だがな、たとえ、てめぇが地球の裏側まで逃げたって、腐ったDNAは詩子の体内で永遠に消えることはねぇんだ。DNAの三分の二は母親から受け継ぐんだ。クソババァめ、疫病に感染して死んじまえ!〉

  いつのまにか、灰色男の一人が忍びより、〝背後霊〟のように背中に張りついていた。グレーの制服と同色に感じる顔色をしている。やや猫背で頭が異様に大きい。禿げているし、眉毛が薄い。それに厚手の特大のマスクとがあいまって、三白眼の目玉が額の前に飛び出しているように見える。

「案内します」

 海坊主のような容姿のせいで、苛烈な世界へといざなう役目を負っているらしい。ギリシア神話では、地獄への渡し守はカロンと決まっているが、名札を見ると、「介護士・山田」とある。

〈首斬り名人の、山田浅右衛門の子孫かよ!? 介錯人が介護人になったのか〉

〈ベスト・アンサーとか、わたしに言わせたいわけ?〉

〈敵か味方か見きわめようぜ。百パー、敵にまちがいない〉

 このキショイ灰色男は、異境のゲートでわたしを待ちうけていたのだ。悩める乙女を、ダークサイトの異界に送りこむことに淫靡なよろこびを感じている目つきに足がすくむ。しかし、黒目より白目の目立つ三白眼は、禿頭と釣り合いがとれていた。

 悲鳴が聞こえた。「死なせてッ、死なせてぇ、死なせてよ!」

 若い女性がストレッチャーに乗せられ、直進してくる。母は浅右衛門に話しかけている。

「こちらの病院では、外出日はあるんでしょうか? たびたび帰ってこられても困りますのでね」

 ストレッチャー上の女性は長い髪を振りみだし、悲鳴をあげつづけている。裸足でストレッチャーに駆け寄った。助けをもとめる彼女の手をつかんだ。

〈いっしょにフケようぜ〉オレさまが無音のタメ口で語りかけた。

 彼女は首を起こし、周囲に目をやり、泣きやんだ。涙で汚れた表情が一変した。目を見開き、荒れた唇を引き結んた。

〈おっ、聞こえたんじゃね?!〉

 と喜んだのもつかのま、

「いやーッ、汚い、さわらないでぇー」

 浅右衛門が走ってきて、わたしの手を振り払った。

〈神経が乱れていても、状況分析にすぐれた女のようだな。ふむふむ。お互い、飛沫感染には気をつけねぇとな〉

  靴を履き、診察室に入ると、パソコンの液晶画面に目を注いでいた白衣のマスクマンが振りむいた。金縁眼鏡をおおった防護用のプラスチックメガネが鈍い光を反射する。ナイフで切ったような細い目尻が、こめかみにむかって三○度強の角度で吊り上がっていた。この種の目の形から感性を感じることはない。

「わたしが、院長の立樹です」

 スクールバッグを専用の荷物置きのかごに入れ、丸い椅子に腰かける。肘つきの大きな椅子に座った立樹院長は、防護メガネと眼鏡の二重で護られた吊り目を細めた。表情は一見柔和に見えるが、削げた顎のあたりに冷笑が浮かんで見える。だれかに似ていた。

「目のまわりが真っ赤ですねぇ……」

 ノコギリの刃のような爪でまぶたをこすりすぎたせいだ。

「宇梶詩子さんですね?」 

〈クルシメーア女帝だと言ってやれ〉とオレさま。 

「少し、落ち着きましたか?」

 うなり声と歯ぎしりで応じる。院長は防護マスクの口のあたりをつまみ、隣に立つ母に問いかけた。

「ロビーで、ひと悶着あったそうですねぇ」

「いったん興奮状態になりますと、常軌を逸した行動をとって、叫びつづけるんです。もうあたしの手に負えません」

 母のタレ目と院長の吊り目がピタリと合う。

「いつからですか?」

「昔から、よそさまのお子さんと競べて、扱いにくい子どもだったのですが、ひどくなったのはこの半年です。夜じゅう眠らないで、ギャア、ギャアわめきながら部屋中をぐるぐると歩きまわるんです。ご近所からも苦情がきまして……」

 父が亡くなり、野崎がウチにやってきて、そのあとのことがはっきりと思い出せない。この病院にくる前の記憶はかすかにある。どこかの病院にいて、家に連れもどされてここへきた。二日間、夢うつつだったが、胸の真ん中が、錐で刺し貫かれるように痛かった。思い出すだけで、憤怒と激情が胃袋を燃やす。頬がピクつき、オエッ、オエッと喉の奥が鳴った。

 院長の目に戸惑いの色が浮かぶ。「おかあさん、暴力はいけません。鼻のあたりがすこし、鬱血してますね」

 母は早口になった。「今朝も、ここにくる寸前にパニック症状を起こしたんですぅ。なんとか連れてくることができましたけど」

 胃液が逆流する。

〈嘘こけ! クソババァ、はんぶん眠ってる詩子は逆らう気力もなくて、素直についてきたじゃねぇかッ。てめぇの嘘っぱちをしゃべる声を聞いていると、理性と知性の固まりのようなオレさまでさえ、背中に墓石を乗せられたような重圧で頭がおかしくなるぜ〉

「話さなくなった原因に、心あたりはありますか」

「もともと無口な子でしたから友達もいませんし、小中と休みがちで、なんとか高校に入学しても、ほとんど登校していません」

 うつむいて爪をかむ。ひと月前の四月、校長のビデオメッセージで入学式ははじまった。政府の奨励する〝三密〟が何よりも優先されていた。椅子と椅子は離され、父兄の人数も少なかった。もともと対人恐怖症のうえに、突発的に眠くなるわたしにとって緊急事態宣言はありがたかった。コロナ禍が終息するまで高校生でいるつもりでいたが、マスクの上にのぞく複数の刺すような視線がわたしを怖じけさせた。数日間が限度だった。学校にいる間中、耳元でワーグナーの「ワルキューレの騎行」が鳴り響いていた。

 院長は首をのばしながら、「話したいことはありませんかぁ」

 歯ぎしりが止まらなくなる。そうだ! あの女教師と同じ口調なのだ。なんでも疑問形で話し、いかにも相手を尊重しているように聞こえるが、内心では軽蔑しているのだ。

「ここにくればもうだいじょうぶ。気持ちをラクにしてゆっくりすればいいですからねぇ」

 母は悲劇のヒロインのように、「がんばったつもりなんです。でももう、くたくたで。あたしの何がいけなかったのでしょうか」

「ウィルスの感染を恐れて神経を病む人も少なくないんですよ。詩子さんの場合は、思春期によくある症状でして、社交不安症とでも言いますか、強い自我をもてあましているだけです。おかあさんに問題があるわけじゃありません。思いつめないでください」

「この子は、ウィルスのせいでおかしくなったやないんです。もともと狂っているんです! きっと双極性なんたらです」

 双極性なんたらのせいで、わたしは記憶と言葉を失ったのか?

「安心して、おまかせください。この病院は心を休める安全な場所ですから、行動障害があってもしだいに落ち着いてきす」

 院長はわざとらしい溜息をもらし、憂欝そうに首を振り、額のあたりを指でかいた。数学の女教師と同じ仕草だ。理系は嫌いだ。何事も理性で解決できるというような、したり顔を目にするだけでいらつく。ムカつく。喚きたくなる。

 言葉がスムースに出なくなる直接のきっかけは、数学の女教師がつくってくれた気がする。記憶があいまいなので、そんな気がするだけなのだけれど、そのことをいまここで言っても、どうにもならない。歯ぎしりをしながら染みひとつない白衣の胸元をにらむ。

「本人から聞ければ、それにこしたことはないのですが、時間を置けば話してくれるかもしれません。ここは時間を気にしなくていい特別な場所だと、本人が自覚すれば寛解にむかいます」

 医師は、話をつづけた。

「おかあさんのほうから入院にさいして、言っておきたいことがあれば、うかがっておきますよ」

 母は秘密めいた口調で話しはじめた。

「父親の、あのぅ、飛び降り自殺を間近で目撃しましてですね。もともと、まともでなかったんですが、それ以降、話に脈絡がなくなりまして――」

「それは、さぞ、お困りでしょうねぇ」

「ええ、ええ、そうなんです。以前、入院していた病院でいただく、おクスリを服みたがらないのでしかたなく、鼻炎と顔のぶつぶつを治すアレルギーのクスリだといって服ませてたんですが、それがですねぇ。おとなしく寝てるぶんにはいいんですけど、気にさわることがあると、正気とは思えない言動をとるようになりまして、あたしの力ではもうどうにもこうにも……」

 感情が高ぶり、怒鳴り散らしたいが、追いつめられた人間の発する言葉が思いつかない。非が自分にあるというマイナスの感情が高い壁になって、置かれている現状に甘んじてしまうのだ。

〈クソ女は、正義にもとづいて、頭と心が機能してねぇんだ。かといって、悪徳といえるほどの美学もない。中途半端にクレージーな性悪女なんだ。それがババァの強みだわな。詩子のように神経が毛羽立ってると、思考はつねにカラまわりする。猛禽の王者、ワシは空を独りで舞うというが、舞ってるうちに目がまわって落下するんだ。いまはひたすら防備を固めることをオレさまは助言するね〉

〈テンション、下がってない?〉

〈オレさ、ジジィだから医者と坊主は苦手なんだワ〉

〈それで午前中、おとなしかったんだ。牧師も苦手なんだ〉

 院長は卓上の置き時計をちらり見た。

「このくらいにしておきますか。あとのことは、担当の医師と相談して治療方針はきめますので、ご心配なく」

〈患者に時間を盗まれると思っているンだ。へぼい医者だぜ。女教師といい勝負だ。患者や生徒より、おのれのエゴを最優先する手合いなんだ〉

 母とわたしとが、診察室に入って出るまでの所要時間は約十五分。彼は超能力者にちがいない。短時間で患者の心の有り様を見透し、症状を判断する能力があるのだから精神科の医者は神に近い。

 浅右衛門にともなわれて、ロビーにもどる。

〈なんで、こいつはついてくるんだ? ひとこと言っとくが、〝言霊〟と〝背後霊〟とでは同じ〝霊〟という字がくっついていても、読み方がちがう。〝だま〟は言葉の不思議な働きを意味する。〝れい〟は死者の魂を意味する。存在する次元が異なるということを、肝に命じていてもらいたい〉

〈要するに、自分のほうが格上だと言いたいわけだ〉

〈オレさまの忠告に耳を傾ければ、心と魂が統合されて消し去りたい過去の記憶が立ち上がってくると約束する〉

 診察室の外に出ると、約束はすぐに果たされた。

      5 残酷な不等式

  あと数分で終業ベルが鳴るはずだった。三年近く前、夏休み明けだったと思う。中学一年生の秋のはじめだった。その日、産休に入った教師にかわって、母より年長に見える女性教師が教壇に立った。彼女は自己紹介もせずに、生徒に背をむけ、黒板の端から端まで数字と記号を書きなぐった。そう、書きなぐったのだ。生徒のだれ一人、彼女の書いた数式を理解できなかったと思う。いつものように、襲ってきた睡魔で頭の位置がぐらついた。

 五○分授業の約四○分を彼女は板書きに費やした。

 チョークの折れた音で、目が覚めた。

 彼女は、わたしを指さした。「立って答えなさい」

 教室中の生徒が、わたしを見た。好奇心でいっぱいの目に取り囲まれた。彼女は首を左右にふり、額を指でかいた。

「説明しなくてもこのくらい、わかるよね?」

 疑問形で問いかける声はやさしげに聞こえた。

 女教師は、短くなったチョークの先で黒板をトントンとかるく叩いた。「だれか、わかる人いる? いたら手を上げてくれる?」

 脳細胞の働きを促す奥歯は眠ったままだった。その頃のわたしには、オレさまという味方がいなかった。頭に浮かぶ〝つぶやき〟は緊急事態に対応できなかった。陰険な他者に対して、わたしは口を閉じ、うつむくしか、耐えるすべを知らなかった。いまなら、もうすこし違った対応ができたかもしれない。

「どうしようかなァ? どうしたい?」

 目の前の難問を、歯ぎしりで噛みくだいた。こうすると、灰色の現実が少しだけ、早く過ぎるような気がした。

「解けなくても鍵となる方程式を見つけられないかなァ?」

 はじめて目にする数字と記号の羅列が、頭の中で迷走した。

「こ、れ、は、不等式の簡単な問題なの」

 教師は、大きな字で、数字と記号の上に不等式と書いた。

「解答を求めてるわけじゃないの。それも理解できていない?」

「はい」と答えたが、声が小さすぎて女教師の耳には伝わらなかった。彼女は肩を落とし、溜息をつくと、院長と同じ仕草――首を小さく振り、額を指でかく仕草をくりかえした。

「はい、いいえの返事もできないなら、廊下に出てる?」

 机と机の間を縫って歩くが、まっすぐ進めない。拗ねているのではなく、ツジツマの合わない夢を見ているようだった。終業ベルが鳴ると、女教師は戸口の外で立っているわたしのところへきた。寒くてたまらかった。両腕を抱くようにして立っていた。

「わざとらしいわね。震えて見せれば、それですむと思ってるのでしょ? 居眠りをあやまる気があるの、ないのかしら?」

 出ろと言われたから出た。寒がるとわざとらしいと言う。そして、謝れと言う。唇がどうしてもひらかない。

「せっかくの能力を、どうしてムダにしてしまうのよッ」

 彼女の口調は激変した。切り刻むように、わたしは歯と歯を噛みあわす。

「幼稚園児ナミの知能しかないならまだ許せる。自覚がないの? あなたは眠ることで、わたしの時間を奪ったのよ。わかる?」

 居眠りのおかげで、泥沼に浸かったような時間をやり過ごせることをこの女は知ろうとしない。怠慢が自分にではなく、相手にしかないと信念のように思っている。教える立場だというだけの理由で、どうして非は自分以外にあると言いきれるのか。

「あなたねぇ」彼女は両手を腰にあてた。「わたくしをバカにしてるの?」

 黙れ黙れ! 頭の中で絶叫した。

「それとも、歯向かってるつもりなの?」

 女教師は、わたしの胸を人差し指の先で小突いた。わたしは上唇と下唇を合わせるために引き結んだ。このズレをなんとかしたいだけだった。女教師は首から上を小刻みに震わせた。こっちまで揺れてくる。平衡感覚がたもてない。それでなくたって、口の中に空洞を抱えている身なのだ。

「話すだけ時間のムダね。残念だけど、そう思うでしょ?」

 ギリッ、ギリッと歯ぎしりをした。彼女が話すたびに漂ってくる口臭が鼻についた。なんの臭いか、わからないが顔をそむけた。

「なによッ、そのふてくされた態度は!」

 女教師は故意か偶然か、腰の手を肩の上にあげた。目の下にきた彼女の手を、とっさに手のひらで防いだ。

「暴力は許しません!」

「何もしてません」ようやく、ひとこと言えた。

 女教師は金切り声をあげて、わたしに殴りかかった。わたしは両腕で防御した。彼女はバランスをくずし、自らのけぞり、廊下の壁に背中をぶつけながら横転した。男子や女子の顔の行列が、気味わるげにこっちを見ていた。

 女教師は、両手と両膝を廊下についた姿勢で、「退学、退学よォ」と狂ったように叫んだ。そして、立ち上がるやいなや、わたしにむかって唾を吐きかけた。唾液が制服のブラウスにしたたった。それを目にした彼女は笑い声をあげた。その口からさらに強い臭気がただよった。うつむき、彼女の足元を凝視しつづけた。ココア色のヒールが、いまも目の裏に焼きついている。

 背後で男子生徒の声が聞こえた。「さぶぅ……」

 そのあと何があったのか、記憶がない。眠りに落ちる瞬間を意識できないように、肝心な部分が頭の中から消滅していた。

 わけがわからないままに、学校とは縁がきれた。

 公立中学に退学という制度はない。自主的に不登校になり、今年の春、母の言う、偏差値のもっとも低い県立高校に進学したが、二年半近いブランクがたたって、時間割り通りに行動しなくてはならない集団生活に馴染めるはずがなかった。

 先天的な疾患によるのか、後天的な疾病によるのか? 断りもなしにやってくる睡魔を自分自身でコントロールできないのだ。この症状をだれにも説明できない。医師に対しても同じだ。彼らの発する、なぜの問いかけに音声をともなう言語で応じられない。しかし、ひとつだけ、答えられることがある。

 今年に入ってすぐのことだ。野崎と同居する、数日前から母は外出しなくなった。掃除をし、赤茶けた壁紙の部屋のインテリアにこだわる母の浮き浮きした姿にふだんなら、よろこぶべきなのだが、わたしの無意識はやがておとずれる災厄を予知したのか、深夜になると、意識が目覚めるようになっていた。同時に、言葉を失っていった。いや、いつ、言葉を失ったのか、それさえもはっきりしない。

     6 光輝く子は宇宙人

  診察をおえると、乱れた髪の母は待合室に荷物を置いてトイレに行くと言っていなくなった。足元を見る。大きいサイズの靴なのに爪先がズキズキ痛む。落ち着かない。爪先に異物が当たる。売店の前の、緑と赤のツートンカラーのベンチの足元に荷物をおいて腰かける。壁も床もとても清潔だ。BGMはショパンの「ノクターン」。ふと上を見る。天井のところどころに脂色の汚点が見える。

「どうしてあんな場所が汚れるのか、疑問符だよね。ゴキブリが酔っ払ってウンコたれたんだと、ぼくは思ってるんだ。ぼくの発想に賛成、反対どっち?」

 一瞬、オレさまの声が、品のいい言葉づかいの肉声をもったのかと勘違いした。少年はマスクのかわりにヘッドホンをつけ、スリッパの足元にCDラジオをおいて、自販機の紙コップを手にしている。「ぼくの鳴らしたLisaの声、イケテルと思わなかった? アニソンは好みじゃないの?」

 夜の女王のアリアは空耳だったのか?

「きみさ、トシいくつ?」

 少年は、ジェルで髪を逆立てていた。曇りのない微笑で、男子から見つめられたことは一度もない。十四、五歳に見える美少年は、小柄で細身のとがった肩にオリーブグリーンのパーカをはおり、襟元に臙脂色のスカーフをより合わせたマフラーを巻いていた。

「ぼくは十五、あとちょっとで十六だけどね。上なら右手、下なら左手で数字を示してよ」

 とっさに両手を合わせた。

「へぇ、同い年なんだ。ぼくは、五月になると、もう、じっとしていられなくなるんだ。誕生日が近づくからじゃない。脳ミソが発火するくらい、五月を愛して憎んでいるんだ」

 彼は、わたしの目の前に手のひらを突きだした。指が細くて長い。「なまえをここに書いてよ」

 ウタとカタカナで記した。コははぶいた。

「ウタか、ぼくとちがっていい名だね。羨ましいよ。名前の前にウがつくなんて、それだけで特権を手にしてるよね」

 ウがつくことで得をしたことなど、一度もない。苗字の宇梶のせいで五○音順に並ばされたとき、前のほうになって、いやな思いが倍増した記憶しかない。わたしの表情の変化に気づいた彼は紙コップを目の上にかざし、飲むと訊く。首を横に振ると、彼はヘッドホンを首の後ろにずらした。容貌の異常に気づく。右耳の外側にある貝殻状の部分がまるごと欠けていた。髪を逆立てているので余計に目立つ。顔の造作が整っているぶん、非対称であることが、違和感を増幅する。中心点がズレているように感じるのだ。

 彼は右足を軸にしてひと回りすると、「縁なしの耳だけど、聞こえているんだよ。聞こえなくたって、かまわないと思ってるけどね」

 日常をリアルに生きてこなかったわたしには、こういう場合の表情のつくり方がわからない。

「笑ってよ。笑ってくれると自分で削ぎおとしてイヌの餌にしたとか、テロリストにおそわれて親が身の代金の要求に応えなかったせいでチョン切られたとか、はじめっからないでーすとか、作り話ができるでしょ? そういうの苦手?」

 彼には、女子と見れば値踏みする男子特有の視線がない。

「便秘なの?」

 こんなふうにこだわりなく、わたしに接してくれた異性は父の他に一人もいない。

「浣腸する?」彼は矢継ぎ早に質問してくる。「こんなところにいるとウンコが溜まるけど、家族や知り合いとは縁がきれてすっきりするよ。コロナのせいで、特別な用事でもないかぎり、家族でも面会禁止だからね。きみは、家族が好き? たぶん嫌いだよね」

 少しも不快じゃない。

「もともと話せないなら右手。叫び声はのぞくとして、フツーに話せるんだけれども、なんかの拍子で話せなくなったんだったら左手だよ」

 左手をあげると、彼はポケットから大判のバンドエイドを取り出し、頭突きをくらった鼻に貼ってくれた。「さっきの壮絶バトルは見応えがあったよ。負けてなかったよね。詩人のランボーみたいなクルンクルンの髪が、ニワトリのとさかみたいに逆立ってたよ」

 自分では、ライオンのたてがみだと思っていたのに、見知らぬ少年の目にはニワトリのとかさに映るのか……。

 少年はわたしの肩口に顔を近寄せると、耳元で言った。「ぼくの祖先は宇宙人のレプティリアン、通称、レプ。知ってる? 嘘だと思ってる顔だな。ぼくはキメラ、訳すと雑種なんだけどね」

 彼は冗舌だった。言葉が羽のように軽い。

「レプのDNAを受け継ぐ〝ネプリム〟の一人であることはまちがいない。特別の存在なんだから、もしも声が出て、ぼくと話すときは気をつけてね。敬語をつかえとまでは言わないけど、一定の敬意をはらってほしいんだよね」

 オレさまと似ている。

〈推しのキャラじゃなさそうだな〉オレさまが耳の内側でささやく。〈自己陶酔型なんじゃね?〉

「名前はコーキ」と彼は自己紹介し、「好奇心の好奇、尊い高貴と言いたいけど、光が輝くと書くんだ。未来の絶対支配者――王にふさわしい名前だと、自分では思っているんだ。ねぇ、きみも、そう思ってくれるよね? でも、ほんとうは、血統に問題があると自覚しているんだ。血筋って大事だと思う?」

 首を横に振ると、少年は頬を上気させた。もしかすると、彼は、クルシメーア女帝と彼女の国を滅ぼしたブルブル族とビクビク族を率いる、クサクソトラクソルス王の子孫かもしれない。

「きみとぼくとは、階層が異なるもんね。だから、ぼくから威厳を感じるのかもしれない」

 彼はジャケットより丈の長いパーカのポケットに両手を入れると、ヘッドホンにつながった白いスマホをちらつかせた。

「レプでもネプリムでもないきみの場合は、親から預かった携帯電話を手離しちゃだめだよ。隠しもっておくんだ。かならず役に立つときがくるからね。何事も携帯しだいさ。たったいまから地獄の季節がはじまるんだ。備えあれば憂いなし」

 光輝は入り口付近を指差した。中心が赤い丸型のライトが光っていた。

「もひとつ、大事なことを教えてあげるよ。この病院はさ、至るところに監視カメラを取りつけてるんだ。さっき、ウタが暴れただろ? 地下にある警備員室の壁一面に、大型モニターが何台も設置されてて、そのうちのどれかに映しだされる」

 二四時間、ぼくらは見張られてると光輝く子は耳打ちした。

  母がトイレから出てきた。光輝と母は互いを一瞥した。レプの子は飲みかけの紙コップをわたしに押しつけると、CDラジオをオンにし、足早に立ち去った。「紅蓮華」が流れだす。この曲の歌詞に触発されて、「夜の女王のアリア」が聞こえたのか? 美しい高音が聞こえくる。紙コップの内側に「嘘つきのぼくを信じるな」となぐり書きしてあった。ゴミ箱に投げ入れた。彼は話しながら、耳ではスマホのBluetoothか何かで好みの音楽を聞いていたはず。由衣がいつも使っていたアプリだ。なぜ、CDラジオをわざわざ鳴らすのだろう……。鼓膜が四つあるのか?

 オレさまは静かにしている。さっき、女の人に無視されたのが、ショックだったのかも。〈詩子のように脳の神経組織がヤワじゃねぇぜ〉と強がるが……。

 いつもの睡魔が襲ってきた。気づくと、白いマスクをした母が隣に座っていた。ここでは毎日、市販のマスクを使い捨てると、母は言った。布マスクは不要なのだと。わたしは懸命に唇を動かした。声にならない声で「ツレテ、カエッテ」と言った。

 照明の斜光が、母の横顔に深い陰影をつくる。普段の母は愛想がよくて笑うと無防備な表情になる。しかしいったん、母の本音を知ろうとすれば、表情は一変し、別人に変わる。

「ちょっとでも申し訳ないと思うんやったら、何があってもここで頑張るんやで。ええな? そやないと、あたしらのした苦労が水の泡になる」 

 あたしらとは、だれとだれを指しているのか?

「あんたの病気には、ほとほと手を焼いたわ」

 小学生の頃から、いろんな病院に連れていかれ、そのつど母は嬉々とした表情で同じ言葉を繰り返した。

「この子は、簡単な算数の問題も答えられへんのです。足し算の1+1もわかってないんですよ。これってまともやないですよね。それならそれで、福祉のお世話になれるんやないでしょうか――専門の施設で預かってもらうとか、精神病院に強制的に入院させるとか――」

 そして、かならずつけ加えた。

「この子は、父親のせいで、正常やなくなったんです」

      7 黒い携帯電話       

  院長の診察室にいた看護師がきて、母に入院の手続きをするように言った。母はキャリーバッグを引き、再度、受付カウンターへ向かう。わたしは別室で問診票に食事の好き嫌い、アレルギーの有無などを記入することに――。

 顔を覆う透明なプラスチックのマスクをした女性は、事務次長の石塚と名乗り、持ち物検査をすると告げた。手始めに、スクールバッグの中のものをテーブルに出すように言った。

 ファスナーを開けると、はじめて目にするDVDが一番上にのっていた。入れた覚えがない。わたしの部屋にはDVDを見る機器がない。父の使いふるしたパソコンが一台あるだけだ。

 石塚は険しい表情になった。「あなたの年齢で観る映画じゃないわ。気味のわるいデザインね。こういうのが、趣味なの?」

 疑惑の眼差しがわたしを射る。

「院内にディスクは置いてないわよ」

 厚紙のケースの表面は濃紺で中央のやや上に横が数センチ、縦が七、八センチの黒色を下地した図形に黄金の仮面をつけた顔が浮きあがるように描かれていた。タイトル名は「アイズ・ワイド・シャット」。

 そこへ、母が入ってきた。「こんなもんを、いつのまに入れたんやろ? どこにあったんかしら?」

 母は、テーブルにあったDVDを引き寄せると、尖った爪の先でケースを開けた。透明のプラスチックの内側の地色は赤で、二枚組のDVDは黒だった。一枚には、ケースに描かれていた黄金の仮面をつけた人物の顔が、三分の一ほど欠けていた。同じデザインのポストカードが入っていた。手に取ると、父の筆跡で『詩子へ』と書いてあった。日付もあった。『2020/3/30』。父が何も言わずに家を出た前日だった。生きている父を見た最後の日だ。

「処分してもらって結構です」と言う母に、彼女は「こちらでお預かりします」と言ってケースを閉じ、病院側が用意した段ボール箱に放りこんだ。ポストカードは持っていてもいいようだった。

「他のものも見せてもらいます」

 石塚はスクールバッグを持ち上げた。テーブルの上に、中のものを積みあげた。

「重いと思ったら――マンガと童話が好きなのね?」

 その声に侮蔑が感じられた。わたしにとって、少年漫画は非現実世界への入り口なんだと思う。それに『モモ』は童話じゃない。関心がないと表情に出ているこの女は、まじりっけなしのアホだ。

「点検します」 

 彼女は一冊一冊ひらいていった。『モモ』の中から父が生前、使用していた折畳み式の黒い携帯電話が見つかった。父はスマホを嫌い、ガラケーと呼ばれる古い型の携帯を使いつづけていた。

 母は「へぇ」と小さく声をあげ、「こんなとこに隠してあったんや」と言って手をのばした。石塚は母に先んじて携帯電話を取り上げた。そのとき、わたしにしか感知できない、薄笑いを母は口元に浮かべた。

「携帯の大きさに、本をくりぬいて隠したのね」

 石塚は黒い携帯を手にとり、あらかじめ用意していたらしい充電器につないだ。待受画面に由衣の子どもの頃の写真が浮かび上がった。着信履歴を見ようとしたが、シークレットモードになっていたのだろう。「解除したいの、暗唱番号は?」と訊く。わたしは、何、それ? という表情になる。母が「娘の誕生日と違いますか。【0507】」と告げた。椅子から転げ落ちそうになった。待受画面の由衣ではなく、わたしの誕生日が暗唱番号だなんて……。

 石塚は操作したが、「なんにも入ってない」とつぶやき、左横のリアカバーを開けた。くっきりと弓形に描いた眉をしかめながら、「SDカードはどこ?」とわたしに訊く。首を横にすると、石塚はさぐるような目つきをした。

 母は手をマスクに当てて笑い、「主人が亡くなったとき、刑事さんが携帯電話を必死に捜してはったから、なんでしたら、あたしのほうから警察に届けましょか。警察やったら、消したもんもどないかして見れるようにするんとちゃいますか」

 石塚は戸惑ったようだ。「こちらで預かります」と言ったあと、しばらく口をつぐんでいたが、「外部の人と連絡を取りたいときは、ナースセンターの電話を使ってちょうだい。この携帯とお財布は、退院するときまでこちらで預かっておきます」と早口で言った。そして、テーブルの横においてあった段ボール箱に『モモ』もいっしょに投げいれた。

 光輝く子に忠告されたけれど、携帯電話なんてもっていてもしかたがない。話せないんだし、メールをしたい相手もいない。必要な用件を伝えるメモ帳がわたしの携帯伝達用具。でも『モモ』と財布は……。財布には、パパと由衣の写真が入れてあった。

「買物がしたいときはナースセンターのカウンターにある購入用紙に氏名と品名を記載し、売店に持参すれば買えます。ただし、レシートをそえて提出すること。ご家族の口座から引き落とされるシステムになっています。したがって基本、院内では現金は必要ありません。外出時のさいも、一定の金額しか認められていませんので無駄遣いの心配はございません」

 彼女はひと息で話しおえると、「キャリーバッグの荷物を残らず、テーブルにならべてください」と母に命じた。

 余さず並べられると、彼女はさいしょに洗面用具を入れた化粧ポーチを開けた。カッターナイフが入っていた。母は芝居がかった驚きの声をあげつつ、「アホッ」とわたしの頭を平手打ちにした。

 石塚事務次長は、危険な物品はもちこめないと言って、これもこちらで預かるという。そして、生理用品をひと袋ずつ取り出し、異物が入ってないかどうかを手のひらと指で押して確かめた。生理なんてほとんどないので必需品ではない。

 それがすむと、「ジャケットとジーンズのポケットの中のものも、出してくれない?」

 ジーンズの前ポケットに手を入れた。筒状の金属性の容器が手に触れた。つまみ出すと、石塚は手に取り、「イヴ・サンローランの口紅よね」と言ったあと、キャップをあけ、容器をいじっていたが、「体温で溶けて、香りもいいし、発色もいいのよねぇ」とつぶやいた。

「父親が、大人になったら、使うように言うたんやないかしら」

「不要なものだけれど、これは由としましょう」

 なんで、こんなものがポケットにあるのか見当もつかない。父の携帯電話にしてもそうだ。知っているはずがない。若い刑事に、父の携帯についてたずねられたとき、番号も知らないと答えた。

〈死んだオヤジのズボンのジッパーを引いて、かすめとったろ〉

〈周りに大勢いたのに、そんなことができるわけない〉

〈救急車のサイレンに、みんな気をとられていた〉

〈うっそお!〉

〈本の細工だって真夜中にやったじゃねぇか。由衣のものだったカッターナイフはそンとき、使ったものだ〉

 スパイもどきの器用な真似が、不器用で怠惰なわたしにできるはずがない。行動を起こす瞬間があっても、記憶がない……?

〈脳の一部が、壊れてっから認識できねぇンだよ〉

〈DVDも自分で入れたの?〉

〈いまにわかる〉

〈携帯のなかのSDカードはどこに隠したのよ?〉

〈見当はつくけどな〉 

 ジャケットのポケットからいろいろ出てきた。小児喘息だったのでいまも吸入器が手放せない。わたしのお守りなのだ。その吸入器も、壊すのじゃないかと思えるほど調べられた。

「吸入器は認めますが――爪切りと安全ピンはアウトです」

 爪切りは必需品なのだ。爪をかむせいで、しょっ中、切らなくてはならない。いつも手元においている。

「あらあらセロテープももってたの? セロテープは禁止なのよ。こんなものが、どうしていけないのか、不思議でしょ? これって、けっこう、いろんなことに悪用されるのよ。みなさん、かしこくって困るのよねぇ。定期的に持ち物検査があるのにね」

 気に入った言葉をメモしたら、それをベッド脇のボードにセロテープで貼っておく。しかしポケットに入れた記憶がない。

〈まちがっても、実体のないオレさまになすりつけるなよ〉

〈だったらDVDも……?〉

 何もかも、自分でやったことなのか……。喚いたり、暴れたりしていたように、もう一人のわたしは思う以上にずる賢いようだ。

「話せるようになるまで、メモ帳とボールペンは許可します」

 今朝早くにやってきた男性のメモは石塚事務長の目に止まらず、スクールバッグのサイドポケットに残された。

  ジャケットのポケットに両手を突っこんで、母と二人でロビーにもどる。母は、「さァ」と掛け声をかけた。だれにむかって言ってるのだろ? 

「キャリーバッグは病室まで運んでもらうように頼んだし――ひと通りの用事はすんだみたいやな」

 帰るまぎわになっても、母は、いまから何をする気でいるのか言わない。

「あたしは、ええ奥さんでも、ええお母さんでもなかった。そやから万が一、このまま別れ別れになっても悲しんだらあかん」

 まじまじと母を見つめるわたしに、自分はもっと幼いときに、他人の家を転々としたと母は言った。

「そやから、あたしの立場も、すこしはわかってよ」

〈てめぇの立場だと? 自己の立ち位置のあるところには自立心と矜持がなくてはならぬ。魔男の言いなりのメスブタに、立場などあると思っているのか! アホバカマヌケのクソ女〉

 母はいきなり、わたしの右手をつかんだ。そして自分のしている腕時計を外し、わたしの手首にはめた。金属製のベルトは手首のサイズに関係なく装着できるようになっていた。見た目より軽い。

「パパが買うてくれたもんや」

 父のものは一切合財、捨てるということなのか。

「由衣にはかわいそうなことをしてしもた。あの子はああ見えて、あんたに頼ってた。おねぇちゃんがだれよりも好きやった。そやのに、あたしらのせいで、しょうもないことになってしもて……」

 だれの話をしているのかと思った。由衣が、わたしを頼るだなんて地球の地軸が揺らいでもありえない。

「……由衣のことを本気で心配してたら――」

 母は何か言いかけて、遠くへ目をそらし、何を思ってか、自分のしていた手づくりマスクを洗い替え用にしろと言いだした。母の口紅のついたマスクなんて目にするだけでおぞましい。

 執拗に拒んでいると、「憎たらしいオカンの形見やと思うてよ」と言った。怪訝な表情を見せると、母はわたしのスクールバッグの中身を再点検し、サイドポケットにまで手を突っこんだ。にらみつけると、母は手を動かしながら、かつては美人だったにちがいない鼻筋の通った卵形の顔をわたしにむけた。

「ここは笑うとこやで。オカンも年貢の納め時なんかゆーてな。センセが言うてたわ。由衣や詩子の笑い声を聞いたことがないって。もしかしたら、あたしも聞いたことがないかもしれへん。ついでに言うとくんやけど、センセと結婚するかもしれへん。肝心なことが片付いてからになるけど、どうなるかわからへん。思い通りにならへんときは、遠くへ駆け落ちしてしまうかも……」 

 由衣をどうするつもりなのか、たずねようとしたが、母は「ほんなら、行くわ。時間がないから」と言ったかと思うと立ち上がり、背をむけた。こんどいつ会えるかもわからないというのに、母の関心はわたしや由衣にはない。野崎と付き合いはじめてから使うようになった香水の匂いをのこして、母は去って行こうとする。

『野崎隆行×宇梶美姫≦悪臭』

 彼らの計算式には欲望に欺瞞が付加されている。解答は、吐き気をもよおす現実だ。母は粗ゴミを出したあとのように、振り向かずにロビーを横切って行った。

      8 時間は貯蓄できない

  浅右衛門についてエレベーターにのりR階へ。地上七階地下一階。階数表示を見ていると、新館は地上の楽園だと浅右衛門は言った。

「おれらには縁がない」

 エレベーターが停まり扉がひらく。屋上に面したホールには両開きのドアがあった。浅右衛門は、ホテルでつかうようなキーカードでドアあけた。目の先にあるのはドーム状の防護壁だった。

 透明なアクリル板なので空の色はわかる。床は白と黒の正方形のタイルが、格子柄に敷きつめられていた。中央にある大理石の台座には象牙の背もたれと肘かけの椅子が一脚ある。現代美術のオブジェのようだった。濃い緑の木々が堅牢な建物に迫っている。病院と木々の間に杭を打ちこんだように見える焼却炉があり、煙が立ちのぼっていた。

 禿げの三白眼がギロリと光る。「旧館の患者であっても、院長の許可のおりた者は、ここに来られる。せいぜいがんばるんだな」

 灰色男は陰欝な声で説明すると、エレベーターにもどり二階を押した。

「新館の三階から七階は成人用の病室だ。いまから行く二階にはナースセンター、機能訓練施設、カウンセリングルーム、検査室、食堂をかねた談話室、面会室、喫茶室などもある」

 エレベーターのドアが開いた。小ホールがあり、ガラス張りのドアがあり、キーカードが使われた。中に入ると自動的にロックされるシステムになっていた。逃げられないのか。いままで案内された場所すべてに、監視カメラが設置されていた。人の動きに合わせて動くカメラを、はじめて見た。新館の外観は、わたしの目には、神戸の博物館のように古めかしい建物に映ったが、内部は建ったばかりのビルの内部のように整備されていた。

「いまから必要な検査をする」

 女性の看護師に付き添われて身長体重などの体検査にはじまり、胸部のレントゲン撮影、血液や尿などの検査もうけた。頭部のCTまで撮った。五時すぎまでかかったがその間、食事はなし。地下一階に下りると、浅右衛門が所在なげにスクールバッグをぶらさげて、鼠色の壁の一部になっていた。

 新館の地下には警備室の他に、霊安室と駐車場があり、大型乗用車をふくめ十数台が停まっていた。

「遺体になれば、ここから出ていける」と三白眼はうそぶいた。

 わたしたちのいる場所から駐車場へは金網のフェンスで遮られて出られない。電流が流れていると浅右衛門は言う。職員専用と太文字で表示された二機のエレベーターのすぐ横には、打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた長い棺のような通路が十数メートルつづいていた。

「昔の坑道だ」と言われてもなんのことだか……?

 通路の先は行き止まりになっていた。右側に鉄錆色の扉があった。扉の斜め上に動く監視カメラ。浅右衛門はスクールバッグをわたしに押しつけ、腰にぶらさげた鍵の束から一つをえらび、鍵穴とダイアルが一体になった重量級の錠前に差しこんだ。古めかしい扉がひらくと、乱立するコンクリートの太い柱が真っ先に目に入った。頭をそらし、高い天井を見上げる。スクールバッグの持ち手が肩にくいこむ。胸にかかえ直す。何本もの太い柱に半円形の天井は支えられていた。床面積がとてつもなく広い。照明は、天井からぶらさがった蛍光灯がひとつ。浅右衛門とわたしの影が、足元から長く尾をひいて遥か先の壁面に達していた。金属性の椅子が壁ぎわに一脚ある。電気椅子を連想させるしろものだった。

「世間ではここの地下トンネルのことを〝タチソ〟と呼んでいる。高槻のタ、地下のチ、倉庫のソだ」

 浅右衛門の声が〝タチソ〟に反響する。

「戦時中、ここは地下工場と倉庫だったんだ。中部軍司令部が本土決戦に備えて、桧尾川をはさんで東西の丘に地下トンネルを掘らせた。ほとんどは埋められたが、一般公開されているところもある。こうして人知れず残っている場所もある。病院の関係者は、うちうちで〝ヤソウタ〟と言っている」

〈コードネームか……〉オレさまは、記憶の貯蔵庫にむかって話しかけた。〈ヤソはキリスト教のことだよな? ウタは詩子か?〉

 雷に打たれたように、突然、ひらめいた。霧が晴れるように気づいた。ジュセンとは、〝受洗〟と書くのだ。今朝、牧師が訪ねてきたのは、父が洗礼をうけたクリスチャンだったからだ。

〈……パパは電話の最後に……詩篇45、10、11と言った気がする……この病院とパパの自殺と関係があるということなの?〉

〈答えは自分で見つけるんだな。時間はたっぷりある〉

 青白い冷気のただよう半円型の地下トンネルをゆっくりと歩いていくと、頭上を照らす蛍光灯がパチパチと音をたて点滅した。

「寿命がきてるからじゃない。人が動くと、怪奇現象のように反応するんだ」

 床と壁はコンクリートだった。円柱の他にパイプの支え棒が数ヶ所。煉瓦造りの箇所があり、鉄製の扉があった。

「どんなものでも焼ける焼却炉だ」浅右衛門は声をのんで笑った。「優れもので、灰しか残らない」

 パルテルカラーの世界から、いきなりモノクロの世界に侵入したようだった。湿気のせいか、マスクをしていても黴臭い。

「あんたの退院を気にしてた、おふくろさんに言っといてくれ。心配には及ばないってな。旧館の患者は二度と出られやしない」

 浅右衛門は禿げ頭を左右に振って、おどけて見せた。

「旧館では、世間の常識は通用しない。ここであの世とこの世の境界を見れば、世の中の決めごとなんて、なんの意味もないと患者は思い知る。あらがっても無駄だとな。ただし、上のやつらがなんと言おうと、本人にその気があれば手加減するぜ」

 滑走路のように巨大な地下トンネルと病棟の仕切りにもステンレス製のドアがあり、シリンダー錠ではなくレバーハンドルの下にさっきと同じ型の錠前が取り付けられていた。六桁の暗証番号を知ってるのは、一部の職員だけだと浅右衛門は自慢した。旧館では、キーカードをつかった出入口にないようだ。

「マスターキーもおれが持っているんだ」

 彼は、鍵穴にキーを差し入れ、ダイアルを動かしながら、「特別に教えてやるよ。退院の見込みのある患者が、入所するときは職員専用のエレベーターを使う。いまのところ、新館の患者に限られている。旧館に入所するのは手に追えない患者や、家族に見離された患者だ。あんたは両方だから、ここが、終の住みかになる」

 浅右衛門の肩ごしに、手元を盗み見る。

【450815】

 オレさまは笑い声をあげながら、〈終戦の日じゃん〉

〈なんで、わかったの?〉

〈戦時中に造られた軍のトンネルだということは、閉鎖した日付を暗証コードにした確率が高い。西暦で言うと、一九四五年。昭和二○年八月十五日だ〉

〈物知りなんだね?〉

〈おまえさ、なんのために乱読してきたんだよ。人間は、生まれてから死ぬまでに見聞きしたことはぜんぶ、脳にストックされてるんだ。オレさまの話すことは、おまえも知ってることなんだ〉

〈だったら、なんで、わたしは自分で思いつかないの?〉 

〈脳細胞の連携に問題が生じてるってことなんじゃね。自分で自分の脳にストッパーをかけてんだよ。脳は容器のようなもんで、一定量しか、入らねぇって説を、おれは信じないね。とくに、人の手の加わった詩子の場合はな〉

〈人の手って、どういう意味よ〉

 浅右衛門はドアを押しながら、「ややこしい新患がくるたびに面倒なこった」と言って舌打ちをした。感情の起伏が、平均以上に激しいらしい。「こっちは忙しいんだよ。時間がいくらあっても足りないんだ。おえらいさんは地下トンネルを見せりゃ、手を焼く患者がおとなしくなると思いこんでるのさ。おまえさんには、見せるだけじゃ足りないらしくて、脅しまでかけろときたもんだ」

 ドアの中に入ると、またもや通路。遅れずに歩くようにと浅右衛門は急かす。しかし、先へ行こうとすると、前を歩くなと言う。歯ぎしりをするわたしにおかまいなく、陰気な案内人は一直線のコンクリートの通路をその先へむかって歩いていく。しかし、彼はふいに立ち止まった。ペンキ塗り立てのような通路と並行して、ひと目で年月を経たとわかる両開きの鋼鉄の扉があった。

 その前までくると、浅右衛門は「これは、開かずの扉だ」と押し殺した声で言った。

 地下トンネルを見たときも感じたが、古い構造物を保つために各所に補強した跡があって、薄気味わるさと同時に目新しさに視覚が釘づけになり、廃墟を模した映画のセットの中に紛れこんでいるようだった。足音がBGMのように反響する。

「司令部室のあったところだ。壁が崩れて埋まったと聞かされているが、おれは信じちゃいねぇ。〝上層民〟の会議で認められた会員と称する金持ち連中しか入れない秘密の部屋に通じている。新館の地下の、もひとつ下にあると小耳にはさんだが、たしかじゃねぇ。おれたちの入れる場所は限られてるんだ」

 浅右衛門の三白眼が重厚な扉をにらむ。扉には、把手もなければ、鍵穴も監視カメラもなかった。

「おれらは〝下層民〟なんだ。〝ネプリム〟だと称する〝中層民〟のバカもいるが、まやかしだ。おれたち〝下層民〟と、さしてかわらない汚れ仕事をやらされている」

 三白眼は自嘲気味に嗤った。

「地下トンネルを通る措置入院の患者は、いずれ、最下層のさらの下の身分に落とされる。気がつけば奴隷以下の身の上だ。〝家畜〟と呼ばれ、人間あつかいされない。上の者の要求を拒む自由もなければ、生存すら危うい。あんたもここを通った以上、いまから〝家畜〟になる覚悟をしとくんだな」

 頭を支える首の根元がぐらついた。

〈こいつは、もと患者だったんじゃねぇのか? 言ってることが、ぶっ飛びすぎなんだよ――てか、ここでは、ウナ重のように、特上、上、ナミみたく、患者もスタッフも区分けされてんのか〉

〈なんにも悪いことなんてしてないのに、学校に行きたくないだけなのに、大人になるまでそっとしておいてほしいだけなのに、最悪の場所に押しこまれて〝家畜〟よばわりされるなんて……〉

 めそめそ泣きコースをはじめる前の、お決まりの準備運動、体中の息を吐きだし、鼻を鳴らした。

〈いつか、自由になって、夢をかなえたいと思っている気持ちを、どうしてだれもわかってくれないんだろ……〉

〈夢ってなんだよ?〉

〈いまは……眠っているときに見る夢しかないんだけど、いつか、なんか、見つかる気がするんだよね。クルシメーア女帝が、金魚が黄金のクジラになるように願ってじっと我慢するような、そんな夢じゃない。我慢しなくていい、ほんものの夢よ。だからいま、時間貯蓄銀行に、時間じゃなくて夢を預けているんだよ〉

 なんとなく時間貯蓄銀行の建物を想像してしまう。きっとこことそっくりの地下に神殿があるはずだ。

〈また『モモ』かよ。これからはじまる超限戦に二人で力を合わせて立ちむかうんだぜ。そのために目覚めてないとだめなんだ! だいち、夢は貯蓄できねぇんだ。つかまえる前に行っちまうのさ。サミしいけどな。夢は時間といっしょなんだ。すぐに消える〉

〈ついさっき、時間はたっぷりあるって言ったじゃん〉

〈勘違いすんな。戦いに備えるための時間を言ってんだよ〉

〈戦うのは、もう一人の、喚くほうのわたしに頼んでよ〉

〈そんなトリッキーな考えで、グレートでクレバーな言霊の相棒と言えるのか。トリガーを引けよ、ひきこもり戦士!〉

〈ひきこもり戦士なんて言われると、よけいに萎える〉

〈魂さえ高位であれば、だれにも負けねぇ。そもそもオレさまの声が聞こえてンだからな。思考脳のスキルだって、捨てたもんじゃないさ。自信をもてよ〉

〈あんたの声が聞こえること自体が、意志薄弱の怠け者のわたしには恐怖なんだけど……〉

 通路のかなり手前からさっきと同じ、鈍色の光を放つステンレス製のドアが見えた。

「生き残りたければ――」と三白眼は言った。「秘密をもたないことだ。秘密は、力のある者だけに許された特権だからな」

 浅右衛門に肩をそびやかし、錠前の鍵穴にキーをさし、ダイアルを回しはじめた。胸にかかえたスクールバッグのサイドポケットから電車内でもらった紙くずみたいなメモを取り出し、電話番号を素早く暗記し〝特権〟を丸めて飲みこんだ。

 そして、奥歯をかみしめた。

    9 神のしもべとの再会

  四つ目となる最後のゲートは、ドアの把手の上にある差し込み口にキーカードを入れるとひらいた。鉄線入りの三○センチ四方のガラス窓が唯一の希望のように見えた。

 ドアの内側に、キーカードの読み取り機はなかった。ということは、外から中へ入れても、中から外へは行けないということなのか。ここは、目に見える檻なのだ。

 灰色のリノリウムの廊下に一歩、足を進めると、ゴォーヒューゴーヒューと風の音が聞こえた。畳一枚分ほどのスペースがあり、階上へ向かう螺旋階段がドアの右側にあった。左側は、二メートルほど先から手すりのついた床と同色の壁だった。

「旧館は百床ほどあるが半分しか埋まっていない」浅右衛門はくつくつ笑う。「これ以上、増えると面倒なことになる」

 異様なざわめきに耳が刺激されて足がすくむ。尻ごみするっていうのは、こういう場合に言うのだろうか。子どものすすり泣きにも、男女の阿鼻叫喚にも聞こえる声のさざなみに心底おびえさせられる。空調設備のせいで、悲鳴に聞こえてしまうのか。

「ビクついてるのか? さっきの威勢はどうしたんだ」と浅右衛門は言った。「おれたちには、何も聞こえないのになァ」

 空耳なのか? 叫び声が自分の心の悲鳴なのか、他者の発するものなのか、次第に聞き分けられなくなる。地下トンネルで隔てられた向こう側の世界にこの音はとどかないのか――とどかないのだ、どこにも、だれにも。浅右衛門の言う通り、ここは、あの世とこの世の中間地点、異境なのかもしれない。

〈脅すなよ。こっちの神経細胞だって鉄板じゃねぇんだ〉

 オレさまの声でわれに返る。

〈力を合わせて闘おうって言わなかったっけ?〉

〈どうしても、やらなきゃなんないことだから、しかたなくやってんだよ〉

 耳の中を小さな虫が通り抜けるような音が聞こえる。父の転落死に遭遇したときのように耳鳴りがする。ギリッギリッバリッバリッ。歯ぎしりから他動症へと身体が反応しようとしたせつな、浅右衛門がもっとも近い引き戸を無造作に開けた。よく見かける木材と合成樹脂で加工した化粧板のドアだった。

 鍵がかかっていない……?

 四人部屋だった。カーテンで仕切られているので、他の患者の視線は気にしなくていい。入り口に近いベッドを当てがわれた。キャリーバッグは先に運ばれていた。大きないびきが聞こえる。

「一見、地下室のように感じるが、旧館の一階だ」

 浅右衛門は、いくつかの注意事項を言った。ほとんど聞いていなかった。声が耳から脳にとどかない。浅右衛門が消えるやいなや、重い靴を脱ぎすて、ベッドに潜りこんだ。わたしのいる場所からは、白いカーテンの他は目に入るものは何もない。耳障りないびきだけが聞こえる。白いペンキを塗った壁に灰色のリノリウムの床。やけに低い天井、通気孔の穴が二つ見える。中心に赤いランプが光る監視カメラがドアのすぐ上にある。赤い目に見張られていると思うと、着替える気にもならない。

〈『カイジ』の地下労働施設よりましじゃねぇの。働かなくていいんだからさ。当面は、おだやかに暮らそうぜ〉

 足音が聞こえた。シーツのかかった毛布を頭からかぶる。だれだろう。気配が伝わる。ゆっくりと歩き回っている。母の残り香がする。母がもどってきたのだ! 背中をまる虫のように丸くし、まぶたをきつく閉じる。顔を合わせたら、アメリカ人がするように、親指を立てて手首を返してやるんだ。何かが足先に触れたような気がした。くすぐったい。足を縮める。いつまで待っても、母は何も言わない。

「ネプリムの襲来だよ~ん」光輝の声だ。「ナースセンターの人たちを信じちゃだめだよ。とくに介護士の山田には気をつけるんだ。徳永師長のスパイだからね。なんでも言いつける」

 じゃあ、だれを信じればいいのか?

「旧館の一階の病室なんて最悪だよね。近頃じゃ、ゴキブリも出るしさ。刑務所の一歩手前、留置場みたいなもんだから――でも安全だよ。このフロアは女ばっかだし。アマゾネス軍団の砦に男たちは立ち入り禁止なんだ」

 光輝はどうやって砦に侵入できたのか? 

「あれれぇ! 『AKIRA』のファンなんだ。『銀河鉄道999』とかも――手塚治虫の『火の鳥』の鳳凰編、持ってるんだ。A4サイズじゃん。ボロボロだし、全巻そろってないけど、もしかして、ぜんぶ初版本? すげぇ! お宝じゃん」

 スクールバッグの中を、彼は勝手に見たようだ。集めるのに何年もかかった。子どもの頃から古書店を何軒も回った。

「いつか、テツオの乗ってるバイクにまたがって、冒険の旅に出ようよ。もちろん、きみが運転するんだよ」

 顔を見せるべきか?

「レプの子どもは親切なんだ。ほんとは悪魔の子どもなんだけど、エンジェルに見えちゃうときがあるからさ」

 どこかで、似たような台詞を耳にした気がする。幻聴だったのか? 悪魔がエンジェルに見えるときがある。どこかでたしかに聞いた覚えがある。頭の中心をノックする音が聞こえた。

〈いつ、どこで、だれから聞いたんだよ〉

 何も答えられない。

〈肝心カナメの記憶がないから、オレさまのパワーも限定されンだよ。全開になりゃ、ご用済みなんだけどさ〉

 光輝はシーツをかぶったわたしの頭をポンとかるく叩いた。

「気持ちを切り換えなよ。母親を恋しがるよりさ、すこしでも楽しいことを考えたほうがいいと、ぼくは思うよ。それにさ、慣れれば思うほどわるいところでもないし。じゃあ、またあした」

 足音が遠ざかった。

〈慣れろだとぉ!〉オレさまとわたしは同時に叫んだが、オレさまはすぐに冷静になり、〈ボヤけた頭にケリをつけたいんだろ? だったら気合いを入れろよ。記憶を更新すりゃいいんだ。BGMがいびきじゃ、環境がいいとは言えねぇがな〉

〈思い出しても、なんにも変わらないよ。一生、刑務所みたいなところで過ごすしかないんだ。なんて、かわいそうなわたしなの〉

〈PCだって、windows9から10にアップデートしたじゃねぇか。それもいまじゃ、時代遅れだがなぁ〉

〈お報せがきて、アップデートできたんだよ〉

 だれも使っていない機種のウォークマンなんて……。過去の遺物に頼らなければ、音楽も聞けない。

〈映画だって、パパの書斎にあるDVDをPCで観まくってたのに――それも遠い昔になってしまったなんて……。つらすぎる〉クルシメーア女帝のキメ台詞を言うつもりだったが、〈だけどさ、「アイズ・ワイド・シャット」は覚えていないんだよね。片っぱしから手当たり次第に観まくったのに、どうして、あんなに目立つケースが目につかなかったんだろ〉

 しばらく考えこんでいると、記憶にこだわるオレさまが、余計な口出しをした。

〈そうだ! オヤジさんが家を出る直前のことなら、覚えているだろ?〉

〈パパが家を出る前の日ことは……思い出したくないから……記憶はPCのゴミ箱に捨てた〉

〈頭ン中の隠しフォルダからファイルを一つずつ念入りに取り出してみろよ。それにさ、ほんとはとっくに思い出してんだろ〉

 認めたくなかったけれど、〈パパは、ほとんどウチで、ごはんを食べなかった……〉

〈だったよな。それで――?〉

 深夜近くに帰宅して、翌朝まで書斎にこもり、母と顔をあわせないようにしていた。わたしがこっそり書斎に入りこみ、時間を忘れて本を読みふけっていると、忍び足で帰ってきた父と鉢合わせすることがあった。父のパソコンを無断で使用していても――、

〈パパは一度も責めたりしなかった。何を見ているのかたずね、気がむいたときは、映画や本の話をしてくれた〉

 だからといって、家族としての連帯感を父から感じたことはなかった。帰ってきた日が休日だと、父はかならず由衣と出かけた。外出しなければ、妹と二人きりで過ごした。父の書斎と由衣の部屋とは繋がっていた。引っ掻き棒で把手を引き下ろすとアルミ製の段梯子が伸びてくる。それを使うと、天井板の一ヶ所が押し上げられて行き来できた。

〈いつも、のけ者にされて、むちゃむちゃ腹が立って、悲しかった。わたしなんか、生まれなきゃよかったんだよ〉

〈自分も仲間に入ってけば、よかったじゃねぇか〉

〈オカンだって、パパと由衣の間に立ち入らなかった。二人とわたしの間には、見えないけれど感じる壁があったから〉

 母は昼夜を問わず、出かけていた。わたしと由衣は母の勤め先の弁当か、コンビニのおにぎりか、カップ麺の食事がほとんどだった。よくて、スーパーの揚げ物とパックのごはんだった。かかさずあったのは、キムチくらいだった。ウチのキッチンには、包丁も俎もない。炊飯器はシンクの下に入れっぱなしだった。あるのは電子レンジと調理用のハサミと鍋が二つ。飲み物と駄菓子だけはふんだんにあった。ゴミと埃も事欠かなかった。中学生になった当座、お弁当を持参しなくてはならなかった。母は、レンジでチンしたパックごはんに冷凍食品をつめた。それも面倒なときは、お金をくれてコンビニで買えと言った。登校せずに着服した。

〈絶対に、思い出したくない〉

〈オヤジさんが死んだのは、自分のせいだと思ってるからだろ?

いつまで逃げてんだよ〉

 記憶のファイルを削除しようとしても、動きはじめた感情がそれを許さない。ポストカードの日付を目にしたときから、閉じた記憶がゆっくりとひらきはじめていた。

〈令和二年の三月三十日だった……〉

〈日付まで覚えてるじゃねぇか〉

〈次の日が、パパの誕生日だったからだよ。パパは毎年、家族の誕生日には、いちごのショートケーキとモンブランを買って帰ってきてた……だから前の日から、たのしみに待っていた……〉

 父はめずらしく早く帰宅した。リボンのかかったケーキの箱を大事そうに抱えて帰ってきた。

「一日早いけど、かまわないだろ?」その日の父は、屈託がなかった。「先に晩メシにしよう。そのうちママも帰ってくるだろうから、みんなでケーキを食べよう」

 レトルトカレーを鍋であたためて、父と由衣とわたしの三人で食べていると、水道筋の弁当屋の勤めをおえて帰宅した母は、わたしたちのいるキッチンをのぞくと疲れきった声で言った。

「勝手に食べてくれるから助かるわ」

「ケーキ、食べるだろ?」父は声をかけた。「店の前を通ったからついでに買ったんだ。きみの好きなモンブランもあるよ」

 母はケーキの箱を見て「あんたは呑気でええなぁ」と返した。

 父はうつむき、もくもくと食べつづけた。

「ちょっと出てくるわ」と母は言った。「あたしが、がんばらんと、この家はまわらへん。それだけですむんやったら、まだ辛抱のしがいもあるんやけど」

 母はキッチン横の勝手口の土間におりた。

「帰ってきたばっか、なのに」由衣がぽつんと言った。

 この家では、わたしは部外者だとわかっていたけれど、息のつまる状況を変えたかった。冗談を言うつもりだった。スプーンを手に持ったまま立ち上がり、父にむかって口走った。

「ママが出かけるのは、パパのせいだよ。お金を返せって怒鳴る男の人がしょっ中、やって来るし、パパなんていなくればいい」

「そうだね」父はうなずいた。「詩子の言う通りだ」

 腹を立てていたのは、母に対してだった。なのに、父をなじった。母を引き止めたかったのか、由衣にしか関心を示さない父の愛情をたしかめたかったのか……。いまも、そのときの自分の心のありようがわからない。

 母は出て行き、父と由衣は無言で席をたった。わたしはいったん、二階の自分の部屋にもどり、迷った末に中二階の書斎へ行き、父に謝った。

「学校へ行かない、わたしのほうが、いなくなればいい。いてもなんの役にも立たないし……」

「詩子の気持ちはよくわかっているよ。気にしなくていい。パパはなんとも思っていないよ。悪いのはパパなんだから」

〈それだけだったか?〉オレさまはしつこい。

〈パパの携帯電話が鳴った〉

〈――で?〉

〈義務じゃないはずだとか、断ったはずだとか、支払いを待ってほしいとかも……わたしはこれでも、なんとかかんとかだって言った〉

〈なんとかかんとかって、なんだよ?〉

〈ほんとに覚えないんだって!〉

 その夜を最後に父は帰宅しなくなった。借金の取り立て屋も来なくなった。母は父の不在に気づいていないかのように、これまで通り、夜になると、派手な格好で外出した。母の行き先を知りたかった。こっそり、母のあとをつけた。母は、わたしの気配に勘づいていた。近所のわき道の四つ角をまがるとき、母はかならず振り向いた。こっちの道を行くよとでも言うように……。

 ひきこもりのわたしが、日の暮れた夜道を歩きまわるなんて、ありえないことだった。父の怒りを解き、家に呼びもどす方法はこれしかないと思いこんでいた。愚かだった。わたしは嫌われたままでいい。父と母が仲良くしてさえくれれば、それだけでいいと真剣に思っていた。愚かだった。

〈何も見ていない、見てない見てない見てない……〉

 記憶装置には、けっして触れてはいけないパーツがある。むりやり、触れると、脳味噌がシャッフルされ、口の中に潜んでいるブラックホールに飲み込まれてしまう。このスパイラル現象に、歯ぎしりだけで対抗するなんて所詮、不可能だったのだ。この世界は、アルビノーニの「アダージョ」のように美しくない。目をそむけたくなる出来事に出くわすたびに、身体が地面にのめりこむように感じる。地中に埋まった心を生き返らせる方法はひとつしかない。『モモ』に出てくる、時間貯蓄銀行の外交員、灰色の紳士がモモに言い放つ言葉を思い出すのだ。「きみはみんなの敵なんだ」

〈よけいに埋まるだろ?〉

 オレさまは呆れるけれど、首を振る。

〈敵なんだから嫌われることを言ったり、したりしても、それ以上、悪くなりようがない。敵なんだから、みんなの心を踏みにじっても平気なんだって、そう思うとなぜか思い直せる〉

〈魂の友よ、めげるんじゃねぇッ〉 

 クルシメーア女帝は国民を苦しめる支配者だったが、おまえはちがうと、オレさまは力づけてくれるけれど、真実は人を幸せにしない。見ても、聞いても、ましてや話すなどもっての他だ。

「パパなんていなくなればいい」と言った言葉は取り消せない。いつだったか、よく覚えていないけれど、「おまえは人間のカスだ」と野崎は言い放った。何があって、その言葉が発っせられたのか、いまは思い出せない。物心ついた頃から傷つくことに慣れているから忘れたのかもしれない。

〈ケーキはどうなったんだ? まさか、一人で食ってねぇだろうな?〉

〈もったいないから、泣き泣き八個、食べた。だれも食べないからしかたないじゃん〉

〈ゲェッ!〉

 思い出はとまらない。〈小学生のころ、休み休みだったけれど、なんとか登校していたんだよ。目ヤニだらけの野良猫のように扱われたけれどね〉

〈ケーキを八つ、一気に食えるヤツはそうそういねぇぞ〉

〈ノートを破られたり、財布を盗まれたり、長い時間かかって、布切れで創った絵本を教師に取り上げられて、成績のいい生徒の作品にされたりした。あげくになぜか、一人きりの掃除当番。そのくせ、まずい給食を食べ終わるまで教師は見張ってる。だから、ごはんに冷たい牛乳がついている日はかならず休んだ。冷凍みかんの出る日も。ぜんぶ、覚えてる〉

〈そりゃ、悔しかっただろうな〉

〈言葉づかいは違っても、オカンとそっくりのクソのような教師しかいなかった。男だろうと、女だろうと関係ない。わたしがいるのを知ってて、みなと仲良くできない子は、ダメな子なんだと言った教師がいた。そいつは、成績表に協調性がないとわざわざ書いた。あいつらにはもともと心がないんだ〉

 五歳のとき、一週間だけ、保育園に通った。

 最初の日から、この場所にいたくないと思った。みんなが見向きもしないプラスチックのバラの花にハンカチを巻いてお人形に見立てて話しかけていると、男女の別なく、自分の玩具を放りだして、わたしの手から「バラのお姫さま」を取り上げた。すぐに飽きて、わたしのハンカチでそこら中をふくくせに――。お昼寝の時間に、パンツの中に手を突っこんできた男の子もいた。

 雪崩のように記憶はあふれる。

〈いまなら、見てみぬふりをした保母を殺してやるのに!〉

〈ケーキを八つも食えるんだから、ヤれるだろ〉

 保育園や小中学校で味わった百万回の不快感。この世界には、邪な心しか存在しないと知りぬいているわたしが覚えていたくない出来事とはいったい、なんだったのか。

〈何を見た、オカンの何を見たんだ!〉とオレさまはせっつく。〈クソババァは詩子に何を見せたんだ!〉

 もしかすると、被害妄想のわたしが、母を疎ましく思うあまりにありもしないことを思いついたのかもしれない。現実に起きたことじゃないので記憶していないのかも……。

〈クソババァに復讐すると誓ったことは、忘れてねぇだろうな〉

〈わからないわからないわからない……〉

 自ら紡ぎだした悪夢を現実だと認識すればどうなる? 憤りを感じるエネルギーを保つには、身近な存在の敵が要る。母を敵だと思いこむことで、わたしは正気を保とうとしていたのかもしれない。それとも、すでに狂っているのか。

 堂堂巡りの思考を打ちくだくために、奥歯をかみしめた。いびきがうるさいうるさいうるさい……いつしか、眠っていた。

  悲鳴が、耳をつんざいた。

 恐怖が襲ってくる。

 女性の叫ぶ声が聞こえた。「わたくしの持ち物に、おぞましい手で触れてはなりません。万物の創造者にして、全知全能の神に罰せられますよ」

 カーテンにさえぎられ、人の動きは察知できても、顔は見えない。

「裁きの神は、けっしてあなたをお許しにならないわ」

 神経を逆撫でするヒステリックな声のあとに、カーテンレールのきしむ音がしたかと思うと、ドスドスとベッドの上で跳躍しているような音がし、カーテンレールを揺るがした。腕時計を見る。午後六時五十分だった。

「やめろッ」浅右衛門の怒鳴り声が放たれた。

「静かになさい」別の女性の声がした。若々しい、張りのある声だ。

「〝家畜〟にひとしい愚か者が、不可侵の身体をいじるんです」

 ビブラートのかかった、この声の主は患者らしい。

「なにもしてません。血圧を計ろうとしただけです」

 浅右衛門は、若い女性に言い訳している気配だ。相手は浅右衛門の上司らしい。

「落ち着かせてちょうだい」上司の声が浅右衛門に命じている。

「じつはわたくし、外出願いをなんども提出しております。正しく診察していただいて、正しい診断結果をだしてくださらないと、先生のお勤めが、果たせませんわよ。創造主の怒りをかいますわ。お若い先生には、神の実在を知覚できないと思いますが、現実に、神はわたくしたちの身近に存在しているのです」

 患者は訴えているが、若い女性は相手の口をふさぐように、

「談話室のテレビを見てるでしょ? いまはどこの病院も、入院患者と外部の人との接触は止められているの。いっときおさまった感染が、またひろがってるから外出許可はおりないのよ。頭のいいあなたには、わかるわよね」

 カーテンがゆれる。人影がカーテンに映っている。

「体温も、計らせないんですよ」

 愚痴る浅右衛門はベッドの足元にまわったようだ。カーテンの隙間からそっと盗み見る。ベッドのむこうに、ひざまずいて顔の前で両手をくんでいる女の横顔が見える。どこかで見た顔だ。ベッドの枕元に取り付けられた名札を見る。

「八嶋悦子・46歳」

 言葉づかいが変わっているので、声だけでは気づかなかった。なぜ、母のつぎに苦手な女がここにいるのか! これって、子どもの頃、北野町にある神経内科でやらされたロールプレイングゲームか何かなんだろうか?

「ああっ、力ある神よ。あなたのしもべをお救いくださいませ」

「そうですか、そうですか。ぞんぶんに祈ってくれよな」

 浅右衛門は茶化しながら八嶋悦子をベッドに寝かしつけようとするが、全身をゆすって抵抗する彼女をあつかいかねている。

「先生、おひとりに診ていただきたいの。愛ある神がそうしろとおっしゃってます」

 若い女性は医師のようだ。彼女は顔をしかめて、浅右衛門に手を貸す。医師と浅右衛門はマスクをしているが、患者の八嶋はしていない。わたしもだけれど。

「ほら、そっちの腕を取ってよ。引っ張っちゃだめ。習わなかったの。一応介護士なんでしょ、あなた」

「はあ……」

 浅右衛門の動揺した目の色が、地獄の番人にふさわしくない。おどおどした三白眼が、彼を凡庸な海坊主に変容させていた。

 女医の言葉はさらに険しくなる。「あなたの夜勤の日にかぎって、かならず騒ぎが起きるわ。日ごろから、あなたの勤務態度に問題があって、患者の信頼を得ていない証拠じゃないの」

 八嶋は両手で胸を押さえた。「この身を、神と家族と仕事に捧げて生きてまいりました。雌ブタ以下の男の手に触れられるなんて、それだけで身が汚れますわ。誤謬なき神の怒りをかいます」

 彼女は小柄で細身の体の背筋をまっすぐに立て、両肩を怒らせている。そのとき体格のいい中年女性が胸から先に入ってきた。

 直立不動の姿勢に変じた浅右衛門は、師長と呼んだ。名札には「徳永」とある。マスクからはみだした角張った顎が、断末魔の魚のエラのようだ。

「見よ、青ざめた馬が出てきた。それに乗っている者の名は死と言い、それに黄泉が従っていたーッ」と八嶋は喚く。「〝黄金の牛〟に使えるおまえたちは、いまに思い知る。全知全能の神は、地上の四分の三の人間をかならず滅ぼす。雷鳴と地震が起こり、太陽は黒くなり、月は血の色に染まり、星は地に落ちる。邪な心をもつ人間を殺す権威を、〝獣〟に与えたもうたのだッ」

 だれが、なんの権利があって、七五%の人間を殺すのか?

「どうしたのかなァ」徳永師長は皮肉たっぷりに言った。「こっちの病棟へ移ることは、あなたの望んだことだったはずよ」

 浅右衛門が八嶋の黄緑色のパジャマの衿をつかんだ。

 八嶋は女医に助けを求めた。「殺された子どもたちの魂が、生け贄の祭壇の下にいるのを、わたくしはこの目で見ました。なんて恐ろしいことなのでしょう。お願い、ここから出してッ!」

 女医が身をひるがえすより早く、八嶋は女医の胸元に頭を預けた。ふいをつかれた女医は、足元がゆらいで床に尻餅をついた。

「アハハハッ」

 徳永師長はマスクを吹きとばすような豪快な笑い声を上げながら、ようやく立ち上がった女医の肩をぴしゃりと叩いた。

「サクラバ先生は日も浅いですから、まだ慣れてらっしゃらない。ムリもありません。この患者は、新館にいたときから扱いにくいのでみな、手こずったんです。甘やかすとキリがないんですよ。下腹の丹田に力を入れてかからないと手に負えません」

「そうね、おまかせするわ」

 きびすを返す女医を、八嶋は引き止める。「サクラバ先生、この世から抹殺されようとする神のしもべを――迷える羊の子を先生の手で救ってください。お願いです」

 八嶋は言い終わらないうちに中腰になると、立ち止まった女医の背にいきなりおぶさった。女医はうめき声をもらし、くの字に折れ曲がるとはげしく身震いし、神のしもべを背中から振り落とそうとしたが、女医の首に両腕を巻きつけた羊の子は、おんぶお化けのように女医の背中にくっついて離れない。

「ただちに離れなさい!」徳永師長は怒鳴った。「八嶋悦子!」

 重みに耐えきれなくなった女医がわたしのベッドにむかって倒れてくる。カーテンごしにかぶさってくる八嶋の顔面を、わたしは力一杯、押し返した。二度と目にしたくない相手だった。

 ギシギシギギギギィーと、ベッドがきしむ。足腰の弱いわたしが、両手両足に渾身の力をこめて突っ張っていると、ゴボっゴボっと洗濯機の水が渦巻くような音がした。

 いち早く危機を感知したオレさまが、指し図した。

〈手をひっこめろ、ベッドの下にもぐりこめ〉

 斜め前方にずり落ちるのが精一杯だった。濁った濁音につづいて、ベチャっという粘った音が重なった。黄色い吐瀉物が、白いカーテンをつたって急降下で流れ落ちてきた。

「始末に負えないわね」

 徳永師長はカーテンを引き開けると、足元にいるわたしを無視して、八嶋を背負った姿勢で横むきに倒れた女医の手を引っ張った。女医は徳永の手にすがったが、起き上がれず、悲鳴をあげた。

 八嶋は、噴水のように吐きつづけた。

〈おい、オレさまは防護服を着てねぇんだ! 敵と戦う前に、ゲロの爆弾を浴びるなんぞ一世一代の大恥だ〉

 現状を冷静に分析した。身を縮め、冷たい床に体育座りをしている、わたしの目の前に仁王立ちの徳永師長がいる。白い靴をはいた四本の足と裸足の二本の足。子どものように小さな足だ。2+2+2=6。子どものころ、長さの異なる鉛筆であっても、1+1+1=3になる計算が理解できなかった。

 汚れた足の裏を見つめる。痩せ細った足首が、わたしの顔の前にぶらさがっていた。汚れた足にココア色のヒールは似合わない。

〈ゲロ爆弾を防御せよ〉と、オレさまは喚くけれど、病室内は、わたしとオレさまの二人でつくった表象を空想的に拡大した幻聴世界ではないんだから、求めるものを物質化できないと説明しても、オレさまは聞き入れようとしない。

〈ゲロの海の藻屑と消えるわけにはいかねぇんだッ〉オレさまは半狂乱で戦闘モードに切り替わっている。〈トリガーON! 不満足な前歯でもいい、決死の覚悟で噛みつけーッ〉

「サクラバ先生、なんだったら、山田に抱き起こしてもらいますか?」徳永師長は勿体ぶった口調で声をかける。「わたしでは無理のようなのでね」

「けっこうよ」

 サクラバは、わたしの頭に片足をのせ、見事な腹筋力を見せて起き上がった。八嶋はわたしのベッドに倒れたままだ。わたしは両手を突いて立ち上がり、ロッカーのある壁ぎわに退いた。

「新患だったわね」徳永師長はわたしを見て言った。

 白衣の肩が黄色く染まった女医は、足音荒く病室を出て行った。彼女の頭に黄色い吐瀉物が、鳥もちのようにくっついている。奥歯を噛みしめて笑いを堪える。徳永師長は、仰むけになった八嶋の足を靴の先で蹴った。八嶋は痛くないのか死人のように動かない。

「どこかに隠してるはずよ。ベロンベロンに酔っ払ってるじゃないの。この半年、比較的、おとなしかったのにねぇ」

 ゲロ吐きの源泉を捜すように、徳永師長は浅右衛門に命じた。浅右衛門は、胸ポケットに入る小型の懐中電灯をかざしてドアの脇にある鍵付きのロッカーを開けた。ありませんと報告して、今度は、ベッド脇のサイドテーブルの中を調べようとした。

「イテッ」浅右衛門は悲鳴をあげた。「こんなもの、捨てろよ」

 愚痴りながら抽出を開ける音がした。捜し物は見つからないようだ。ベッド下の物入れの中身をひっくり返し、床を這い回り、それでも足りずに、ゴミ入れとティッシュの箱を点検していた。

「見つかりません」

 徳永師長は腕組みをすると、八嶋の胸元に顔を突き出した。

「穏便にすませたかったら、どこに隠したのか、白状しなさい」

 八嶋は半身を起こし、わたしのベッドのマットレスの縫い目を引き破いた。中から、ウィスキーのボトルが出てきた。

「これでございますか?」八嶋の声は笑いをふくんでいた。

 徳永師長は呆れた声で言った。「これじゃあ、いつまでたっても外へ出られるようにならないわよ。平気で嘘はつくわ、隠れ飲酒はするわ、サイテーの患者ね。家族も悲しむわ」

「子どものいないあなたに、わたくしの苦しみは理解できない」

「旧館は、本来なら未成年しか入れないのよ」

「教師だったわたくしが、子どもたちを導きますわ。子どもを救うことについては、あなたたちの何十倍も成果を出せますわ」

「師長にむかって、口答えをするんじゃないッ」

 浅右衛門はわたしのマクラをつかみ、投げつけた。マクラは八嶋の顔に当たり、カーテンから流れ落ちた吐瀉物の上に落ちた。

「強情を張ると、元の木阿弥よ。あんたが、何様であっても容赦しませんからね。こんど、同じことをしたら、保護室行きよ。院長からも特別あつかいするなと、くれぐれも言われてますからね」

 徳永師長は吐き捨てると、浅右衛門をともなって出て行った。

〈オレさまのマクラやシーツはゲロまみれじゃねぇか! この臭いを、さっさとなんとかしろよ!〉

 わたしは窓を開けようとしたが、この部屋には窓がない。

「あ~あ、殺される子どもや、家畜のような奴隷が地に満ちるまで、もうしばらくの間、ここにいるしかないようね」

 八嶋は何事もなかったようにわたしのベッドから下りると、自分のベッドに横たわり、シーツのかかった毛布を首まで引っ張り上げた。聞こえるように歯ぎしりをしてみせたが、八嶋はすぐに寝息をたてはじめた。

〈なんなんだ、このクソッタレのオバハンは!〉

 ここには頭と心を悩ます母や野崎との不協和音はない。そのかわり、いかなる高尚な定理をもってしても、解が求められない他人との方程式が存在する。一瞬で地球をのみこむブラックホールをもってしても、この状況を変えられないだろう。これから先、いったいどうなるのか。

〈オフクロをヤるまえに、オバハンをヤっちまえ〉オレさまはそそのかすが、殺害方法が思いつかない。〈タオルで首を絞めるっつーのはどーよ〉

 キャリーバッグからタオルを取り出した。この感触に記憶が反応した。タオルで何をしようとしたのか……? 

 騒ぎの間もやむことのなかつたいびきが、止まった。

「静かにしてほしいだけ……目覚めないように……」

 突然、ななめむかいのカーテンの中から声が聞こえた。ヒッと思わず、声をあげた。カーテンが引かれる。声の主の顔を見て、二度びっくりする。死にたいと騒いでいた女の人だ。

「痛くないように殺してもらいたいの。痛みは耐えられない」

 バッハの協奏曲より複雑なこの状況に言葉が出ない。腹立ちを行動で意志表示する必要に迫られた。中途半端に剥がされたシーツを全面的に剥ぎ取ると、ドンと音を立ててベッドにのっかった。

 八嶋とわたしの間にあるベッド脇のサイドテーブルが揺れた。とたんに母の香りがした。見ると植木鉢がある。羊歯に似た植物だった。黄色いふくらみが、刺のある枝の先についている。浅右衛門が触れたところが折れていた。顔を寄せると、母が使っている香水と似た匂いがする。鉢植えの植物と人工の香料のにおいの区別がつかないなんて、五感が衰えている証拠だ。

 女の人はつぶやいた。「眠りつづけていたいのよ。だって目覚める瞬間が恐いのよ。記憶を消せるなら、こんなことになっていない……こんなことに」

 わたしも同じことを思った。彼女を心の中で呼ぶとき、わたしの願望もこめて、眠り姫にした。 

「やりきれないわ」

 いびきが不似合いの眠り姫は、伐採される木が倒れるようにベッドに横たわった。

「何もかも、おしまいにしてもらいたいだけ」

〈根性なしめの女がッ〉とオレさまはののしった。〈甘えるんじゃねぇよ。そうだろ?〉

〈わたしだって、ずっと前からおしまいにしたいよ〉

 検査があるという理由で、朝食と昼食はぬいていた。結局、夕食も食べそこねた。突然の入院で、用意されてなかったのだ。塵あくたのようなあつかいを受けたわたしは、半日足らずで一生ぶん生きたような気がしていた。

〈腹が減ったのか?〉

〈オレさまはいいよ。なんにも食べなくても平気なんだから〉

 腹の虫を宥めようと、ウォークマンをさがした。見つからない。バスの中で使ったあと、ジャケットのポケットに入れたはず……。わたしのベッド脇のサイドテーブルにおいたはずのマスクもなくなっていた。スクールバッグのサイドポケットに手をいれた。母がむりやり押しこんだマスクを、こっそり取り出した。歯がみしながら触れていると、ゴムを通したあたりに、尖った小さなものが触れた。縫い目をほどいて中のものを取り出した。指先ほどのサイズのSDカードだった。

 なぜ、母はわたしに……?

 情景をともなって、記憶がもどった。

 あの雨の日――、作業ズボンのポケットのジッパーを引きあけ、父の黒い携帯電話をぬきとったわたしは家に持ち帰り、父の書斎にある大きな机の抽斗に入れた。翌日、二人の刑事は再度、やってきた。父の携帯をさがして、書斎をひっかきまわした。机の抽斗の中に入っているものをぜんぶ取りのぞき、裏返していたが、細顎と脂顔は見つけられなかった。細顎はすぐに諦めたが、脂顔は執拗だった。書棚や、父がベッド代わりに使っていたビロード地の長椅子の隅々まで調べた。

 父は家を出ていく前夜、「おやすみなさい」と言うわたしを、父は呼び止めた。手招きし、机の抽斗を開けた。消しゴムやペンや虫メガネなどの雑貨の入った抽斗の把手を縦に回した。のぞきこむと、父は底板を押した。すると、音もなく奥へずれた。机の左側の最上段の抽斗だけ、三センチほどの隙間があって二重底になっていた。父は微笑むと、隙間を見せながら、「隠したいものがあったときは、アルミホイルにつつんでここに隠すんだ」と言った。隠すものなどないと答えると、「詩子は敏感だから、そのときがくれば、すぐに気がつくよ」と言った。

 すっかり忘れていたが、オレさまの言う通りなら、父の携帯をアルミホイルでくるんで隠したことになる。そして昨夜、大切な『モモ』を切りぬいて、机の抽斗にあった携帯を移し変えた。しかし、SDカードは母が所持していた。どうなっているのだろ? 母は、わたしが父の携帯を書斎の机に隠したことに気づいて、携帯のデータをSDカードにダウンロードしたのちに消去し、抜き取ったにちがいない。そして、それを、入院するわたしにこっそり預けた。母は茶封筒に入っていた書類で、だれかを脅迫しようとしていた。切り札は一つじゃないと言っていた。書類で片付かなければ、取り返しにもどってくるはずだ。そのとき、交換条件で退院できるかもしれない。

〈ババァはむかしっから、尻尾を出してるのにつかみどころがねぇからな。期待せずに待つしかねぇな〉

  翌朝、看護師に起こされる。憂いをふくんだ優しい声。マスクで顔の半分しか見えないけれど、美人だとわかる。名札を見ると、「和久井」とある。まさに白衣の天使。白天使だ。八嶋は大きな欠伸をして起き上がり、白天使と顔を合わすと、「おはようございま~す」とあいさつし、首を回し、わたしに向かって言った。

「きのう、足をくすぐったのよ、知ってる?」

 そして、目尻にしわをつくり、満面の笑顔でネームプレートを指さした。「宇梶詩子ちゃんね。へぇ、十六歳なんだ」と感慨深げに言った。「娘と同じトシね」

 固く口をつぐんでいると、

「わたくしは八嶋悦子よ。神の深い深い、御心でこのようなところにおりますが、以前は数学の教師をしていましたのよ。いつか神のお許しを得てここを去ります。去らなくては、神のしもべとしての使命が果たせませんわ」

 目尻のしわといい、白髪まじりのオカッパ頭といい、記憶よりずっと老けている。三年ほどの間に、こんなにも変貌するものなのか。この女と揉めた直後のことが、思い出せないのだと気づく。なぜ思い出せない。爪をかむ。

「深呼吸をすれば、気持ちがクールダウンしますわよ」

 わたしを責め立てた唇には縦皺が入り、とがった顎は丸くなっている。腫れているというべきか。ひっつめていた髪を短く切ったせいで、額は前髪で隠れて見えなくなっていた。

 八嶋悦子は床に捨て置かれたシーツとマクラを見つけると、「はじめての方はご存じないでしょうけれど、シーツ交換は木曜日ですのよ。来週まで待たないと――」

 縦長に変色したカーテンと床の吐瀉物を目にしても、彼女は自分の失態だとは思わないようだ。

「八嶋さんのせいなのにねぇ。清掃係のおばさんに言っておくわ。カーテンやシーツや枕もすぐに取り替えるようにね」

 はい、おクスリと白天使は小さなカップを差し出す。中身の錠剤よりも、左手の小指の先がないことのほうが気にかかった。

「もしかして、わたくし、またやっちゃったのかしら、いやだわァ」

 八嶋は首を小さくふり、額を指でかいた。昨夜も気づいたが、癖は以前のままだ。

「焼酎を牛乳で割って飲むと、臭いが消えるって聞いたものだから――現場を押さえられない限り、だいじょうぶだと思ったのよねぇ。だから六時半頃から焼酎をめいっぱい流しこんで、ついでにバナナを五本、食べたのがいけなかったのかしら」

 彼女は神のしもべにあるまじき行いをしたと言って、顔の前で十字をきった。

「困った患者さんよねぇ」

 白天使はきびすを返し、斜めむかいのベッドを覗きこんだが、休みなくいびきをかく患者は検温の時も静かにならない。八嶋は白天使が移動する隙に、わたしのクスリを自分の口の中に放りこんだ。お菓子を盗み食いする子どものようだった。

 白天使が病室から出ていくと、八嶋はわたしに向き直り、「おむかいさんを、見習っちゃだめ。人の輪に入れない人間は、主権者のしもべとなるには、大きな欠陥と見做されるのです」

 三年前、わたしが人の輪に入れないと思ったから、つらくあたったのか?

「娘は、高校生になったばかりなのよ。頭のいい子で、数学が得意なの。わたくしに似たのね、親子ってふしぎよね」

 なぜだろう、涙がはらはらこぼれ落ちて止まらなくなった。この女のせいで学校へ行けなくなったかもしれないのに、加害者の彼女は何も覚えていないなんてひどすぎる。復讐しようにも、天敵だった女は、神のしもべとやらに変わり果てているなんて……。

「心配なさらなくてもだいじょうぶ。いつ、いかなるときも、愛ある神はあなたを見守っていらしてよ。人知をこえる神は、わたしたちの髪の毛一本一本までご存じなの。主権者である神の目から何人も逃れられないのよ。だからここにいる間は、わたくしをおかあさんだと思って従いなさいな」

 八嶋はベッドをおり、わたしの肩を抱くと顔を近寄せた。

「反抗する患者は、病人であっても病人のあつかいをうけられなくなるから気をつけなさいね。それから、いいこと、ここのおクスリは服んじゃだめよ。やめられなくなってしまうから……」

 日に三回から五回、クスリの時間があるという。服むふりをして自分にわたすようにと耳打ちした。

「服むとわたくしのように顔が、パンパンにむくむだけじゃないの。真実を見失い、正義を貫く意志を失うのよ。ひと月も服めば中毒になるわ。わかった?」

 記憶をなくしても、命令口調だけは変わらない。しかも、よくしゃべる。

「わたくしのように手遅れにならないうちに脱出する方法を考えなさい。自分自身が何者なのか、わからなくなるまえに」

 八嶋の夫は、彼女の病状が回復にむかっても、彼女を引き取らないそうだ。なんども退院の意志を伝えたが、そのつど夫は、弁護士を介して拒否してくるのだと嘆く。

「彼にとっては……血の繋がった実の娘なのに……四人いる、〝管理人〟の一人になるために……夫は、わたくしと娘を裏切ったのよ。あの男はユダよ」

〈〝管理人〟……父は……同じ言葉を使わなかったか……?〉

 夫は、娘の親権を奪おうしていると言って、八嶋はむくんだ顔を歪めて憤った。

〈詩子の思考回路は、手間がかかりすぎンだよ〉オレさまは言った。〈いなくなる前日にかかってきた電話で言ってたじゃねぇか。『わたしは〝管理人〟を統括する〝主権者〟なんだぞ』ってな。『きみらに干渉されるいわれはない』とも言ってたよな〉

 父は四人いる〝管理人〟の上司だったのか……。八嶋の夫は現在、管理人の一人ということか……。

「彼はね、面会にこないの。娘もだけど……自宅は逆瀬川だから、ここからさほど遠くないのよ。ほんとにひどいの。強制的に入院させられて三年半になるわ。このあいだまでは個室だったのよ。比較的、自由に過ごせたのよ。アルコールのせいで、こんなところに閉じこめられてしまったの。自分からこんなところへ来ないわ」

 ということは、わたしと揉めた日にも入院していたことにならないか? だったら、病院から学校へ通ってきていたのか?

 オレさまが口をはさむ。〈あんときさ、妙な臭いがしたのは、オバハンが酔っ払ってたせいだぜ。それを、こっちが悪いと一方的に決めつけられたんだ。なぶり殺しにしても飽きたりねぇぜ。大福餅のような顔の頭蓋骨をカチ割ってやれッ〉

 八嶋は両手で顔をおおい、しばらくそのままでいたが、ふいに顔をあげると、口紅でもあれば、すこしはまともに見えるのにとつぶやき、うなだれた。

「食事は、この上の階にあるラウンジを兼ねた食堂でとることになってますのよ。あとでいっしょに行きましょうね」

 おむかいさんを見る。眠り姫はいびきをかいて爆睡中。

 八嶋が顔を上げた。「彼女はね、二度目の入院になるのよ。食事は介護士が運んでいるの。手のかかる面倒な人なのよ。わたくしなんて、手間のかからないほうよ」

 眠り姫はトイレのとき以外、ベッドから離れることはないらしい。

「自殺願望がつよいから、お姫さまあつかいされてるの」

 八嶋は憎らしげに言った。記憶にある、感情のない冷ややかな眼差しを思い出す。

「さぁさ、着替えて、顔を洗ってらっしゃいな」

 高校に入学したときに購入した濃紺の体操服しかない。手首と足首に二本の白い線が入ったジャージィの上下だ。歯ぎしりをしながらカーテンを閉め、着替える。化粧ポーチをもって洗面所に行く。石塚が見逃してくれた口紅がない。使うつもりはなかったけれど、とても大事なものだという思いだけは、記憶していた。どうして私物が消えるのか? 大切なものの隠し場所を至急、見つけなくてはならない。きのうのメモのようにSDカードは飲みこめない。

  トイレにいると冷たい風が忍びこむ。隙間風が入ってくる。トイレのドアが足元までないせいだ。鍵もかからない。座っていると、断続的に、呻き声や悲鳴が聞こえてくる。幻聴なのか? 頭の中でオレさまの声が聞こえる、わたしの聴覚は正常とはいえないので確信がもてない。

 八嶋は廊下に出ると、少女たちとすれ違うたびに声をかける。返事を返す者は少ない。小学生高学年から高校生の年齢の少女がほとんどだ。四人部屋の病室は、廊下を挟んで八室あるという。悲鳴はどの部屋から聞こえるのか? この場所にぴったりの螺旋階段で階上へ上がる。きのう、この階段を使わずに病室に入った。建物全体の構造がどうなっているのか、一日でも早く把握しなくてはと思う。無意識のうちに脱走することを考えていた。

「あせらないでね、何事も」と、八嶋は言った。

 思わず、わたしの肩のところにある顔を見た。彼女は、わたしの思考が読めるのか? 偶然に発した言葉だと、どうしても思えない。小柄な彼女は、わたしを見上げると、耳の穴を指さした。近ごろ補聴器がないと、大勢の人がいるところでは聞きとりにくいと言ったが、ワイアレスイヤホンのように、人目につく大きさではないようだ。まったく見えない。

「まずは笑顔の練習からはじめましょう。他人に自分の感情を読み取らせるようでは、あなたは、あなた自身の〝あるじ〟になれないわよ」

 八嶋はナースセンターの前を通るとき、二つ折りになって、おじぎをした。昔の居丈高な彼女はどこに消えたのか? 

「あなたもなさい」

 わたしにもあいさつしろとお節介をやく。

 無視すると、人の心を見透かす眼差しになった。「ごあいさつは、人として最低限のマナーなのですよ」

 言葉が出ないと知ると、おじぎをなさいと言った。そして、二階のフロア全体の位置の説明をはじめた。ナースセンターとむかい合う談話室と食堂は、患者の間ではどちらもラウンジと呼ばれているという。談話室の東の端に売店があって、朝の九時から夕方の四時まで買物ができる。ナースセンターのむかって右隣が、ミーティングルームと称する反省部屋があり、子どもの心を打ちのめし、惑わせると八嶋は言った。

「とんでもない女が担当してるのよ。あのサクラバよ」

 夕べ、救ってくれと言って、しがみついていなかったか。呆気にとられているわたしに、八嶋は背筋をぴんと伸ばし、三階が男子の病室になっていると明瞭な口調で話した。昨夜の酔った彼女とは別人だった。数学教師だったときの、ヒステリックな彼女とも異なる。

「男子が三階で女子が一階なのは、性差別よ」と八嶋は言う。「いくら子どもでも、男女のべつなく病室を決めるべきだわ」

 どうして彼女と眠り姫だけ、十八歳未満の病室にいるのだろう?「退屈は退廃を生じさせ、人類の進歩を阻害するわ。アダムはエバといっしょだったから、楽園という名の牢獄を脱して、自らの意志で生きることができたのよ。ほとんどの人は、自分らしく生きることを放棄しているわ」

 形状による男女の区別は意味がない。生物の遺伝子を構成している高分子化合物、すなわちDNAによって選別されるべきだと彼女は言った。三年前とも昨夜ともまったく異なる声で主張する彼女は、時と場所によって声や話し方を変えられるようだ。

「なぜ、病室で話さずに、人の大勢いる場所の廊下で話すのかって、思うでしょ?」

 八嶋は歩幅を小さくするが、立ち止まらない。

「病室には、監視カメラだけじゃない、盗聴器も仕掛けられているわ。ここのほうが、子どもたちの話し声や、テレビの音や、ナースや介護士の出す声や音で、個人の話す内容までは聞き取れないのよ」

 昨夜、光輝は危険をおかして会いにきてくれたのか?

「この病院の規則では、他の病室に入ることは厳禁なのよ」

 八嶋は、わたしの思考を読んでいる! 

「措置入院の患者であっても犯罪者ではないわ。隔離することで、症状はさらに悪化するのよ。病院経営にとっては、必要悪なんだけれどね」

 もしかすると、八嶋は病院の規則に抵抗しているのか? 

「あなたが覚醒するには時間がかかるかもしれないけれど、このままの状態で、この先の長い人生を終えることはあり得ないわ。あらがっているのは、あなた自身よ。目覚めることが、いまのあなたに課せられた責務だと思いなさい」

 八嶋は額に手をやり、しばらくたたずむと、光を帯びていた瞳孔を一瞬でかき消した。ナースセンターのむかって左隣が配膳室で、配膳室と隣接して小ホールがあり、職員専用のエレベーターがあると説明した。

「新館で調理された料理はこのエレベーターで運ばれるのよ。エレベーターは五階まであるけれど……」

 監視カメラがあるので患者が使用すると、自動的に停止すると八嶋は教えてくれた。

「お食事のはじまりですよぉ。この病院が、特別にまずいわけじゃないのよねぇ。化学薬品の香料や甘味料をつかったレトルト食品と冷凍食品のせいね。栄養士なんて、なんのために雇ってるのかしらン」

 円形のテーブルが並ぶ食堂と、大画面のテレビにむかって等間隔に並ぶ三人掛のソファがいくつもあるラウンジと呼ばれる談話室との間に仕切りはない。売店と思われるコーナーの横に自販機が二台。食堂の各テーブルに二、三人ごと座っていた。テーブルが十五あるので、ここだけで四○人足らずいることになる。少年や少女たちが集団でいるのに、騒がしくない。マスクをしているせいなのか? ほっとすると同時に室内を見回し、閉塞感におそわれた。

 南側は、窓はなく壁で塞がれていた。中央に壁掛け用の大型テレビがあり、両サイドはパネル枠のモノクロの写真が数枚ずつ、飾られていた。野崎が映したものだと、ひと目でわかった。フォーカスされていないが、少女が映りこんでいたからだ。人気のない交差点にたたずむ少女、雨に濡れる歩道橋にすわる少女、マストの折れた船の舳先にいる少女、母のつぶやいた摩耶ホテルでしゃがみこむ少女……。そして、ここの地下トンネルとよく似た、西区にあるベルトコンベアー跡のトンネルで後向きに寝そべる少女……。

 鬱病の患者には、陽ざしを浴びることが治療になると、何かの本で読んだ記憶がある。東西の壁には白い塗料を吹き付けた窓枠はあるが、開閉できないようにハメ殺しの小窓になっていた。そこから、四角形に区切られた雑木林が見える。陽光を浴びて緑色がきらめいて見えても、微量の日差ししか届けない窓は窓ではない。

「ほら、ごらんになってぇ、サンザシの木よぉ。白い花が、なんて美しいのでしょう。ねぇ、ねぇ、素敵な眺めよねぇ」

 八嶋は子猫の鳴き声のような声になった。体が、軟体動物のようにぐにゅぐにゅしてきたと思ったら、わたしの腕にもたれかかってきた。

「すべて全能の神がお造りになられましたのよ。神は最初の日に、光と闇を創られたの。そして、二日目に、水と水を分けられたの。それでね、陸と海ができたのよ。天の水が青空になったのよ。素敵でしょ。そして三日目に、種をもつ草と、種のある実を結ぶ木とを種類にしたがって、神は生えさせたの」

 近くの子どもたちに聞こえるように話した。

「わたくし思うのよ。神のいう〝種〟ってDNAのことだって」

 彼女はよろめき、背伸びをし、わたしの耳元で囁いた。

「三日目に、生命の設計図が誕生したの。〝ヒトゲノム計画〟が発表されて二○年経つわ。生きるために必要なタンパク質を生み出す遺伝子が占めるのはゲノムの一から二%程度よ。残りはがらくただとかつては言われたの。でもいまでは役割があることが判明したのよ。娘がもう少しでいいから、遅く生まれてくれていたら、娘の名前を弥生にしなかったわ。いまでも、好きなアラビア数字は弥生なんだけれど、不吉な数字のほうがもっと好きかも。お花は断然、ユリだわ」

 アラビア数字が弥生とは意味が分からない。

「アビシニカは、ユリのかわりに置いてあるの」

 あの植木の名は、アビシニカというのか……。

「黄色いサヤにさわると痛いわよ。枝もだけれど、刺があるの。原産国はアフリカのモザンビークよ。もともと石灰岩の丘陵地に生い茂るマメ科の植物なの。木と樹皮がにおうのよ。夕べ、におったでしょ? 古代では、枝に切り込みを入れて樹脂から香料をつくっていたのよ。衣や寝床の香りづけにつかわれていたの。聖書では〝没薬〟と書かれているわ。〝聖なるそそぎ油〟の一成分だったらしいの。東南アジアに生育しているカシアもそうよ。カシアのつぼみは丁字としてお料理に使われるし、お花が香料になるのよ」

 八嶋は人格が変わったのではなく、自身を自在に変化させられるようになったらしい。理系からアーメン系へ、さらにヒトゲノム系へと因数分解できたのか? 解答は見つからない気がした。

「夕べは、あなたに迷惑をかけたわ。わたくし、とても落ち込んでいたの。突然、死にたくなったの」

 わたしは、つよく首を横に振った。

「わたくしを救うことはだれにもできないわ。だれも〝主権者〟の掟に逆らえないもの。光と影は、全能の神が創造されたのよ。光と影はもともと一体のものなの。不思議よねぇ、神さまの御言葉は」

 七色の声と言葉をもつ彼女の言葉は、わたしの脳細胞にしずかに浸透した。森羅万象を説き明かすように八嶋の演説はつづく。

「バベルの塔のお話は知ってる?」と訊かれ、首をかしげると、「ほとんどの人は、天に届きそうな高い塔のことを〝バベルの塔〟と呼ぶでしょ。バベルはバビロンのことよ。栄華をきわめた都市だったんだけれど、神さまは人の手で建てられた高い塔や町をきらったの。『彼らがしようとすることは、もはや何事もとどめ得ないであろう』とおっしゃって、人びとの言葉を、互いに通じないように変えてしまわれたのよ。同じ日本語を話しても、わかりあえない。そういう意味じゃないかしら」

 神は、人間が心を通わせて、進歩することを望まないのか?

「そうかもね、神さまの目に正しくないことしか、わたくしはこれまでしてこなかった。聖書の箴言に、『掟を守っている者は自らの魂を守っており、自らの道を軽んじている者は死に処せられる』とあるわ。あなたは掟を守らず、それでもなお自らの魂を守りなさい。そのために、手を汚すことになっても後もどりしてはだめよ。目覚めよ、ですからね。さぁ、食べましょう」

 八嶋の後ろについて配膳室の前のカウンターへ行く。トレイにはパックの牛乳、バナナ、キャベツの酢づけ、トーストしていない食パンが二枚。少し前は、トースターがあったが、かならずだれかが、食パン以外のものをいれて故障させるので、なくなったらしい。

「犯人は、わたくしなのよ。焼かないほうが、消化がわるいの。そのほうが、一日でも早く、天国に召されると思わない?」

 西側の窓に一番近い、テーブルに座る。象牙色のテーブルも椅子も合成樹脂製だ。一見、軽く見えるが、動かないように固定されていた。新館のロビーのようにカラフルではないが、男女の別なく思い思いのテーブルに座っていた。服装も自由。大型テレビの前のソファには食事を終えたらしい子どもたちが、数人いた。その中にはレプティリアンの子、光輝もいる。きょうはネイビーブルーのカーディガンにグレーのマフラーをしている。濃紺のジャージィ姿のわたしに気づくと、手を上げた。

 八嶋はわざとらしい咳払いをした。「あの子はヘビよ。いずれは、〝主権者〟にそむく者となる災いの子の誘惑に負けては、だめよ」

 彼女は光輝に好感をもっていないようだ。

「彼は新館の個室にいるくせに、こっちにもベッドがあるのよ。とても聡明で魅力的な少年だけれど、邪悪な女から生まれた子どもなので、新たな〝主権者〟からは愛されないわ。影響されないように気をつけなさいね」

 主権者……?

「人間には二種類あるの。支配する者と、支配されているのに、それに気づかない影のような者とに分類されているの。悲しいけれど、現実は変えられないわ。からんでくる子ヘビに要注意よ」

 彼女の言葉は否定的だけれど、ユーモアをふくんでいる。

「彼の最大の欠陥は、電車に乗れないことなの。高槻駅から向こうへ行けないのよ。病院のバスや車には乗れるんだから、わがまま病だと思わない? そういうわたくしも、高齢者の多い新館は苦手なのよねぇ。アルコールの臭いは平気なんだけど、過齢臭がどうもねぇ。これって、わがままかしら」

 光輝がそばにきた。縁のある左耳に、短冊型の金のピアスをしている。

「元気だよね? 母親なんて、すぐに忘れるよ」

 光輝は母を一瞥したように、八嶋を見下すように見つめた。そして、ダンスのステップを踏むようにくるりと後ろをむいた。ナースセンターの前を通り、ナースと二言、三言、言葉をかわし、螺旋階段を上へとのぼっていった。三階の西の端が彼の病室らしい。

「さきに言っておくけど、この階から上へ行ってはだめよ」

 怪訝な顔をすると、彼女は肩をすくめた。

「一応、言っておくわ。三階は男子病棟だし、四階は、死を待つ人たちの最後のやすらぎの場所だから、静かに残りの時間を過ごさせてあげないといけないの。この施設では延命治療はしないし、過剰な栄養補給もしないの。五階は物置よ。古くなった医療用具の墓場ね」

 食後は、小ホールでラジオ体操をした。希望者だけなので参加者は数人だった。Vネックのセーターと足首まであるスカートに履き変えていた八嶋の体操はくねくねして、スネークダンスみたいだった。

 地下のような一階の病室にもどると、小さなカップに入った液状のクスリが配られた。男性のナースは、わたしが、飲み干すまでそばで監視している。しかたなくひと息で服む。甘い。口を開けろと言われる。言う通りにすると、男はニヤリと笑った。今朝は、錠剤だったのに、二時間も経っていないのに、こんどは液体を服まされるのか?

 カーテンがひらく。隣の八嶋がこちらを見る。彼女の手には水の入ったコップがある。彼女はコップをわたしの口に押しつけると、ひと息で飲めと言う。有無を言わせない形相に気圧されて、言われる通りにする。八嶋はわたしの手を引っ張り、二人でトイレへ行った。彼女のしようとしていることは想像できたが、わたしは抵抗した。父の買ってきたケーキは自らの意志で詰めこんだけれど、もともと苦しいことは苦手だった。しかし、八嶋はわたしに口を開けさせると、いきなり自分の手を喉の奥につっこんだ。頭を振ってのけぞると、わたしの頭を便器へむかって押しさげた。

「吐くのよッ」

 八嶋は自分の手にかわって、わたしの手を口の中に入れさせると同時に、わたしの腹部に腕を回し、つよく押さえた。酢漬けのキャベツといっしょに液体が喉から吹き出した。

「どうしてもごまかせないときは、こうやって吐き出しなさい。そのためにも、食堂では、どんなにまずくても生のパンを食べておくの。水分もできるだけ摂りなさい。吐くとき、楽だからね。なんのためにこうするのか、なんて、おろかな質問はしないでね。わたくしのやり方を教えてあげてるのよ」

 病室にもどると、眠り姫のベッドのカーテンがめずらしく開いていた。わたしたちと目があうと、うつぶせに寝てしまった。ベッドに取りつけられた金具のケースに、名前と年齢を記入した紙が入っている。

「金子逸見・25歳」

 浅右衛門がやってきた。病室をくまなく見回す。部屋中の抽斗を開ける。刑事のように中の物を出し、裏側まで調べる。八嶋は昨夜とうってかわり、口をつぐみ動かない。浅右衛門はわたしの私物もベッドに放りだした。にらんでも、にらみ返してくる。

「きのうの態度はなんだ。もういらないのか」

 浅右衛門は威圧的だった。八嶋は強く首を振る。子どもが、駄々をこねているような仕草だった。

「覚悟はできてるんだな」

 浅右衛門は謎めいた言葉を残していなくなった。

「あれだから、浅右衛門って呼ばれるのよ」

 ええっ! と音声で驚きを表現したいが、口をあんぐり開けることしかできない。わたしの思いついた渾名と、ここの人たちが命名した渾名が同じだったなんて。

〈ここの患者の第六感と、詩子とは無意識下でつながっているのかよ?! こえぇ、こえぇ〉

「処刑人だから浅右衛門なのよ。命じられることをやれば、いま以上の地位が得られると勘違いしてるんだわ」

 急いでメモ長に書いた。《処刑人の意味は?》

 八嶋は片頬で嗤った。「文字通り、死刑執行人ってことよ」

  その日の夕食のあと、ナースセンターでFAXを借りようとしたが、そんな旧式のものはこの病院にはないとそっけない。絶滅危惧種のような古い型のウォークマンをなくしたことを母に報せたかった。なんでもいいから、音楽が聞ける機器が欲しいと伝えたい。

 テレホンカードを買って、食堂にある赤電話でかけるようにナースは言った。売店はすでに閉まっていた。病室にもどると、八嶋は自分のテレホンカードを貸してくれた。メモ帳に、《ありがとうございます》と書いて、わたした。

〈天敵のオバハンに礼を言う日がくるなんぞ、思ってもみなかったぜ。情けは人の為ならずだな〉

 オレさまが頭の中で言うと、「情けに歯向かう刃なしよ」と、八嶋が声に出して言った。

 八嶋の存在そのものが、薄気味がわるかった。

  赤電話の列にならんだ。携帯電話を所持していないのは、わたしだけではないらしい。ようやく順番がきた。番号をプッシュすると、恐れたとおり、野崎が出てきた。

「美姫か?」

 思った通り、声が出ない。

「どこにいるんだ? 近いうちに、この家から出ていかなくちゃ、いけないというのにどうするつもりなんだ。詩子がどうなってもいいのか。このままですむと思うなよ」

 野崎が、母を脅している? 母はいなくなったのか? ひとりでどこへ? なぜ? わからないことばかりだ。

 病室にもどると、浅右衛門がまた来ていた。八嶋が封書を手渡すと、死刑執行人は制服のポケットに素早く隠し、同僚の目を気にしているのか、腰を落とし肩をすぼめながら出て行った。

「あなたにカイゴブンを書かせないと困らせるって言うから、袖の下をやったのよ。人の子が、栄光を受けるときまでの辛抱だわ」

《カイゴブンとはどんな字を書くのか》

 彼女はメモ帳に『悔悟文』と記した。角張った文字だ。もっと丸いというか、板書きの文字は主に数字だったけれど、〝不等式〟と書いた文字は横書きの英文に近いような文字の形だったように記憶していた。いや、思い違いかもしれない。そもそもの記憶が鮮明すぎる部分と、抜け落ちている部分とに分かれていて、あやふやなのだ。

「彼ね、自分を大きくみせたいところがあるの。相手が弱いとみると、自分と同じ目に合わせようとイジワルをするのよ。でも気にしないで。わたくしが守ってあげるから」

《どんなイジワル?》

 八嶋は前髪で隠れた額を指でひっかき、伏し目になった。

「ほんとうは、もうすぐここにはいられなくなる。いけないことばかりしちゃうから地下の保護室へ移されるかもしれない……そんなことになったら、二度と娘に会えなくなるわ……あなたともよ」

《退院すれば会える》

「だめよッ。退院には、夫の承諾がいるわ」突然、彼女は幼児のように泣き出した。「これって、心理学でいう退行現象なんだって、わかってるのよ。でも、我慢できないの」

 なぜか、八嶋の弱々しい態度は見たくなかった。母は、わたしの前で涙を見せることがほぼなかった。そんな母を憎らしいとなんども思った。間違っていた。借金取りが来ても、父が家に帰らなくなっても、あげくに死んでも、家が抵当に入っても母は動じなかった。ここにわたしを置き去りにするときでさえも、由衣のことで感傷的になったくらいだ。

「わたくしは弱いの、とっても」と、八嶋はサイドテーブルの上にある黒い書物を手に取った。目測で、縦一○センチ、横八センチ、幅は数センチほどある。

「あなたも読む? 神さまのことを書いた歴史書よ」

 首を横に振った。辛気臭い書物より、マンガを読むか、映画やアニメを観るほうが何倍もいい。それに、神さまは、『モモ』を書いたミヒャエル・エンデだと思っているし。

  螺旋階段を上がり、談話室へ行く。備えつけの大型テレビにもっとも近いソファの背もたれに光輝は全身を預けていた。隣に座り、なぜ、ここでは患者に悔悟文を書かせるのかとメモ帳で訊いた。

「自分の病気を自覚させるためだよ」

 ナースセンターでたずねても答えは同じだと、彼は言った。母のスマホへメールをしたいので、光輝のスマホを貸してほしいと文字で頼んだ。

「貸せない。言ったよね。携帯は必要不可欠なんだって」

 螺旋階段を下りた。独りきりになれるスペースが避難所だった。外部に通じるドアはあるが、中からはひらかない。ここにいると悲鳴が、聞こえる。この声のせいで、ここがどんな場所なのか、思い知らされる。

 光輝がCDラジオでヒップホップを鳴らしながら下りてきた。

「一ヶ所に長くいれば、監視カメラが異変を報せるシステムになっている」

《光輝はなぜ、新館と旧館を自由に行き来できるの?》

「ぼくは地球外生命体の子なんだ。このエリアでは、だれもぼくを阻止できない。たとえ、接ぎ穂と親木の性質のまざりあったキメラであっても、きみとは心身の基盤となるDNAが異なるからね」

 八嶋は、生物はDNAによって選別されなくてはならないと言った。同じ意味のことを言っているのか? 興味がもてず、腰を浮かした。

「ナニ、してんだよッ、ぼくはッ」光輝は自身を叱咤した。「だから、ゴキブリにさえ災いの子、呼ばわりされるんだッ」

 急いで書く。《ゴキブリって、八嶋悦子のこと?》

「決まってるだろッ。こそこそうつろきやがって、ぼくの邪魔ばかりするんだ!」

 叫ぶだけでは気持ちが収まらないのか、ガラス窓の部分に、持ち上げたCDラジオをぶつけた。ひびが入り、裂け目ができた。

「鉄線は、強度のためじゃない」

 ガラスが飛び散らないようにするために入れてあるのだと、光輝は言った。わたしは病室へもどろうとした。彼は、ひび割れた箇所に握りこぶしを突き当てた。不快な音がした。こぶしから血が流れた。

「ガラスのコップや食器が、ここにはないんだ。何もかもプラスチックのたぐいだ」

 彼は血をひと舐めし、「ぼくの血液は純粋じゃない。遺伝子コードが最終ゴールへのキーとなり得ない……。だから、〝王のしもべ〟にも彼らの一族にもなれない」

『言葉遊びには付き合えない』と書いた。

 彼はタバコをくわえると、金色の縦長のライターで火をつけた。見覚えがあったが、どこで見たのか……。

「悔悟文を書くことで自分自身のつまらないこだわりを解いていける」と、独り言のように言った。

 紫煙が漂う。八嶋と争ったときの臭いを思い出す。この臭いにアルコールとアビシニカが混じっていたのだ。父は喫煙しなかった。野崎と知り合うまで、母からは弁当屋の唐揚げの臭いがしていた。どんなに着飾っても消えない臭いだった。

「いやなら書くことないよ。自由だからね。なんどでもやり直すだけだから。『十七歳! 幸せにきっとしてやる。そらね! 見えるよ、広い牧場が、見渡すかぎり恋の天地さ!』ランボーだよ。日本中が知っている、少年Xの愛読書だったんだ」

 彼は灰色の壁を指さした。「おいでよ。連れてってあげるからさ。きみがいずれ行くことになる、地下室を見せてやるよ。『青い夜明けが撒きちらす、酔わせるような光を浴びて……』そんな地獄へさ」

 光輝は傷ついた手でポケットから白いスマホを取り出し、操作した。見るなと言うので、よそ見をしたちょっとの間に、螺旋階段とむき合う壁が音もなくスライドした。傾斜のきつい、コンクリートの階段が現われた。上にも下にものびているが、照明がないので数段先しか見えない。上に行けば、八嶋の言っていた死を待つ人びとの病室とつながっているのか? 

「ここを下れば、保護室。犯罪に手を染める危険性のある患者用に用意されている。ナースたちはシールド・ルームって呼んでる」

 彼はそう言って、階段を下へ下へとくだっていく。一段、移動するたびに青い光が足元を照らす。

「階段にLEDの照明器具が埋めこまれているんだ。人間の動きに反応するようにね」

 狭い階段を下がりきると、廊下が浮かびあがった。数メートル進むと、四方にのびた廊下に沿って病室がならんでいる。ドアごしに耳をつんざく叫び声がそこかしこから聞こえた。通気孔を通して聞こえる声は、幻聴ではなかった。このフロアには、ナースセンターもなければ食堂も談話室もミーティングルームもない。八嶋が恐れていた場所はここなのか? なぜ、みな、聞こえないふりをするのだろう?

「保護という名の隔離室。ほとんどが覚醒剤の中毒患者の大人だから、クスリが欲しくて喚いているんだ。いまは大人しか入っていないけど、子でもでも時と場合によって入れられる。きのう、暴れたよね? その状態が日常的に起きるか、悲鳴が聞こえるなんて騒いだりしたり、脱走しようとしたらここに送りこまれる」 

 手の傷の血が床にしたたっても、彼は気にせず、鼻に手を近づける。

「血の色もだけど、においも、ゾクゾクさせられるよ。生きてる証拠だよね。ウタの血もそのうち、もらうからね」 

 階段を引き返しながら四階にも行けるのかとメモ帳で訊くが、彼はそれには答えず、「ここの屋上は盛り土がしてあった雑木林になっている。旧館は新館の北側にくっついているので、外部からの目には、旧館は存在しないことになっている。ぼくらみたいに透明な存在なんだ。Xくんが自分のことをそう書いていたよね」

  翌日の午後、ミーティングルームでの面接治療があった。入院した当日の夜、病室にきた若い女医が、わたしを待っていた。今日は名札をつけている。桜庭に白い紙をわたされ、木を描くように言われた。書き終えると、こんどは砂遊び。砂の入った箱に、ミニチュアの家や車や樹木や人形や動物を配置して思うような世界をつくれと言う。砂を片側に寄せると、箱の底が明るいブルーなので湖に見える。湖に近いところに森をつくり、その真ん中に小さな家をおく。そばに犬をおく。なぜか、うれしくなる。つくり終えると、また木を描けと言う。そして、さいごに、

「悔悟文を書かない? お母さまへのお詫びの気持ちを書くことで、見えていなかったことが見えるようになると思うのよ。自分を顧みる心が芽生えれば、話せるようになるかもしれないわ」

 歯ぎしりをする。胸の奥のもやもやが破裂しそうで破裂しない。この女には到底、理解できない感情だと思う。疎外されることが当たり前の状況で生きてきたわたしには、彼女の口から発する言葉は偽善的で無責任に聞こえる。手わたされた用紙は白いままで返した。

「そうね、反省するってむずかしいものね。いまのあなたには無理かもしれない。でも……、お父さまの携帯を隠した場所くらいは、書けるよね。それだけでも、反省したことになるのよ」

 父の携帯電話は石塚事務次長が取り上げたではないか! それに反省するのは、わたしじゃない。外の世界のほうなんだと叫びたい。声が出ない。立ち上がり、砂の入った箱をひっくり返した。

「興奮して、どうしたの?」桜庭は卓上の内線電話で徳永師長を呼んだ。「暴れてるのよ」彼女は泣きだしそうな声で訴えた。

 テーブルを押し倒した直後に、浅右衛門と徳永師長がやってきた。徳永は浅右衛門に何事か命じた。歯をむいて暴れる患者は、彼らにとってわずらわしい存在なのだろう。バスルームに連れて行かれ、ホースの水を浴びせられた。水浸しのわたしを見て、浅右衛門は充血した三白眼で嗤った。

 だれもかれも許せなかった。病室にもどるまえに、なぜか、視力の検査をされ、そのあとむりやりクスリを服まされた。着替えてベッドに横たわり、しばらくすると意識がぼやけた。

「ナニされたの」八嶋に訊かれたが返事をする気力はなかった。

 口の中のブラックホールがどんどん広がる。もう、どうでもいい。窓のない部屋に昼も夜もないんだから。

 閉じこめられる悪夢にうなされていると、「恐がらないで……夢は未知の予言なのよ……」八嶋の囁きが子守歌に聞こえた。「あなたはあたらしい種……人工のゲノム……いつかわかる……謎の領域〝エンハンサー〟にけっして負けないわ。ゲノムの六○%が免疫を制御する〝eRNA〟であってもね」

 いつかわかると母も言った。何が? 何もわからなくてもいい。自由でいられさえすれば――。だれにも干渉されず、干渉しない場所へ行きたい。目の裏の白い光が、放物線を描いて麻痺を誘う。

 夜を映す窓があり、エプロンをした女の子が見える。色見本のようなカラフルなキッチン。ハムとピクルスのサンドイッチ。アスパラガスと赤いビーンズをゆでてサラダをつくり、虫の絵柄のポップな器に盛る。テーブルの蓄音機にはレコード盤が回っている。ワルツの調べにあわせて、ひと組の男女が踊っている。あれは、若いころのおとうさんとおかあさんとわたし……。

  突然、揺りうごかされた。

「火事だ、火事だよ!」

 光輝の声で、はね起きる。煙で前が見えない。濡れたタオルを顔に押しつけられる。

「頭を低くして、外に出るんだ」

 隣の八嶋は? いない。眠り姫は、光輝に背負われている。腕時計を見る。午後六時五○分。サイドテーブルに夕食のトレイが置かれている。

「早く、早くしろって!」

 警報機が鳴る。悲鳴と罵声が建物全体に響きわたった。病室の外へ移動した。飛びだしてきた白天使とぶつかる。「光輝、新館にもどりなさい。規則違反よ」彼女は冷静だった。

 そこら中に、消火器の白い液がまかれた。

「ウタのお隣の、八嶋が、白煙筒で煙を演出したんだよ。布団を焦がしたように見せかけてね。毎回毎回、やってくれるよな。ゴキブリは、自分のやってることが無駄だって、わかんないのかなァ」

 いつまで女王様気分でいるんだよと光輝は言った。

 廊下は、患者と病院のスタッフとでごった返した。眠り姫を背負う光輝とわたしは、二階の小ホールにのがれる。ここもマスクをした少年や少女でいっぱいで手前の廊下にいるしかない。目を覚ました眠り姫は光輝の背中から降りると、どうしたのかぶるぶる震えだし、幼い子どもが保護者を求めるように、わたしにすり寄ってきた。戸惑うわたしにおかまいなしに腕にしがみついてくる。

「ぼくは、ギリシア神話に出てくる怪物のキメラじゃない」

 彼は壁ぎわに肩をよせながら、「ただの雑種だよ」と言い、鼻先を弾かれたような痛ましい笑みをうかべた。きのう、鉄線入りのガラス窓にぶつけた手の甲には、包帯がまかれていた。

「ウタは恐がったりしないでよ。また地下へ行こうよ。どんどん十字路の〝メギド〟に近づくことになるからさ」彼は得意気だった。「一般的には、最終戦争の地ハルマゲドンと言われてるけどね。ちがうんだ。七人の王と王の一族が集結する場所なんだ――と言ってもわからないよね」 

 眠り姫はずっと震えている。何を恐れているのだろう。

「レプのぼくはネプリムでもあるし、野蛮で凡人ばかりの部外者の世界とソリがあわないから出てく気がしないんだ。だって、高貴な存在だって扱われないんだよ」

 彼の言語は、聞き分けのない幼児の語るラップだ。不平不満の他に何も残らない。わたしはいままで自分を取り巻く人たちの言葉に悪意を感じるのは、ひたすら自分に欠陥があるせいだと思っていた。特別仕様の不要の存在なのだと。思い違いかもしれない。特別だと思うこと自体がまちがっていたのだ。

  騒ぎがおさまって病室にもどると、八嶋は何事もなかったようにベッドに寝ていた。禅寺の修行僧のように横臥の姿勢に一分の乱れも感じられない。アビシニカの植木鉢だけが、サイドテーブルからベッドの下に避難していた。

 しばらくしてわたしに気づくと、「無事だったのね」と言った。なんとなく気持ちがゆるんだ。目の前の八嶋と、わたしの知っている数学教師とは別人なのだ。もしかすると、どんな堪えがたい記憶も、状況によって消滅してしまうのかもしれない。思い出す必要なんてないのかも……。彼女がそれを証明している。まったく別の生き方をしてもいいのだと。

 八嶋はゆっくりと起き上がり、「どうして、こんなところにくることになったの?」と訊く。教師だったあんたにも責任の一端はある、と言っても通じないだろう。迷ったけれど、しばらく前から記憶がさだかでなくなったことや、母の愛人のせいで入院させられたことや、気づくと頭の中で、〝言霊〟と名乗る男性の声が聞こえるようになったことなどをメモ帳に書いた。

 八嶋は破顔し、「それは神の啓示です」と声高に言った。そして、「神よ、邪悪な〝主権者〟と戦うときが、ついにまいりました」と興奮した声で言った。

 落ち着かせようと、コップに水をくんで手渡す。八嶋は幼児のように首を左右にふり、手に取らなかった。自分で飲む。彼女は人差し指を唇にもっていくと、シッーと言った。そして、わたしを押しのけ、わたしのベッドのマットレスにかかったシーツを引きぬいた。

 乱雑に縫った箇所を引き破ると、スプリングの隙間からウィスキー壜を取り出し、「今夜だけは神もお許しくださいます」と、眠り姫が目を覚まさないように小声で言った。そして、解析できない方程式、特異解がついに解けたときの気分だと言って、肩をゆすって笑った。アルコールは二本あったようだ。

 オレさまは不安がる。〈オバハンの症状は重くなってねぇか? 主権者って神のことなんだろ? それと戦うなんぞ、おかしかねぇか?〉

「目に見えている現実は、世界の一部にすぎないわ」

 彼女はそう言って酒壜の口に唇をつけた。喉を鳴らして飲むと、手の甲で口元をぬぐい、「わたしたちはどのようなかたちであれ、ふたたび巡り合う運命にある」と断言した。

  次の日、夕食後、しばらくして八嶋が姿を消した。ナースセンターは上へ下への大騒ぎとなった。黴臭い用具入れからアンモニア臭のするトイレの端まで捜したが、病院内では見つからず、徳永師長が心当たりに電話を入れたらしいが、行方は知れなかった。

 病室のゴミ入れに、踵がないココア色のヒールの片方が捨てられていた。手にとると、靴底に〝dummy〟となめらかな文字で綴られていた。長い眠りから目覚めたときのように、記憶の欠けらがゆっくりともどってきた。この靴を、手に取ったことがある。説明のつかない記憶の断片を、ひとつずつつなぎ合わせなくては、正確な解答は得られない。

 彼女と揉めた日、八嶋は膝と両手を床についた姿勢から起きあがり、わたしの制服のブラウスに唾を吐いた。男子生徒が背中で、「さぶぅ」と言った。そのすぐあとで、わたしは、入院した当日のように暴れた。わたしは彼女を突き飛ばした。彼女は仰むけに倒れた。そのとき片方の靴が脱げた。ココア色のハイヒールを拾いあげたわたしは、彼女の額に打ちつけた。

 dummyとは、何を意味するのだろう……。

  翌朝、ラウンジに行くと、ナースセンターのカウンター前にいた光輝が両手の人差し指を頭の両脇に立てて言った。

「徳永はカンカンだよ」

《ほんとうに逃げたの?》とメモ帳で訊く。

「山田に聞けば、何か知ってるかもな。金をわたせれば、なんだってペラペラしゃべるし、手配もしてくれる」

 浅右衛門が、もういらないのかと言ったとき、なんのことかわからなかったが、あれはアルコールを意味していたのだ。

「八嶋は、ここにくるずっと前に、再婚相手に捨てられたそうだ。でさ、家を売却されて、もどる場所がなくなったんで、こんな愚かなマネをするんだ」

 ヤバイよねと、光輝は首をすくめる。

「酒浸りの八嶋を娘が嫌ったのに、夫に娘を奪われたと思いこんでいるんだ。自分と娘の間に血縁関係がないから親権が認められなくて当然なのにさ」

 首をかしげると、光輝は、ああとうなずき、「八嶋悦子の言う娘って、再婚した相手の子どものことなんだよ」と言った。

《あの人には、自分の子どもは、いなかったの?》

「さぁ、そこまでは知らないよ。だって、ぼくが来る前から、ここにいるヒトなんだよ」

 徳永師長と看護師数人は手分けして病院の周辺を捜すことになったが、この件については、公的機関に任せるべきだと言い張るナースもいて収拾がつかない状態が続いていると光輝は言う。

「対抗意識、ジェラシーだよ。女にありがちな支配欲だとぼくは思うよ。相手が、夫の娘だから余計だよ」

 ジェラシーという言葉を耳にしたとたん、頭の血管が収縮した。もしかすると、全寮制の学校を嫌った由衣がもどってきたのかもしれない。母は由衣に嫉妬をして、いなくなったのか?! 野崎は由衣を思い通りにするかもしれない。どうすればいい!

「八嶋悦子がだれの手引きで逃げたのか、知ってる?」

 光輝に訊かれる。頭を大きく横にした。もしゃもしゃの髪が揺れた。

「ウタへのメッセージは、ナニかなかった?」

 もう一度、頭を振る。

「そのうちトボけてられなくなるよ。ぼくを甘く見ないでよ」

  その晩、発熱した。体中の節々が痛くてウンウン唸った。翌朝、院長がきて診察し、麻疹だと言う。母から電話がかかっているという連絡があり、ふらつく足元でナースセンターに行く。

「わたくしよ、いまからそっちへ行くわ」

 八嶋からの電話はすぐにきれた。ふさせけるな! わたしは舌打ちをし、病室にもどると、ベッドに這い上がり眠った。その後に起きたことは噂話で知った。面会時間でもないのに、宇梶詩子の祖母だと称する人物が、病院の受付に現われたらしい。病院側は、わたしに会わせる前に面会者を捕獲した。理由は至極簡単だった。八嶋が変装してやってきたのだという。

 まさか?! そんな馬鹿げた話をだれが信じる。装飾のいっさいない、病室の天井を見上げる。与えられるクスリを素直に服んでいるので、すぐに眠くなる。夢の中で八嶋の声が聞こえた。ああ、帰ってきたのだと、安堵した。

「……脳にブレーキがかかっている状態だからアクセルを踏めば、失った記憶はかならずもどるわ。意図的に刺激された扁桃体が、怖れの検知機となったせいで、感情脳のある即座核が正常に機能していないだけなの。自らの意志で、すべてを停止させているのよ。わたしは、あなたが、自己放棄することをとても怖れてるの」

 夢うつつの状態で聞いた。

「遺伝子形質が組み組まれていて、〝RNA〟が運ぶ、命には設計図があるのよ。現代の科学では、ゲノムや遺伝子の一部を切り取って別の場所に入れられるの。人工細胞株によって不死さえ夢ではないわ。トランスヒューマノイドと呼ばれる、遺伝子組み替え生命体は以前からつくられているのよ。アメリカのシリコンバレーで学んだわたしは、不可能を可能にしたかった。あなたは、わたしの子どもの一人だと言えるかもしれない。四人のトランスヒューマノイドの一人なのよ。生き残ったのはあなた一人だけ……あとの三人は〝eRNA〟の働きが活発化しすぎて死亡するか、脳死状態になってしまった」

 はじめて耳にする言葉の羅列なのに、頭に刻みこまれていく。

「脳のペースメーカーをつくることさえ可能なのよ。血液を分析し、意識をつかさどる脳細胞を抽出して、遺伝子コードを脳幹に送ると、偽りの記憶を植えつけることも不可能じゃないの。わたくしは自分で自分の首を絞めてしまった……あなたの脳は、あなたの意志に従って偽りの記憶を拒んだせいで記憶障害を起こした可能性が高いわ」

 彼女の冷たい手を額に感じた。

「いまからわたくしの話すことを、しっかり覚えておくのよ。そして、この悪夢の状況を変えるの。あなたならできる」

 入院した病院に一番近い駅のコインロッカーに、大切なものが入っている。ロッカー番号は不吉な数字。ロッカーの鍵は、トイレの水槽にガムテープで貼っておくとささやいた。

「一度、受けた傷は癒されない。一度、犯した過ちは許されない」と彼女は言った。

 耳のすぐそばで、すすり泣く声が聞こえた。

「神さまのことがわかるように、御言葉を記した聖なる本を枕の下にいれておくわね。弥生はね――くじの日に生まれたの」と言って声が詰まり、「詩篇45章10節と11節」と言い足した。 

 もう一度、冷たい手が額に触れた。

「あなたならできる」声がいっそう低くなった。「時間がないの。アビシニカだけど、あなたがどこへ行こうと連れていってちょうだい。わたくしだと思って……」

  次の日の朝、目覚めると、熱が下がっていた。八嶋は神隠しにあったようにいなくなっていた。やはり、夢だったのか……。渋ヅラに禿げ頭をつぎたしたような表情の浅右衛門が、八嶋悦子と書かれた名札を外した。そして、彼女の荷物を根こそぎ持って行った。ベッドの下に隠しておいたアビシニカだけが、残された。

 もしかして……。

 トイレの水槽を調べてみる。女子トイレは五つあるが、どの水槽にも鍵は隠されていなかった。文庫本よりひとまわり小さいサイズだが、豆単よりぶ厚い聖なる書。『旧約聖書』は枕の下ではなく、わたしのサイドテーブルの抽斗に入っていた。父と八嶋の残した謎の言葉の箇所を見る。詩篇45章の10節と11節をひらく。

『娘よ聞け、かえりみて耳を傾けよ。あなたの民と、あなたの父の家とを忘れよ。王はあなたのうるわしさを慕うであろう。彼はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ』

 文字を追っても、ここに登場する、〝わたしや〟〝あなたや〟〝王〟が何者なのかが、わからない。45章のすぐ下に虫メガネで読むような文字が三行あって、『聖歌隊の指揮者によってゆりの花のしらべにあわせて歌わせたコラの子マスキールの歌』と書かれている。ということは、〝わたし〟とは、マスキールという人物のようだ。しかし、第1巻の第1章から読むと、すべてダビデの歌と記されていた。第2巻の第42章からマスキールの歌になる。〝わたし〟とはマスキールであり、〝王〟とはダビデをさすのだろう。前後を読み、わたしなりに解釈すると、異国の民の子だった娘はよい香りのする衣につつまれ、父親のもとを去り、ダビデ王に嫁ぎ、神に従うように王に従え、と言っているのではないか?

 よい香りとは、アビシニカの匂いに似ているのだろうか。

  ベッドメイクにやってきた介護士見習いの女の子がわたしに耳打ちした。「お隣さんだけど、別の病院に移送されたみたい。こんどは矯正施設だそうよ。ここよりひどいって、どんなとこかしら」

 急いで着替える。食堂に行く。光輝に詳しい事情を訊くためだ。冷たい牛乳を飲んでいた光輝は、走り書きのメモに目を通すと、縁のない耳をわたしにむけた。

「夫の職場に押しかけて暴れたらしいよ。ゲームオーバーだよね。だから、何をされたってしょうがないさ」

 制裁されてもねと、光輝は暗い目つきでつけ加えた。わたしは逃げるように病室にもどった。夢の中の言葉を、頭の中で反芻した。わたしのことをトランスヒューマノイドだと彼女は言った。それって異常だということなのか? 他の三人は死亡するか、意識のない状態になったらしい。立ち止まり、爪をかむ。あなたならできると、八嶋悦子はたしかに言った。わたしの中で、彼女は苗字だけでなく名前をもつ人間になった。

     10 残された時間のゆくえ

  八嶋悦子と入れ代わりに、十五歳の油布奏香が隣のベッドにきた。野崎の絵のモデルになった少女だ。片仮名のソウカが漢字に変換された。あのときより、痩せていたが、整った顔立ちは以前のままだった。

「あんたのこと、覚えてるわ。だってブスなんだもん」と奏香は言ってのけた。

 わたしはこの状況を受け入れた。周囲への関心を捨て、惰眠をむさぼって生きてきたが、わたしにかかわる人びとは複雑な人間関係にあったようだ。何者かがなんらかの意図で、父を死に追いやり、わたしや八嶋悦子や奏香をこの場所に閉じこめた。何者かの共犯者が母だとしたら、とてもつらい。母は、愛人の野崎さえ、裏切ったのだから。

 気になっていたことだが、他の病室は十歳前後の子どもか、思春期の少女か少年なのに、この病室に限って、八嶋悦子もそうだったが、金子逸見のような大人の女性がいるのはなぜか?

 奏香は最初の半日は、わたしをブスだと言っただけで、貝のように口を閉じていた。でも、わたしが話せないことを知ると、警戒心を解いたのか、歯止めのきかない勢いで話しだした。

「ゆっても、だァれも信じてくンない」

 奏香は幻聴と幻覚に苦しんでいた。聞こえない声が聞こえ、見えないものが見えると訴える。ナニが見えるのか、メモ帳でたずねると、「あたしを陥れる魔女がいるのよ」と彼女は真顔で言った。

 赤い唇を噛みしめ、一点を見つめる眼差しは強くて恐いようだ。長いまつげに縁どられた黒い瞳がぎらついているので、余計にそう見えるのかもしれない。

「思い違いなんかじゃない!」

 八嶋悦子の時と違ってトシが近いせいか、彼女の苦しみがじかに伝わってくる。症状もよく似ている。自分にしか聞こえない声が聞こえるなんて……やはり、わたしたちは常人ではないらしい。

「魔女は、だれにも聞こえないように笑うの。そして、ブスの能ナシって、だれにも聞こえないように耳元でこっそり言うの。魔女は遊びにきたクラスの子たちにも、あたしの悪口を言ったのよ。狂ってるって」

 父親の仕事の関係で、帰国子女だという奏香は強烈なイジメにあったようだ。

「英語の教師なんて自分の発音が間違っているのに、けっしてアタシに読ませない。たまにアタシが、読むと、発音がわざとらしいと言って、生徒といっしょになって笑うのよ。もう何も考えたくない、見たくない、聞きたくない」

 奏香はわたしをにらむ。

「いま、自分といっしょだと思ったでしょ? あんたのブスとアタシのブスは素材がちがうの。偽物の粗悪品と本物のブランド品とのちがいよ。魔女はね、アタシを妬んで悪口をゆってるのよ。自意識過剰のせいで、幻聴が聞こえるのだろうって。ちがうわ!」

 真っすぐの黒髪が小顔の額にかぶさって、市松人形のように愛らしい。わたしはブサイクで要領がわるいから、イジメられると思っていた。孤立するのだと。この世のシステムは、わたしが考えるより、はるかに苛酷で憂いに満ちているようだ。八嶋悦子のいう神は、人間を創ったとき、この結末を知っていたにちがいない。もし人間自身が堕落することを望んだとしたら、それこそ神と悪魔は同一人物ということになる。全知全能の神の創造物であるなら、光と影は一体だと思った。

  奏香が入院した翌日、彼女のおかあさんがシックな装いで、おやつをいっぱい持ってやってきた。徳永師長と浅右衛門が仰々しく出迎えた。光輝が病室の外にやってきて手招きした。

 出ていくと、「新入りには、かかわらないほうがいいよ。ヤバイやつだからな。ゴキブリの八嶋同様、新館の個室に、それもトイレとシャワー付きの部屋にいたのに、被害妄想のせいで、こっちへ移ってきたんだ」

 なんで、あんたは知っているのかと詰問したかったが、それが事実だとしても、わたしになんの関係もない。奏香にしてもそうだ。なぜ、この部屋へ来ることになったのか。だれかが、なんらかの意図をもって画策したことなのか?

 そのことを詳細に語ってくれないと、アドバイスにならない。たずねても、たぶん、答えてくれないだろう。光輝こそ、ヤバイやつだからだ。

 病室にもどると、「なかよくしてやってくださいね」と言う上品メイクのおかあさんは、円筒型の浅い縁なしの帽子をまっすぐにかぶり、グレイのコートをはおっていた。

 コートを脱ぐと、なんの変哲もないシンプルなラインのスーツが現われた。ピアスとエンゲージリングの他に装飾はないけれど、ファッションモデルのようなスタイルに似合っていた。

「わたしが作ったのよ、召し上がってね」

 フルーツがいっぱいのっかったケーキの下地には、ニンジンが入っているという。食べようとすると、奏香は射るような視線をむける。彼女は手をつけない。ニンジンの繊維が見えるのだろうか?

「この女が魔女よ。アタシが死ねばいいと思ってる。そうすれば面倒がなくなると、こっそりパパにゆってる」

 おかあさんはハンカチで目をおさえた。

 奏香は頭髪をかきむしった。「あんたが一人で、サンパウロへでもどこへでも行けばいい。英語は役に立たない。だからアタシは行かない。この女は邪魔者のアタシを殺してから、パパと二人で行く魂胆なのよ。ちゃんとこの女の心の声が聞こえてンだから!」

 奏香は目に涙をため、唇を震わせて喚く。「見えンのよ。この女が、ケーキのスポンジに毒薬をたらしているところが!」

 おかあさんは涙をぬぐうと、病室を出ていった。

 奏香はドアにむかってケーキを投げつけた。

「あんな女、母親でもなんでもないんだからッ」

 新館の七階の個室にいたのだが、そこだと人目がないので、いつ殺されるかわからない。だから旧館の大部屋に移ってきたのだと彼女は泣きながら訴えた。そして言いたいことを言って、すっきりしたのか、彼女は大声で笑った。眠り姫が、文句を言うかと思ったが、静かなままだった。近頃、いびきをかかなくなったのはなぜだろう。

 奏香は眠り姫とは反対に、眠ることを拒む。何か気に障ることがあると、かん高い声で何時間でも喚きちらすのだ。切っ掛けはなんだっていいらしい。看護師が廊下を横切っただけで、覗いたと言って興奮する。カウンセリング治療から帰ってきても、少しも落ち着かない。そのかわり、隣室の少女が、廊下で転んで骨折してもなんの関心も示さない。ときどき、思い出したように笑っているかと思うと、涙と洟水をしたたらせている。そんなときは、ベッドのまわりは、丸まったティシュだらけになる。

 同類だと思うとやるせない。母親が嫌い――心の中の欝屈を抱えこみ、どんな考えも聞き入れない。人間が嫌い――だれともまともな関係を結べず、いびつな心は他者への関心を失わせる。自分が嫌い――不可解で不条理な世界から一分でも早くぬけだしたいくせに、なんの努力もしない。このまま大人になって、歳をとる。わたしや彼女は、怒りと孤独に苛まれたまま人生を終えるのか、気分次第で揺れ動く心を抱えたままで残された時間を生きるのか……。

〈オレさま以外のだれと、心を通わせられるっつーのさ? オレさまは詩子といて、ハッピーだぜ〉

 オレさまの声が久しぶりに聞こえた。八嶋悦子がいなくなってはじめて、気づいたことがある。彼女の残した、不思議な言葉の数々は、孤独だったわたしを癒した。

〈独りじゃねぇっつーの! ジジィのオレさまがいるじゃん。詩子は〝言霊〟を勘違いしてんだよ。幻聴なんかじゃねぇ。〝eRNA〟にも侵蝕されねぇ魂の声なんだ〉

 自分一人を見つめるのではなくて、関わりあう人たちに幸せになってほしいとなぜか、思うようになった。

「あなたならできる」と、八嶋悦子は言った。

 暴力をふるったかもしれないわたしに、彼女は自分の子どもの一人だと言った。窓に映る、小さな空や、植え込みの木々にも、一定の変化があるように、うちなる心の変化をわずかずつ感じられるようになった。彼女に言われた通り、できるだけクスリを飲まないようにした。一日でも早くここから出て行きたかった。そのためにはウソもついた。週に一度の診察日にはできるかぎり、平静を装った。徳永師長や浅右衛門の指示にも素直に従った。

 俳句や手芸やカラオケなどの作業療養をラウンジで受けるように言われれば、参加した。俳句はつくらず、手は動かさず、歌はうたわず、要するにただ座っているだけだったが、以前のように睡魔に襲われることは皆無だった。気づけば、鼻炎の症状もなくなっていた。

 ただし、悔悟文は書けなかった。砂遊びに使う小さな模型以外は音も色もない。そんなミーティングルームで、華やかな容貌の桜庭とむき合っていると、なぜか、闘争心ばかりがつのってくる。

〈詩子はありのままでいい〉というオレさまの声が聞こえるうちは、正常ではない。

 回診のとき、クスリは服んでいますかと、桜庭に訊かれた。うしろに従っていた浅右衛門が、思わせぶりな目つきでわたしを見た。知られているのかもしれないと思うと不安が増した。

 浅右衛門は患者を虐待して愉しむタイプだ。小さな規則違反にも目くじらを立てる。少年や少女のだれかれなしに風呂場に連れ込む。子どもでも痛めつける。洗面台に隣室の少女の頭をぶつけてる現場に行き合ったことがある。万が一、徳永師長にクスリを捨てていることをバラされたときは、そのことを警察に告発してやろうと決めていた。

〈思うことだけは威勢がいいな〉とオレさまは言う。〈日頃は、ビクついてるくせに〉

 クスリに関しては細心の注意がいった。液体の場合はナースがよそ見をした一瞬に、手の中に隠したティシュに染みこませた。錠剤はいつもトイレに流していたが、たまたまトイレが紙詰まりをおこし、そのままにして病室に逃げ帰った。あとからトイレに入った患者がゴムポンプで水流を逆流させたせいで、錠剤が噴出してしまった。だれのクスリかということは発覚しなかったが、生きた心地はしなかった。それからは、食堂の植木鉢に埋めこむことにした。

 数日がすぎた。

 安堵しかけたころ、光輝と廊下ですれちがい、「バレてるよ」と耳打ちされた。彼の手はまだ治っていないようだ。真新しい包帯が目にまぶしい。めまいがした。入院前のように頬が痙攣し、吐き気がし、パニック症状を起こしそうになる。わたしを窮地から救ってくれる人はいない。何日待っても母はわたしに会いにこない。安否をたずねる電話すらない。奏香のおかあさんは三日に一度の割合でやってきた。ベッド脇に椅子を寄せ、眠ったふりをする奏香の寝息にじっと耳を傾けている。わたしの視線に気づくと、花のような美しい微笑を浮かべた。ふと気づく。この人だけ、なぜ、面会が許されるのか? わたしの心の声が聞こえたかのようにおかあさんは言った。

「八月の最初の週に、出発する予定なのよ。時間がないの」

 八嶋悦子は、わたしの思考を読んだわけではなかった。不平や不満や疑問が、目と口元にあらわれてしまうのだ。ある程度の年齢になれば、人はだれでも、他人の感情が読めるようになるのかもしれない。

 おかあさんが帰ったあと、奏香は血走った目つきで吐き捨てた。

「行かないって言ったらゼッタイに行かない! ここにいるほうが何倍も安全よッ。あの女は、アタシを殺すことしか考えていない。個室にいれば、今頃、魔女の餌食になってたわ!」

 彼女はだれかに苛立ちぶつけることで、なんとか精神のバランスを保とうとしている。でも、聞かされるほうは耳をふさぎたくなる。偏った感情は自分も人も苦しめると、どうしてわかろうとしないんだろう。ここにいると、自然な感情も不自然な感情に矯正される気がした。

 爪を噛む。八嶋悦子の残していった『旧約聖書』を読む。創世記の第1章に、彼女の話したことが書かれていた。「種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。種はDNAだと、彼女は言った。〝ネピリム〟は、第6章に出てくる。「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった」。〝ネピリム〟とは、神の子が人間の女に産ませた子どもをさしていた。         

 父は、自分を、神のDNAを受け継ぐ神の子だと思っていたのか……。信仰のせいで、そのような馬鹿げた考えに取り憑かれていたのか……。

 八嶋悦子は、「夫は、四人いる管理人の一人になるために、わたしと娘を裏切った」と言った。〝ネピリム〟だった父が死んだから、わたしはここにいるのか。母はいなくなったのか。だとしたら、由衣があぶない! 由衣がどこにいるのかたしかめなきゃ!

 オレさまは呆れた声で言った。〈やっとかよ。おせぇよ〉

  朝に空が曇る日だった。新館へ行き、外来患者にまじって逃げ出そうと唐突に思いたった。簡単にできるような気がしたのだ。そんな自分が愚かだと気づくのに、時間はかからなかった。

 小ホールにいる光輝にメモに書いて相談した。逃げるにはどうすればいいのかと。光輝は視線をずらすと、クスンと鼻をならし、手の中のメモを握りつぶした。

「ふざけてンのか? 保護室行きになってもいいのか。この病院にくる外来患者は、紹介状をもった人間に限られている。出入りは厳しくチェックされているんだ。入院するとき、気づいただろ?」

 新館に行く方法を教えてくれるかもしれないと、期待していたのだ。どんなに悪態をつかれても、はじめて会った日のように、火事騒ぎの日のように、心やさしい少年なんだという思いこみにとらわれていた。人の感情が移ろいやすいことは、なんども見てきた。きのうまで仲良しだったグループの女子同士が突然、べつのグループに変わるなんてことは小中学校では常識だったが、心のスキミングができないわたしには彼らの心変わりがなぜ起きるのか、明日の天候のようにわからなかった。光輝の冷ややかな口調や態度がどんな作用の変化によるのか、想像力の範囲になかった。

《ただの冗談よ。わたしの言うことを信じないでよ》と、紙コップに書いてわたした。最初に会った日に、彼が信じるなと紙コップに書いたように。

「いいかい?」

 逃げる前に悔悟文を書くようにと、光輝は言った。「自殺をほのめかすように書くといい」と。

 偽りを書くしかない。そのまえに、男子トイレの水槽を見てみよう。八嶋悦子は女子トイレとは言わなかったことを思い出したのだ。彼女のメッセージは暗示的だった。聖書も枕の下ではなかった。同室の眠り姫に聞かれることを恐れていたのだと、最近になってようやく気づいた。

 腕時計を見る。午後六時五○分。女子トイレに行き、男子に見えるように変装した。男物のパシャマの上下とキャップは乾燥機の中から盗んでおいた。その格好で、螺旋階段を登り、三階の男子トイレに入った。どの水槽か、あらかじめ見当をつけておいた。五分の一の確率で捜し当てなければならない。

 監視カメラはトイレにも設置されているが、日勤と夜勤の警備員が交替する約十分間、警備員室のモニター画面に注視する人間はいない。八嶋悦子の行動や視線から類推すると、そうなる。彼女は毎夕、決まった時間に監視カメラを見つめた。そして言った。十分間の自由と。飲酒、火事騒ぎ、脱走……同じ時刻に起きた。

 一番手前と奥の五番目はたぶん、違う。手前は頻繁に人が入る。奥は隠し事のある人間が使う。二番目、三番目、四番目のどれかだ。好きなアラビア数字は弥生と彼女は言った。なぞなぞのような言葉の一つがわかった。弥生は三月だ。だから三番目だ。

 『母の苦労を思うと涙がとまらない。なんて親不孝な子だったか、毎日のように反省している。桜庭先生や介護士の山田さんにも迷惑ばかりかけてしまった。わたしのようにわがままな患者にも親切にしてくださるナースの和久井さんには感謝しても感謝しきれない。お詫びしたくても、もう何もかも取り返しがつかない。気持ちがどんどん落ち込む』

 悔悟文に書き、ひたすら外出許可がおりるのを待った。感情が爆発しそうになると、音楽を聴いた。電池で動くCDを聴く円型のプレーヤーと、クラシック音楽ばかり入った八枚組のCDを白天使が貸してくれた。毛嫌いしていたワーグナーが嫌いじゃないとわかった。「ニゥルンベルグのマイスターシンガー」は元気がでる。                                                                           一日ももたずに電池がきれるので、ナースセンターにある購入品の用紙に一ヵ月分の電池を記入した。十二本入りを六組。売店のおばさんに購入用紙を差し出すと、レシートつきで電池を手渡された。購入用紙にレシートをそえてナースセンターに提出した。その日のうちに五組、返却した。売店のおばさんは黙って、現金を返してくれた。他の患者が同じ手口で現金を手に入れていることを見聞きし、真似たのだ。売店のおばさんはもちろん、手数料をとる。返品された商品は、現金をもっている患者に二割引きで売ればいい。回り回って、だれも損をしない仕組みになっている。下着も買ったことにし、現金化した。小額だが、交通費にはなる。

  入院して二○日目、五月二七日木曜日。浅右衛門に監視されながら、病院に近い駅前の繁華街に専用バスで出かけることになった。コロナ禍のせいで、三月、四月と外出禁止だったそうだ。奏香や眠り姫は外出を希望しなかったので安堵した。それもつかのまだった。運転席に、軽のワゴン車でわたしと由衣を迎えにきた男が座っていたからだ。マスクをした彼は石像のように前をむいた姿勢を崩さなかったが、わたしに気づいたはずだ。

 乗りこむとき、ハンドルを握る手に力が入るのが、見て取れた。ここで働いている人間が、なぜ、あの日、わたしたちを迎えにきたのか? 車内の少女らのひそひそ話で知ったが、ワゴン車の男は院長の送迎をするのが、本来の仕事らしい。父の死からはじまった、さまざまな出来事は見えない糸で結ばれていた。

 バスから降りると、女の子ばかり十人ほどが並んで千円札を一枚ずつもらい買物が許された。三人がひと組でスーパーに入った。わたしの組は監視役が浅右衛門、同行者は隣の病室の女の子が二人。大型スーパーに入る。化粧品売場から見て回る。中学生だという二人の女の子はちょうど通りかかった白天使の組に入って、先に洋服を見たいと言った。浅右衛門は許可した。

 ひとりでショーケースの前を歩く。立ちくらみがする。突然、モノトーンの世界から色とりどりの世界に移動したせいだ。バスを下りた時から過剰な色に神経がついていけない。ついこの間まで自分がいた世界なのに、こんなにも物と色があふれていたのかと驚愕する。

 置いてある見本の商品に触れようとした。「感染防止にご協力ください」と言う店員の声を無視して、なくなった口紅の色を捜す。ローズピンク、チェリーレッド、オールドローズ……何色だったのか? 血の色――ルビーレッドだ。いろんな色をとりまぜて三本買う。九百九十円だった。わたされた千円はこれでなくなった。見本で化粧し、所持金でセロテープのかわりになる大判のバンドエイド、ゼムピン、小さな紙袋を買う。

「やけにアカぬけたじゃないか。こうして見ると、母親似なんだな」

 浅右衛門は別人のようだとつぶやいた。ふしぎなことに麻疹の熱が引いたあと、顔の表面の皮膚がぽろぽろと剥げ落ち、色白の肌になり吹出物も跡かたなく消えていた。

 髪の毛のくしゃくしゃは前のままだが、

「病院の水があうんだな」

 三白眼がぎらついていた。

「休憩しないか? あの気位の高い、八嶋悦子もおれの言いなりだった。酒だって、おれが差し入れてやってたんだ。徳永の前では芝居してたけどな。どうだ、びっくりしただろ」

 わたしは笑顔をつくってみせた。

「おれが徳永師長にひと言いえば、ク、ス、リってな」

 浅右衛門は、自分の肩をわたしの肩に打ちつけた。この近所にアパートを借りて住んでいると小声で言う。「病院の寮だと、好き勝手できないだろ?」

 ワゴン車の男が、浅右衛門の背後を横切った。監視されているのだ。

「ちょっと、待ってなよ。手筈をととのえてくるからさ」

 浅右衛門は白天使を捜して走って行った。何も疑っていない。欲望をそそられると、あとさき考えずに突進するタイプらしい。母も同じだ。わたしを捨てただけでなく、行方をくらましたようだ。

〈由衣の安否を確かめなくては……〉と思う一方で、〈あの子はわたしとは違う。要領がいいから寄宿制の学校でうまくやってるかも……〉

〈学費はだれが払うんだよ。親がいねぇんだぞ〉

〈オレさまは黙っててよ……気が散るから〉

 あたりを見回した。ワゴン車の男は姿を消していた。こんなに簡単に逃げるチャンスがやってくるとは思っていなかった。時間がない。スーパーマーケットを出て駅にむかって走る。無事に駅に着いたら、アモンと名乗った牧師に連絡して助けてもらうつもりだった。

 商店街を走りぬけると、迷宮のようなバスターミナルが見えた。行き先のかわからないバスが一台、停車していた。昇降口にむかって走った。サングラスをかけたアロハシャツの男にぶつかった。ふっ飛ばされた。それでもなんとか立ち上がった。腕をつかまれた。前のめりになりながら振り返ると、ワゴン車の男の手がわたしの腕を締めつけていた。その後ろに、キャップを後向きにかぶり、マスクをつけた光輝がいた。耳のないほうは、マスクの紐がかけられないはずなのに……。

「逃げてどうすんの。ウタを待っている人間なんて、だれもいないよ」

 ほんものの皮膚と見分けのつかない〝耳〟が、根元からくっついている。

「母親が、どうなったのか、知らないのか?」

 腕を振りほどこうとしたが、鉄の輪のように外れない。ワゴン車の男は身長は低いが、その手は鋼鉄のように力強い。光輝は包帯をしているほうの右手で、わたしの横っ面を張り飛ばした。ガラスの扉で傷ついた手はもう治ったのか? 肘のところまでたくし上げたキャラメル色の薄手のセーターに、オフホワイトのパンツの裾を折り、素足に真新しいスニーカーを履いている。

「惨めな気持ちになるだけだから、スマホを貸さなかったんだ。ウタは赤ん坊といっしょだな。肝心なことが、なんにもわかってない。自分の立場を、わかろうとしない。きみに自由はないんだ」

 光輝は緩慢な仕草で、ひっぱたいた頬を無傷の左手でひと撫でした。

「もう一度言う、レプでネプリムなんだよ、ぼくは。光輝く子どもが、きみなんかに出しぬかれるはずがないだろ」

 彼の罠に、ハマったということなのか。スーパーの入り口付近で、浅右衛門が三白眼を見開いてわたしを捜していた。わたしたちを見つけた瞬間、駆けより、手をあげた。

「コケにしやがってッ」

 はげしい痛みが頬に走った。光輝は浅右衛門に何事が耳打ちし、彼の上着のポケットに包帯をした右手で一万円札をねじこんだ。浅右衛門は、「目こぼしは今回かぎりだぞ」と言った。

 ざわめきが一瞬で遠ざかる。

 間近にいる人たちは何も見なかったように行き過ぎた。街中で育ちながら、わたしは世情に鈍感だった。そのせいで気づかなかったのだ。未成年の女子が、外国人と見紛う若い男に腕をつかまれ、少年と四○近い禿げ男に殴られても、だれの目にも止まらない。人はマスクをつけることで他者に、不干渉になるのかもしれない。この感染症は、人と人のつながりを切断する不可思議な魔の力をもつように設計されているのかもしれない。

    11 ごみの山に住む透明な存在

  わたしたち四人はかろうじて集合時間に間に合った。ワゴン車の男は運転席に、光輝とわたしは一番後ろの座席にすわった。浅右衛門は最後に乗りこみ、人数を確認し、最前列の席に陣取った。白天使はわたしたちのすぐ前の席だったが、彼女は聴覚をなくしたように頭を後ろへむけなかった。光輝の階層が、彼女より上位だからか?

「レプでネプリムのぼくがなぜ、ごみの山のような病院にいるのか、教えてあげるよ」

 病院に帰るバスの中で、光輝は自分の病歴について話した。いまに至る彼のやまいの歴史である。

「少年Xの事件が起こったとき、ぼくのママはあの街に住んでたんだ。コンビニも喫茶店もない、コープが二軒しかない街にだよ。〝赤の道〟と呼ばれる道と谷と崖と団地と、なんの変哲もない戸建ての家があるだけだった。団地が崖の上にぎゅうぎゅう詰めに建っていて、ママは崖の下に住んでいたそうだ。神戸はさ、山を削りに削って、海に人工島をつくって、削られた跡地に団地を建てて街をひろげた。神戸といっても、どこからでも海が見えるわけじゃない。出口がどこにあるのか、わからないところのほうが、多いんだよ。息のつまりそうな場所に、くる日もくる日もマスコミや野次馬がやってきて、死ぬほど恐かったって、小学生だったママは言ってたよ」

 光輝の言葉を耳に入れるうちに幼いころのマボロシのような記憶が、頭の中に浮き上がってきた。すり鉢状に凹んだ地形の土地に小さな突起物のような家が無数に建っていた。網の目ような露地に緑はほとんどない。すり鉢の淵の上の道から見下ろすと、滑り落ちるようで足がすくんだ。あのとき、父がそばにいた。自動車一台がやっと通れる狭い道の端に身を寄せるようにして二人で立っていた。父は黒い車を見送ったあと、「まただめだったか……」とつぶやいた。父のそばに嗚咽をこらえる少年が一人、いたような気がする。あれはどこだったのか?

「ヘリコプターの音はやかましいし、ママはノイローゼになった。その後遺症で、ぼくは、ひと月ばかり早く産まれたんだ。だから子どものころのぼくは、みんなより背もちいさくて……」

 彼は顎をひき、うつむいた。

「クラスの子たちからイジメられていた。でも、小学校の高学年になると、成績がとび抜けてよかったからね、みんなから一目おかれるようになったんだ」

〈秀才くんは当時とかわらず、小柄で横柄だよなァ〉と、オレさまは皮肉り、〈一度、マズったくらいでへこたれんじゃねぇぞ〉

「ちょっとイヤなことがあってさ。それがきっかけで、Xくんの事件の話が、ごくしぜんに耳に入ってきたんだ。当時の新聞を捜して図書館で読んだよ。ぼくは、Xくんにどんどん惹かれていったんだ。いつのまにか、Xくんはぼくのヒーローになっていた。『さあ、ゲームの始まりです。愚鈍な警察諸君、ボクを止めてみたまえ』で、はじまる第一の声明文に、ぼくは酩酊したんだ」

〈こいつ、マジかよ!〉

 酩酊した彼に対して目に見えないバリアを張るために目をそらした。バスの車窓の景色は、母と乗ったときより日差しが強くなったぶん、緑の帯が広がっていた。

 彼はわたしの顎に手をかけると、自分のほうにむけた。

「――でさ、突然、異常に騒ぐようになったらしいんだ。それというのもさ、毎年、Xくんの事件の起きた五月になると、ぼくの心は熱くなりすぎて今にもぶっ壊れそうになるんだ」

 光輝は肩をすくめ、包帯をしていない左手の手のひらを見つめた。わたしは膝小僧をひらき、腰を浮かし、両足を肩幅にひらいた。席を変わるための体勢をとったのだ。

「気分が尖るっていうか。とにかくめったやたらにうれしくなって、ムカついてくるんだ。全身に血が駆けめぐったかと思うと、自分の立っている場所が崩れて地底に沈みそうな感じするんだ。喉がつまって、からだ中のものを吐き出したいのか、息をする空気が足りないのか、よくわからなくなってしまう。なにか得体のしれない、おっきな図体のものがおそってくる幻覚があってさ、喚いて走りまわりたくなるんだ。耳を削いだのもそのせいさ」

 彼は左手でマスクを外し、人工の右耳を引き剥がした。ついでにわたしのマスクをむしりとって、通路に投げすてた。

「三年近く、この病院にいて、クスリを服んでいる」光輝の表情は物憂げだった。「向精神薬はけっして、精神病を根本的に治癒するものではなくて、ただ単に病勢をおさえておくにすぎないと、院長に言われたけれど、やめると気分が滅入るんだ。もしかすると、犯行現場の山にいたのは、ぼく自身かもしれないって気分になるんだ。ウタとぼくは前世では双子だったのかもしれない」

〈おい、詩子、こいつは混じりっ気なしのサイコパスじゃね?〉

〈アニメの『サイコパス』は、お話だからおもしろかったけどね。リアルになるとひくよね〉 

 個人の魂そのものを判定する計測値のことを、サイコパスと呼び、人格破綻者や犯罪係数が高い人間を潜在犯としてあつかい、監視するシステムで社会の安全が保つというストーリーだ。

〈『銃口は正義を支配する』っていう台詞があったと思うけど……まさか凶器は所持してないよね〉

 特定された人物が犯罪を犯すか、犯す寸前に、監視官がゴーサインを出せば、犯罪係数の高い執行官がドミネーターと呼ばれる銃のトリガーのロックを解除して殺害が許される。

「ぼくにはわかるんだ。ぼくの分身が巨大化して襲ってくるのがさ。そいつはさ。ぼくの神経をズタボロにするんだけど、心のうんと深い世界も見せてくれるんだ。だからね、十三歳でランボーを識ったとき、目の前がパッとひらけたんだ。ぼくはXくんのおかげで、天才詩人にたどりついた。二人ともレプの子孫に決まっている」

 彼は、新聞社に送りつけられた少年の、第二の声明文だと言って暗唱しはじめた。

「ぼくはこのゲームに命をかけている……」

 バスがカーブにさしかかった。街路樹の木漏れ日が車窓に反射した。いましかない。タイミングを逃さずに立ち上がろうとするわたしの腕を、光輝は包帯をした右手でつかんだ。

「……透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中だけでも実在の人間として認めて……」

 光輝は、一点を見つめている。空中に書かれている文字を読みとるっているような視線だった。前の座席の白天使は微動だにしない。バスの最後部の長い座席は揺れがはげしい。車体の振動に合わせて、わたしはよろめく。

〈トリガーのロックを解除しろ!〉

 オレさまは気安く言うが、左腕が動かせない。もしいま、光輝が手を離したら、わたしは前のめりの姿勢で通路に転倒する。

「はじめて、ランボーを読んだとき、感動で震えたよ。『彼はなぐさみに、愛玩動物の喉を抉ったり、多数の宮閣を炎上させたりした。彼は無辜の民に飛びかかり、こま切れに切り刻んだ』って書いてるんだ。ランボーは、Xくんの心を百年も前に予見していたんだ。人類を支配するレプティリアン〝地球外生命体〟だから可能だったんだ」

 ベビーブルーの薄手のマフラーを首に巻きつけた光輝の顔面からは、憂欝以外の何も読み取れない。感情に流されやすい人間とは種族の異なる、本物の異星人かもしれない。

「なんで真剣に聞いてくれないんだよッ」

 表情に変化はないのに、光輝は中腰の姿勢のわたしのくしゃくしゃ頭の髪を左手をのばしてつかんだ。バスが急発進した。わたしは背中から光輝の上に倒れこんだ。彼は、伸しかかるわたしを避けるために瞬時に体をずらしたが、つかんだ髪は離さなかった。

〈監視官のオレさまがゴーサインを出す。犯罪係数の高い執行官ならいますぐ立って戦え! トリガーを引け〉

 オレさまの言う通り、たしかに、わたしは犯罪係数が高い性格破綻者だが、半ば拘束されたような状態では反撃がむずかしい。光輝は、髪だけでなく、腕までつかんでいた。

「ぼくはね、スパイダーマンみたいに部屋の天井に張りつけるんだ。コンクリートの冷たい感触をはっきりと手足に感じることだってできるんだよ。ふしぎだろ?」

 彼は酩酊状態を特殊能力だと誤解するタイプのようだ。

「これは現実なんだって、何度も天井を叩いて確認したんだからさ。手と足に力をこめると、からだが天井を突き抜けて、屋上に出られるんだ。蜘蛛男よりすごいだろ? だって、物質を通り抜ける特殊な能力を備えてるんだよ。レプだと証明されたんだよ」

〈てめぇは、ただの地雷キャラだって言ってやれーッ!〉

 オレさまは喚く。声が大きいので、頭の芯が痛くなる。

「ウタの知らない、もう一つの世界に存在する超人のぼくは、星空に腕をのばすと、一瞬で大気圏外に出られる。振りむくと、地球を足の下に見ることもできる。引力のない高次元の世界を体感すれば、地上に生きる価値が見いだせなくなる」

〈こいつには測頭部にあるTPJ、つまり周辺の空間を地図として認識する能力に異常があるんだ〉

 頭の中でオレさまの戯言が乱れとぶ、わたしだって似たり寄ったりだ。次元が高いぶん、彼のほうが上かもしれない。

 光輝は、わたしの注意を引こうと思いついたのか、「いいもの見せてあげるよ」と言って前の座席から見えないようにセーターをたくしあげ、横むきにかがんで背中を見せた。

 臀部の上、腰背のあたりに細長いミミズ腫れがいくつもある。鞭か何かで打たれたような痕だ。同じ形状の傷跡をどこかで見た。もっと生々しい傷跡だった。どこで? いつ? 思い出せない。

「ほら、Xくんが夢に見たっていう、神さまがいただろ? ニュージーランドのマオリ族が彫る、ジダの葉に似た左右対称の模様と似てたけど、ぼくのはさ、それとはちがうんだ。植物は植物なんだけどさ」

 もしかして、アビシニカではないのか……。

「これは夢じゃない。〝ネプリム〟のぼくが崇める、監察官の代理人からじかにいただいた、〝みしるし〟なんだ」

 そういえば、父が死んだとき、警察車輌の後部座席にいた男が、刑事から監察官と呼ばれていた。雑多な想念が次から次へと脳裏を駆けめぐる。

「レプティリアンの一族として認められたときから、ぼくはXくんを追いこして、ニーチェのいう超人になった気がするんだ。いまではもう、DNAも変異しているかもしれない」

 光輝はシャツをもとの状態になおすと、唇の両端を吊りあげた。ひきつれた笑顔だった。わたしの顔は恐怖でひきつっていたと思う。奥歯を噛みしめる。パニック症状は、怒りが原因で発症するのだとはじめて気づいた。何が起きても冷静でいられるようになりたい。

〈サイコヤロウの脳ミソは漏電してんだよ〉とオレさまは言う。

 バスの停留所に着いたとき、わたしは放心状態だった。これで保護室行きになる。そう思うと、二度と逃げ出すまいと思うほどのショックを受けていた。

 白天使がようやく振り向き、「さぁ、降りましょう」と声をかけてくれたけれど、立ち上がることが困難に思えたほどだった。眠り姫や奏香のいる病室にもどりたい。でも、たぶん、もどれない。諦めかけたときだった。着信音が鳴った。白天使はトートバッグから小型の携帯電話を取り出した。仕事用のようだ。彼女は携帯を耳に当てると、電話相手の用件に、わかりましたと短く答えたあと、

「緊急セラピーがあるから、山田さんの指示にしたがってちょうだい。しょうがないわね。とんでもないことをしでかしたんだから。信頼してたのに、がっかりしたわ」

 いつもと口調がちがった。マスクをしていても、目の動きで、おおよその感情はわかる。目元に力がなく、どこが投げやりで影をやどしていた。バスを降りるとき、ワゴン車の男と目が合った。男は小さく、うなずいた。彼の意図がわからない。

 夕食の時間には、まだ少し間があった。

 浅右衛門と職員専用のエレベーターに乗った。

「いずれ、たっぷりと思い知らしてやる」海坊主そっくりの浅右衛門はにらみをきかし、すごんで見せた。

 桜庭のいる、ミーティングルームへ直行するものとばかり思っていた。そのあとで、保護室行きが決まるのだと。しかし、予想しない展開が待ちうけていた。エレベーターは二階に停まらず、四階に直行した。死を待つ人ばかりがいる階へ、なぜ行くのか。

 エレベーターが停止した。ドアが開き、浅右衛門は「開」のボタンを押し、顎をしゃくった。足がすくんで前にも後ろにも歩けない。

「下りろ」と命じられ、従った。

 浅右衛門は体のむきを壁に変えると、白衣のポケットからスマホを取り出した。そして、「来たぞ」と何者に連絡すると、四階西端の小ホールの壁が真横にひらいた。壁のむこう側には、光輝がスマホを手に持ち立っていた。

 浅右衛門はもともと愛敬のない顔をさらに歪めた。「早くしなよ、時間がないんだ。あとの始末は自分でやれ」

〈殺されるってことかよ!〉オレさまが頭の中で固まった。〈まだ……肝心なことを思い出してねぇのによぉ……〉

 光輝はわたしの腕を引っ張り、新館の廊下に引き入れると、スマホを監視カメラにかざした。螺旋階段から四階まで上ったとき、光輝がどうやって壁を閉じたのか、見ていなかった。センサーの役目する監視カメラと専用の携帯電話があれば、壁に見えるドアが開閉するシステムなのだ。

〝下層民〟の浅右衛門は旧館の地下トンネルの鍵は所持しているが、壁を開閉する携帯は持たせてもらえいないようだ。階層によって、許される行動範囲が定められているらしい。

〝中層民〟の光輝はジーンズに目の覚めるような黄緑色のシャツに着替えていた。彼は片頬で笑い、得意気な表情を見せると、廊下を挟んで南北に並ぶ新館の個室の一室へと移動した。後について行きながら、父の旧式の携帯もここで使えるのではないのかと気づいた。だから光輝は最初の日に、「親の携帯を手放すな」と言ったのだ。

 旧館の一階と二階からは、おそらく三階からも光輝やナースらが、壁一つで隔てられている新館へとつづく通路を行き来する様子を日常的に目にすることはない。彼らは地下通路を通らずに、職員専用のエレベーターとスライド式のドアを使い、旧館の患者に知られずに新館へ自由に出入りしていたのだ。しかし、なぜ、そんな必要があるのだろう。壁にしか見えないドアなどつくらなくても、旧館の少年や少女はおとなしい。逃げ出せる気力のある子は皆無に見えるのに――。現に、わたしも五分とかからず、捕獲された。

〈浅右衛門は、エレベーターを使って、新館に自由に出入りしてるじゃん。なんで携帯でしか、開け閉めできない壁があるのかなぁ。めんどくさいシステムだと思わない?〉

 オレさまに訊くと、

〈スタッフに不平等を実感させることが、目的なんじゃね?〉

 決めたやつはゴミだ、クソッタレだと、オレさまは憤慨した。

     12 解体工場の道具置場

  新館の三階にある彼の個室に足を踏み入れた瞬間、なつかしい思いにかられた。工事現場で拾ってきたような木材が、至るところに打ちつけられていた。ひと月足らずだったが、両親と三人で住んでいた立て付けのわるいアパートを思い出した。いま、住んでいる家を改築するためだった。

 目が馴染むと、なつかしさは消し飛んだ。ハメ殺しの窓には斜光カーテンの上に角材がバツ印に打たれ、X少年に関する新聞や雑誌からコピーした記事が隙間なく虫ピンで止められていたからだ。

 平成九年(一九九七年)五月二七日に最初の事件が起きたことを記事は伝えていた。二十三年前のきょうだ。

「開けられない窓から外をのぞくと、病院の門が見えるんだよ。外来患者がちらちら目について、ウザイんだよ。ぼくの思考の邪魔になるんだ」

 ベッドの上にゲーム機やコントローラーが散乱していた。

「ここは、ぼく一人のためにある、道具置場なんだ」

 室内に入ると、光輝の声は響きがいい。良すぎて一層、気分が滅入る。傷だらけスチールの机の上にある文庫本を目にしたとき、心身を侵す不快な何かを皮膚に感じた。ニーチェ『善悪の彼岸』、ダンテ『神曲』、ゲーテ『ファウスト』上巻、そして『ランボー詩集』。

「この部屋では、どんな悪意も許されるんだ。Xくんの言う、腐った野菜どもを解体することだって可能さ」

 彼は自分の属する世界が、悪意で成り立っていると自覚している。わたしも少し前までは、自分の住む世界には悪意や憎悪しかないと感じていたが、彼の言葉には同意できない。この異質な感覚をどう説明すればいいのだろう。

 八嶋悦子はいなくなる前夜に耳元で囁いた。

 紀元前三世紀に証明されたユークリッド幾何学では平面上の二つの測地線――地表に沿って測れる距離――それは平行でなければ、かならず交わるし、平行であれば交わらないとされた。しかし、二千年後、ロバチェフスキーによって明らかになった非ユークリッド幾何学では、球面においてはどんな二本の測地線もかならず交わると証明された。だから、地球に住んでいるわたしとあたなはかならずどこかで交わることができると。ふたたび巡り会えると。

 光輝のとわたしの間には測地線が引かれていない。

「ぼくは、見聞きしただけで、真相がわかるんだ。ウタは鈍感な凡人だから悪人と善人の見分けもつかない」

 光輝は部屋の明かりを消すと、肘掛けのない木製の椅子に座るように言った。わたしは立ったままでいた。椅子の背に革のベルトが掛けられていた。

「座れよ」

 いつ、手にしたのか、彼はサバイバルナイフをちらつかせた。暗がりでもよく光る、氷のように冷たい刃がわたしの頬をなぞる。椅子に座ったわたしの肩に、光輝は包帯をした右手を置いた。その手が右耳を這う。もう一方の左手も伸びてきた。両の手がわたしの首をかこむ。八嶋悦子は、光輝をヘビと呼んだ。

「首と胴体が切り離されるって、どんな感じなんだろ。どう思う? ギロチンって、処刑される罪人に苦痛を感じさせないために発明されたんだよ。知ってる?」

 彼は手を離し、包帯を解きはじめた。サバイバルナイフはなぜか、わたしの膝の上に置いたままだ。

「ギロチンほどじゃないけど、苦しくないよ、たぶん。あっという間におわるから」

 彼はわたしの首に包帯を巻きつけた。

「煉獄と地獄のどっちがいい? 魂が火で浄化されるのと、永遠の苦しみに遭うのと望むほうへ送ったげるよ」

 光輝はBGMにヒップホップをえらんだ。言葉の洪水が室内に充満した。ベッド脇のサイドテーブルに乱雑に置かれたCDに目がいく。一枚、ケースのデザインが異なるCDを見つけた。グリーン一色で、人物や模様はなく、タイトルが大文字で書かれていた。

「魔笛」だ!

 彼は二○日前、わたしの心を砕くために、狂気を誘うために、わざと「夜の女王のアリア」を聞かせたのだ。わたし自身にさえ、理由のわからない恐怖の源をだれから聞き出したのだろう……。ここにきた日に感じた光輝への共感は、仕掛けかれたものだった。

「白状しなよ? そうすれば、ぼくのいる新館に移ってこれるんだよ。これも返してやるよ」

 彼はイヤホンつきのウォークマンをパンツのポケットから片手で取り出し、わたしの目の前でブラブラさせた。ここへきた最初の日に親しげに近づき、わたしから盗みとったものだ。おそらく口紅やマスクも。

「きみは、野崎隆行を知ってるよね?」

 彼の口から魔男の名が飛び出したとき、わたしがこの病院に閉じこめられた理由が、はっきり見えた気がした。野崎は邪魔なわたしを追う払うために、知り合いのいる病院にわたしを押しこんだ。そのうえに、わたしに関する情報を漏らしたのだ。なぜ、なんのために……。精神病院に入院させるためだけにしたことなのか?

「八嶋悦子はきみに大切なメッセージをのこしたはず――その話をしてくれるよね?」

 八嶋悦子のメッセージ……。それが目的なのか。わたしを入院させたのは、彼女から何か重要なことを聞き出すためだったのか。たったそれだけのことにしては、手がこみすぎている。わたしは立ち上がり、一歩ふみだす。膝からサバイバルナイフが転がり落ちた。金属音と同時に首にからまる包帯が締まる。絶叫したいのに喉がつまり、声が出ない。両手で包帯をかきむしる。

 そのとき、落書きで埋まったドアを叩く音が、部屋中に響いた。光輝の手が止まった。

〈いまが、迎撃のチャンスだ。しっかりしろ、詩子ォー!〉

 オレさまの絶叫に触発され、体を反転させた。同時に光輝に体当たりした。ふいをつかれた彼は床に倒れた。

 ドアの外から野崎の声が聞こえた。「ぼくだよ」 

 光輝は首を起こし、ドアを凝視した。「どいつもこいつも腐った野菜だッ」

 わたしは包帯を首から剥ぎ取り、ポケットに入れ握りしめた。着信音が聞こえた。光輝は起き上がり、スマホを手にし、欠けていない右耳に当てた。

「あいつは、もう部屋に来てるよ……わかっている……ウタはすぐ送ってくよ」

 相手は浅右衛門らしい。その間もドアを叩く音はやまない。光輝は片手でわたしを押しのけると、ナイフを拾い、ドアノブのロックを解除した。

  フェイスシールドをした野崎隆行は、前かがみに立っていた。髪が長くなり、尖った耳は見えない。折り目のない茶褐色のパンツにくすんだ色のセーターを着て両腕をだらりとたらしている。記憶にある地味な顔立ちと異なり、凄味のある顔つきにかわっていた。前髪が眉の下まで伸びて右側の髪は頬におおいかぶさっているが、切り裂かれた傷跡が髪の下にのぞいている。いつ、彼は怪我したんだろう……。

「さっきラインしただろ。わざわざやってくることなんて、ないんだよ」

 光輝は、目尻の長い目を見開き、猛々しい表情で野崎を挑発した。

「ぼくとあんたの関係が、関係者以外に、知られてもいいのかよ。困るのはぼくじゃない、あんただろ」

「ちょうど院長室にいたんだけど、院長ご用達の便利屋さんがやってきて、詩子の居場所を教えてくれたんだよ」

 ワゴン車の男のことをさしているのだと気づいた。

「あとちょっとで、あんたのかわりに仕返しできたんだぞ」

 光輝は肩を怒らせた。野崎の視線は光輝の手元で止まった。サバイバルナイフに気づき、さも驚いたふうに小さく声をあげ、チチチと舌を鳴らし、両手を顔を横に上げた。

「きみは間違ってるよ。ぼくは、きみに危険な行為を望んでいないし、頼んでもいない。そんな危ないものはすぐにしまったほうがいい。でないと、院長に報告することになる」

「いつから、きれいごとを平気で言えるようになったんだよ」

「きみのためを思って言ってるんだ。何事かあれば、あのときのように、きみのおかあさんがだれよりも悲しむ」

「あんたの口からは、偽りしか聞いたことがない」

「きみが、ここにいるのは、だれのせいでもない。きみにも、きみのおかあさんにも、むろんぼくらにも責任なんてないんだ。なりゆきだったんだよ。耳を削いだのも遊びだったんだろ?」

 野崎は慰めるような口調で言った。

「用がすんだら、さっさと帰ってくれよ。ここは、ぼくのエリアだ」

「そうかなァ。それはないと思うよ。きみはただの患者なんだからさ」

 野崎は腕組みをし、ドアに肩をもたせかけ、よそ見をするように室内を見回した。髪型はすっかり変わったが、わたしたちの家にやってきた日から野崎の態度は変わらない。一見、頼りなげで影のうすい若者に見えるが、一旦、仮面を剥げば舌が大車輪で回り、暴言を吐き散らす。きょうはエネルギー不足なのか、相手が知り合いだからか、小馬鹿にした物言いはあいかわらずだが、暴言を封印している気配だ。

「さっさと消えろッ。こいつはぼくの獲物だ」

 宇宙人だと言うだけのことはあるが、間近で見にいてわかるのだ。サバイバルナイフをもつ手が感電したように震えている。

「喫茶室へ行かないか? 光輝、行こうよ。どうする? いかないならそれでもいいんだけど――ぼくはとくに用がないしね」

 野崎はそう言って微かに笑った。廊下を走る足音がし、マスクをした白天使がドアの外にいる野崎の前に立ちふさがった。

「詩子ちゃん、こんなところにいたの!? みんなで捜していたのよ」

 白天使は鋭利なサバイバルナイフを目にすると、「本気じゃないんでしょ? いつもの冗談でしょ?」

「本気だよ、やっとチャンスが回ってきたんだよ」と、光輝はいかにも心外だというふうに言った。

 白天使は、野崎にむき直り、「詩子さんのことは、わたしが責任をもって病室に送りとどけます。きょうのところは、これでお引き取りになってください」

 彼女は白衣のポケットに手をいれると、光輝に封筒を見せた。

「あなたが隆行さんに出した手紙のお返事をいただいたのよ。ここにあるのよ。いま、見せるから落ち着いてちょうだい」

「声に出して読んでくれよ」

「隆行さんは、あなたを手助けできないの。名前のことは、お父さまの院長先生がお決めになったことよ……とても残念だけれど……もう覆せないの」

「なんでだよォ、血のつながった兄さんじゃないのかッ」

〈ヒェッ、兄弟ってか!?〉オレさまとわたしは仰天した。

「そうだけど、そうじゃないのよ」と、白天使はさえぎった。

 野崎は冷静さを保つ声で光輝に話しかけた。「どうにもならないことってあるんだよ。ぼくらは、毎日、どうでもいいことに悩んで、失意と狂気にかられているんだ。いまは、局面の変化に対して、相応の行動をとることだけを考えようよ。彼女はまだ何も手に入れてないんだしさ」

 わたしが、何を手に入れるというのか!?

「光輝、ママの思いもあなたと同じよ。つらいわ、とってもよ」

 白天使のひと言に、わたしとオレさまは再度のけぞる。同時に、もつれた糸が少しずつ、ほぐされていく気がした。帰りのバスでの白天使の態度も、これで説明がつく。無関心を装うしかなかったのだ。浅右衛門に弱みを見せられなかったにちがいない。

〈光輝のオカンは白天使ってことかよ……〉オレさまは呆れる。

 わたしは三人を見比べる。二○代後半に見える白天使と、十六歳の光輝が親子だなんて……。察するに、白天使は、五月になると漏電する少年を十代で産んだことになる。白天使の苗字が和久井なので光輝の本名は和久井光輝のはずだが、病室の前にある名札の苗字は「世耕光輝」だった。

 二人の父親が院長なのか? だとすると、光輝と野崎隆行とは母親の異なる異母兄弟ってことになる。

 ひょっとすると、父の転落死したタワーマンションの部屋の持ち主は院長なのか? 母はおそらくそれを知っていた。だから落とし前をつけると言ったのか? いやいや、そうじゃない。母は野崎と結婚するようなことを口走っていた。結婚する相手の父親を脅すはずがない。その母がいなくなった。

〈人物関係図がややこしいなぁ。図形に弱い詩子は、こんがらがるよなぁ〉

 彼らの関係性が、わたしたち一家にも影響しているとしか思えない。

「ママは、なんで遠慮ばっかするンだよ。ぼくは一生、院長に目をかけてもらえないのかよ。なんでだよーッ」

 光輝はきびすを返し、サバイバルナイフを手にしたまま、わたしにむかって突進してきた。どうしてわたしが標的になるのか、わけがわからないままに、ミリ単位で体をかわした。光輝は記事でいっぱいの窓にぶつかる寸前で立ち止まった。踏み止まった光輝は体勢を立て直し、もう一度、わたしに襲いかかってくる素振りを見せた。戸口にいた白天使が駆けより、彼にしがみついた。そして、息子の手にしたサバイバルナイフを奪いとり、床に投げ捨てた。

 安堵したのもつかの間、滑っていくナイフを彼は追いかけ、拾いあげた。一旦、身構えたが、気が変わったのか、後ずさり、板張りの壁に頭を打ちつけた。工事現場で聞こえる音に似ていた。騒音に触発されたのか、どこからか少年が廊下に出てきた。ヒェヒェヒェと笑う少年はヨダレをたらしながら、計算が合わないと言って廊下を行ったり来たりした。

 野崎は口ごもりながら、「認知してもらったけど……ぼくだって、立樹の姓じゃない。下の名前を付けてもらっただけだよ」

「それが一番、重要なんだよッ」と光輝は悲鳴に近い声で喚いた。「いつか、あんたは〝王〟になれる。ぼくはいつまでも〝ネプリム〟のまンまだ。この先ずっと、ぼくは、おばぁちゃんちの実家の苗字のまンまなんだよッ」

「光輝、落ち着きなさい。ママをこれ以上、困らせないで」

 白天使の嘆きは、母の発したわたしへの言葉と同じだ。むごい母親だと恨んだが、これが偽りのない親の心の声なのだ。常に感じていた母への違和感を彼女の言葉が裏づけた気がした。天使のごとく美しくやさしい彼女は軟弱ゆえに壊れた子どもを手放せない。わたしの母親は強靭ゆえに手に負えない子どもを手放したのだ。 

 光輝は二つ折りになって笑い出したかと思うと、サバイバルナイフをポケットにもどし、窓をふさぐ角材の一本を引き剥がした。それを頭上にかざした。野崎は白天使を押しのけると、廊下に逃げようとするわたしを取り押さえた。

 光輝は叫んだ。「どけーッ!」

 恐怖にかられたわたしは棒立ちになった。次の瞬間、振りおろされた角材に脳天を割られた。光輝は謝るどころか、防御態勢をとっていないわたしに非があると言い立てた。

「なんで、じっとしてんだよッ。避けろよッ」

〈油断大敵とはよく言ったものだぜ〉と、オレさまも慰めてくれない。〈野崎のヤロウが、詩子を身代わりにしたんだよ〉

 眉間に血がしたたり落ちる。目の中に入る。光輝の部屋の落書きだらけの茶色にくすんだドアがにじんで見えた。額に流れる血を手のひらでぬぐう。わたしは笑いだしたい気分になった。気づくと、頭が軽くなっていた。頭蓋骨はガンガン泣きさけんでいるけれど、リセットした気分だった。

「まぁ、どうしましょう!」

 白天使はか細い声で言うと、わたしを椅子に座らせた。そして、光輝のベッドの枕カバーをはがし、わたしの頭を押さえた。悲鳴をあげそうになる。レプの子の病気が頭から感染するかもしれない。彼女は野崎に、ナースセンターから車椅子を持ってきてほしいと頼んだ。

「やったやったやったァーッ。ぼくはやっぱりレプの子なんだッ。王の子に勝ったんだァー」光輝は奇声をあげ、室内を走り回っている。

 王の子って……わたしのことなのか?

 タオルが血に染まるのに何分もかからなかった。これが野崎ならワクワクするシーンだ。立ち上がろうとしたわたしに、白天使は声をかけた。「車椅子がくるまで、じっとしてましょうね」

 わたしは振りむき、白天使を見上げた。白天使の目は狂気乱舞する光輝に注がれていた。愛情のこもった眼差しだった。

「ほおっておくこともできないか」

 野崎が消えると、光輝はベッドにもぐりこんだ。ゲーム機やコントローラが音を立てて床に落ちた。

  鼻歌まじりの野崎が車椅子を押してもどってきた。彼はわたしの目の前にくると、フェイスシールドをとり、片頬にかかる髪を手ではらいのけた。数センチの傷跡が現われた。彼は頬を指さし、「おまえにヤられたんだ。おまえたち親子には理性のかけらもない。母親はセックス依存症だし、おまえは狂ってるし――せっかく助けてやろうとしたのに、どうして立ち止まるんだよ」

 野崎が言い終わらないうちに、わたしは立ち上がっていた。

「安静にしたほうがいいわ」白天使はわたしの肩に手をおいた。

〈トリガーを引けーッ〉オレさまが怒鳴った。

 座っていた木製の椅子を持ち上げ、魔男の頭上に叩きつけた。魔男は右腕でさえぎった。鈍い音がした。一瞬、野崎の目が、まぶたの裏で反転したように見えた。

 オレさまとわたしは合体した。〈ざまあみやがれ! 下衆野郎の魔男め〉

 レプの子は掛け布団から顔を出し、目をめいっぱい見開いた。「ウタ、やっぱ、エグイ」

〈まぁ、しかし、成果は腕一本か〉オレさまの熱気はすぐに醒めた。

 この程度のことしかできない自分に失望した。虚しい気分になった。昼の太陽がだんだん弱まって夜にむかっていく気配が、角材の剥がれた窓からかすかに忍びこんできた。

     13 つぐないきれない罪

  脳天を縫うために、もしゃもしゃ頭をバリカンで刈られた。地肌があらわになって、山中の高速道路のように後頭部にむかって赤い傷口が一直線に伸びた格好だ。ライオンのたてがみだと思っていた髪がなくなっただけではない。鏡を見るまでもなく、海坊主に変貌しているはずだ。ムカつく。オレさまは、罵声を吐き散らすだけで実力行使は人まかせだ。されるがままになっている無責任男だ。

〈情けねぇったら、ありゃしねぇ。てめぇの尻はてめぇで拭けってんだ。しかし、まあ、魔男への逆襲は見事だった。称賛にあたいする快挙であった〉

 レントゲン写真を見た院長は命に別状はないと言った。

〈てめぇの頭じゃねぇからって、その言い方はねぇだろ!〉

 疲れていた。

〈いいじゃん。魔男は手首の骨が折れたんだから、人類の敵、ネイバーをやっつけたことになるんだから〉

「光輝に悪気はないの。手加減してたから、この程度の怪我ですんだと思うのよ」白天使は涙ぐんでいる。「おかあさまにお電話でお詫びしたいんだけれど、ご自宅の電話にも携帯電話にもつながらないの。どうなさったのかしら」

「あとは、きみにまかせる」と、院長は言った。

「わたしが責任をもって治療にあたります」と、白天使は申し出た。

 院長は「ああ」とうなずくと、治療室からいなくなった。麻酔薬のせいだろう、痛みはさほどなかった。

〈待ちやがれ、ヤブ医者め! 訴えてやる。クソバカタレの光輝を吊るし首にしてやる!〉

 オレさまはあいかわらず騒がしい。波乱の一日に、くたびれきったわたしは治療室のベッドでつかのま、まどろんだ。

  気づくと、住んでいた家の二階の廊下にいた。ベージュ色のドアを開けると、四角に切りとられた灰空を映す窓に雨が振り注いでいた。寸分たがわない二枚の写真が数センチずれて見えていると言えばいいのだろうか? 目の前の世界が二重構造になっていることを、わたしの視覚が確認した瞬間、耐えがたい喪失感に襲われた。

 母の背中がドアに重なって見えた。母は野崎の痩せた肩に顔を押しあてていた。彼とおそろいのセーターを着た母の背中が、はかなげで等身大に見えない。野崎と母は互いの腰に腕をまわし、支え合うような格好で立っていた。これは幻影じゃない。心臓が抉り取られるような痛みが走る。あの日のことが、夢の中の出来事だったら、いまここにいることも諦めがつく。母を許すこともできる。保護室へ行くこともいとわない。

 由衣は、どこへ行った?

 あの日は……たしか……二月のはじめごろだった。

 雨が降っていた。マットウな〝ひきこもり〟のわたしは雨音を怖れ、いつにもましてベッドでくすぶり、目覚めることを拒否していた。

「起きなさいッ」

 母の甲高い声がドアごしに聞こえた。とたんに、前歯に力が入る。中枢神経はまだ眠っている状態なのに、歯をささえる上下の顎が本人に断りなく、ひと足先に目覚めた。

「詩子の真似をして、由衣まで起きひんようになるやなんて、とんでもないわ」

 わたしは、腕をのばし、デジタル時計をベッドの下に投げこんだ。部屋に鍵をかけているわたしは、母の怒声さえ辛抱すれば、時間は勝手に過ぎていく。妹も鍵をかけたようだった。

「由衣、由衣!」母の妹を呼ぶ声は次第に大きくなった。

 窓を打つ雨のしずくが心を砕いた。歯がみした。

「担任はどう言ってるの?」野崎の声が雨音に重なった。

 そう、そうだった。彼は担任ではなく、副担任だったのだ。

「いままで優等生やったから、疲れが出たんやろうって。父親のことで、まわりの子からもヘンな目で見られるらしいから……無理強いせんほうがええって……」

「面倒だから、ついそういうふうに当たり障りのないことを言ってしまうんだよね。だれともぶつかりたくないからね。引きずり出してでも、行かせるようにしないと、詩子のようになってしまうよ。ああなると、もうどうにもならないから」

「そうやわ、そうなんよ。雨が降るからゆーて、ほっとくわけにはいかへんわ」

 歯ぎしりをしながら、CDコンポのスイッチをオンにした。『魔笛』の「夜の女王のアリア」を流した。こうすると、何も聞こえないからだ。念のために、ふとんをかぶり、両手で両耳をふさいだ。由衣は、副担任の野崎と同居するようになってしばらくすると、学校へ行くのを嫌がるようになった。それで母は、姉の怠け癖が、妹に伝染したのだと言ってわたしを責めた。

「あ、け、な、さ、い」

 一音ずつ区切って言う母の声はいやでも鼓膜を打った。耳をふさいでも声は侵入してきた。

「鍵を開けなさい。由衣、開けなさーい!」

 口の中が気にかかった。三日月形に空いている、歯の隙間に舌を入れた。舌が腸詰めウインナのかたちになる。何回も繰り返す。空気を出し入れした。隙間はブラックホールと化す。家を丸ごとのみこめそうな気がした。この感触が麻薬のようでやめられない。 

「なんで二人しかない子が、二人ともこんなことになるンかしら」母の愚痴はつづく。「あたしの育て方のせいやないわ」

「もちろん、ぼくのせいでもない。クズ以下のカスのせいだ」

 このとき、野崎が、わたしのことをカスと言ったのだ。

「詩子の場合は生まれつきなんよ。母親に頭が上がらへんかった、あの人に似たんやわ。しばらく預けたんがまちがいやった」

 預けた? 両手を離し、耳を澄ました。ギリッギリッと奥歯を噛みしめた。ふぞろいの前歯なんて、砕けてしまえばいい。

「由衣、きょうだけでもええから学校に行ってよ。詩子とちごうて、あんたは顔もかわいいし、頭もええねんから、クラスにお友達もぎょうさんいてるし、塾のセンセも由衣の成績やったら私立中学の受験もできるって言うてくれてるねんよ。ピアノも、近畿大会で優勝したやないの。個人レッスンの先生かて将来がたのしみやって――」

 母の繰り言がつづいている最中だった。テラスに面した窓を開ける音が聞こえた。数分後に、何かがぶつかる音がし、テラスが揺れた。由衣の部屋はテラスに面していた。

「クソ、やりやがったな」

 野崎の圧し殺した声が耳に飛びこんだ。妹の部屋のドアにぶつかる音があとにつづいた。

「まさか、そんな」と言う母の声が聞こえた。

「顔を出すな。望み通りだろ」と言う野崎の声に、「離してよ」とあらがう母の声が同時に聞こえた。

 壁ひとつで隣り合った由衣の部屋からはなんの応答もない。布団から這い出た。ベッドからずり落ちた。

「いやーッ!」喉が張り裂けるような母の叫び声が、わが家を揺るがした。

 廊下に出た。壁をつたい、両足を互い違いに出す。その間も「夜の女王のアリア」は鳴り響いていた。意識を集中しようとすればするほど散漫になっていった。こじ開けられたドアを背にして立つ野崎は、あらがう母を抱きとめていた。二人はテラスからの強い風と雨にさらされて揺れているように見えた。悪寒が走った。五感は麻痺しているのに、異物を飲みこんだように胸のあたりを強い力で押されたように苦しい。

 長く感じたが二、三分の出来事だった。母の忍び泣く声が、恐怖を呼び覚ました。野崎はわたしに気づくと、口元をゆがめた。彼の目尻にのびた細い目の眼球は左右に動いていた。

「悪いけど、ぼくは、ここに住んでいないことになっている」

 だから、しばらく留守にすると彼は言い捨て、母とわたしをおいて廊下から階段にむかった。その背中は取り返しのつかないことなど、この世には何もないと言っているかのようだった。

 母は、精気をなくした人間のように呆然と立ちすくんでいた。わたしは自分の頬を平手で打ち、由衣の部屋に入り、雨で水浸しになったテラスに出た。膝をふかく折った格好で亀のように首をのばした。由衣は、テラスの鉄柵にループ型の毛糸のマフラーをひっかけて首を吊っていた。わたしが、去年のクリスマスにプレゼントしたマフラーを首に巻き、テラスから飛び降りたのだ。一気に頭に血がのぼった。父のデスマスクがフラッシュバックした。由衣の部屋にとって返し、学習机からカッターナイフを捜しだし、テラスにもどりマフラーを切断した。衝撃音と同時に、四、五メートルある坂下の家の屋根に由衣は落下した。目の下の家の屋根に重なるテラスの鉄柵をまたぎ、飛び降りた。寒さも痛みも感じなかった。

 雨に打たれがら這って由衣のそばへにじり寄り、「ユーイ、ユーイ、ユーイ……」と、彼女が幼稚園に通っていたころの呼び名で声をかけた。屋根を突き破るような大きな音がした。泣き崩れていたはずの母が、わたしのすぐ後ろに飛び降りた音だった。母はわたしのそばまで這ってくると、由衣の鼻をつまみ、小さな口に息を吹み、両手で胸を押した。なんども繰り返していると、救急車のサイレンの音が聞こえた。

 ユーイ、なんで、こんなことをしたのという言葉を飲みこんだ。ごめんごめんごめんごめんごめんなさい。つぐないきれない罪を犯したとその瞬間、気づいた。末梢したはずの記憶がもどってきたのだ。

 ユーイ……ユーイ……ユーイ……。

 胸の中でさけぶ呼び声に応えるように、緑の羽根をもつ少女のマボロシが、目の前を横切り、わたしの顔のまわりを舞った。心を落ち着かせる魔法の粉をふりまいてくれているようだった。

 ユーイ……ユーイ……ユーイ……。

 あの雨の日を境に「夜の女王のアリア」が聞けなくなったのだ。記憶を消したのは自分の犯した過ちを直視できなかったせいだ。だから寄宿制の学校に転校したという母の嘘にすがったのだ。

  腕にゴムが巻かれ、採血されている。血液の入った袋が、目の上で揺れている。輸血じゃない? どうして? 夢を見てるのか?

  ユーイはもういない……。

 はじめてユーイを見たとき、お人形さんのように可愛らしくて見惚れた。何時間でも見ていたかった。

 保育園に行かなくなった頃だったと思う。その後、しばらく両親と離れて暮らした時期があった。明瞭な記憶ではないけれど、家にもどったとき、わたしは小学校に入学する年齢になっていた。

 その年の十一月に由衣は生まれた――はずだ。妊婦姿の母の記憶がまったくない。由衣はある日、突然、やってきた気がする。そのとき、わたしは何歳だったのだろう。赤ん坊だった頃の由衣を、わたしは知らない。記憶にないのだ。どこからかやってきた由衣と、いつもふたりぼっちだったことは覚えている。

 毎朝、父が由衣を送っていき、帰りは同じ幼稚園に通う男の子のおかあさんが送ってきてくれていた。わたしが小学校へ行った日の午後は、由衣はひとりきりになった。わたしが玄関のドアの鍵をあけて家の中に入ると、玄関マットに足をそろえて座っていた。そして、かならず、にっこり笑う。駄菓子を分け合って食べた。お絵書きやおままごとをして遊んだ。聞き分けの良い子で、どんなに淋しくても泣いたりしなかった。ユーイは素直な子だった。わたしが思いついたお話を目をまんまるにして聞いてくれた。休み休みでも小学校へ通えたのは、ユーイがかならず待っていてくれたからだ……。それなのに、わたしは由衣を傷つけ、死なせてしまった。どれほど悔やんでも、謝っても、由衣はもどらない。

  白天使の声が聞こえた。「詩子ちゃん、痛むの?」 

 涙が止まらない。

「光輝のこと本当にごめんなさいね。わたしに力がないせいで、光輝は年に一度、この時期になると、自制心を失って無茶をしてしまうの……」

 わたしは、なんども首を振った。何か見落としている、かんじんな何かを……。治療室のベッドに横たわったまま、頭を揺らしつづけた。思い出せ思い出せ思い出せ思い出せーッ!

「また、はじまった。こいつは暴れると手がつけられなくなる。つむじまがりで、強情で、捨て鉢なんだよ」

 包帯をした腕を、肩から三角布で吊り下げた野崎の声が聞こえた。

「底意地もわるい。しかし、光輝が頭にショックを与えたから、少しは、自分のしたことを思い出したかもしれないな」

 声のする方角に目をむけた。野崎の横にいる、徳永師長が一言一言にうなずいていたが、

「外出を許可したのに自由行動をとるんじゃあ、二度と外へは出せません」

「おっしゃる通りです」浅右衛門の陰気臭い声だ。「師長、わたしの不適切な判断から、このような事態を招きましたことを深くお詫び致します」

 平身低頭する浅右衛門を横目に見ながら、買った物をどこに置き忘れたのか、気になった。レントゲンを撮るときに外された腕時計も――。消毒液の臭いのする治療室の無機質な壁や天井をじっとながめていると、記憶装置に入れた情報を取り出すように記憶がもどってきた。イヴ・サンローランの口紅は、由衣の部屋にあったものだ。ピアノの上の化粧箱にしまわれていた。わたしは血の色をした口紅で、ふたの内側の鏡にバカヤロウと書いた。

 なぜなぜなぜなぜ……そんなことをしたのか……思い出せないが、由衣が自ら死を選んだ原因だと言いきれる。たった五文字のカタカナで由衣は傷つき死んだ……。

 わたしが殺した殺した殺した殺した……ユーイユーイユーイユーイ……犯した罪の重さに耐えきれず、記憶のすべてを削除したのだ。八嶋悦子の残した言葉が重みをもってよみがえる。「一度、受けた傷は癒されない。一度、犯した罪は許されない」。

 二月の節分の日だった。前夜に、野崎が鬼の絵を書いて由衣に言ったのだ。「悪魔がエンジェルに見えるときがある」と。

 妹は、エンジェルなんて大嫌いと言い返した。

「ずっとずっと、わがままなエンジェルでいてくれるよね」と野崎が言った。「詩子みたくなっちゃうと、みんなが、がっかりするからね」

「わたしは星になる」と、由衣は言った。

 由衣は、わたしのつけた傷のせいで星になることを選んだ。

  徳永師長の声が、耳のそばで聞こえた。「院長に報告して、どうにかしてもらうしかにないわ」

 ベッド脇にいる、白天使はうなだれていた。

「和久井さん、あなたが、引率の責任者なんだから、自由行動を許可したあなたに責任があるわね。以前から気になってました。あなたね、なんの権限があって、わたしの許可なく勝手な行動をとるの。父親がだれであろうと、職場では一応、わたしの部下であることを忘れてもらっては困ります」

 叱責されると、白天使はマスクを外し口をひらいた。「山田介護士からは、詩子ちゃんの具合がわるいので先に帰ってほしいと言われました。それはちょっと困ると言ったのですが、山田さんは非常に立腹して、人目もありましたし、つい、許可しました。ナースのわたしが残るべきでした。そうすれば、詩子ちゃんを光輝の病室に入らせるようなことにならなかったと思います」

 それまで、のびたウドンみたいだった海坊主の浅右衛門の顔つきが冷水をかぶったように引き締まった。「言いがかりもたいがいにしろよ。あんたの息子に頼まれたから、おれは……。おれは、この病院のためを思って昼夜をとわず働いてんだ。汚い仕事もいとわずにだな――」

「山田さんのやり方は、介護士の職務を逸脱しています。本来、ナースの補助であるべきですのに、時によっては、ナースにさえ命令口調です」

「上等だよ。こっちにも考えがある。金の亡者のおまえの秘密を、他の連中にバラしてやる」

 浅右衛門が居直ると、白天使は、口出しする立場ではないがと前置きし、「わたしたちは、あくまで患者さんに使えるしもべにすぎません。だからこそ、患者さんにばかり規範を求めるのではなく、わたしたちスタッフも自己管理に撤しなくてはならないと日ころから心がけています。山田さんは病人の、しかも未成年の光輝からお金を受け取り、詩子ちゃんを光輝の部屋に連れて行くことを許しています」

 白天使は言葉をきり、「すべての責任は、親であるわたしにあることは承知しております。監督不行き届きの点に関しては重々、お詫びもうしあげます。今回のことは、院長にご報告し、処分をうける覚悟です」

 浅右衛門の三白眼がはげしく動く。徳永師長は複雑な目の色を見せた。内心では浅右衛門に同調しているのだが、表立っては白天使に逆らえないふうだった。白天使の毅然とした口調を耳にしたわたしは、別人を見る思いがした。白天使は、光輝を守るために浅右衛門を告発するの気になったのだろうか。

 車椅子に乗ったまま治療室を出たわたしは新館の廊下を通って、エレベーターの停止するホールへ。怪我のおかげで保護室行きは取り止めになったらしい。病室へもどる途中で腕時計とスーパーで買ったものを捜してほしいと、身振りと手まねで白天使に伝えた。

「ちょっと待っててね。詩子ちゃんの靴と着ていたジャケットを治療室に忘れたから、ついでに捜してくるわね」

 白天使はそう言っていなくなったが、しばらくして彼女はもどってきた。「山田さんが持っていたから、取り返しておいたわ。それと腕時計なんだけれど、見つからないのよ」

 光輝や浅右衛門に殴られたときも、紙袋は手離さなかった。バスの中に置き忘れたのだ。光輝にわたしを引き渡すときに、浅右衛門は手ぶらだった。彼女が紙袋を回収したとしか思えない。白天使はなぜ、正直に話さない。光輝が腕時計を盗んだと。

「わたしからのお願いなんだけど、隆行さんと光輝が兄弟だってことは、同室の患者さんには黙っていてほしいの。一部の人しか知らないことだから、若いナースにも言わないでね。光輝を、ここにおいてもらえなくなると困るから」

 ジャケットのポケットに入れておいたポストカードとメモ帳とボールペンはあった。逃げると決めたとき、父のものだけは手放すまいと思っていた。靴と腕時計とポストカードだけは――。

「あの子は詩子ちゃんとお友達になりたいんだけなのよ。どうすればなってもらえるのか、わからないの。それでね、つい極端な行動に走ってしまって、とんでもないことをしでかすのよ。本人はわかりすぎるほどわかっているのよ。自分自身の異常さに苦しんでいるわ。完璧でありたいと思うあまりに、自分に厳しすぎるの」

 新館には廊下に面した窓があった。ここへ帰ってきたとき、すでに日は暮れかけていたが、いまはすっかり暗くなっていた。しかし、周囲に一軒の家もないので窓は暗闇を映すのではなく、病院の内部を映し出す鏡のようになっていた。

    14 送られてくる時間から逃げられない

  車椅子で、新館一階のエレベーターホールまでくると、奏香がいきなり現れた。いつものパジャマ姿ではない。ご令嬢と呼ぶにふさわしい身なりをしていた。透けて見えるふんわりした生地の下にローウエストのワンピースを着ている。フリルやギャザーがいっぱいついていて、ゆったりしているのに採寸されて縫製されたものだと、ひと目でわかるほど身体に沿っていた。わたしには一生、縁のない洋服だけど、由衣にはきっと似合った。

「何よ、その頭。バカみたい」と美少女は笑った。はじめて見せた笑顔だった。

 ロビーには、画廊で見かけた老紳士と和服姿の婦人が彼女を待っていた。老紳士は特大の防塵マスクをしていたが、まっすぐの背筋と杖で見間違えることはなかった。

 奏香は婦人を指差した。「あの女は、おじぃちゃんちの家政婦よ。たくさいいるお手伝いさんを、あの女は、女主人のような態度で指し図してんの。大嫌い!」

 婦人は老紳士と親しげに話していた。彼女はわたしの立ち入れないカラフルなロビーへギャロップで駆けて行った。

 もうすぐ消灯時間なのにどこへ行くのだろう。わたしはたぶん、ここから死ぬまで出られない。彼女の言う通り、わたしは、バカだ。そのうえ罪に問われない犯罪者だ。イジメられる側が常に被害者だとは限らない。わたしと光輝が、それを証明していた。

 何もかもどうでもいい。

〈コインロッカーの鍵はどーすんだよ。せっかく見つけのによぉ。宝の持ち腐れになんねぇか〉

〈話しかけてないときに、余計なことは言わないでよ〉

〈思考の一部始終が、6Gの速度でつたわるだけじゃねぇ。感傷に浸っていい気分でいる、おまえさんの心の裏側まで察知できてしまうんだよ〉

 車椅子を押す白天使を振り返り、旧館の病棟にもどる前にたのんだ。ジャケットのポケットにいれておいたメモ帳とボールペンで書いた。高槻駅について行ってくれるようにと。

「もう外出はできないのよ」白天使は、マスクをずらし、申し訳なさそうに言った。

 八嶋悦子からコインロッカーの鍵を預かっているとつづけて書くと、白天使の表情が一変し、日時は確約できないが許可をとって付き添うことを承諾してくれた。色白の彼女の顔にソバカスがあることを、はじめて知った。わたしの目は当てにならない。美少年だと思いこんだり、美人だと思いこんだり――感情が視覚を凌駕するのだ。

「ただし、中のものは徳永師長に見せますからね」

 男子トイレの水槽に貼りつけてあった鍵を見せると、白天使は「苦しまぎれに、出まかせを言っていると思ってたわ」とつぶやき、涼しげな目もとが細くなった。

 病室にもどる。

 紙袋に入れてあったルビーレッドの口紅を眠り姫のサイドテーブルにおいた。眠り姫がゴミ箱に投げ入れてくれることに期待したのだ。ローズピンクの口紅を八嶋悦子にわたせないことが残念だった。

 紙袋の中にあるはずのバンドエイドがなくなっていた。理由がわからない。自分の存在しない時間へ逃亡したいと思った。作者のミヒャエル・エンデは『モモ』の中で、「もう時間はいらないから送ってくるのをやめてほしい」と書いている。

  六月に入って、病院を囲む緑の色が日毎に濃さを増した。怪我から一○日ほど経っていた。ネットの帽子はとれたが、頭のてっぺんの大きな絆創膏はとれていなかった。

 意外なことに徳永師長の許可がおりたとかで白天使と二人で高槻駅に行くことになった。二つあるつむじがむき出しのままで、出かけたくないと言うと、白天使は、光輝の夏用の中折れ帽子を貸してくれた。縁が、数センチの男物の濃紺のハットをやや斜めにしてかぶった。

「まァ! ステキ」と、白天使は誉めてくれた。とってつけたような言葉とは、こういうときに使うのだろう。

 私服の白天使はすらりとした体型にはなやかな色合のツーピースをまとい、襟元の赤いスカーフが白い肌にとてもよく似合っていた。アビシニカの香りがほのかに漂っていた。大人と子どもの違いはあっても、由衣と雰囲気が似ている。しっかり者だけど、愛らしいのだ。由衣が大人の女性に成長したら、こんなふうな感じになったのかもしれない。わたしが、彼女の人生を奪った。由衣は永遠に少女のままだ。

 涙ぐむわたしに、「さぁ、元気を出して」と白天使は言った。「お出かけすれば気持ちが晴れるわ」

 病院の門の外に、軽のワゴン車が待っていた。心臓がドクドクと音を立てた。彼は運転席から降りると、白天使とわたしのためにドアを開けた。職務に忠実な態度だった。左の額から眉にかけての傷跡が目立たないように、ハンチング帽子を目深にかぶっていた。

 車で行くと、ものの十分とかからなかった。

 駅前の景色を目にするのは、三度目になる。この場所が虚構だとしたら、どんなにいいだろう。しかし通行人も迷路のようなバスターミナルも道路も、悲しいほどにリアルだ。現実時間だ。道行く人、全員がマスクをしていることもそうだし、いまだに絆創膏を貼りつけたわたしの頭の傷も、彼女の左手の小指の先がないこともかわらない。由衣を殺したことも……。

「実はね、病院の関係者は、わたしたちナースもふくめて、この近くの寮に住んでるのよ。寮と言っても、広くて快適なのよ。単身者は住めるの。いつか、詩子ちゃんも住めるといいわね。ナースの資格はむずかしいけれど、介護士の資格なら勉強すればなんとかなるんじゃないかしら」

 彼女は自分が何を言っているのか、自覚があるのだろうか。

 駅の構内にある、コインロッカーを見つけ、無作為に鍵を入れるが、合わない。

「順番にひとつずつ、やってけば、そのうちフィットするわよ」と白天使は言った。【13】に鍵は反応した。たしかに不吉な数字だ。押しこまれていたバッグの中身を白天使はたしかめたとたん、メガバンクの封筒を手にして咳こむほど笑った。

「当座の生活費にしかならない金額しか入ってないわ。詩子ちゃんも、いっぱい食わされたわね。彼女って妄想癖が強かったから――国内の口座にはほとんど残金がないことは、わかってたんだけれど――彼女らしいわ。ビットコインで大損したっていうのが、ほんとうなのかもね」

 ハサミ、千枚通し、缶切り、フォーク……。病院内で禁止されている金物ばかり入っていた。困ったときに、これでなんとかしろと言ってくれたのだと思うと、胸が熱くなった。

「彼女、娘さんに会えないって悲しんでいたでしょ? 実はね、彼女の話す娘さんて、再婚された方の先妻のお子さんなのよ。なのに、自分と血がつながっているように話してたでしょ? 三年くらい前だったかしら、亡くなったそうよ。八嶋さんは、その前から新館に入院してたんだけど、詩子ちゃんが入院する半年前に旧館に移ってきたの。もちろん、強制されたわけじゃないのよ。本人の強い希望でそうなったの」

 三年前だとすると……。教室で出会ったとき、八嶋悦子はつらい思いを抱えていたのだ。彼女はいまどこにいるのだろう? 何があったのか、くわしいことはなんにもわからないけれど、どこかで生きていてほしい。もし、いま、ここに彼女が現れたら強く抱きしめるのに。そして、謝るのに。靴で殴ったりしてごめんなさいと……。

《娘の名前は?》とメモ帳で訊く。

「えーと、たしか、園子さんだったかしら?」

 弥生ではなかった……。娘の名さえも、ココア色の靴と同じで、dummyだというのか?

     15 無数の時計

  エレベーターで旧館の二階にもどると、マスクをしていない浅右衛門が、灰色の顔を真っ赤にしてナースセンターを出ていくところに出くわした。白天使は素知らぬ顔で浅右衛門を見過ごし、何事かしらと小さく言った。

 歩いて螺旋階段を降り、病室にもどると隣のベッドが整えられていた。奏香は退院したのかもしれない。むかいの眠り姫は眠りつづけている。口紅は捨てたのだろう、サイドテーブルからなくなっていた。電池の消耗のはげしいCDプレーヤーを聴く気にもならない。母が行方しれずなので、売店で買物をしても代金を銀行で引き落とせない。気づいたとたん、欲しいものはなくなった。

 病室には言葉にならない重苦しい空気が流れた。

 翌くる日、衝撃のニュースが患者の間を駆けめぐった。浅右衛門の運転する車が高速道路の防壁に激突したというのだ。

 帽子を返しにラウンジに行くと、光輝のほうから近づいてきた。

「傷害事件を起こしたせいで、浅右衛門は解雇されたんだ。ヤケになって、院長の車で暴走したみたいだよ。救急搬送されたけれど、ダメだったみたいだ」

 あの日に、浅右衛門の言いなりになるべきだったのか。そうすれば、浅右衛門は死なずにすんだのか……。人と人は、それぞれ別の時計をもっていて、何かの行き違いで生死がきまってしまうのかもしれない。それぞれの時を刻む無数の時計がわたしを取り囲んでいる。

「院長の胸ぐらをつかんで殴りかかったんだ。あいつは頭に血がのぼると、やっていいことと悪いことの区別がつかなくなる」

 狂熱状態でわたしの頭を無残な格好にしたことなど、頭のてっぺんの絆創膏を目にしても、光輝は忘れたかのように話す。

「似たもの同士だよ、ウタと山田は」と光輝は平然と言った。「どっちも疫病神だ。山田は、ウタのいない新館へ配置換えしてほしいと院長に申し出たらしい。院長は真顔で言ったそうだ。『疫病神は旧館にいてほしい』ってさ」

 彼の悪罵は神経に刺さった。わたしは妹をたしかに殺した。この罪は生きているかぎり、わたしから去らない。

「疫病神は平気な顔で、これと思う相手を恐怖のふちに陥れる。ぼくの子どものころにも、うじゃうじゃいたよ、そういう残酷なヤツらは」

 小中学校のクラスメートを思い出した。彼らは弱者と思える対象を言葉で痛めつける。男も女も関係ない。人は自分より弱い者を見つけると、それだけで感情が高ぶるのかもしれない。気にくわない者を見つけると、よってたかって攻撃する。だから、もう一人のわたしは反撃したのだ。それを知らないわたしは、さらに孤独になり、他者に怯えるようになった。過去の出来事は、状況と相手を変えてわたしの前に常に立ちはだかる。昔も今も、傷つけることに快感をもつ人間の感情の解析は不可能だが、犯行をおかす人間の気持ちは解析できる。自分の心に問えばいい。

  浅右衛門が事故死する原因をつくったわたしは、その日のうちに逃亡をはかったことへの処分を言いわたされた。彼を片腕としていた徳永師長の怒りをかったのだ。病室で食事を摂るように命じられただけでなく、わずかばかりの所持金も取り上げられた。階上に行くことすら許されなかった。

 眠り姫は生きているのか、死んでいるのかわからない半死半生状態のままだ。まれに話すことはあっても現実感に欠けていた。

 震える手でクスリを服み、ろれつの回らない口調で独り言を言うのだ。「脳味噌がトロントロンになっても、時間が気になる~だめねぇ~、ここには~時間なんてないはずなのに~なんで死人の話が耳に入ってくるんだろぅ」

 時間はけっしてなくならない。どんなに拒んでも、かってに送られてくる。光と影と同じように時間と死は一体のものなのだ。

〈ナニ、しょぼくれてんだよ〉

 突然、オレさまの尖った声が聞こえた。

〈どうして教えてくれなかったのよッ。たった一人しかいない妹を、わたしが殺したことを――そんなの〝言霊〟じゃない〉

 こぶしで胸を叩く、なんども。

〈やっと思い出せたじゃねぇか〉

 オレさまの声は穏やかだった。

〈ずっとずっと忘れていたかったのに……〉

〈おまえの魂が、それを許さなかったんだ〉

〈こんなのひどいよ。残酷すぎるよ〉

〈おれの役目が、おわったってことなんだよ〉

〈どういういうことよ〉

〈お別れだ……〉

〈待ってよ。まだぜんぶ、思い出してない!〉

〈気にするな。いずれ、いやでも思い出す〉

〈待ってよ!〉

 オレさまは二度ともどってこなかった。ふいにやってきて、ふいに消えてしまった。ほんとうのひとりぼっちになった。父と由衣は時間のない場所へ去って、母は居場所どころか、生死さえわからない。これからさき、どうすればいいのだろう……。

 手首の傷跡をながめる。たぶん、わたしは、由衣を死なせたことを悔いて死のうとしたのだ。心が折れて曲がる気がした。閉じこめられていると思っていたけれど、洗面所とバスルームと階段と廊下――それらの限られた導線しか移動できないとわかって安堵した。罰っせられるべきなのだ。八嶋悦子にプレゼントしたかった口紅をもって、地下トンネルへ通じている螺旋階段下の床へ座りこんだ。ローズピンクの口紅で扉に落書きをした。バカヤロウと。

 由衣のすすり泣きが聞こえてきた。

 呼応するように足音が聞こえた。

 光輝は、手に楽器のケースをさげていた。壁の落書を目にしても、まばたきすらしなかった。

「一曲、弾いてやるよ」

 光輝はケースから取り出したバイオリンを手にした。

「うまく弾けるかな? ウタのせいで、ぼくの手、傷口があいたんだよ。謝るべきだよ。ぼくには謝罪の言葉をうける権利がある」

 彼は包帯をしている右手に弓をもつと、バイオリンをあごの下で固定し、弦の上をすべらせた。耳の欠けた横顔が、緊張感でこわばる。「アランフェス協奏曲」に似た雑音があたりに拡散した。

 光輝は弾きおえると、弦を見つめて動かない。瞳の色はよどんで暗い。彼が奏でる下手クソな旋律のようにその目は死んでいた。

「アルコール中毒のオバサン、こんどこそ消滅してしまったよ」

 何げに言うので、冗談ともうけとれた。

「地下トンネルで首をくくったんだ」

 声にならない声が、わたしの喉からもれた。

「こすっからい山田も、うざったい八嶋も、ぼくらの世界から強制的に排除された。まァ、一人は〝家畜〟のようなものだし、もう一人は、〝王のしもべ〟のくせに、反抗したんだから当然なんだよ。ふた言目には、神のしもべだと言ってたけど、助けてくれない神なんて、いないも同然だよ」

 八嶋は転院し、山田は車の事故で死亡したのではないのか!?

「ぼくには、ウタの未来が見える。はっきりと見えるんだーッ」

 絶叫に近い声は、無機質な壁にこだました。

「疫病神のウタは、一生ここから出られない。徳永や山田のような使用人でもないし、ぼくのように〝ネプリム〟でもないからね」

 どうしても解かなければならないが、解けない方程式を目の前に突きつけられた気分になった。

「ウタが隠し持っているもの、つまりさ、八嶋悦子が預けたものをぼくに渡してくれれば、ぼくら二人は監察官に認められて、最高権力者である〝主権者〟のしもべになれるかもしれない」

 八嶋悦子の荷物なら、少しの現金といっしょに白天使に渡した。それ以外に何を、寄こせというのか?

「協力しない気なら、ウタも、山田や八嶋のように制裁から逃れられない。どうなってもいいなら、それもアリだけどさ。監察官の決定することだけどね」

 わたしは立ち上がる。片手で光輝のバイオリンをひったくり、壁に打ちつけた。弦の悲鳴に、彼も共鳴した。

「なんてことするんだよーッ。いくらするバイオリンだか知ってるのかッ! 奏香のものなのに、弁償させるからな」

 奏香と光輝も、なんらかの関わりがあるらしい。野崎と光輝が兄弟ならそれもあり得る。もう一方の手にもつ口紅を、彼の眉間に押しつけた。ピンクの塊が付着し、片耳のないピエロに見えた。

 光輝は頬を引きつらせて、「勝ったと思うなよ、疫病神」と捨てセリフを吐いた。「かならず報復してやるからな!」

 疫病神は階段を駆けあがり、白天使を捜す。ナースセンターで、夜勤の看護師への引き継ぎをしていた白天使は、血相をかえたわたしを目にすると、「ここにきちゃいけないはずよ」と言って形のいい眉を眉間に寄せた。

 八嶋悦子に何が起きたのか、メモ帳で訊いた。

「光輝から聞いたのね。詩子ちゃんに言うと気に病むのじゃないかと思って、話せなかったのよ。黙っててごめんなさいね」

《いつ》

「野崎さんがいらした日よ」

 由衣を死に追いやったと気づいた日だ。同じ日に、八嶋悦子は命を絶ったというのか。

《地下トンネルで死んだって、ほんとう?》。

「んーそうなるのかしら。ご家族のこともだけど、あちらに非があるわけじゃなくってね、彼女が心の病気をわずらわなければ、乗り越えられた問題ばかりだったと思うわ。だれもが傷ついているけれど、我慢してなんとか生きてるのよ。彼女もそう思ったから――本人の希望でここへもどってきたのよ。でも、ひどく酔っていたの。詩子ちゃんが、入院した日のようにね」

《どうして会わせてくれなかったの》

「院長の判断で、もう少し気持ちが落ち着いてから、保護室から病室へもどすことになってたのよ。詩子ちゃんも不安定だったしね」

 保護室に入れられたのだと知って、頭に血が上った。

《原因はなに?》

「だれにもわからないわ。そうでしょ? 人の心なんてそのひと自身にしかわからないものよ」

 おだやかな話ぶりが不快だった。目の色だけで、感情を読みとることはむずかしいが、彼女の目に憐れみのかけらも見えなかった。

「もどってくる前に、遺書は書いてあったみたいよ」

 わたしはその場に座りこんだ。わたしの肩に、白天使は小指の先のない手を置くと、「彼女は、詩子ちゃんのおばあさんだとすぐバレる嘘をついて……。詩子ちゃんには理解できないと思うけれど彼女なりに一生懸命だったのよ。ただ、ご主人に気持ちを素直に伝えきれなかっただけだと思うわ」

 八嶋悦子は聡明すぎたのだ。数学の教師だった頃から彼女は、難解な言葉でしか怒りや悲しみを表現できなかった。だからアルコールに溺れた。いまのわたしなら、やさしい不等式の問題や、内角の和と外角の和の公式を使った平明でわかりやすい計算問題だったら解ける。どうして、わたしのところへもどってくれなかったのか……。

 山田介護士はほんとうに事故死なのかとメモ帳で訊く。白天使はなぜ、そんなおかしなことを訊くのかと訊き返した。八嶋悦子の言ったように、同じ日本語を使っても白天使や光輝と気持ちが通じることはない。

 病室にもどる。

 カーテンで仕切られたベッド周りを見回す。眠り姫のいびきが耳障りだった。またはじまったのか。これが、わたしの全世界。光輝のお告げを信じるなら、この先もずっと檻の中に閉じこめられるだけでなく、監察官とやらの決定する制裁の対象にもなるらしい。当然だと思う反面、数々の疑念が集積して頭は疑問符の溜り場となった。

 檻の外へ出る機会は二度とないのか……。

 八嶋悦子は逃亡し、再婚相手と再会し、義理の娘との永遠の別れを悟り、自らの手で死を選ぶ気になったのか? それならなぜ八嶋悦子は、病院にもどってきたのか? もしかすると、わたしが彼女に会いたいと思ったように、彼女もわたしに会いたいと思ったのではないか。彼女はわたしに言った。わたしたちはふたたび巡り会うと。

  四月に入ったばかりの介護士見習いの女の子と親しくなった――と言っても、話せるわけではないので、彼女の話を聞くだけなのだが、ある日、彼女が手招きし、二人でトイレに隠れた。

「山田介護士の遺体を見たの。霊安室から地下トンネルへ運ばれていく途中だったんだけど、シーツがエレベーターのドアに挟まれて偶然、見えてしまったのよ。顔にビニール袋がかぶせられてて、ぐるぐる巻かれたセロテープの上にバンドエイドが貼ってあったのよ。どんなに恐ろしかったか。わたしが、見たって知られたら、殺されるんじゃないかしら。だから、ここをやめようと思うの」

 別々の時間を刻む時計が、わたしのなかで動きはじめた。毎日、少しずつ生えていく毛先が渦を巻き、縦長の絆創膏の両脇を固めていた。黒い森をつらぬく道路のようだった。

     16 チェリー・レッドはどこに?

  次の日、白天使が、日光浴でもすれば気が晴れるのかもしれないから、絵画クラブに入会してはどうかとすすめにきた。院長の許可がおりたのだそうだ。クラブに所属すると、新館の屋上で風景画を描くことができるらしい。光輝も入っているという。受講することにきめる。 

 新人の男性介護士に引率され、新館の屋上にあがる。新館のエレベーターに乗っただけで旅行気分になる。円形の大理石の上に光輝が足を組んで座っていた。背中は一脚しかない椅子に預けていた。受講者は数人だった。看護するスタッフは防塵マスクか、クリアマスクのどちかを着用しているが、患者の大半は、使い捨てのマスクで病棟内をうろついている。

 透明のフェンスごしに見える竹林を木炭をつかってデッサンをしていた彼は、わたしに気づくと整った顔をあげた。自然光の中でも、あいかわらず美少年である。

「何を描いているか、わかる?」と彼はわたしに訊く。

 首を振ると、描きかけの絵を見せた。わたしはメモ帳に、『あんたに見える』と書いた。

「わかるんだ……」

 光輝はこぶしで画用紙の上をこする。墨絵のようにぼえける。

「ぼくは色がつかえない。とくに赤がきらいでさ」

 光輝とは距離をとって、屋上を囲む遮蔽板を支えるコンクリートの壁にもたれて座る。クレパスを手にする。モモのいる世界をイメージした。群青色の海があり、砂浜がつづき、熱帯雨林のような森に囲まれた古風な建物――ふと思いついて、草原を走る白い犬、道端にしげる草や花、ぽつぽつと火花をちらす線香花火、母の手とは異なるやさしい手……。好き勝手に描いたわたしの絵を見て、光輝が言った。稚拙な感じは否めないが、独自の色彩感覚が欠点をおぎなって余りあると言った。美術教師でもないのに、何がわかるというのだ。

「ウタには、才能があるってことだ。そう言われたからってよろこぶなよ。奏香は、バイオリニストだった実の母親のようになれるようにって、小さいころからバイオリンを習らわされたけど、モノにならなかった。それでおかしくなった。ウタも気をつけるんだな」

 胸のうちで嗤った。自分に才能があると思っていたら、〝ひきこもり〟になんてならなかった。何かを手に入れたいという衝動がなかったから〝ひきこもり〟になったのだ。

「ぼくは十三歳のときに、Xくんのように聖名をいただく儀式をしなかった。血をすすらなくてはならなかったのに……勇気がなくて子猫一匹、殺せなかった。だから、そのとき、耳を削いだんだ。自分の腑甲斐なさに絶望したんだよ」

 右利きで右耳の耳殻をどうやって削いだんだろ? ゴッホの自画像を思い出す。包帯をしていたのは左耳ではなかったか? 鏡を見て描かれたものだから、左耳でまちがいない。わたしは描いたばかりの絵の裏に、《弱虫のあんたはだれも殺せない。殺すまえに自分を殺す》と書いた。

 彼は白い顔面を真っ赤にした。

「ウタに何がわかる! 命が消滅することを自然の摂理だと思ってるやつは無知蒙昧だよ。ぼくはおまえなんかとちがって、0.01%以下、その中から選ばれた一族の子孫なんだ。レプは、いや、王の一族はこの世界を支配し、永遠に生きつづけるんだ」

《八嶋悦子も山田も、この病院に殺された。ここの連中のやってることをかならず、あばいてやる》

 描きあがっていない絵の裏に書きなぐり、引き裂いて空にむかって捨てた。風にあおられた紙が透明のフェンスの空中で舞った。それを見た光輝はポケットからウォークマンを取り出し、踏みつぶした。

「ウタはどこにも帰属できない。精神病患者にさえなれない。無知のまま切り刻まれるのが、自ら選んだ運命なんだ。おまえなんか、ひねりつぶしてやる!」

 介護士をはじめ、まわりの患者が怯えた顔つきになった。

  その日の午後、思いがけない人が病室にもどってきた。奏香だ。脳波の検査を受けにきたという。唐突に手を差し出す。

「ルージュはどこ? わたしにも買ってきたんでしょ」

 なぜ、知っている? 光輝から聞いたのか? どうでもいいが、彼らの間では、だれかが得た情報を記憶装置に書きこむと、べつのだれかがアクセスして取り出す仕組みができているのか? もうだれも信用できない。奏香こそ、天使のように見える悪魔なのかもしれない。母のためにとっておいた、母を象徴する色――チェリー・レッドを彼女に手渡した。

「いいこと教えてあげる。あんたのママから、ナースセンターに電話がかかってるそうよ」

 なぜ、先にそれを言わない!

  母の声は震えていた。母かどうか、たしかめずにいられなかったが言葉が声にならない。

「……まだしゃべられへんねんなぁ……あたしもいっしょや……もう人間やない〝家畜〟や……あんたもそのうち……」

 母の怯えが受話器ごしにつたわった。

「ごめんな……詩子」

 電話はぷつんと切れた。そばに野崎がいるのだろうか。少なくとも母は生きている。過剰な期待をしてはいけない。ここから脱けだす方法を第一に考えるように自分に言い聞かす。

 その夜、母の夢を見た。

 母とわたしは、見知らぬ荒野を走るトラックの荷台に乗っていた。絣模様の着物姿の母の結いあげた黒髪が、風に乱されている。はじめて出会った人のように見えるけれど、母だとなぜかわかる。若くて美しい。いまにも泣きだしそうで、さびしげに見えた。わたしは、どこへいくのか訊いた。母は答えない。草木のない荒涼とした薄闇の中をトラックはまっすぐに突き進んで行く。思わず、おかあさんと呼んた。幸せかどうかたずねた。母は目に涙をためて微笑み、いまから、パパと由衣の三人で旅に出ると言った。だから幸せだと。

 目覚めると、こめかみが涙で濡れていた。

     17 凍った時間の花

  知らないうちに七月になっていた。空調設備のおかげで、湿気や気温の上昇はさほど感じない。週に一回のクラブ活動では足りずに、病室でイメージ画を描いた。白天使が貸してくれたクレパスを動かしている間中、芥子つぶほどの自由を感じられた。電池切れしたCDプレーヤーは停止したままだ。家から持ってきた少年マンガも手にとる気がしない。父の書棚から手当たり次第に、読み散らしていた時間が、どれほど贅沢だったのか、ようやく気づかされた。

『モモ』も父の書棚にあった。

 螺旋階段の下の空きスペースからもどると、奏香がわたしのベッドに座っていた。明日から週末なので、別荘へ行くといという。帰ってきたばかりなのに……外泊許可? 平静にうなずいたつもりだったが、唇を噛みしめていた。

「詩子もいっしょにくる?」

 舞い上がりそうになったが、お嬢様は貧乏人の気分に忖度などしない。持ち上げて、引きずり下ろす。

「あの女が、おじいちゃまに頼むから行けるよ」

「……」 

「おじぃちゃまは、この病院の理事長なの。ゆってなかったけ?」 

 その夜、睡魔に誘われるわたしに奏香はささやいた。

「詩子が、青黒い月の真下で、たった一人で泣きじゃくっているんだ。アタシとは、おおちがい。パパは転勤を断るはずよ。だって、金目当てのあの女の口車にのるはずないもの」

 彼女は残酷な美少女だ。わたしはカーテンを閉めきり、灰色の紳士がモモに言った言葉を胸の奥で反芻した。「おまえはあらゆる人間から切りはなされてしまったのだ」と。

 母は野崎を介して、理事長にわたしを会わせようとしていた。なんのために? もう一度、さいしょから何が起きたのか、順序立てて考え直す必要があった。オレさまがいないのだから、自分の頭で、ぜんぶ、考えなくてはならない。

  どんな話し合いがなされたのかわからないが、奏香のウチに土曜日の夜、泊まれることになった。迷惑はかけられないので逃げたりできないけれど、隔離された空間からほんの少しの時間でも脱けだせると思うと、うれしくて泣きだしそうになる。監視つきで週に一度、屋上へ行くことしか許されていない、そんな状況のわたしには、大嫌いだった乗り物に乗って遠くへ出かけるなんて、スペースシャトルに乗って外国へ行くにひとしかった。

 奏香はクスリをもらうために、ナースセンターに出かけていた。ため息をもらす。着替えの服がない。母は夏服を送ってくれない。あるのは、丸い首まわりと袖口のふちが青い色の半袖の体操服。これを、ヨレヨレのジーンズの上に着るしかない。

 いびきが聞こえないと思ったら、眠り姫がむくむくと起き上がった。彼女はベッドから下りると、自分のロッカーを開け、タンクトップとシャツブラウスを取り出して、投げてよこした。夏用の長めのスカートも。

「ルージュのお礼よ」

 彼女は真新しいバックパックも引っ張りだした。

「これに入れて持っていくといいわ」

 いつもは舌がまわらず、とろとろ話すのにきょうの眠り姫はちがっていた。「靴もあるわよ」と言う。首を振る。足のサイズが合わない父の靴を、わたしは手放せない。

「あなたみたいな子どもはソンをするのよ。はじめて副担任になったとき、張り切ってたわ。あなたとはちがう意味であつかいにくい男の子がいたの」

 眠り姫は、腫れぼったいまぶたをあげた。美人ではないけれど、奥二重のまぶたの丸い目も、先の丸い鼻も、口尻のあがった小さな口元も、もともとは好感のもてる顔立ちだったにちがいない。平板だった顔がむくんだせいで、焦点のない顔立ちになってしまったのだ。

「陰気で生意気な子でも、熱意があれば、手助けできると思っていたわ。わたしの指導教師も、付き合っていたヒトもそう言ったし……」

 彼女は天井を見上げた。

「一人一人の子の能力をクラス全体のレベルに合わせるように指導することが大事なんだと、彼に教わったの。でないとクラスを作れないと言われたわ」 

 彼女も教師だったと知って一瞬、不信感がよぎった。

「頭はいいけど、他人に対して閉鎖的なその子の欠点を直してあげようとしたのよ。まわりとコミュニケートできる性格でないと、社会に出てからたいへんでしょ?」 

 クスリでむくんだ彼女の表情に、陰湿なものを感じた。

「わたしなりに必死だった。それなのに……ひどい目にあったわ……いまだってそうよ。こういうの、悪縁っていうのかしらね。どうやっても逃げきれない。だから――」

 奏香とおかあさんが入ってきた。眠り姫は口をつぐんだ。

「その格好、ナニ、笑えるぅ。だって、髪型と服がゼンゼン合ってないじゃん」

 絆創膏がとれたあと、傷跡に被さるように丸まった髪が生えてきたが、両脇と長さが違うので、白天使が真ん中に合わせて適当にカットしてくれた。丸坊主よりマシだけれど、みっともないことに変わりはなかった。ニワトリのトサカどころか、シメジとそっくりなのだ。

「さぁ、奏香ちゃんも、お支度しなさい」と、おかあさんは言ったあと、わたしを見て、「かわいいわ」と言ってくれた。

「ああ、メンドくさい。洋服なんて、なくなればいいのに。母親ヅラしたヨシエがいっしょだし、最悪よ」

 恵まれた人間は、不足している人間の半分も喜べないことをはじめて知った。わたしにとっては、母親の運転する車で出かけるなんて夢みたいな話なのに、奏香には日常のことなのだ。夢が消えてしまわないうちに、貸してもらったバックパックを背負い、黄色い実のなったアビシニカの植木鉢を腕の中に抱えた。

「そんなのもってどーすんの……一泊するだけなのに」奏香はぷくんとした唇を尖らせた。

「行きましょうか?」おかあさんの声が力づけてくれた。

 いったん病室を後にし、すぐに眠り姫のベッドに駆けもどり、『モモ』をイメージして描いた拙い絵を彼女の枕元に置いた。モモが、カメのカシオペイアと星空を飛んでいる絵だ。彼女はシーツを頭からかぶったまま、手の先だけを外へ出し二、三度ふった。

 新館の一階ロビーで、外泊許可書にサインをもらっている間も植木鉢を胸の中で抱いていた。徳永師長に見とがめられた。

「こっちへわたしなさい」と言われ、植木鉢を取り上げられた。

 徳永師長は女子職員に新聞紙をもってこさせると、ゴム手袋をし、トゲに刺されないように素焼きの植木鉢をひっくりかえした。ぶちまけた土に手をつっこんだ。

「何をなさってますの?」

 ヨシエさんが徳永に問いただした。

「危険なものを、隠しもっているかもしれません……」

 徳永はしどろもどろになった。

「ちょっと行きすぎではありませんか?」

 めちゃくちゃにされた植木鉢の土をなんとか元通りにすると、もう一度、抱きかかえた。涙がこぼれないように、目元に力をこめた。泣きだすと、とまらなくなる。もし、そんなことになると情緒不安定だとかなんとか言いがかりをつけられて、外出許可が取り消されるかもしれない。

「面倒な子ですから」と徳永は言った。「可愛げはないし」

 ヨシエさんは徳永に言った。「ご心配なく、詩子ちゃんはたしかにお預かりしました」

  地下駐車場をすべり出た、ブルーグレーのワンボックスカーは、わたしを自由へと運んだ。車はまっすぐの高速道路を走り、インターチェンジから間道に入り、気づくと緑の渦の中にいた。奏香とヨシエさんの言葉づかいから都会的な印象を抱いていたわたしは、ヨシエさんの運転する車が、病院のある場所よりももっと奥へ移動して行くのにびっくりした。海辺に向かうものと思っていたからだ。コンビニがないなんていうのではない。車道はあるが、人家はほとんどない。たんぼすらない。道路の両脇は山林だった。深い森の中をぐるぐるさ迷っているみたいな感覚にとらわれた。進んでいるのかどうかさえ、よくわからない。

「買ったばかりの家なのよ。休暇で日本に帰ったときに過ごすのに、いいかなぁと思って――主人がすすめてくれたの」

 大きな木の枝が道路の両側から重なり合うようにのびていた。樹木のつくったトンネルをくぐり、ふいに湖の見える山裾にやってきた。こんなところに湖があったのか。どことなく見覚えがあるこの景色――わたしの視覚は記憶をたどろうとするが行きつけない。奏香の外出日のために用意した家だという。なだらかな山へとつづく広い庭があった。名も知らない鳥の声や花や実のなる木々が、瓦屋根に板張の平屋のぐるりを飾っていた。遠くから眺めると、モスグリーンのカーテンで囲まれているように目に映る。病院を囲む鬱蒼とした樹木は外部との遮蔽を目的としているように見えたが、この家のまわりの木々は、さ緑色で風景と融和している。何よりも、外にむかって開かれていた。

 サン・サースの「白鳥」が聴こえてくるようだった。

 カラカラと音を立ててひらく戸口を入ってすぐに、囲炉裏があって、広い土間があった。古い民家を買ったのだという。

「びっくりしたでしょ? わたしの長年の夢で、こういうところに住んでみたくって――だから、主人は通勤がたいへんで、ふだんは梅田のマンションに住んで週末に――」

「あんたの気取った声を聞いてると、ぞっとするわ」

 奏香はヨシエさんの言葉をさえぎった。

「お面を被ったような顔もだけど」

 抜けるような色の空と目がまぶしい緑がふんだんにあるところに住んで、日本昔話に出てくるような家があって、素敵なヨシエさんがいて、わたしの夢見たもの――そのすべてを手にして、奏香は何が気にいらないんだろ?

 もしかすると、奏香は父親以外の人を見たくないから、見えないものが見えて、聞こえない声が聞こえるのかもしれない。土間に入ったところで、ヨシエさんは奏香とわたしを振りむいた。

「まだ帰ってないのかしら」彼女は囲炉裏の向こうを見やる。

 奏香はむっとした顔つきになった。「パパはあんたとちがって、忙しいのよ」

 父親に対して、どんなささいな苦情も彼女は受けつけないようだ。

「ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。きょうは昼前に帰ってくるって聞いていたから」

 ヨシエさんは、わたしのほうを見て悲しそうに微笑んだ。わたしは目を合わさないように天井の梁を見上げた。紐かと思ってよく見ると、小指より少し太いくらいの蛇が梁にぶらさがっている。エメラルドのネックレスみたいだった。天井を支える真っ四角の太い梁に見覚えがある。いつ、見たのか?

 エンジン音が聞こえた。

 開け放した引き戸から見える、砂利の車止めに流線型の黒い車が停まった。車体は黒だが、屋根はビロードでできているような光沢のある薄墨色だった。

「あッ」

 奏香は小さく叫び、ポシェットを投げすてると、夏の光があふれる戸外に駆け出していった。ボンネットの低い車のドアが開き、バラの花束をかかえた男の人が降りてきた。

「ただいま、ぼくのゼフィルス!」

 しわのまったくないグレーのスーツに、派手なネクタイをしめた男の人は軽く手をあげ、大声で言った。奏香は、パパと言って、広げた腕の中に飛びこんでいった。奏香のおとうさんは、赤い花びらを散らさないように、肘と腕で彼女を抱きとめた。彫りの深い顔立ちのその人の髪は、俳優のように栗色に染められていた。 

 ドラマのワンシーンを見るような状況を目のあたりにして、羨ましい以外のどんな言葉で表現していいのかわからない。戸惑いが先立つ。わたしの生育環境とひきくらべるとき、こんな光景は一度も目にしなかった。父はやさしかったが、家にいる時間が少なすぎた。物語や映像の世界でしか知らない、これらの光景に記憶があるはずがない。ついさっき感じた既視感は、わたしのつくり出した物語の幻想なのだ。

「待たせたね、お腹がすいただろ?」

 おとうさんは戸口で待つヨシエさんを無視し、奏香にだけ声をかけた。もちろん、わたしのことも視野に入らないようだ。急ぎ足で通り過ぎた。ヨシエさんは、だれにも気づかれないように涙をそっとぬぐった。

 自分の勘違いを恥じた。

 夕映えのいわし雲が消えると、入れ代わりに細い月が雲の隙間から顔をだした。

「今夜は新月だから、お月さまを眺めながら、お食事をしましょう」と、ヨシエさんは弾んだ声で言った。弓形の極細の月は、ヨシエさんの心を形にしたようだった。はかなげなのに、懸命に居場所を誇示していた。

  障子を開けると、縁側があった。そこに長い座卓を置いて早めの夕ごはんを食べることになった。横一列にならんだ。左からおとうさん、奏香、わたし、ヨシエさんの順。バラの花はバスケットに入れて座卓を飾った。手入れの行き届いた庭には睡蓮のうかぶ変形の池と無作為に見える大きな岩。非対称の庭園のそこかしこを照らすためのランタンが置かれていた。この景色の中に白い犬がいればどんなにいいだろう。

「ゆでたナスを、酢味噌で食べるだけなの」

 近くの農家から畑を借りていて、ヨシエさんが作っているのだという。

「土日しかやらないから、うまくいかないんだけれど、すごくたのしいのよ」

 いくつもならぶお皿の料理はすべて野菜。エコロジーの家風なんだと思いながらナスを食べる。

「おいしい?」と訊かれ、うなずく。

 食品添加物を食べて育ったので味覚神経が鈍いような気がする。深く味わうことなんて無理。いまも甘酸っぱい味しかしない。でも、なつかしいと思う。記憶の底で眠っていた味がする。

 幼いころ、父と母とわたしの三人でごはんを食べたことが、記憶の片隅に残っている。具のないオムライスだったけれど二度と味わえないほどおいしかった。そのころの母は、ぷくぷくした頬をしじゅうほころばせていたような気がする。いつから、わたしたち家族は、この家族と同じようにむき合わない間柄になったのだろう。ナスのやわらかい触感を噛みしめながら思い返す。家族そろって食卓を囲むことがなくなったとき、父と母は家族を見捨てる気になったのかもしれない。

「どうかしたの?」ヨシエさんが気を使ってくれる。

「正直に言えばいいのよ、まずいって。なんにも食べるものがないって。ねぇ、チーズか、生ハムか、なんかないの?」

 奏香はそう言って箸をつかわずにレンコンをつまみあげた。思うことをそのまま話して、心が通じ合う家族なんて、あるのだろうか。奏香の継母である、ヨシエさんは料理の話をすることで、家族とつながろうとしているように見えた。

「レンコンの煎りだしよ。ご近所の農家でいただいたレンコンを素揚げして、それに大根おろしともみ海苔をそえて、お醤油をかけて食べると、自然の香りがして幸せな気持ちになるの」

 何を食べても、幸せな気持ちになれないと、告白しているように聞こえた。おぼろ月夜というのだろうか、雲にかすんで美しい。はかないと思った。何がはかないのか、はっきりしないが、割り切れない円周率を割り切れるところまで計算しつづけている気分だった。ほんとうは感情を必要としない数学がスキなのかもしれない。

 無性に八嶋悦子に会いたいと思った。刺だらけのアビシニカに月を見せてやりたくなった。ヨシエさんにメモ書きで、ことわって一枚板のテーブルの端に置いた。食事が終わり、紅茶が出ていた。ラフな服装に着替えたおとうさんは一瞥もしなかったが、わたしは平気だった。この景色を八嶋悦子に、どうしても見せたかった。

「なんて名前なの?」とヨシエさんに訊かれ、メモで伝えると、「アビシニカも、お月さまを眺めているように見えるわ」と彼女は言った。

「せっかくお茶してるのに、なによ」と、奏香は言った。

 おとうさんはカットグラスでウィスキーを飲みながら、奏香の耳元に顔を寄せた。何か囁いた。わたしやヨシエさんには聞こえなかった。

「ヘンな植木がね、パパを欲しいってゆってるって!」

 わたしは大急ぎで、アビシニカの植木鉢をテーブルの下に置いた。奏香は立ち上がると、わたしの隣に来た。止める間もなく、スプーンの先で植木鉢を押した。アビシニカはテーブルから庭に落ちていった。植木鉢の割れる音がした。

「ごめんなさい!」

 ヨシエさんは裸足で縁側から庭に下りると、土のついたアビシニカを持ち上げた。どうしていいかわからず、わたしは隣に立つ奏香を見た。

 奏香はわたしと目があうと、「だって聞こえるのよ。あたしが嫌いだから、パパを盗ってやるてゆーのよ」

「あなた、あたらしい鉢を――」とヨシエさん。

「そんなものないよ。きみが捜せばいいじゃないか」

 お父さんはぶっきらぼうに言って、それでも座敷の奥に立って行った。

「これは……?」

 ヨシエさんはトゲのあるアビシニカをじっと見ていたが、縦に割いた。土といっしょに、からまる根っこの間から、セロテープで保護された鍵が地面に落ちた。

「徳永師長さんが捜していたものは、これね」

 ヨシエさんは拾いあげると、見つけた鍵をわたしに手渡し、アビシニカはうちの庭に植えてやりましょうと言った。

「もう、寝る」奏香はスプーンを投げ出し、立ちあがった。

 ゴミ用のビニール袋を手にもどってきたおとうさんは、「ゼフィルスのためにつくった庭なんだよ。そんな貧乏くさいものを植えるなよ」と言った。ヨシエさんは素手で庭のすみにアビシニカを植えた。傷だらけになったはずだ。わたしは鍵を握りしめた。アビシニカは、わたしにとっては〝時間の花〟だった。灰色の男たちに盗まれたものだ。〝どこにもない家〟に住むマイスター・ホラはモモ言う。「時間の花は、全力を振りしぼって、自分の持ち主のところに帰ろうとするのだ」と。八嶋悦子の気持ちを思うと、自然と涙がこぼれた。

「きっと、とても、大切なものだったのね」と、ヨシエさんは言った。「もし、母が生きていたら、内緒にしなくちゃならないことを、どうにかして伝えたと思うわ。いまのわたしには、言い残したい言葉自体がないわ。だれがなんと言おうと遺書なんて、書く気にならない」

 父は言葉を残し、遺書を残していた。山田も八嶋悦子も遺書があったと白天使は言った。爪をかむ。突然、思い出した。わたしが、由衣の化粧箱にバカヤロウと書いたとき、由衣はノートの切れ端に短い言葉を記し、わたしの部屋のボードにバンドエイドで貼りつけた。なんて書いてあったのか、どうしても思い出せない。あとちょっとで何もかも思い出せる気はしているのに。

  木戸のある坪庭の見える桧の風呂に入ったあと、泊めてもらう部屋にヨシエさんに案内してもらう途中だった。彼女はふいに廊下の端で立ち止まった。

「たのしくなくて、ごめんなさい」

 首を横に振ると、化粧を落とした素顔のヨシエさんはためらいがちにゆっくりと言葉を紡いだ。

「がまんしちゃ、だめなのに。結局、だれのタメにもならないとわかっているのよ。でも、どうしていいか……」

 彼女は長い指の手は胸の前で組んた。

「ゼフィルスって蝶々のことなのよ。そよ風の妖精ともいうの。あの人にとって、奏香ちゃんだけが家族なのよ。わたしなんてお手伝いさんみたいなものなの。彼の目には、妖精しかうつらない」

 緑の羽根の妖精――きれぎれの記憶を、どうにかして繋ぎあわせようとしても凍りついた〝時間の花〟は容易に溶けてくれない。

「近ごろ思うの。自分の心に目をつぶってしまっていいのどうかって……。その時がきたら、ためらわずに実行すべきなのよね」

 ヨシエさんは、自分自身に話しかけているようだった。

「昔ね、ナイトクラブで働いていたのね。母が病気でしかたがなかったのよ。だから、お客さまの一人だった彼に結婚を申しこまれたとき、天にものぼる思いがしたわ。再婚でもいいと思った。だからどんなことが起きても、よき妻であるより、奏香ちゃんのいい母親でありつづけようとしたの。でもだめみたいね。わたしね、人生って、努力が報われるものだと思ってた。母が亡くなるまで懸命に尽くしたわたしには、それなりのご褒美があるんだと信じていたの。どうしてかしら……」

 部屋に入ると、妖精は、座敷に敷かれた布団の上であぐらをかいていた。この匂いだ。畳のいぐさの匂い、洗い立てのシーツのかかった布団の匂い、そして襖の山水画。飾り棚のある床の間、その隣にある縦長の空間。この家の、この部屋で、わたしは眠ったことがたしかにある。凍った記憶が少しずつ溶けていく。歩くことがたのしくてしかたがない頃だ。赤ん坊でも、子どもでもない、意識と無意識がないまぜになった混沌とした世界の住人だった時期に、わたしはここへきたことがある。この部屋の匂いを臭ぐと、祖母のやさしい手を肌に感じられた。線香の匂いを思い出す。空間には、仏壇があった。朝夕、手を合わす祖母の後ろ姿をおぼろげに覚えている。

「これで逃げられると思ったら、おお間違いよ」

 奏香は、まっすぐの美しい髪をとかしながら言った。

「わたしの前にいた人が、隠していた鍵が見つかったんでしょ」

 奏香は同じところをなんどもブラッシングし、髪がなめし皮のようになっている。布団の上に、長い髪の毛が何本も落ちていた。

「詩子と違ってわたしは周りのことが気になンの。だからぁ、耳がいいの。詩子は金子逸見のことも無関心だよね? 彼女の手首を見たことある? 詩子のように遊びで切ったんじゃない傷跡がいくつもあるんだよ」

 妖精は興奮しているのだろう、声の調子が一定しない。

「あんたは何も知ろうとしない。アタシのことだって、そうよ。聞く気がないのは、画廊で会ったときからわかってたもの」 

 奏香の話を聞きながら、いつも病院で着ているジャージィの上下に着替える。金子逸見に借りた服は、皺にならないようにていねいにたたんで、バックパックに入れた。

「せぇーんぶ、山田から聞いたンだからね」

 奏香はブラシを握りしめ、わたしの足元ににじり寄った。こぼれおちそうな大きな目が、わたしを見上げる。

「金子逸見はね、詩子のおかあさんと暮らしてる男の人に裏切られて、おかしくなったんだってぇ」

 わたしはふた組、敷かれた布団の一つに腰をおろした。

「金子逸見が、手首を切ったのは、詩子のうちのキッチンらしいよ。そんなに昔のことじゃないって――彼女が前に入院していた病院の外出日に、男の人のいる詩子の家に押しかけたそうよ。あんたのおかあさんに恨みのある彼女が、服やバックパックを貸してくれるなんてへんよねぇ。何か、たくらんでるはずよ」

 奏香は、相手の「男」が何者なのか知らないようだ。彼女をモデルに描いた「男」がその相手だと。

「死んだ山田から聞いたんだから、たしかよ。あんなやつ、ほんのちょっとお小遣いを奮発してやれば、なんだってしゃべったわ。でね、アタシの前に入院していたヒトに、恩を売ってやったって山田は自慢してた。自分の部屋にも連れて行ったって……。あんたも、もう少しでヤられるところだったんでしょ?」

 奏香は細い首をのばし、むかい合うわたしの目を覗きこむ。

「病院にとって、自分はなくてはならない存在だってゆってたけど、山田がいなくなっても病院はなんともなかったよねぇ」

 奏香は口元をゆるめ、たのしくてたまらないという表情を見せた。

「詩子をかまってくれる人なんて、もう、どこにもいない。これも山田から聞いたんだけど、あんたのおかあさんは、あんたを入院させたその足で、いなくなったんだってね。詩子は捨てられたのよ。あんまり、かわいそうだから、外に連れだしてあげることにしたの」

 奏香は、ふふんと鼻で笑いながら、「鍵を見られてしまったから、詩子の靴は、ヨシエがどこかに隠したはずよ。雨戸だけは、アルミサッシで電動で閉まるようになってるから開かないし、袋の鼠よねぇ」

 野崎の名が伏せられていることから察すると、彼の指し図で山田は、奏香に内密の話をもらしたにちがいない。わたしをこの家に誘うこともふくめて、野崎の意図したことのようだ。ということは、野崎と奏香の両親のどちらかと繋がりがあると考えていい。わたしをどうにかするつもりなのだ。山田のように、事故に見せかけて殺されるのかもしれない。光輝のいう「制裁」されるのだ。

「理事長は、わたしの死んだママのおとうさんなの。わたしのほんとのおじいちゃまなのよ。だからァ、パパも、後妻のヨシエもわたしを粗末にできないのよねぇ。そういうことなんだ」

 ゾワゾワと木々がさわいでいる気がした。

「石塚から聞きだしたんだけど、ほら、事務長の女よ――聞きたい? 特別の情報よ。詩子のおかあさん、あんたを捨てるちょっと前か、その前くらいか、よくわかんないけど、ポーアイの病院で働いていたんだって。身元引受人の職業欄に書いてあったって、ゆってた」 

 お休みのあいさつをするのだと言って、奏香は、手鏡をながめてルビー・レッドのルージュを唇に塗った。寒気がした。彼女は、父親の寝室へスキップで出かけた。しばらく待つと、彼女はもどってきた。唇をティシュでぬぐうと、枕元を水を飲み、すぐに眠りに落ちた。彼女が父親に甘えている間に、彼女の薬袋にあった睡眠薬を入れておいたのだ。

 靴下を二枚はいてバックパックをぶらさげ、トイレへ行く。バックパックの底を隅々までさぐる。芥子粒ほどのGPSが見つかった。トイレに流した。記憶がまちがっていなければ、トイレの横の雨戸が一枚、一番下の桟を横に引けば、あくはずだ。家の中に仕掛けをつくることが、子どものころから周平は大好きだったと、祖母は言っていた。

 生け垣をまたぎ、薮をかきわけ、行き先も方角もまったくわからないけれど、月あかりを頼りに、車で来た道と逆方向と思える森の中をひたすら走った。これからどうするのか、どうすればいいのか、迷いと焦りが頭の中を錯綜した。そのときだった。白い犬がわたしの前を駆けていく。あとを追った。

 夜明け前、霧に包まれた。白い犬が目の前からかき消えた。子どものころ、この道をたしかに歩いた。自分さがしという言葉をよく耳にするけれど、わたしは壊れた記憶の欠けら〝時間の花〟を拾いあつめていた。

  朝靄が晴れて、林道を歩いていていることが確かめられた。足跡があったからだ。どこに向かうか定かでないが、足跡に沿って進むことに不安はなかった。半透明のウロコ状の紐を踏んだ。ヘビの脱け殻だった。きのう、家の梁にぶらさがっていた、エメラルドの色をしたヘビが脱皮したのだ。そうじゃないとわかっていたが、一つ一つの出来事がわたしにそう思わせた。

 人家の見える舗装道路に出てからも、高槻駅から出来るだけ遠く離れるのにはどうすればいいのか、考えつづけた。何者かに導かれるように無人の野菜売場を見つけた。《お金を入れてください》と書いた箱に、黒地にピンクのバラの付け爪が引っ掛かっていた。

 争ったあとの痕跡が、残っていた。周辺の小枝が折れていた。爪をかむ。母は、ここでだれかと会う約束をした。なんの話をするつもりだったのか。たたずんでいると、犬をつれた老女が通りかかった。わたしが歩きだす前に、彼女はまがった腰をのばし、「履き物がないんか?」と訊いた。

 白と黒のまだらの犬は尻尾を振った。

 手ぬぐいで頬かむりをした老女は、すぐ近くにある自分の家で休んでいくように言った。広い縁側に座った。いま目の下に見える湖面に移る景色はジオラマのようで、箱庭でつくったミニチュアの自然の景色と似ていた。イメージ画とも――。

「ここから瓦屋根が見えるやろ?」と老女が指差した。「あの家にわてくらいの年寄りが一人で住んでたんやけど、犬をほっぽって急におらんようになってしもてな。人づてに聞いた話やと、だれかにむりやり連れて行かれたらしい。あとに残された犬は繋がれたままやったから、かわいそうに餓死したみたいや。酷いことや」

 記憶にまちがいはなかった。さっきまでいた家は、父方のおばあちゃんの家だ! 由衣といっしょに暮らすずっと前に、わたしはなぜか、おばあちゃんの家にいた。

 縁側に座って、あやとりを教えてもらった。夜中に、お腹が痛いと言うと、すべすべした手で、わたしが眠るまでさすってくれた。そして、白い小犬がわたしの唯一の友達だった。闇夜に道しるべなってくれた犬は、シロだ。シロは、わたしを助けるためにやってきてくれた。〝言霊〟のオレさまのように……。

 まだらの犬の頭を撫でる。

「あの婆さん、生きとるのか、死んでしもたんか。ついふた月ほど前にも、怒鳴り声や叫び声が聞こえてきてな。薄気味わるうてかなわんのや。あんたは、けっしてあの家へ行ったらあかんよ」

 両親は、祖父母の話はいっさいしなかった。由衣はおばあちゃんがいることすら知らない。わたしは記憶に蓋をした。話してはいけない雰囲気を、子ども心に感じていたのだろう。

「あの家の孫か?」と訊かれ、うなずいた。「あんたのことは、宇梶の婆さんから始終、聞かされてたよってな。他人の気がせん」

 父の好んだブルーグレーのワンボックスカーが、舗装道路を猛スピードで走って行く。駅にむかっているのだろう。ヨシエさんは、わたしが逃げると思っていなかったようだ。

「シロが飛び出してったから、なんかあったとは思てたんや」

 老女は言いながら古めかしい茶箪笥から封筒を取り出した。

「この家も間借りしてるだけやし、年金暮らしやよってちょびっとや。きのう、車の音が聞こえて、もしかしたらと思うて、用意して待っていたんやで」

 メモ帳に《ありがとうございます》と書き、両手を合わせて話せないことを詫びた。スニーカーと靴下を用意してくれた老女の手は、白くほっそりしていた。もし、口がきけるなら、白と黒のまだらの犬にシロと名づけた、あなたはだれですかと、問いたかった。

「ええか、気ぃつけていくんやで。かくもうてあげたいんやけど、そうもいかんのや。かんにんな」

 老女は名残り惜し気だった。両手を差し伸べて、わたしの手を握りしめた。そして、わたしを連れ出し、近所の農家に頼んでくれた。「この子の行きたいとこへ送ってやってもらわれへんか?」

「あんたには、世話になってるよって、かまわんで」

「おおきに」と、老女は深々とお辞儀をした。そして、わたしを振り返り、目に涙を浮かべた。気をつけるようにと何度も言った。

 軽トラの荷台に乗って、京都駅へむかった。新幹線のチケットを買い、京都駅から新神戸駅へむかった。はじめて乗る流線型の弾丸列車は、わたしを過去へ運んだ。あの老女はおそらく祖母だろう。画廊で出会い、新館のロビーで見かけた和服姿の婦人と同一人物だ。彼女は、祖母だと知れらぬように変装していた。

 母が、病院にくる途中の道で電話をした相手は祖母ではなかったのか。落とし前をつけたいと言った相手もだ。祖母は、借金に苦しむ息子を助けないばかりか、見殺しにした。というより、手助けできる立場になかったのかもしれない。母は祖母の置かれている状況を知らずに、野菜の無人販売所で祖母と会う約束をしたようだ。裏切られるとはつゆ知らずに。

 祖母は言った。あの家から悲鳴が聞こえたと。祖母はおそらく母が拉致される場にいた。母は命こそ、奪われなかったが、あの家に連れて行かれて、酷い目にあったことは想像がつく。

 画廊や病院のロビーで理事長に付きそっていた祖母は、病院側の人間なのだ。ただし、奏香は、彼女をお手伝いさんだと言った。理事長のもとで徳永師長のような役割をしているのかもしれない。組織における祖母の立場は不明だが、彼女は少なくとも孫のわたしを助けた。そうする訳があったのだろう。八嶋悦子は、祖母とわたしの関係を知っていた。だから、病院にもどったとき、祖母だと偽ったのだ。わたしに祖母の存在を報せるためだったのか?

    18 カシオペアの父

  父が転落死したとき、事情聴取をした二人の刑事が黒いマスクをし、わが家の外にある低い煉瓦塀に腰かけていた。彼らは父の車があった場所に車を停めていた。油布家の別荘からわたしが逃げたあと、ここに帰ってくることは、野崎にとって想定内のはずだ。しかし、なぜ、あのときの刑事が見張り役なのか?

 露地奥にしゃがみこむ。二人とは、数メートルしか離れていない。通りを挟んで真向いに建つ家と家の間隔は数十センチ。どちらかの家が、通り抜けできないようにブロックを積んでいた。野崎が見張っていると思い、用心していたわたしは海側からでなく遠回りをして、山側の車の通れない道を選んで家の近くまできた。

 脂顔の刑事が舌打ちをし、細顎の刑事に声をかけた。「おい、八嶋監察官からメールがきたで。携帯の位置情報から居場所がわかったそうや」

「ガセネタやないでしょうね?」

「三ノ宮のスタバに宇梶美姫がいるみたいやな。居場所が長いことわからんかったのに、なんでまた突然、現われたんやろな? 出てこんでもええのに――めんどくさいこっちゃ」

 二人の刑事は、わたしが逃亡したことは知っているのに、母が何者かに拉致されたことは知らないようだ。知っているのは、祖母とその協力者だけなのか……?

「八嶋監察官じきじきのご命令とあればいたしかたないっスけど……。いくら弱みを握られてるからいうて、せっかくの休みに私用でつかわれたら割にあわないっス」

 警察車両の後部座席にいた灰色の紳士の苗字は、「八嶋」らしい。黒縁眼鏡をかけた鼻が目立つ、鋭い目つきのあの男が、八嶋悦子の再婚相手なのか? 光輝が口にした監察官と同一人物なのか?

 八嶋悦子は言った。「夫は、四人いる〝管理人〟の一人になるために、わたしと娘を裏切った」と。

 仮に同一人物だとして、なぜ、その男が、母やわたしを追うのか? 母がわたしに電話をかけてきたことを、病院側に立つ八嶋監察官ならすでに知っているはずだ。もしかして知らないのか? 八嶋悦子の言う、「四人の管理人や主催者」と八嶋監察官とは深い関わりがあるはずなのに……。八嶋監察官から事情聴取された母は、彼が何者なのか、まったく知らない気配だった。取調室で、監察官に事情聴取された母の腹立たしげな口ぶりでそれはわかった。母は八嶋監察官とは面識がなかった。にもかかわらず組織内の力関係を知らずに、祖母と交渉しようとした。祖母に応じられる力があるとなぜ思いこんだのか?

 山田から聞いた〝ヤソウタ〟は、四文字だ。ヤソウタが組織のコードネームだとすると、〝管理人〟を名乗るメンバーは四人。その中の一人が父だったのか。だとしても、父が組織をたばねるトップの人間に頼むのであればまだしも、母が祖母を脅迫して得られる金などタカが知れている。祖母が組織の一員であっても、息子との諍いのせいで〝下層民〟のあつかいなり、湖に面した家を追われ、理事長宅のお手伝いさんにならざるを得なかったとしら? 

 光輝は自身を宇宙人との混血だと言いつつ、〝王のしもべ〟となり、王の一族となることを何よりも願っている様子だった。〝王のしもべ〟とは〝上層民〟の別名なのか? あるいは四人しかいない〝管理人〟の隠語なのか? おそらくそのどちらも示すのだろう。八嶋悦子が〝主権者〟と口にするとき、聖書の〝神〟を、さして言っているのだとばかり、思っていた。彼らの発する言葉には二重、三重の意味がある。彼女のいう〝主催者〟とは組織の権力者〝王〟のことだったのではないか? あるいは、八嶋悦子の言った人間の四分の三を滅ぼす役目を負う〝獣〟なのか……。

「おまえは大卒やけど勉強嫌いのせいで、おれとおんなじ、ノンキャリや」脂顔は煙草を根元まで吸いながら、「Ⅱ種の準キャリアでさえ、県警ではなかなかお目にかかれんん。ほんまもんのキャリアに至っては、全国で年に十数人しか採用されん。大阪府警に課長職でやってくるが、二、三年で本庁にご帰還や。府内の警察職員からの餞別が一億円あるそうや。四○前に警視正になった準キャリアの監察官が兵庫県警では実質のトップや思うてまちがいない。じきに本部長になる人や。そのときはおれらも警部くらいには――」

 若い刑事は頭をかきながら、「そんな話、どうでもええんです。気色わるいんッスよ。タワマンでのえげつない遊びが、しょっ中あるとねぇ。宇梶が、あんなことになって、一時はどうなるかと……あげくに、こんどは未成年をつかまえてこいと言われても」

「おまえもおもしろがってたやないか」脂顔は煙草の吸い殻を踏みつぶした。「だれやねん。酔っぱろうて人身事故を起こしたヤクザに金もろて、被害者に過失があったように調書を捏造したんは――それだけやないやろ」

「そういう先輩は、書類上は、焼却されたことになってるシャブを立樹病院に横流ししてますよね?」

 若い刑事はため息をもらし、

「去年の四月に、交番勤務から先輩のいる所轄の四課に配属されて喜んだのつかのまでしたワ。何が一番、びっくりしたかというたら、押収品の管理が杜撰なことでした。実際、ヤクと小麦粉をすり替えても見た目はわかりませんもんね。〝ソタイ〟に入ってすぐに、先輩が、管轄地域の組事務所への挨拶まわりに連れて行ってくれたんスよね。考えてみたら、あれがはじまりでしたワ。そのうちに自分がヤクザか、マル暴の刑事か、わからんようになって」

「お互い、脛に傷もつ身や。警官の不正をただす役目の監察官がもみ消してくれんかったら、今頃、懲戒免職になってるやろな。監察官のヒキで、交通課の機動隊に栄転したんやないか」

「栄転なんスかねぇ……監察官直属のただの便利屋としか……」

「この世界では、おまえはヒヨッコや。相撲でいうたら序の口や。事件現場にいちばん乗りする初動捜査が、どんだけ重要なことか、わかってへん。だいち知らんことのほうがまだまだ仰山ある。そのうち慣れてくる。八嶋監察官の恐ろしさは半端やないからな」

 八嶋監察官は、〝管理人〟の一人らしい。光輝の言う〝王のしもべ〟なのかもしれない。名前にこだわる光輝は、監察官を警察での役職名で呼んでいる。八嶋監察官は、光輝や刑事の口ぶりから察すると、〝主権者〟に勝るとも劣らぬ権力の持ち主のようだ。山田の言った〝上層民〟にも上下関係があるのだろう。野崎は〝上層民〟あるいは〝王のしもべ〟に属していても、八嶋監察官と同等の地位にあるようにはうかがえない。社会的地位も組織内での地位に影響するのか? 仮に院長が〝管理人〟の一人だとすると、光輝が野崎を憎悪し嫉む理由もおのずとしれる。後継者の地位をめぐってのことだ。院長の上司は理事長のようだ。奏香の祖父が〝王〟であり〝主催者〟なのか……。殺された山田は自らを〝下層民〟、光輝を〝中層民〟のバカと呼び、新館の地下には、〝上層民〟の会議で認められた特別会員だけが入れる秘密の部屋があると言った。病院内部には、建物の構造同様に、鉄壁のヒラルキーが存在しているようだ。刑事二人は、使用人を意味する〝下層民〟に属するのだろう。だとすると、支配者にも使用人にも属さない〝中層民〟の存在とはなんなのか?

「毒を食らわば皿までや。皿をねぶることも、そのうち慣れる。慣れんかったら、えらいことになる。遺書を書かされて、なぶり殺しの目に遭うぞ」

「ハンパない冗談っスね。カンベンしてくださいよ」

「監察官は宇梶がああなるように何年もかけて仕組んだことや。物事に偶然はない。おまえやおれが、監察官の下で使われることもそうや。採用試験に受かったときから定められてたんや。けど安心せぇ。仮に定年前に馘になっても半月ほど働いたら、いまとかわらん給料がもらえる会社へ斡旋してもらえる。老後も安泰や」

 細顎は飛び出た喉仏を上下し、指先で頬を斜めに切る仕草をし、「資金洗浄のためのこっち系の会社っスよね?」

「税金も、はろうてる立派な企業や。ヤクザは仲間やと思え」

 二人の刑事は同時に周囲を一瞥し、停めた車に乗りこむと、回転灯を助手席の屋根にのせた。サイレンを鳴らし、ハザードランプを点滅させながら家の前の狭い通りから走り去った。追跡中の指名手配犯を発見したようなものものしさだ。信号で停車するのが、面倒なだけなのに、一般人に特権を誇示したいらしい。彼らに限って言えば、警察とは名ばかりの犯罪者の集団だ。監察官に至っては、警察署内の悪徳警官を束ねる存在のようだ。

 雨の日、父のポケットから携帯を抜きとるとき、気づいたことがあった。父は下着を身につけていなかった。背中に、みみず腫れの傷痕があった。光輝の背中の古い傷跡を目にしたとき、どこで見たのか、とっさに思い出せなかった。身につけていたカーキ色の作業ズボンにも、赤みがかった黄色の縦縞のセーターにも血が滲んでいた。タワーマンションの一室で、言葉にできないようなことが行なわれた。そのあげくに、父は、墜落死した。事実をさぐることは、警部補のいう「皿をねぶる」ことになるのか……。

 二階の自分の部屋を見上げた。

 傾斜地に建てられているので土台はコンクリートだが、外壁はモルタルだった。セメントと石灰灰と砂と水を混ぜ合わせたもので耐久性に勝れていると父は言っていたが、外壁は黒ずみ亀裂が入っていた。雨の日がつづくと、わたしの部屋はクロスの壁に雨がにじみ変色した。近隣の家々はつぎつぎと建て変わった。広い敷地の家は整地され、ガレージになるか、分割されて三階建ての家になった。震災直後から古い建物はどんどん消えていった。マッチ箱を縦にしたようなシンプルなデザインの家ばかりが増えていく。

 あれは、いつ頃だったのか――おととしの冬だったと思う。

 いつものように父が妹だけを連れて出かけたあと、母の着古したダウンジャケットを着て手袋をし、由衣の部屋に無断で入り、通り抜けてテラスの椅子に腰かけていた。寒いが、よく晴れた日だった。港に停泊する大型船をぼんやり眺めていた。父一人が先に帰宅し、わたしのいるテラスをのぞいた。アールデコ風の錆びた椅子を二つ、ならべて座った。六甲山から吹きおろす風にさらされて、顔も手足も悲鳴を上げそうだったけれど、赤ちゃんの手のひらのような黄色や赤のモミジの葉が点在するテラスにいると、気の重くなる雑多な考えが吹き飛ばされていくような気がした。

 父は両手で削げた頬を二、三度、叩き、「パパの小さい頃は広い庭があったんだ。でもパパのせいで、この家だけになってしまった。気がついたら、そうなっていたんだ」

 どうしてかとたずねなくても、負債がどれだけあるのか、父自身にもわからなくなっていた時期だった。土気色の顔をした父は以前より痩せて洋服がダブついて見えた。いま黄泉の国の住人となった父は、借財から解放されて、ほっとしているだろうか。あらたな苦悩に苛まれているだろうか……。

 たったの二ヵ月で、わたしはひとりぼっちになった。十六年間、住みつづけた家が、見知らぬ家族の住む家のように感じられた。帰りたい、帰りたいと思いつづけたけれど、刑事二人のやりとりを耳にするうちに、せつない気持ちはやるせない気持ちに変わっていた。何年も前から定められた筋書き通りに現在があるのなら未来は変えられないことになる。せめて由衣だけでも……みんな、わたしのせいだ。

 野崎の設置した玄関の監視カメラを避け、ガレージ奥の勝手口にまわり、シリンダー錠の鍵穴に、ゼムピンの針を二本さしこんだ。以前にも同じことをして、侵入したことがあった。そのときとは、比べようもないほど置かれている環境が激変した。

 小学四年生のときだった。教室の空気に耐えられなくなって、担任に告げずに下校した。給食袋や名札についていた安全ピンの針を使って開錠した。学校に呼びもどされ、校長室に連れて行かれた。母も呼び出されて大騒ぎになったが、わたしは謝らなかった。

 鍵が開いた。

 すぐ逃げ出せるようにスニーカーを履いたまま勝手口の上がり框に立った。キッチンの床には複数の靴跡が残っていた。〝上層民〟の野崎は、土足であちこち歩き回ったようだ。キッチンの水切り棚には、真新しいプラスチックの俎が立てかけてあった。シンクの下の物入れをあけると、切れ味のよさそうなステンレスの菜きり包丁が両開きの戸棚の片側にある包丁入れに収納されていた。ダイニングテーブルの上は空になったコンビニ弁当や空缶がビニール袋に入れられて積まれていた。蛇口をまわす。水が出ない。

 引き戸を開け、居間をのぞく。この部屋の三人掛けの長椅子や一人掛けのゆったりした椅子で家族がくつろぐことはなかった、野崎をのぞいては。石塚事務長に取り上げられた父の黒い携帯が、革張りの長椅子の前の低いテーブルに放置されていた。ハンマーのようなもので壊されていた。もとの形がわからないほどに砕かれている。段ボール箱につまずいた。退院時には病院で預かった物品は返すと石塚は約束したが、箱ごと野崎に渡したようだ。彼は中のものを修復できない形にしていた。入院前から、わたしが退院することはないと、事務長は判断していたらしい。

 父のビデオカメラは粉々に砕かれ、黒い携帯電話と充電器の破片と混ざりあっていた。マホガニーのテーブルは傷だらけになっていた。なぜ、ビデオカメラまで――? 由衣のものだったカッターナイフも刃が折られ、プラスチックの部分が砕かれていた。「アイズ・ワイド・シャット」のDVDはケースごと粉砕され、盗まれたマスクは引き裂かれ、イヴ・サンローランのルージュは分解されていた。テレビ画面には亀裂が入っていた。野崎の苛立つ顔が目に見えるようだ。彼の目当ては、母がわたしに託したSDカードなのだろう。

 なんのために……?

 飴色の廊下に出た。廊下を挟んで、母と野崎が寝室にしていた部屋に入る。整理箪笥の抽斗という抽斗が引き開けられ、床一面に衣類が散らばっていた。改築したときに作られたクローゼットの中も同様のありさまだった。野崎の焦りが見てとれた。母が自分から離れていくとは夢にも思っていなかったのだ。母は別れぎわ、野崎と駆け落ちしてでも結婚するようなことを口走っていた。

 野崎と八嶋監察官は、母の行方を知らない。二人は同じ組織に属しながら、動きに統一性がない。荒らされた室内を見る限り、母は身を隠す決心をして、わたしを病院へ送りこんだと思えない。母の体型に合わせた下着やブランドものの洋服が床に散乱していた。〝上層民〟の野崎は、母の身を飾ることへの執着を理解していない。逃走用の荷物を母が用意したのなら、どれほど急いでいても、詰めこめるだけの下着や洋服を特大のバッグに押しこんでいただろう。引きずってでも運んだはずだ。それが無理なら、逃走先へ宅配で送っただろう。ただ、気になる点が一つあった。指輪やネックレスなどの宝石類と、いくつかあったブランド物のバッグがなくなっていることだ。野崎に必要なものだと思えなかった。

 どの層に属しているのかさだかではない祖母は、母や自分自身が拉致されたかのように話したが、八嶋監察官は、母が三ノ宮のスタバにいると、二人の刑事に連絡してきた。そんな場所に母がいるはずがない。母の携帯を所持して、三ノ宮のスタバにいる人間はだれなのか? この瞬間も、何者かは、刑事らの目を、わたしから自分にそらそうとしている。まさか、祖母なのか? それはない。祖母は両親を助けなかった。父が制裁されることも、野崎と手をくんだ母が捕らえられることも看過した。もしかすると、祖母が、母を人間でなくなる〝家畜〟の状況下に置くように理事長に要請したのか……。疑いの目で見れば、何もかもが偽りと裏切りに思えてくる。母の野崎への執着をのぞいては――。

 母は自らの悪癖を断ってまで、野崎に尽くそうとしていた。室内の模様替えにはじまって、彼のために料理をつくろうと、必要な台所用品を買いそろえた。使用した形跡はなかったけれど、野崎とのつかのまの暮らしは、母にとっては幸福な時間だったはずだ。恋人と呼べるはじめての相手だったと思う。野崎に愛されようと、母は必死だった。母が、わたしの本性を知っていたように、野崎も母の本質を見抜いていた。だから思いのままに母を操った。代償はセックスだった。母の裏の顔を思い出すまいと努力すればするほど、閉ざされた記憶は氷解していく――。

 水道筋の弁当屋につとめるかたわら、ネオンがともる時刻になると、母は何かにとり憑かれたように徘徊した。母のあとをひたすら追いかけた。あのころは、母を救いたい、力になりたいと本気で思っていた。母はJR線と阪急線が並走する線路に沿って、ガード下の浜側にひろがる繁華街をわたり歩き、不特定多数の男に声をかけ、ホテルに入っていった。よほど暮らしに困っているのだと、そのときは思った。家族のために身を犠牲にしているのだと。母の哀れな姿を記憶することは、母への背信行為だとさえ思った。知ってはならない現実を消去するために、記憶という脳の仕事を放棄するように努めた。八嶋悦子の言った通り、脳にブレーキをかけたのだ。いまさらだが、アクセルを踏まなくてはならない。

 野崎は言った。「おまえの母親はセックス依存症だ」と。彼の指摘はまちがっていない。母は父以外の男なら、だれでもいいように見えた。すりよった相手に邪険にされたときは、薄暗い路上や公園にたむろしているあやしげな男たちに声をかけ、立ったままの姿勢で体を重ねていた。わたしが見ていることを知っていながら、母は自身のありのままの姿をさらした。わざと見せつけているようにさえ感じた。「これがあんたの母親や。あたしらは同じ穴の貉。何がわるいねん」とでも言っているようだった。「あんたもすぐにこうなる」と。母の喘ぎ声があさましいと、男たちは笑い合っていた。わたしは母の血を受け継いでいる。学校で立ち往生するたびに、母を嘲笑う声と同じ笑い声に苛まれた。父が、最期の伝言をつたえたときも、わたしや母へ向けられたものと同じ野次と嬌声が騒音となって受話器を通して聞こえた。わたしたち親子三人は、侮蔑と嘲笑の申し子だったのではないか。だれとも競わず、踏みつけられることでしか生きられない〝下層民〟以下の〝家畜〟そのものだった。

 足跡で泥だらけの階段をのぼり、自分の部屋を見に行く。出窓から朝日の差しこむ部屋に足を踏み入れた瞬間から、圧縮していた記憶が噴き上がってきた。旧式のデスクトップはなくなっていたが、どうでもいいことだった。入院する前夜に、削除したデータを復元できないように、だれもが知っているウィルス〝トロイの木馬〟を仕込んでおいたからだ。柱のフックにかけた制服のハーフコートの内ポケットに入れた由衣のメモ書きは無事だった。由衣は死の数日日に、わたしの見ている前で『カシオペアになる』と書き、ベッド脇のボードの目立つところにバンドエイドで貼りつけた。病院の外出日に無意識にバンドエイドを買ったのは、このせいだ。『モモ』に登場する亀のカシオペイアを、星の名のカシオペアと誤って由衣は覚えていた。だから、彼女は野崎に「悪魔にもエンジェルにもならない、星になる」と言ったのだ。

 偶然なのか……。物語のおしまいに、モモは自分の世界に飛びさり、友達のカシオペイアは、時をつかさどるマイスター・ホラの住む〝どこにもない家〟にもどり、頭と足を甲羅にひっこめて眠りにつく。由衣の死後、モモとカシオペイアとが、二度と会えないお話に耐えきれなかったわたしは、入院する前の夜に、由衣のメモをボードから剥がし、ハーフコートのポケットへ入れた。そして、『モモ』を切り裂いて、父の携帯を隠した。永久に許されないと知っていたから、深く考えずにそうしたのだ。

 壁に貼ったおびただしいメモをながめる。中の一枚に『モモ』の中に出てくる文章の一節がある。『全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となって彼女のほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!』。モモが、時間をつかさどるマイスター・ホラに自分の目にしたものが何かとたずねると、「おまえ自身の心の中だ」と教えられる。いま由衣がわたしに話しかけている。「おねぇちゃんは、三○分後に、わたしにしたことを頭の中から消した」と。

 テラスに面した由衣の部屋をのぞく。

 隣のわたしの部屋よりいくぶん広いが、荒らされていなかった。ピアノの上の化粧箱は、眠りについたカシオペイアをいまも待っていた。小さな止め金を外して蓋をあける。バカヤロウと、ルビーレッドの口紅で書いた文字が、はっきりと読みとれる。入院する当日に、化粧箱の中にあった口紅をジーンズのポケットに押しこんだ。これも無意識にしたことだった。

 指先が痛くなるほど爪をかんだ。わたしが、由衣を屈辱したせいで、妹は死を決意した。九歳の少女になぜ、こんな残酷ないたずらをしたのか……。由衣はそんなわたしにカシオペイアになると書き残した。カシオペイアはしゃべらない。メモを見たわたしは記憶を削除したにもかかわらず、思い出す糸口を自らの手で残していた。……いまさら謝っても……もう遅い。

 三○分先が見通せるカシオペイアは、窮地に陥ったモモをなんども助ける。「トビラヲ アケナサイ」と、カシオペイアの甲羅に文字が浮き出ると、モモは、とびらに近づき、さいごの一枚の花びらしかのこっていない〝時間の花〟にふれながら、とびらを開ける。カシオペイアの甲羅に文字がきらめく。「トンデオカエリ、モモ、トンデオカエリ!」。すると、花の嵐がモモを大空へと運んでいく……。

 由衣が幼稚園児の頃に『モモ』をいっしょに読んだ。覚えてくれていたのだ。由衣が文字を覚えはじめた頃だったか、短い間だったけれど手紙のやりとりもした……。

 父と同じように由衣は死の直前に、わたし宛てにメッセージを残した。『とびらをあけなさい』と。人目につかないよう、テラスに這って出た。テラスには固定された濃い緑色の金属性のテーブルと椅子があって、テーブルの脚の下の花の模様の敷石が一枚、花びらの根元を押せば回転する仕掛けになっていた。敷石の下は、十センチ四方の空間があり、壁面はアルミニウムの表面を酸化させたアルマイトで覆われていた。この中に〝凍った時間の花〟が隠されていると、わたしは由衣に教えた。〝凍った時間の花〟が溶けて散ると、自由になれるのだと。わたしが小学生の低学年だった頃、偶然、見つけた秘密の場所だった。おそらく手先の器用な父が少年の頃につくったものだ。テラスの金属性のテーブルの表面にもアルマイトが使われていた。なぜ、動かせないテーブルがあるのかと、父にたずねると、アルマイトについて教えてくれた。理化学研究所の日本人が百年前に発明した物質で、腐食を防ぎ、電気の流れをさえぎることができると。

 敷石の花びらを押すと、赤い皮のケースに入った由衣のスマホと、もう一つの父の黒い携帯と、折り畳んだ書類と印鑑が見つかった。バックパックにねじこんだ。敷地をこえて突き出したテラスを囲う鉄柵をまたぎ、隣の家と自宅の間にある隙間へ、鉄柵にぶらさがるようにして足をのばし、体の幅ほどの通路へ飛びおりた。

 子どもの頃、隣家と自宅の隙間に隠れるのが、好きだった。車の入れない狭い道も、お気にいりだった。母のあとをつけるようになって、付近のわき道は頭の地図に叩きこんだ。

 網の目のように張り巡らされた坂道の露地を駆けおり、新神戸駅へもどった。みどりの窓口で新大阪行きのチケットを買った。新幹線の車内で、背負ったバックパックをおろし、書類を取り出した。父と由布の生命保険証書だった。父は死亡時に二億円。由衣は死亡および重度障害に三千万円が支払われる。加入は三年前の由衣の誕生日。父の保険の受取人は由衣で、由衣の保険の受取人は父だった。野崎は父の保険金が欲しくてわたしたち一家に侵入してきたのだとしたら、証書がなくて困ったはずだ。それは母もおなじだ。

 携帯と証書と印鑑を隠したのは、たぶん由衣だ。父から預かったのだろう。いますぐ、二つの携帯を充電すべきだとわかっていた。そうすれば、隠された事実が明らかになるだけでなく、母とじかに話せる。どちらの携帯にも、母の携帯番号が登録されているはずだ。母も、それを望んでいるのかもしれない。けれど、いま、母が何を言っても信じられない。母と野崎の関係が現在どうなっていようと、由衣やわたしを捨て、野崎を選んだことに変わりないからだ。

 父の二つ折りの携帯を手にとる。居間のテーブルにあった壊された父の携帯は、野崎の捜しているものではなかった。形も色も同じだが、光輝がスライド式のドアを開けるさいに使用していた機能がおそらくついていないのだ。

 手のこんだ偽装工作のできる人間は、わが家には一人しかない。父本人だ。母は、あの日、タワーマンションのすぐ近くにいたにちがいない。父の唐突な死を知っても、まったく動揺しなかったのは、結末をあらかじめ知っていたからだ。父は自死することを母に報せていたにちがいない。だから母は、「あたしらのした苦労が水の泡になる」と言ったのだ。

 父は死ぬことで、家族への責任を果たそうとした。そうじゃない。父ははじめから母に保険金をわたす気はなかった。ひそかに由衣と会い、野崎や母の求める重要なものを渡した。父にとって、家族は由衣ひとり。それなら父はなぜ、死の直前の電話を、由衣ではなくわたしにかけてきたのか? 父は「たのむ詩子」と言った。

 何を――?

 父親の転落死を知った由衣の動揺をなだめる役目を、姉のわたしに期待したのか。しかし父の望みは裏切られた。由衣はわたしより何倍も冷静だった。でもそれは上辺だけのことだったのかもしれない。結局、由衣はわたしの無神経なひと言に耐えられなかった。忍耐という名の壁を、いともたやすく踏み越えるわたしは、妹を殺すことになるトリガーを引いたのだ。同じように、父が死を決心する原因も、わたしの言動がつくったのかもしれない。

 あの日の、母の第一声は、「みーんな、あんたのせいや」だった。由衣だけでなく、父も、わたしが殺したのか。言葉は刃物にひとしい。「パパなんて、いなくなればいい」。そんな人でなしの言葉が引き金になって、父の心臓を深くえぐり、自らの誕生日の前日を境に母やわたしの前から姿を消したのかもしれない。

 わたしの暴言を、父は許していなかった。

 由衣とはときどき会い、本物の携帯と保険証書の隠し場所を教えていたが、わたしには偽物の携帯を書斎の抽斗に隠すようにそれとなく示唆した。はっきりと意識した行為ではなかったのかもしれないが、父の内面では、わたしは由衣のdummyだった。だから書斎の抽斗に「アイズ・ワイド・シャット」のDVDをわざと残していたのだ。タイトルの正確な意味は知りようもないが、あのケースを目にしたときから、黄金の仮面をつけた人物が父だと、わかっていた。ポストカードの日付が、父の怒りと悲しみを表していた。父の心はいまも閉じられたままだ。

 顔をおおった。

 住み慣れた街からどんどん遠ざかっていく。社会との交流を断ったわたしにとって、海と山に挟まれた帯状の神戸の景色は唯一のやすらぎだった。翳りとは無縁の陽光にあふれた街並み。茜色に染まる夕暮れどきの大気が、外港をつつみこむと、西の空に一番星が見えた。真夏に太陽が昇ると、海面に陽炎が揺れていた。どしゃぶりの雨の日だって、濃霧におおわれた海はいつもやさしかった。

 二度と、この街にもどれないかもしれない。

 母の口紅のついたマスクの中にSDカードが隠されていると気づき、隠し場所を毎日のように移した。吸入器の中にはじまり、怪我をしたあとは、頭にかぶせられた白い帽子のようなネットの中や、スリッパの内側など、毎日のように隠し場所をかえた。自分と母とをつなぐ唯一のものだと心の片隅で信じていた。血の繋がりがあれば、お互いを裏切らないのだと期待していた。

 内心では、手前勝手な甘えだとわかっていた。長い間、被害者ヅラをして自分自身を偽ってきた。だれからも恐れられる強い子でありたいと、心のどこかで望んでいた。その思いが、わたしの中に、もう一人のわたしを生んだ。母は、わたしの残酷な一面を知りすぎるほど知っていた。そして、それを利用した。わたしが、父や由衣を死なせるように仕向けたのだ。わたしは母の期待に応えた。違う! それは、言い逃れだ。すべて、わたし自身が意図したことなのだ。家族を解体したいと、心の奥底で願いつづけていた。それは物心ついた頃からはじまっていた。そういう感性に生まれついていた気がしてならない。

 袖口に隠れてしまうほど、うすっぺらな黒い携帯を見つめる。

〈おとうさん、あなたの本心がここに眠っているのですか? どうして肉声で、つたえてくれなかったのですか?〉

「おまえは、由衣とわたしの敵だ」と。

 父の遺体から抜きとった携帯は、仕事の関係者や家族との連絡用に使われていたものだ。父が死亡する以前から、同じ機種だが機能の異なる携帯が二つあったのだ。表の顔と裏の顔。ほんの少し、冷静に考えれば、すぐにわかることだった。事情聴取された当日につづいて翌日も、二人の刑事は家中をひっかきまわした。このとき、母ははじめて、父の携帯の履歴を知られることの危険性を悟ったにちがいない。父と母は合意のもとに、保険金を手にいれる計画をたてた。顔を合わせて話し合ったとは考えにくい。メールでやりとりしたのだろう。わたしが、父の携帯を『モモ』の中に隠す様子を目にした母は、わたしが眠ったあと、データをSDカードに保存し、携帯のデータは削除し、SDカードを自分のマスクに縫いこんだ。持ち物検査のとき、石塚事務次長が父の携帯を取り上げた瞬間、かすかに嗤ったのはそのせいだ。しかし、なぜ、母は証拠となるSDカードを捨てなかったのだろう。しかも別れぎわに、スクールバッグに押しこんだ。母の思惑や行動が、親と子なのにまったく読めない。自分の立場になってみてほしいと、母は言った。いつか、何もかもわかるときがくるとも。

 知ってどうしろというのか?

 母の苦況を目にしながら、母を助けようとしなかった。学校に通わず、アルバイトもせずに困らせてばかりだった。由衣に対しても、彼女の気持ちを考えようとしなかった。冷淡だったのは、由衣ではなく、わたしだった。由衣は意味なく、テラスで首を吊ったわけではない。死ぬ直前に、自分のスマホと父からの預り物を花びらの中に隠した。鉛で囲われた場所が電波を通さないことを、父から聞いて知っていたのだ。もしかすると、父と妹は、かつての由衣とわたしのように、手紙のやりとりをしていたのかもしれない。

  新大阪駅には約十二分で到着した。長い十二分間だった。記憶を消すことで自分を騙してきた。もう心の中のどこにも逃げ場はない。JR線に乗り換え、梅田へ。雲の巣のように四方にひろがるターミナル駅の地下街をぬけて地下鉄の御堂筋線で難波に出た。難波駅に近いと聞いた四ツ橋教会を訪ねるつもりでいた。しかし、歩いているうちに、考えが変わった。人気のない繁華街がわたしに何かを与えてくれた。灰色男らに、見つかるまでに多少の時間の余裕があるはずだ。それに、これは、わたしとわたしの家族の問題なのだ。

 SF映画のデストピアのシーンによくある、人の気配がまばらになった死を予感させる街路を一歩一歩、踏みしめるように歩いた。真夏に濃紺のジャージィの上下なんて、ホームレス予備軍の格好だけれど、非常事態宣言下では好奇の目をむけられない。人目を避ける必要がないと思うと、両足が前へ前へと進んだ。

 日が暮れても、街灯と電光掲示板以外の灯りはともらない。

 コロナ禍で、休校になる以前に、高校を辞めた直接のきっかけは、コミュニケーション障害を短縮して、〝コミショ〟と女子グループから陰口をささやかれたせいだった。その頃と比較して、障害が改善したとは微塵も思わないが、街全体が停止を余儀なくされた状況下に遭遇すると、薄闇の中に溶けて紛れていくような気がした。夏のはじめのよどんだ空気を吸いこみ灯りの消えた露地を歩く。

 入院したおかげだろう。わたしは、人並み以下、基準の枠外でしかないと思い知らされたが、八嶋悦子と巡り会ったときから、そんなろくでもない自分を気づかないうちに肯定できるようになっていた。いまとなっては、彼女の存在とアドバイスは、犯した過ちから逃げられないと自覚するための準備運動のようなものだった気がしてならない。買ったばかりのガイドブックを頼りに裏通りを行く。法善寺横丁に、のれんはかけていないが、赤提灯のぶらさがった店にたどり着いた。手垢のついた格子戸をひいて中に入ると、狭い店内に客がひしめいていた。「千客万来や」と大声で言われ、小さな丸い椅子に恐る恐る腰かける。父がいなくなる少し前に話していたお好焼き屋だ。父と同じものを食べてみたかった。すじ肉のねぎ焼きと、うどんのモダン焼きを、店の壁に張ってある品書きを指さした。店の主人は「よっしゃ」とうなずき、「重たいやろ、背中の荷物」と言った。そして、「今年の夏祭りはあかん」とぼやいた。

 バックパックを肩からおろすと、脱力した。

 耳に入ってくる会話と、ヒトの視線が恐かったわたしは、飲食店に独りで入るのは生まれてはじめてだったが、店の主人は、ひと言も声を発しないわたしにも気軽に話しかけた。「コロナのせいでアルコールは出されへんし、七時までしか店を開けたらあかんそうや」。店の掛け時計を見る。七時半だった。「商売、あがったりや。ほやけど、気ぃに病んでもしょうない。非常事態宣言が出ようと、出まいと、わしらはカンケーない。ねぇちゃんもそやろ。マスクをしたり、外したりして、ややこしいことせんかてええで。食いたいもん、食うて飲んでこその浪速っ子や」

「コロナがなんぼのもんじゃい」と、隣のおっちゃんが言うと、「せやせや」と、他の客も相づちをうつ。

 気持ちがほぐれていく。拉致されようと、殺されようと、どうにでもしてくれという気分になる。ガンガン食べる。胃袋はよろこんで咀嚼してくれる。オレさまがいたら、「アホか、おまえは」とたしなめてくれただろうか。〝コミショ〟のわたしのたった一人の友達だった。心の拠り所だったオレさま。友を思うと、喉の奥に熱い固まりが突きあげてきて鼻の奥が熱くなった。

 背中の引き戸が開いた。初夏なのに暗色のパーカのフードを深くかぶり、マスクをした小柄な外国人が店内に入ってきた。両手をパーカのポケットに突っこんでいる。コテを持つ手が自然にとまった。隣に座った男は、ワゴン車で由衣とわたしを迎えにきたヤツだった。彼も灰色の男たちの仲間にちがいない。歯ぎしりをしそうになる。食欲が一気に失せた。

「一人か?」と店の主人は男に訊いた。「いっつもいっしょにきてたヒトは具合わるいんか?」

「いや」と、男は短く答えた。「もうこない」

 隣から香辛料のにおいが漂った。会計をすませて、店を後にした。この店から四ツ橋教会までどのくらいの距離があるのか……。土地勘のない街で、灯りの乏しい中で捜すことはむずかしい。どうしたらいい? オレさまに助けを求めた。返事はなかったけれど、オレさまと、はじめて出会った日の記憶が脳裏に帰ってきた。

     19 ジジの覚醒

  ほんの数日、高校へ通ったあと、四月の中頃だったと思う。わたしは昼夜を問わず眠っていた。意識がまるごと飛んでいた。

 夜中に、野崎はノックもせずに部屋に入ってきた。

「きのう、言っただろ。きょうこそ、病院で診てもらえってな」

 わたしは起き上がり、フレームのゆるみかけた眼鏡をかけ直した。ふだんはかけていないが、野崎と顔を合わすときはかけるようにしていた。

「おまえのせいで、由衣はおかしくなったんだ」

 野崎は険しい目をわたしにむけた。

「由衣の化粧箱にいたずらしただろ?」

 その目と声に嫌悪と憎悪が見えた。

「おまえは、父親だけじゃ足りずに妹まで追いつめたんだ」 

 母が助けにきてくれることを願った。

「この家にいると、まともなこっちまでおかしくなる」

 野崎は、父の書斎に自分の荷物を運びこみ、物置同然にしていた。そのせいもあって、書斎に一歩も入れなくなり、隠した携帯のことをすっかり忘れた。あげくに、携帯そのものの在処を記憶から排除していた。

「中学生で教師に暴力をふるったおまえはそのまま、〝ひきこもり〟になった。高校に入っても一週間とつづかず、いまじゃ、ひと言もしゃべらなくなった。もういちど入院して当然だろ。遅いぐらいだ」

 彼は椅子にすわり、机に肘をつきタバコをふかしながら、「なんでも周囲のせいにして、自分ひとりが犠牲者だと思いこんで、怠け癖を正当化しているんだ」

 わたしはゆっくりと首を横にした。おのれが正しく、そうあるべきだと思えるなら苦しまない。怠け者だと、母からもなんども言われた。それはイジメル側の論理だ。

「バカモンッ!」

 野崎は中腰になり、腕をのばし、ベッドにいる、わたしの頭を強い力で殴った。

「おまえはな、自分の無能さかげんを認めるのがこわいんだ。だから、そうやっていつまでも自分の殻に閉じこもっているんだ。黙ってれば、母親が諦めてなんとかしてくれると思ってるのかッ」

 殴られた箇所を抑えた。惨めだった。恨めしげな目つきが気にくわないと、野崎はもう一度、手を上げた。わたしはベッドから滑り降りて部屋を飛び出し、階下へ逃げた。母を捜した。いるはずの母が見当らない。洗面所へ逃げこんだ。奥歯をかみしめる。少しずつ歯が、すりへっていくのが、わかる。こめかみが痛む。脳の真ん中に難解な数式が居座っているようだった。額に汗がにじんだ。

 蛇口をひねる。鏡に見入る。涙のせいか、瞳に悲嘆が宿っていた。死ぬ前日の由衣も同じ瞳の色をしていたのではないか。失意や絶望が頂点に達したときの由衣の表情を、わたしは知らない。なぜ、もっと近くに寄りそわなかったのかと悔やまれた。自分の心にかかりきりで、妹の心の機微に無頓着だった。

「由衣じゃなくっておまえが、首をくくればよかったんだよ」

 洗面所のドアごしに野崎のののしりが聞こえた。

「おまえのようにイカれたやつはいまにきっと、ヒト迷惑な事件をおこしかねないからな。コトが起きるまえに自分で自分のカタをつけるんだ。そうだよ。お、ま、え、が、死ねよ。このカス」

 鏡にむかって、わざとしかめっ面をしてみる。口を大きく開け、舌を突き出した。鏡のむこうから、だれかがわたしを見ていた。

「母親も引き止めない。おまえに辟易してんだよ。いまだって、トイレに隠れて出てきやしない」

 ジグソーパズルのように、どのピースも似ているが、在るべき場所は一ヶ所しかない。

「オヤジのように飛び降りりゃ、一瞬でカタがつく」と野崎は言った。

 絶対不等式に、条件付不等式。選択の余地はない。野崎の口から発せられる言葉は悪意の掛算ばかりだ。

「クズ以下のカスは、どこまでいってもカスのまンまなんだ」

 野崎の声が、身体を構成する細胞という細胞を破壊した。絶望感につかまった。もうどうでもいい。早く楽になりたい。親でもない男にひどい言葉を投げつけられ、殴られるなんて耐えられない。一つ家に暮らして同じ空気を呼吸するのはもう嫌だった。

「ドアのノブにタオルをかけて首を吊るか、由衣の使っていたカッターナイフが洗面台にあるから、それで頚動脈をザックリやってもいいぞ。おれの貴重な時間を無駄にするなよな」

 タオルを両手で握りしめた。頭ががんがん鳴る。耳鳴りがした。ドアノブにタオルを結んだ。頭が、こめかみが熱い。迷いはなかった。父と由衣のいるところへ早く行きたかった。許しを乞いたかった。愚かで薄情なわたしを罰してほしいと。涙がとめどなく頬をつたった。もしもモモが、ここにいるのなら、カシオペイアのいる〝さかさま小路〟の〝どこにもない家〟に送ってほしいと叫びたかった。

 床に腰を下ろし、タオルの輪の中に頭を入れようとした、そのときだった。洗面所の窓から差しこむ、黄いばんだ光が、顔の片側をさした。緑の羽根の少女のマボロシが、弧を描きながら黄色い光の中を通過した。光が目の中に飛びこんできた。羽根のはばたく音がささやく声に聞こえた。

「ぬけだせるぬけだせるぬけだせる……」

 守られていると感じた。ぬけだせるぬけだせるぬけでせる……と念じた。一音ごとに体中の血が沸き立った。胸に溜まった悲憤が極限にまで達した。一瞬の間があって、もろもろの感情が破壊への衝動へと変換した。このとき、犯罪係数の高さを感知するセンサーで計測すれば、数値は通常値をはるかにオーバーしていただろう。

 魂の声が異常な速度で胸の真ん中を突き破った。

〈ぶっ殺してやる!〉〝言霊〟の第一声だった。〈オレさまを舐めんじゃねぇぞ! てめぇごときにそそのかれて、死ぬような腑抜けじゃねぇのさ。受けてたってやろうじゃん。クソヤロウの魔男め〉

  わたしのジジ――オレさまが覚醒した瞬間だっだ。わたしはドアに背中を押しつけながら立ち上がった。大きく息をした。カッターナイフを手にした。ドアを手前に引いた。腹の底から突きあがってくる奇声を発しながら、廊下へ飛びだした。思いがけない事態に驚きを隠せない表情の野崎の頬に、カッターナイフを突き立て手前に引いた。野崎はのけぞりながら、わたしの手首をつかんだ。顔をそむけたが、ビンタを食らい、こぶしでなんども殴打された。笑っているような泣いているような母の顔が目の端をよぎった。

 壁に頭をぶつけ気を失った。目覚めると、真っ暗な病室で眠っていた。手首は切っていない。気絶したあと、切られたのだ。

    20 生命の設計図

  法善寺横丁の近くでネットカフェを見つけた。午後二三時から翌朝の六時までで、「1500円」と表示してあった。しばらく周辺をうろつきまわって、〝劇安〟と貼り紙のある電気店で、ワイヤレスイヤホンとアダプタ、それにSDカード、カメラリーダーを買った。祖母からもらったお金は半分も残っていなかった。彼らにつかまるのは時間の問題だった。ワゴン車の男はいつからわたしの後をつけていたのだろう。まったく気づかなかった。なぜ、姿を見せたのか。何か言いたいことが、あったのか。

 一時間早く、ネットカフェに入る。

 いちばん安い席に着き、最初に「アイズ・ワイド・シャット」の和訳を検索した。「目を大きく開いて」とある。店舗のシャッターから連想して反対の意味に解釈していた。目を固く閉じろと父が言っていると思っていた。おれと由衣にかまうなと。わたしのこれまでの行動は思い違いが重なった結果だったのではないか。急いで、充電器を借りる。父が私的に使用していた携帯を充電し、位置情報をオフにし、SDカードを抜いて、母がわたしに預けたSDカードを挿入した。保存されていたメールを読む。内容は予想していた通りだった。

 母が『保険金を二ヵ月も滞納しているので請求書がきた』と訴えると、父は『今日中になんとかする』と返信。母は『なんのために三年間も掛けたのよ』と送信すると、父は『家族のために加入した』と返していた。しかし母は、『詩子のことを思うなら、死んで責任を果たすべき』と恫喝した。そして、『それがいやなら掟に従いなさいよ。あんたがやれないなら、考えがある』と理解できない文章があった。なぜ、由衣の名ではなく、わたしの名を母は書いたのか? それに対して父は、『きみには苦労ばかりかけた。あとのことはきみの思うようにしてくれ。ふがいない父親を許してくれと、子どもたちにつたえてほしい』と書いていた。このメールは便箋に書かれていた短い遺書とまったく同じ文面だった。死に場所が、タワーマンションであることもメールで報せていた。最後のメールには、保険証書と印鑑は会社の金庫にあると父は偽りを書いて送信していた。「掟に従え」と母は記している。母も組織の一員なのか。それならなぜ、野崎は母の行方を知らないのか。野崎と祖母と八嶋監察官の三人は情報を共有していないのかもしれない。

 八嶋悦子は、「掟を守っている者は自らの魂を守っており、自らの道を軽んじている者は死に処せられる」と言った。聖書の言葉を引用しているのだろうと漠然と思っていた。神の言葉としてではなく、組織内の規律を暗示しているのなら、父は掟に従わず、死に処せられたことになる。ワゴン車を運転していた男が組織の人間ならいきさつを知っているはずだ。

  父の携帯から母の携帯にかけた。現在使用されていないという音声が返ってきた。「もう、人間やない」と言った母の声が耳元でよみがえる。牧師の電話番号にメールをした。とりあえず現在いる場所を報せた。しばらくして返信があった。

『その場を動くな。アモン』

 待つ間に、保存した動画を新しいものから順番にひらく。どの動画も五分から一○分程度の長さだった。

 去年の十一月二八日午後四時。日時からとられたファイル名は、「R2/N28/14:10」。死亡する直前の動画だった。

 薄暗いのでモノクロの映像のようだった。縦縞の薄手のセーターに作業ズボン姿の父の後ろ姿が映っていた。広い窓が開け放たれ、雨をともなった風が吹きつけている様子が風の音でわかる。痩せ細った体が揺れて、いまにもなぎ倒されそうだった。鉛色の空を映すベランダにむかって立つことは立っているが、スカーフを握りしめた右手の震えが、全身に伝わっていた。このあと父がどうやって、携帯を受け取り、ポケットへ入れ、地上へ落下したのか……。動画はここで終わっていた。迎えのワゴン車の座席で、由衣の見入っていた動画はおそらくこれだったのだ。この場にいた刑事のうちのどちらかが、父の携帯を使って撮影し、由衣のスマホに送信したのだろう。由衣は幼いながらも自分への警告と受け取ったのだ。だから細顎の刑事が、履歴を調べたとき、由衣は顔色を変えた。

 父が家を出る前日、かかってきた電話に、「義務ではないはずだ」と、断っていた。父が拒み、八嶋が受け入れたこととは、八嶋悦子の言葉から推測すると〝娘〟なのか。考えたくないが、父は、わたしを由衣の身代わりにするつもりだったのではないか。由衣もそれを知っていた。だから、わたしが何も知らないとなじったのだ。

 ファイル名「R2/N28/13:53」の動画をひらく。

 前の動画の十七分前だ。動画に映し出された父は、流行の白っぽいフローリングの床に正座をしていた。まわりを囲む数人の男は同じ短髪で角刈りの髪型だった。父は彼らに頭を小突かれると、おおきく首を縦にふり、手をあわせて哀願する仕草をした。そして、男たちの誰かれなしにすがりつき、「我慢できない。お願いだ」と、懇願していた。男たちは病院の警備室で働く灰色の男たちのように見えた。彼らは囲みをとくと、「こいつに意地はないのか」とあざけった。中の一人が訊いた。「娘とヤクのどっちだ?」

 父は床に額をすりつけて、「クスリを――」と小声で言った。男たちの間から失笑する声がもれた。注射器とゴムバンド手にした男――脂顔の刑事が画面に現われた。ズームアップされる。父はなんども頭を下げ、脂顔の足元に膝で這っていった。脂顔は父を数回、足蹴にし、じらしたあと、引きつった笑いを見せながら、セーターの袖口を肘の上にたくしあげるように父に命じた。そして、半泣きの表情の父の腕をゴムバンドで縛ると血管に注射針を刺した。父は食いいるように注射器を見つめていたが、次第に恍惚とした表情に変わっていった。肩の力が抜けていくさまが克明に映し出されていた。

 ファイル名「R2/N28/13:35」。 

 体長が一メートルほどもある大型犬が映っている。全裸の父は体や髪をかきむしり、「クリスを、クスリをくれ!」と声を張り上げていた。大型犬は半狂乱の父の顔を舐め、尾を振っていた。一人の男が父の顔面にむかって放尿した。犬の飼い主と見える長身で肩幅の広い男が犬の首輪にリードをつけると、その男に当てつけるように、「小便の臭いで息がつまる」と吐き捨た。そしてベランダに面した床までとどく広い窓を開け放った。別の男からセーターと作業ズボンを投げつけられた父はそれで顔や体をぬぐい、震える手で身につけると、窓を見やり、「娘には指一本、触れさせない!」と突然、叫んだ。男たちは父の口を、リボンのかかった箱から取り出したスカーフで縛った。脂顔の刑事が言った。「甘えんな」

 その場にいない場所から発せられたらしい音声が録音されていた。「きみが管理していた娘が〝贖罪の山羊〟になることは掟だった。本来なら〝贖罪の日〟のはじまる九月二○日までに連れてくる約束だった。長い期間じゃない。たかだか十日間のことだった」

 一秒に満たない一瞬間、白い手が画面を横切った。直後に、部屋の隅で監視する八嶋監察官が映し出された。デコレーションケーキとワイングラスの並ぶ、白いクロスのかかったテーブルも映った。画面はただちにもとの位置にもどされたが、その間も、奇怪な声はつづいた。ボイスチェンジャーが使われているのだろう。 

「きみを制裁しようなんて思っていない。きみの立場を考えれば、したくともできない。友として助言しているのだ。きみは、掟に叛いた代償を支払わなくてはならない。娘は罰則として、この部屋に住み、権限を有する会員が望むときに求めに応じなくてはならない。子どもは与えられた環境に順応する。きみ自身、よく知っていることだ。ただし、きみの体面も保てるように考慮しよう。会社の負債は大目に見てもいいと、データベースを管理するわたしが決定した。クスリも必要なだけ都合する。悪くない条件だろ?」

 口のきけない父は首を横に振った。「愚かなやつだ」という声と同時に父に向かって四方からこぶしが降った。殴打する鈍い音の途中で映像は途切れた。撮影者は二人の刑事のうちのどらかだと思いこんでいたが、違っていた。動画を撮った人物はテーブルを映すことで、空き室でないことを示した上で監察官の姿を撮ったのではないか。八嶋監察官はおそらく自分がほんの一瞬でも映っていることを知らない。組織を裏切らない保証のために、この場にいる男たちの映像が残されるようだ。映っていないのは、声の主だけだ。

 ファイル名「R2/N28/13:15」

 やはり全裸の父は両ひざと両ひじを床につき、首を折ったようにうなだれていた。父の背には、大型犬がのしかかっていた。父と犬を取り囲む男たちは、父の背後を犯すように犬をけしかけている。無力な父の姿が胸の奥に消えない傷跡を残した。この動画を撮られた直後に、父はわたしに連絡してきた。通話の内容は脅迫されてのことだったと思う。由衣を呼び出すために、男たちは父に電話をかけさせたのだ。

 ファイル名「R2/N28/2:50」

 ついさっき、お好み焼きの店で見かけた小柄な男がズボンのベルトに似た皮製の鞭を振るっていた。鞭が振りあげられるたびに、空中をヘビが泳いでいるように見えた。直視できずに再生速度を速める。物音は聞こえないが、聞こえるはずのない空気を切り裂く音が聞こえてくる。両腕と両足を、別々の男に引きのばされた裸体の父はタオルを口に詰めこまれ為すすべもなく、臀部と背中を鞭打たれていた。男はこのとき、作業ズボンに赤みがかった黄色のセーターを身につけていた。ワゴン車で迎えにきたとき、目にしたツイードのスーツはやはり父のものだった。サイズが合っていないと感じたのは、見覚えがあったからだ。二人は取り替えたのだろう。というより、父は鞭打たれる前に身ぐるみ剥がされたのだ。アラブ人の風貌をした男はいきなりベルトを投げ捨てた。銀色のバックルが父の顔の横に落ちた。父は、それを握りしめて嗚咽をもらした。

 父が墜落しなければ、由衣とわたしは、彼に連れられて動画内の部屋に招き入れられていた。どんなお誕生日会が催されたのだろう。

 父は、わたしたちを、いや由衣を守るために、自らの意志で飛び降りたのだ。母がメールで書いていた〝掟〟とは由衣を差し出すことだった。差し出さなければ、二人の刑事が話していたように拷問され死に処せられる。八嶋監察官は、掟にしたがって娘を差し出したのか。母も、由衣を差し出すつもりでいたが、わたしのせいで由衣が死亡し予定が狂った……。母は何をどこまで知っているのか、そして関与しているのか。この動画を、野崎は捜していた。競争相手より上位に立つために何者かに命じて監察官の姿をひそかに撮影させたにちがいない。何者かは、野崎に見せるために由衣に動画を送信すると見せかけて、監察官を撮ったのだ。

 由衣の言った「父の女友達」なのか?

 SDカードを入れ替える。父の私用の携帯には多くのメールと、複数の画像が保存されていた。そこに、もう一人の父がいた。鞭打たれ、犬に犯されかけ、殴打されてもなおクスリを求める父ではない。もう一人の父の犯罪行為が記録されていた。小児性愛者のグループと、父はアハブの名で連絡を取り合っていた。山田の言った〝会員〟とはこのグループのことをさしているのではないか。父は鄙猥な文面ととに、少年や少女の裸の写真を添付して送信していた。

 自撮り棒をつかった静止画がいく枚もあった。日付は十年前だった。USJで楽しげに遊ぶ父と日本人の女性とアラブ人の容貌の少年と少女。ロープウェイの中で笑い転げる子どもたち。レストラン船〝ルミナス神戸〟でくつろぐ疑似家族の四人。そして立樹病院の個室と思われる一室で、父と少女がベッドに腰かけ肩をならべて映っていた。パジャマ姿の少女は父親に甘えるように父の腕に頭を預けていた。父が携帯を買い替えることを躊躇したのは、これらの映像のためだった可能性が高い。父が、両親と疎遠になった理由は、父自身にかかわる問題を知られたくなかったからだ。しかし、医師だった祖父は、父の性癖を知りながら身寄りのない母を父と結婚させた。母は結婚後に父の忌まわしい素行を知り、父と祖父母を憎んだ。しかし、結婚生活が破綻したあと、母はわたしを置いて父のもとを去らなかったのはなぜか? 祖父母と父へ報復する機会を待ったからか……。 

 父に自ら命を絶つことを強要した母は、わたしを入院させたその足で祖母と会い、祖父母と父の裏切りをなじるつもりだった。祖母が父の保険証書を搾取したと、母は思いこんでいたのだ。もしかすると父は、自分の人生に深くかかわった二人の女に、報復したのかもしれない。老女に変装した姿ではなく、奏香の祖父のかたわらに寄りそって立つ祖母の毅然としたたたずまいが、脳裏にうかんだ。冷静で冷淡な印象をうけた。父は追いつめられたとき、祖母に助けを求めなかったのは受けた傷がそれほど深かったということではないのか。父はどうにかして、現状を変えようとあがいていた。教会に通い、洗礼を受け、組織から脱けようとしていた。しかし、クスリへの依存がそれをさまたげた。家を出た、もっとも大きな原因は、借金もあるが薬物だったのではないか。

  父が撮影した唯一の動画を見る。日付は、去年の十一月二三日、祝日だった。転落死する五日前だ。映し出される前に女性の悲鳴が聞こえた。英語ではない異国の言葉で泣き叫んでいる。包帯を首に巻かれた全裸の女性の顔が画面に写し出された。肌はやや褐色だが、中東系には見えない。顔、腕、胸、背中、尻、太ももなどに刺し傷があり、血まみれだった。頭にライトをつけ、防護服で全身を包んだ何人もの大人や子どもが、凶器を手にまわりを囲んでいる。彼女の足元にはビニールシートが敷かれていた。広ささと周囲の光景から察すると、場所は地下トンネルだ。満身創痍の彼女は唸り声をもらし、苦悶の表情を浮かべていた。加害者の集団は彼女を傷つけるたびに足を踏みならし、歓声をあげた。子どもたちの笑い声はひときわかん高い。頭に装着したライトと点滅する天井の蛍光灯が交錯することで、殺伐とした情景が、現実感のない空間に変貌していた。女性は切り刻まれたあげく、馬乗りになった人物に鋭利な刃物、おそらくメスで頚動脈を切られたのだろう。血しぶきに、大歓声が起こった。集まった人数はひと目では数えきれない。彼らの声や顔は防護服で隠されているが、ほんの一瞬、写し出された杖で、ある人物が思いうかんだ。他にも聞き覚えのある声がいく人もあった。病院で働く人びとだ。脂顔の刑事もいた。「もっともっとわめかんかい!」という関西弁でわかった。由衣らしき子どもも、映っていた。保護メガネをつけているので目の表情はわからないが、みなからひとり離れて、撮影者の父を見つめていた。もしかすると、父はこの日、由衣を差し出すつもりで地下トンネルでの饗宴に参加したのかもしれない。しかし、間際になって由衣を連れ帰った。

 あの雨の日、父が生きのびる最後のチャンスだった。父と由衣は、タワーマンションに出かけて行けば、何が起きるか、互いに知っていた。だから、わたしを必要とした。山田は、「〝下層民〟は汚れ仕事をさせられる」と不満をもらしいたが、〝下層民〟は言うにおよばず、〝中層民〟も〝上層民〟も参加し、血の宴をたのしんでいるようにしか見えなかった。しかし、その愉しみには対価が必要だった。ネットカフェのパソコンを使い、USBメモリのデータをSDカードへダウンロードする短い間も狭い空間に押しつぶされそうになる。手足がガタガタと音をたてる。止めようとしてもとまらない。震える手でバックパックの中から由衣のスマホを取り出す。赤い皮のケースの中も同じ血の色だ。歯ぎしりが止まらない。パスワードはロックされていた。由衣の誕生日の四桁を押したが、解除されない。

 深呼吸をし、備え付けのパソコンで〝タチソ〟を検索した。高槻地下倉庫には、地元民や動員学生の他に、朝鮮人労働者も開削の現場に動員されていた。動員学生の中には医学生もいた……。祖父は終戦の日に、あの地下倉庫にいたのだ。

      21 アハブの兄弟

  由衣の携帯を充電したあと、最終電車に間に合うように御堂筋線で梅田へ行き、料金の安い阪急阪神線にむかった。三ノ宮にもどる。 夜間は駅の構内はシャッターが降りる。徒歩で自宅へ帰った。家の中は荒らされたままだ。電気が点かない。水道と同時に電気も止められたようだ。懐中電灯を持って由衣の部屋へ行く。昼間、のぞいたときになかったキティちゃんのハンドバックがピアノの上にあった。父の死んだ日、二人の刑事が帰ったあと、キティちゃんのハンドバックをどこかに置き忘れたと、由衣は大騒ぎをした。父の死よりも、小さなビニールのバッグのほうが、由衣には大事件なのかと腹を立てた記憶がある。ファスナーを引き開けると、父の遺体が握りしめていたグレイブルーのスカーフ、小さなハンカチ、文字盤にキティちゃんが描かれた腕時計が入っていた。それに、透明のケースにスリーショットの写真が一枚……由衣は父と黄金の仮面をつけた人物の真ん中で笑っていた。赤いスマホを手にとる。ピアノを習っていた由衣は、ショパンの「別れの曲」がお気にいりだった。単調な指の練習をしたあとでかならず弾いていた。由衣の学習机に立てかけてあるピアノの教則本の中から「別れの曲」をさがす。すぐに見つかる。作品番号は「ワルツ第9番69の1」。

【9691】と、赤いスマホのキーを押す。

 父からの伝言が残されていた。死の当日の父の声だ。『娘よ、聞け』のひと言だった。詩篇45章10節の冒頭部分だとすぐに気づいた。頬が痙攣し、吐き気がした。父は由衣を差し出すつもりだった。同じ日に送信された動画を見る。ワゴン車の中で由衣の見たものだ。二度目だが、父の後ろ姿に歯ぎしりがとまらない。階下で足音がした。クローゼットの中に隠れる。父が転落死した日に着ていた由衣のワンピースがハンガーにかかっていた。あの日、わたしが背中を押したせいで裾に血がにじんでいる。触れると、由衣の匂いがした。香水を使わなくても、由衣はよい匂いがした。三○分先がわかるカシオペイアは送信された動画を見た瞬間、父の死を予感し、ワゴン車の前をよぎった落下物を「パパだ」と言った。

 由衣の腕時計を手首につけた。深夜、家を出た。街灯のゆらめく道をひたすら歩いた。粘着質の足音が背後から消えることはなかった。三ノ宮駅の手前にあるネットカフェで仮眠をとる。

  七月十二日火曜日、午前八時過ぎ。街とつながる橋をモノレールでわたると、一瞬なつかしい気がした。小学生の頃、学校の課外授業で海の見える遊園地にきた。体育は嫌いなのに広い場所は好きだった。祖母の家での記憶がどこかに残っていて、自然と交感することが無意識のうちに好きだったのだと思う。映像の世界に忍び入るようにわたしの意識は風景に浸透し、自分自身の肉体が平面に同化したように感じた。

 奏香の話では、母の勤め先は人工島にあるらしい。母からナースの経験があると、ただの一度も聞かなかった。父がクリスチャンであったことも知らなかった。秘密だらけの家族だった。

 視覚が、人工の島を俯瞰している。住宅地は中心部に集められているが戸建ての家はなく、緑地と高層住宅とに分けられている。その外側に、港湾施設と企業用地がある。海上に浮かんでいる島なのに海の見えない病院の正面玄関を入り、総合受付窓口にむかう途中で、救急車のサイレンの音が遠くで聞こえた。不意打ちのように意識がフラッシュバックした。もっとも恐れていた記憶がよみがえった。

「由衣……」思わず声が出た。「三○分先が見通せる、カシオペイアは死んでいない!」

 ショック状態の由衣の乗った救急車に、雨に濡れた部屋着の母とパジャマのわたしは同乗した。救急車内で救命措置を受けた由衣は息を吹き返した。そして、市民病院の集中治療室に運びこまれた。診断の結果、脳死状態だと告げられた。頭と心が真っ黒に塗り潰されていった。気づいたら、病院の待合室で横たわっていた。母に急きたてられて、タクシーで家に帰り、母のさしだすクスリを服んで眠った。記憶がとぎれとぎれになったのは、高校をやめたあとはじまったように錯覚していたが、そうではなかった。由衣の脳死を引き起こした直接の原因は、「バカヤロウ」と落書きをしたわたしにある。記憶を削除したのは、死よりも恐ろしい状態に由衣を陥れたからだ。野崎との諍いで、記憶の隠蔽は決定的となった。強制的にどこかに連れ出され、立樹病院に入院するまでの短い間、帰宅したが、わたしが頬に傷を負わせた彼は姿を消していた。

 野崎を諦めきれなかった母は、彼に提案したのだろう。立樹病院に犯罪者同然の娘を入院させたあとで祖母――母にとっては姑が保険証書を盗んだはずだから取り返せば、大金が入るとでも言ったのか? 母は保険金で愛情が買えると信じた。なんの、しがらみもない二人きりの生活がはじめられると。母は自分の求めるものを野崎の中に見たが、野崎にとって母は使い捨てにできる〝家畜〟だった。

 母とわたしにどれほどの違いがあるだろう。

 自らを閉じこめる、歪な性格のわたしは、罪の意識から逃れるために、事実と時間をねじまげて記憶した。とうとう、もう一人のわたしと向き合う時がきた。

「宇梶由衣の病室はどこですか」

 受付窓口の女性に、わたしは自分の声で訊いた。彼女は、パソコンに由衣の名を打ちこみ、「転院されましたよ」と告げた。そんなはずはないと言うわたしに、彼女は、「コロナ感染患者を受け入れる指定病院になったときに転院されました」と答えた。

「どこへ」

「須磨区の**病院です。これ以上はちょっと……」

「看護師の宇梶美姫は勤めていませんか」

 受付係の女性は、わたしの名を確かめた。個人情報なので、答えられないと言ったが、母の行方がわからないと伝えると、彼女は困惑気味に小声で言った。母は由衣の入院と同時に臨時の看護師として雇用されたが、由衣の転院にともなって辞めたという。

 JR三ノ宮駅から目的地の駅へむかう。約三○分で須磨駅の真北にある総合病院に到着した。病院の受付で由衣がいるかどうかたしかめた。ここからバスで十五分ほどかかる、「千久馬神経内科病院」に転院したと教えられた。由衣の死後、わたしが入院していた病院だ。チクマの名をきいて、思い出した。

 市バスに乗り、千久馬病院へむかう。通用口から院内に入り、清掃係の女性に宇梶由衣が入院しているかどうか、たしかめた。閉鎖病棟に入院していたわたしは受付でたずねることをためらった。彼女は拒んだが、わたしの途方にくれた表情に気づいて耳打ちしてくれた。「若い子は長くここにいない。タツキにいく」と教えてくれた。わたしも、ここから立樹病院へ送られた。もしかすると、金子逸見も同じなのかもしれない。わたしが入院する以前に、由衣は立樹病院に送られていた。母は由衣を一度も見舞うことなく、同じ病院にわたしを入院させた。由衣は、すぐ近くにいた。なんて、残酷な女なのだろう。男と金のためなら、なんだってできるのだ。エゴの固まりのような人でなしの女から生まれたわたしが、まともであるはずがない。しかし同じ立場に置かれれば、同じ事をしただろう。

  国道と海岸線をまたいだ須磨駅に引き返した。階段下の改札口のすぐそばに、三十一個のコインロッカーがあった。構内にはコロッケを売っている店舗もあった。握りしめた鍵を見つめた。八嶋悦子から託された鍵は、コインロッカーのものだということは以前、見つけたものと類似した形なのでわかっていた。彼女の言った「病院に近い駅」とは神戸市の西にある、古びた駅舎のことだった。【ナンバー13】のコインロッカーの扉をあけると、長財布よりひとまわり大きいセカンドバッグが見つかった。駅舎内のベンチに座り、ジッパーを引いた。中には、数十万円と手書きの手紙とUSBメモリとシャープペンシル型のカッターナイフが入っていた。アビシニカの香りのする手紙を読む。

『二倍体細胞をもつあなたなら、かならずここまでこられると思ってたわ。あなたの目は何者にも従属しないと言っていたもの。この手紙は駅近のカフェバーで書いています。過去の記憶のすべてがデータベース化されていないので時々、エラーが生じて忘れてしまうけれど、いまのわたしは、アルコールを加水分解した状態よ。正常ってこと。だから余計に思うの。八嶋悦子としての記憶をすべて消去できれば、こんな惨めな生き方にならなかったと。アルコールによる一時的な麻痺も、救いにはならなかった。不思議だけれど、あなたと出会ってはじめてやり直せるかもしれないと思った。この手紙を読んでいるなら気づいたと思うけど、あなたが以前、入院していた千久馬病院と立樹病院とは深い繋がりがあるわ。創立当時から互いに協力してきたのよ。なぜ、知っているのかと思うでしょ? 立樹病院の院長は兄よ。びっくりした? 兄を実兄だと思ったことは一度もないわ。相手も妹だと思ったことはないはずよ。わたしたちは永遠のライバルとして、父の理事長から育てられた。研究者としても、わたしたちは鎬を削った。そのせいで、わたしと双子の妹は、父から気に入られることだけを考えて育ってしまった。わたしが立樹入院したと同時に、自分の存在を否定して、わたしに成り代わったのよ。あなたには黙っていたけれど、数学教師のわたしは、わたしじゃない。わたしをコピーしたような妹です』

 階段を上がり、高架上のホームに立つ。砂浜が一望できる。神戸行きの電車がきた。乗りこむ。扉が閉まる直前に、例のストーカー男が乗車した。難波のネットカフェを出たあとも、わたしの後をつけていることはわかっていた。気にせず、手紙のつづきに目を通す。男のスニーカーは洗ったことがないのだろう。土がついたままだ。どこでつけた土なのか……。もしかすると、わたしを追って森の中でついたのか。

『研究者だったわたしは家族を大事にしなかった。最初の結婚生活はそれで失敗したわ。二度目の結婚で、義理の娘と暮らしたいと思うようになったのは症状がひどくなってからだった。遅すぎたのよ、何もかも。再婚相手の八嶋と先妻の子である娘がいやな思い出の家から引っ越して幸せに暮らしているならそれでいい。諦めもつく。母親の愛情を知らずに育った園子は、義母のわたしより、実の父親を選んだのならしかたがないと思った。しかし、彼は自分の娘を人間とは思っていなかった。娘は夫に殺されたのも同然よ。そのことを思うと、怒りで胸が引き裂かれそうになる。いま、わたしに残されたこの世での仕事は復讐することしかない。海外の口座にある預金をあなたに託します。わたしが兄から盗んだものです。あなたが病気のときに、ユーザーネームとパスワードのヒントを耳元で囁いたこと覚えている? 海外の口座はケーマン島の**銀行、国内は**証券よ。この手紙が人手にわたることも考えて、パスワードとユーザーネームは、あなたの頭の中にしかないようにしたの』

 ストーカー男が近づいてきた。顔を上げないわたしに、どう接していいのか、わからないのだろう。フードを頭の後ろへおろし、車内の通路を往復している。さすがに暑いのだろう。漆黒の髪の生え際から汗がしたたっていた。

『USBメモリは、あなたがブーツのなかに隠していたものよ。あなたが入院したその日の真夜中に、金子逸見は、あなたの荷物をひっくり返していた。あなたにも秘密があるのだろうと想像がついたわ。火事騒ぎを起こした日、あなたたちはスリッパで逃げた。どこに隠してあるのか、おおよその見当はついていたので、取り出しておいたのよ。あなた自身は隠したことも忘れているようだった。わたしは決心したの。あなたが、わたしにかわって、復讐してくれるだろうと。すぐれもののシャープペンシルは、わたしからのプレゼントです。必要なときがくると思うから、いっしょに入れておくわね。使用するときは二度、ノックしてね』 

 ストーカー男はわたしの隣に浅く腰かけた。彼と父とは親しかったのかもしれない。店の主人の言った「いつもいっしょにくるヒト」とは、父のことではなかったのか。彼は「もうこない」と答えていた。

 手紙のつづきを読む。『あなたと家族の運命を狂わせた野崎隆行は兄の息子、わたしの甥です。念のために彼が住んでいるマンションの住所を書いておきます。山田から聞き出しました。もし、わたしや山田が死んだと伝え聞いたときは、新館の地下二階にある研究所に行ってください。なんども行こうとしたけれど、だめだった。病院でしょっ中、騒いだのも、そのせいよ。もしも、たどりつけたら、わたしの実の娘、弥生を解放してやって頂戴。最後につらいことを伝えておくわ。わたしは神の領域を犯した愚か者です。弥生とあなたをふくめて、四人の子どものDNAを変異させる液体を体内に注入したの。あなたたちは他の子どもと異なる体質をもってしまった。どうか、許してください。いまから病院にもどります。会えるといいけれど、遺書を書かされてしまったから会えないかもしれない。もう一度、巡り会うと約束したのに、ごめんなさい』

 想像だが、八嶋悦子はわたしが入院する以前に病院を脱け出し、この手紙を書いた。そして、高槻駅のコインロッカーにダミーのボストンバッグを入れ、立樹病院にもどり、旧館に移ったにちがいない。

『生命の設計図と言われるDNAには、死期が記されています。人間に生まれた以上、神の定めた限られた時の中で生きるしかないようです。わたしは多くの時間を無駄にするように設計されていたけれど、四人の中で一人だけ生き残ったあなたは、あなたの好きなモモのように、生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になれるかもしれない。 追伸 $で¥を購入しなさい』

  ストーカー男は、わたしが手紙を読み終えるのを辛抱強く待っていた。男は、わたしの後をつけ回し、何を話すつもりなのか?

 いつまでも黙っているわたしに、「おまえの妹のバッグは、おれが、もどしといた。県警の車に忘れていた……」

 彼が、キティちゃんのバッグをもどしたのだろうと思っていたので意外な気はしなかった。

「これを――」と言って、もぞもぞと手を動かし、パーカのファスナーを下げて手を入れ、雨の日になくしたキャップをつかみ出した。キャップを受け取り、傷跡のある横顔を見つめる。

 彼は前をむいたまま話した。「おれの名はマスキール。みなは、マスキルと呼ぶけど、おまえの父親――アハブは、いつもマスキールと呼んだ。そして兄弟だと言った」

 詩篇の序文に書かれている、コラの子のマスキールと同じ名だ。父のアハブも旧約聖書からとられた暗号名にちがいない。

 マスキールは、画像の少女と同じ、切ったように深い二重まぶたの目をしていた。「兄弟と呼ばれても、過去を忘れることはできない」彼は言葉に詰まった。「おれがいないところで、飛び降りるとは思ってなかった。おれの手で殺すつもりだった」

 おれが殺すつもりだったと、彼は繰り返した。父の代わりにわたしを殺すつもりなのか? 彼の表情に殺意は感じられない。鼻の穴がふくらんで、目に涙が溜まっている。

「アハブは、悪魔の手先だ。許せない」

 マスキールは冗舌なタイプではないのだろう。ぽつりぽつりと語ったことを要約すると、彼の祖父と父親の一家はイランのザーボルというところに住んでいたが、一九七九年に革命が起きたあと国境を越えてアフガニタンに逃れたのだという。しかし、いまから二二年前の一九九九年に、父親が日本人の女性と知り合い、彼女の助けで家族は生きびた。彼の母親は難民を助ける活動をしていたらしい。彼の父親は就労ビザで日本に入国し、先に帰国していた女性と結婚し、三年間の在留資格をとり、仕事の関係で神戸に移り住んだ。マスキールと妹のタマルは、日本人の母親から生まれた。しかし、不法滞在のイラン人を匿ったために警察に目をつけられるようになった。父親は在留資格を失い、イランへ強制送還されたという。

「母親は変わった女で、父親がいなくなったあとも働きながら不法滞在者のための活動をつづけた。けれど無理がたたって病気がちになった。おれたちはその日の食いものにも困るようになって、住む場所も転々とした。おれは小さかったけど、当時、日本にいたイラン人の仕事を手伝った。母親に言えないようなこともした。その連中から父親の消息を知った。イスラム教のスンニ派だった父親は、帰国後すぐに反政府活動をしたという理由で刑務所に入れられて死んだそうだ」

 マスキールは漆黒の長いまつげをしばたいた。

「ある日、母親の遠い親戚だという男が訪ねてきた。おれたち親子は、その男の口車にのって、吹きだまりの町から駅に近い建ったばかりのマンションに引っ越した。夢を見てるみたいだった。アハブと出会ったのも、その頃だった。おれと妹のタマルを可愛がってくれた。タマルはなついていた。人を疑うことを知らない母親は、生活費を援助してくれるアハブを頼りにするようになった。近所のスーパーで働いていた母親は疲れきっていた。だから、アハブが、高い熱が何日もつづいたタマルを大きな病院に連れて行くと言ったとき、何も疑わなかった。容態がよくないので入院することになったと聞かされても信じきっていた。タマルに感染したらいけないので見舞いに来るなとも言われた。そのあとだ。最初に訪ねてきた男がやってきて、母親とおれをマンションから追い出し、もといた町へ追い払った。子どもだったおれは何がどうなっているのか皆目わからなかった。十年前のことだ。おれが十一歳のときだ。二歳下のタマルが死んだと、連絡のつかなかったアハブがつたえにきた。アハブがタマルを連れ去って半年後のことだ。おれは、おまえを覚えているが、おまえは忘れたのか?」

 すり鉢状の地形が脳裏に鮮明によみがえった。物悲しくさびしい光景だった。車一台しか通れない狭い道を、ゆっくりと進んでいた黒い車は霊柩車だったのだ。そして、父のそばにいた少年はマスキールだった。幸福そうに笑う画像の少年も……。

「おまえは泣いてるおれに言ったんだ。『ぬけだせるぬけだせるぬけだせる……』って。脱け出せなかったけどな。母親は立樹病院にいる。おれと会っても、息子だとわからない」

 生死のさだかではない弥生、死亡したと思われる八嶋監察官の娘の園子とマスキールの妹のタマル。四人の名前をつなげると、コードネームの〝ヤソウタ〟になる。

「おれは、アハブを心の底から恨んでいた」

 父は霊柩車を見送り、「まただめだったのか」とつぶやいた。八嶋悦子は手紙の中で、DNAに手を加えた四人の中で、わたししか生存していないと書いている。父は八嶋悦子を手伝っていたのか。研究のために、社会的弱者と呼ばれる親子を犠牲にした。個々の事情で唾棄すべきことが許されるなら犯罪者はこの世にいない。取り返しのつかない過ちを犯した者は狂い死ぬか、自身の狂気をエネルギーに転換して生きぬくしかない。父は前者だった。

「おれは母親の面倒を看てもらうために、連中の言いなりになるしかなかった。アハブは、おれを立樹病院の寮に入れておきながら母親と妹のことは忘れて、まともな暮らしをしろと何度も言った」

 父は帰ってくるたびに、映画『バクダッド・カフェ』のテーマ曲「Colling・you」を繰り返し聞いていた。飛び降りる直前に、だれを呼びつづけたのだろう。〝神〟に呼びかけていたのか。「自分が、おれたちにしたことをすっかり忘れたような顔をして、逃げろと言ったんだ……笑えるだろ?」

  須磨から三ノ宮へもどる。JR三ノ宮から元町の先、神戸駅までつづく高架下のなんでも売っている店を何軒ものぞいた。通称〝元高〟で通信不可のガラケーの黒い携帯と赤いスマホを買った。マスキールはどこまでもついてくる。父への恨みをわたしで晴らすつもりなら、夕べのうちに実行できた。彼がそうしない理由は、父を憎みながら心のどこかで兄のように慕っていた頃のことが、頭から離れないのかもしれない。動画の中で、父は、マスキールのベルトの銀色のバックルを握りしめて泣いていた。後悔と謝罪の気持ちが入り交じっていたにちがいない。

 きびすを返し、東にむかって歩く。

 三ノ宮の中心部から東にそれると、区役所のある通りにでる。タワマンの近くの複合ビルの中にマンガ喫茶がある。六階から八階まで占有していた。街中に点在するネットカフェとマンガ喫茶がいまでは自分の家のような気がしていた。大脳の中に住んでいるようだった。

 パスワードとユーザーネームを解く鍵は、わたしの頭の中にあると彼女は手紙に記している。バックパックにジャージィを入れるときに、こっそり忍ばせていた手のひらサイズのぶ厚い旧約聖書をひらく。詩篇45章10節と11節。本文のはじまる序文の中に花の名前がある。わたしの好きな花はユリだと彼女は言った。ユーザーネームはアビシニカとユリのどちらかだ。【Lilyflower】に決める。パスワードは【45―10―11】。父の最期のひと言も、詩篇の同じ箇所だった。

 八嶋悦子の海外口座にアクセスした。ユーザーネームは正解だった。しかし、パスワードを打ちこんでも、エラーが出る。451011ではないのか? スパイ映画から類推すると数字が足りない気がした。数字の前か後に、文字を加えるのかもしれない。八嶋悦子は、「弥生はね、くじの日に生まれたの」と言ったあとで、「詩篇45章10節と11節」と言った。数字の前に、Yayoiと入力した。

 弾かれる。あと一度、失敗すると、アクセスできなくなる。ネットで「旧約聖書、くじの日」を検索。エステル記にもとづくとある。長い説明は読み飛ばし、プリムの祭りとは、ユダヤ歴のアダル月(太陽暦の二月から三月)の十四日と十五日に祝うとある。文字はエステル、プリム、アダルのどれかだと見当をつける。綴りすらよくわからない。英語のEsterは、化学用語でアルコールと酸とが脱水反応を起こした生じた化合物で、芳香があるため、食品の香料などに用いられるとある。primは最初、第一の意味のラテン語。アダルはヘブライ語で第十二の月を意味するらしい。パソコンの前で一時間経過。『モモ』に登場する時間貯蓄銀行の外交員の計算だと、三千六百秒ムダにしたことになる。八嶋悦子は食堂で、「化学薬品の香料」と口にしたことがあった。盗んだ金を預けるとき、愛する娘の名をつかうはずがないと気づく。 

【Ester14―15―45―10―11】と打ちこむ。

 ヒットした。八嶋悦子名義の海外口座から国内の証券会社の口座に十分の一程度を振り替えた。ドルで円を購入する。死亡届が提出された父の口座はなくなっていたが、八嶋悦子名義の証券会社から通信会社に未払いで処理されていた滞納料金を振り込む。しばらく待つ。由衣のスマホも同時に起動した。これで、携帯が使える。買ったばかりの通信不可の携帯とスマホに、データをコピーしたSDカードを差しこむ。父の携帯の着信音が鳴った。マスキールから画像が送信されてきた。

  自販機で飲み物を買っていると、わたし以上にボサボサ頭をした若い男性に声をかけられた。ぶ厚いメガネをかけ、衿ぐりのゆるんだTシャツに薄汚れたデニムパンツに見覚えはなかった。

「どうして、じっとしててくれなかったんだよ。メールをするとき、アタリヤの名でアモン宛てにするように言っただろ? それを宛名なしで送信してくるから、もらったとき、しょっ中くるスパムメールと判断したんだよ。だいち、おれは神戸にいたから難波まで行くのに、ハーバーハイウェイを車ですっ飛ばしても四、五○分はかかる」

 マスクを顎の下にずらしたボサボサ頭は唇を動かさずに話した。その口調で、入院する当日に訪れた男性と目の前のメガネとが同一人物だとわかった。面長の茫洋とした顔立ちに変化はなかったが、「たいがいにしくれよ」と、彼はため口をきく。「位置情報をオフにするなっつーの」

 眠気覚ましに、飲み物の中でもっとも味覚に合わない缶コーヒーを買う。彼も同じものを買いながら、「警戒するのはよーくわかる。怪しいやつに見えると思うけどさ、おれは限りなく善人に近い。神に誓ってもいい――と言っても、神さまなんて厄介なしろものは微塵も信じちゃいないけどさ」

 アモンと名乗る男性は缶コーヒーのプルトップを引っぱり、

「きみを病院に送りこんだ母親と同類だと思ってもらっては困る。アハブは、おれの友人――」と言って、しばらく考えていたが、「友人になってくれそうな雰囲気だった」

 彼の目を凝視した。父のように虚ろではないし、野崎のように野心と悪意がみなぎった目の色ではなかった。マスキールのように悲哀と憤怒に満ちてもいなかった。なんの感情も表さない瞳だった。

「いま、どうして、ここがわかったのかって思っただろ? 大阪と神戸の漫画喫茶かネットカフェを調べれば、わかるよ。そっちがコマネズミみたいに動きまらなきゃ――」

 時間のロスを防げたと、彼はつけ足した。

「なんにでもなれるのが、おれの職業なんだ」

 怪訝な表情をすると、「先に、ここを出てくれるか? うさんくさいやつが、あとをつけてるの、知ってるよな? ったく、どういうつもりしてんだか。あいつに命令する連中は常軌を逸してる。気をつけないと、道連れにされる危険があるぜ」

 返事をしないわたしに不安を感じたのか、

「マスキルは日本で育ったので、故郷の言葉は話せない。国籍は日本だけど教育らしい教育を受けていない。調べでは日本語の読み書きは不自由だと聞いている。運転免許はとれないはずなんだけれど、なぜか、立樹病院の寮に住んで運転手として働いている」

 彼はにっと笑った。黒ずんだ歯ぐきがのぞいた。

「じゃあ、メシにするか」と、彼は歯ぐきを見せずに言った。

 マンガ喫茶を出たあと三ノ宮駅に向かってもどり、大型書店が入居しているビルの最上階にある、レストランに入った。コロナのせいで、店内は開店休業のような状態だった。

「きみのおとうさんと妹の携帯電話を持ってるだろ?」

 彼は二、三時間、あずからせてくれと言った。ボールペンを借り携帯は必要だと紙ナプキンに書いてわたすと、彼はショルダーバッグからノートパソコンの他に、SDカードの情報をダウンロードするための機器を何種類も取り出した。何に使うつもりなのか、感熱モバイルプリンターまで出してくる。何げに、彼の足元を見る。ナイキのスニーカーだ。はじめて会ったときも、彼は真新しい靴を履いていた。金持ちは靴にこだわると、何かで読んだ。

 オーダーしたものがくる前に、わたしは立ち上がった。

「きみを助けるためなのになァ」と彼は言った。「そんなに警戒しなくても、データを見せてもらうだけだよ」

 頭の中で声が聞こえるのではなく、感情脳とは別のところから自分の心の声が響いた。これまで自分の感情のおもむくままにだれに対しても接してきた。それでいいことが一つでもあったか? 何があったか、思い返してみろと心の声が問いかけてくる。

 座り直し、赤いスマホと黒い携帯をわたす。

「自分の身は自分で守らなくちゃ、だれも手助けしてくれない」

 彼はそう言って赤いスマホをいじっていたが、マスキールの送信してきた画像を見つけると、メガネを外し、眉をよせた。

「これ病院内の画像だよなァ」と口の中で言った。「送信者は、きみのS、つまり情報提供者なのか?」

 父宛てに送られた画像を、野崎の頭文字、TNの宛名で通信不可の赤いスマホへ移しかえていた。彼は、SDカードを取り出すと、ノートパソコンにダウンロードし、自分のタブレットを操作し、わたしの目の下においた。

「病院のどこかわかるか? ポスピスとは名ばかりで、患者はほぼ一ヵ月以内に死亡している。親族のいない患者や引き取り手のない患者がほとんどだ。遺体の臓器が売買されている疑いがある」

 薄暗い広い部屋に、ベッドが何列も並んでいた。点滴袋がぶらさがっているベッドもあれば、まわりに何もないベッドもある。

《旧館の四階》と紙ナプキンに書き足した。

 ボサボサ頭の彼はショルダーバッグにノートパソコンと電子機器をしまいながら、「どちらも位置情報がオフなのになァ。契約もついさっきまで切れてたし。携帯電話会社にも、病院の連中は入りこんでるのか。大阪府警は、本庁と違ってせこいんだよ。もともとおれも関西出身なんだけどさ」

 メモ帳を出して書く。《ある人物の口座から引き出した現金を振り込む先がない。その場合はどうすればいいのか?》

「そりゃ、たいへんだ」彼は歯ぐきを見せずに笑った。「だれの金かは、このさい詮索しない。おれに見せた携帯やスマホが通信できない偽物だったことも詮索しない」

《この店の支払いもできない》

 彼は、もう一度うすく笑い、「割り勘」だと言って千円札を一枚テーブルにおいた。嘘を見破る能力は長けているようだ。わたしが話せることも、知っているのかもしれない。

「一応、きみの口座があるかないか調べてみるよ」

 彼は自分の携帯で問い合せた。どこへかけたのか、休眠状態だが口座はあると言った。そして、自分のスマホを操作しながら、家のどこかにキャッシュカードがあるはずだと言った。

 母が所持していた封書の裏に記載してあった〝兵庫県保険環境部医務課〟とは何をするところなのかと、メモ帳で訊く。

「遺体を解剖する部署だ」

《それがあれば、だれかを脅迫できるのか》

「家族に送られた〝死体検案書〟で脅迫なんて無理だと思うよ。転落するまえに負傷していたという所見があっても、それだけで殺害されたと断定することはむずかしい」

 彼の言う偽物の携帯とスマホを引き寄せた。

「半日でいい。おとうさんの携帯を貸してくれないか?」と彼は訊く。黙っていると、「半日でいい」と言った。

 頭を横にふる。

 彼は警察手帳を右手でかざした。「きみが不審に思うことは想像していたから見せるよ」

 彼はついでに名刺も出した。金色の桜のマークがあって、『大阪府警本部・公安部・課長・幾多進次郎』とあり、府警本部の住所と電話番号があった。生田神社にちなんだ偽名だろう。

「きみに教えた番号は通信司令室を通さず、おれの携帯番号に直につながるんだが一応、上司に報告しなけりゃいけないことになってる。コードネームが違ってると問題になるんだよ、うちの会社では」

 もう一度、座りなおす。《父は情報提供者だったのか?》と、メモ帳に書いてたずねる。

「きみが入院していた病院は不正を働き、莫大な利益を上げている。近いうちに国税庁の査察が入る。きみのおとうさんが関係していることは、ずいぶん前からわかっていたので接触したんだ。彼が通っている教会に信者のふりをして潜入して――もし、兵庫県内の教会だったら手出しできなかった。管轄外になるからさ、縄張り意識なんて、くだらない慣習だよ」

《いつから?》

「去年の春頃くらいから親しくなったよ」

 父は警察のスパイになったせいで、家に帰れなくなった。それが、仲間にバレて殺された。これで責任転嫁できると一瞬思った。そういうことに、したかった。ちがうことはわかっていた。

《父は、あなたが警察官だと知っていたのか?》

 彼は名刺をしまうと、わたしをにらんだ。感情をもった顔つきになった。

「宇梶さんは、きみたち家族を守ろうとしていた」

 わたしは、メモ帳に書いた。《八嶋監察官と同じ警察の人間を信じろと言うほうが、無理。あなたより、八嶋監察官のほうが、力があるかもしれない》

「わかるなァ、それ」彼はコーヒーをひと口のんだ。「けど一人じゃ、なんにもできない。なんたって、まだガキなんだし。それに県警本部の監察官が、悪さをしているなんて、未成年のきみが訴えてもだれも信じない」

《空き室から転落したことになってるが、ほんとうは別の部屋から転落したと証明できても、だれも取り上げてくれないのか》

 彼の醒めた目に揺らぎが見てとれた。

「先に言っておくけど、きみがどこへ行こうと、おれの携帯で探知できるように、偽物の赤いスマホにGPSを仕込んでおいた」

 わたしがタブレットを見てる間にやったのだろう。プリンターで隠してるつもりだったようだ。

「送信してくるくらいだから、きみの居場所は、連中も知っている。危険だと思わないのか?」

 本物の黒い携帯を差し出した、信頼を得るために。

 彼は受け取ると、「カードを見つけたら、すぐに家を出るんだ。くずぐずすると、拉致されかねない。病院の人間に気づかれないようにきみに接触するつもりだから安心してくれていい」

 店の外へ出ると、マスキールがいた。マスクはしていたが、フードはかぶっていなかった。茶褐色の顔が黒ずんでいる。何か言いたげだったが、先を急いだ。彼は、一定の間隔をとった状態でついてくる。たぶんだけれど、旧館の四階にマスキールの母親がいると告げたいのだろう。

 タクシーで家へ帰った。

 家の鍵は壊されていた。監視カメラを気にせず、中へ入った。灰色の男たちは再度、家を荒らしたようだ。書斎の書棚の膨大な本は床に撒き散らされていた。箱入りの画集や図鑑や辞書などは調べたようだが、すぐ手にとれる場所に聖書はひらいた状態で捨て置かれていた。B5サイズの付箋だらけの本のどこをひらけばいいのか、わからなかったようだ。時間が足りなかったにちがいない。父は旧約聖書と新約聖書が一冊になった『詩篇38:2-6』にしおりをはさみ、丸印をつけていた。そして、分厚い表紙の内側にある中東一帯の地図に記されたバビロンの下に、『刑罰の日は来た。報いの日は来た』と自筆で書いていた。

 丸印の箇所を読む。『あなたの矢がわたしに突き刺さり、あなたの手がわたしの上にくだりました。あなたの怒りによって、わたしの肉には全きところなく、わたしの罪によって、わたしの骨には健やかところはありません――』

 ここで言う〝あなた〟は神をさすが、わたしには、父を愛し憎んだマスキールにしか読めなかった。6節まで読んで、父の哀しみが胸を切り刻んだ。『わたしは折れかがんで、いたくうなだれ、ひねもす悲しんで歩くのです』。

 聖書の語句を調べる書籍も床にあった。アハブをひく。イスラエル王国の王だったアハブは、悪魔の象徴である〝黄金の牛〟を信仰し、神に裁かれる。父は〝王〟だったのか。5節にあるように、父の傷は悪臭を放ち、腐れただれていたかもしれない。しかし父を裁いたのは、神ではなかった。父自身だ。

 アタリヤはアハブの娘で、アモンは、ユダ王国の王で統治期間は二年だった。父は幾多が警察のキャリアだと知っていた。DVDの入っていた抽斗の奥に、カードは隠されていた。CDコンポで「夜の女王のアリア」を聴きながらUSBメモリからダウンロードした動画を由衣のスマホで見た。わたしの撮影したものだ。自分の犯した罪を再確認した。野崎と母と金子逸見、三角関係による暴力沙汰を盗み撮りした。結果は、知ろうと思ったわけではないのに、父と妹の秘密を知ってしまった。わたしは怒りを抑えられず、由衣を追いつめた。

 裸になり、ラップで包んだキャッシュカードを右の上腕にガムテープでぐるぐる巻きにした。そして母の、ひとつなぎになったコルセットを身につけ、左脇腹に、八嶋悦子からもらったシャープペンシルをバンドエイドを何枚使って止めた。コルセットの右の胸に、父の血と涙がにじんだスカーフを詰め、親指ほどの消毒スプレーを押しこみ、左の胸には、五ミリの厚みの薄っぺらい偽物の携帯をわざとロックをし、押しこんだ。由衣の赤いスマホはアルミホイルで包み、左の脇腹にガムテープで貼りつけた。その上にだぶだぶのTシャツとベストを着こみ、母が若い頃に着ていた豹柄の麻のジャケットを着た。ジャケットの袖口をたくしあげゴムバンドで止め、折りたためる軽量の剃刀をひだの中へ隠した。通信不可の赤いスマホはベストの裏に貼りつけ、ポケットにはボールペンとメモ帳を入れる。ハイソックスの中にSDカードをねじこみ、母のお気に入りだったスキニージーンズを履く。

 汗が吹き出す。身体が臭う。

 家を出る前に、保険の証書と印鑑は、もとあった場所〝凍った時間の花〟の中にもどし、マスキール宛てに待ち合わせ場所をメールした。それからキャップをかぶり、バックパックを背負い、丸印の入った聖書を入れた紙袋をぶらさげた。八嶋悦子の手紙に記してあった、野崎隆行が住んでいるという山の手のマンションに徒歩でむかった。うしろを、大柄の男がついてきた。男は、これまでに二度、目にした。一度目は、高槻駅付近でぶつかったアロハシャツの男。二度目は動画に映っていた。大型犬にリードをつけていた男だ。大男はすれ違いざまにわたしを押し倒し、バックパックの肩ひもを鋭利な刃物で切断し、紙袋といっしょに奪い、走り去った。

 マンションに着いた。建物の一階にメールボックスがある。オートロックだが、入居者にまぎれて侵入し、氏名の表示を見る。異なる苗字が連名で記されていた。野崎隆行の「野崎」の筆跡は昨日今日、書かれたものではないことはひと目でわかった。彼は自宅がありながら、わが家に移り住んだことになる。もう一つの「桜庭」は鮮明で、ごく最近書き足されたものだと見てとれた。三ノ宮駅のATMで、口座の残高表を入手し、JRで高槻駅へ向かう。  

 構内の券売機の前で、マスキールが待っていた。父はわたしの誕生日に、詩篇に合わせた三百八十六万二千円を入金していた。タマルが死亡し、兄妹の母親が神経を病み入院した日から、父は報いの日がくることを予感していた。

 マスキールに残高表とキャッシュカードをわたし、暗証番号をメモ帳に書いて伝えようとしたが、彼は首を横に振った。

《ちちは、あやまりたかった》とひらがなで書く。

 八嶋悦子の預金の十分の一も円に交換するとき、キリのいい金額を振りこんであるので、彼が組織を抜ける逃亡資金になる。

「いまさら金なんて……なんの役にも立たない」彼はまっすぐにわたしを見つめた。「病院にもどるつもりなのか」

《いもうとがいるから、さがしにいく》と書くと、マスキールは人混みも気にせず、いかつい顔をくしゃくしゃにして泣きだした。

「アハブが死んだとたん、おふくろは新館の個室から旧館に移された。死ぬのを待つだけの部屋に……」マスキールは目を伏せた。「アハブが……クスリをヤるように……おれが仕向けた」

 父が薬物に手を染めるようになったのは、タマルのことがあったからだ。それ以後の父は、自らを壊す誘惑に逆らえなかった。

《ちちは、しぬことを、ずっと前からきめていた》

「大勢いる〝下層民〟のおれは、よほどのことがないと病院内への出入りは許されない。地下トンネルは別だ。後始末をする者が要るから、そのつど呼びだされる。それも、もうすぐおわる」

 マスキールは握り締めていたSDカードを差し出した。

「アハブから預かった。いつか、おまえにわたそうと決めていた。おまえは遠くへ逃げろ。あとのことは、おれがなんとかする」

 マスキールは背を向けた。「逃げなよ」とわたしは言った。彼は振り返り、はじめて笑顔を見せた。「もういいんだ」と彼は言った。わたしは駅近のネットカフェへ移動した。父は警告の意図があってマスキールにSDカードを託したのだろう。しかし、わたしは必要と思えるデータを編集し、SDカードにコピーした。シャワールームでシャワーを浴び、ぐっすり眠った。

    22 魔法の鏡に映る

  翌朝の七月十三日、立樹病院にもどると、徳永師長が真っ先に飛び出してきた。「何を企んでるの、あんたは!」

 白天使もやってきた。「心配したのよ。お買い物に出てはぐれたって、奏香ちゃんのおかあさまがおっしゃるから……」

「行き場がないことくらい、こっちお見通しなんだよ」徳永師長は顎を突き出し、わたしの胸を押した。

「無事に帰ってきたんですから、もういいじゃありませんか」白天使が口ぞえしてくれる。「詩子ちゃんのトシで、ひとりぼっちで生きるなんて、苦労するだけよ。三日間でわかったのよね?」

 うなずいてみせた。

「なんて図々しい子なの。とんでもない格好をして――今後いっさい、外出は許しませんからね、肝に命じておきなさい」

「病室にもどりましょう」

 白天使はわたしの肩を抱くと、エレベーターに向かった。

「奏香ちゃんは病院に帰ってきてから、ずっと泣いてるのよ。何も食べようとしないの。奏香ちゃんのおかあさまは、ご自分に責任があるとおっしゃって――日曜日の夜中からいままで、どこにいたの?」

 病室に入ると白天使の言った通り、泣き喚いている奏香が目に入った。

「詩子、どこへ行ってたのよぉ」奏香は抱きついてきた。「パパはサンパウロに行っちゃうし、ひとりぼっちになってしまう」

 奏香は泣き止まない。バックパックと洋服をなくしたことを金子逸見に報せるために、メモ帳にお詫びを書いてわたした。

「こうなることはわかってたわ」と彼女は冷めた声で言った。「すぐに気づいたんでしょ? 発信機はどうしたの? 洋服といっしょに捨てたのよね?」

「夕ごはんに行こうよ」奏香が割って入る。

 眠り姫にならって、ベッドまで食事を運んでもらっていた奏香は、いまからラウンジで食事をとると言う。

「どれだけ泣いたと思うのよ。もォ、離れない! だって、あの女が――」

 奏香の繰り言に耳を貸しながら病室を出た。廊下を歩く。目の焦点が合っていない女の子とすれちがう。クスリのせいだ。

「アタシ、逃げたらいいってゆったけど、あとで気がついたの。アタシと詩子って、境遇が似てると思わない? きっと運命で定められたキズナがあるのよ。だから、詩子の叫ぶ声が聞こえるの。助けてぇ、悪魔に殺さるぅって、聞こえるの」

 ラウンジに入ると周囲を見回す。光輝と目が合う。彼はわたしをじっと見つめると、席を立って近寄ってきた。奏香は彼がくると顔をそむけた。わたしは奏香にジュースをとってきてくれるように手まねで頼んだ。

 奏香がテーブルを離れると、「アレはどうなったんだ?」と光輝は言った。

 アレとは何か? とっさにわからなかったが、八嶋悦子から託された預金のことだと気づく。味方につけておいたほうが得策かもしれないと思い、《手に入れた》とメモ用紙に書く。

 光輝はテーブルのぐるりを歩き、「まばたきひとつで、どんなご要望にもお応えする用意はできてるよ、厚着のお姫さま」

 光輝はもといたテーブルにもどった。中学生くらいの男の子がそこで待っていた。見ていると、二人で数学の問題を解いて遊んでいる。あの少年は、光輝の隣室の住人で、ヨダレをたらしながら廊下をうろついていた子だ。

 ジュースを手にもどってきた奏香は聞きもしないのに、「新患のあの子、こわいくらい頭がいいの」と奏香は息を止めて話す。「彼とわたし、同じ私学の中学生だったの。クラスはちがったけど、でも……ここでまた会うなんて、ふしぎぃ」

 奏香はとっておきの告白をしたつもりなのだろう。大きな瞳が異様に輝いていた。「あの子も旧館なのよ。二階の端っこの部屋みたい」

 病室にもどる。

 思った通り、眠り姫の寝姿に変化はないが、メモをわたす時に見た彼女の履物が動いている。イヤホンをのぞいて、口紅やマスクを盗んで野崎にわたしたのはたぶん彼女だ。自分を捨てた男にいまも忠誠を誓っているようだ。この病室に送りこまれてくる、野崎とかかわりのある人間を監視する役目を、彼女は担っているのだろう。八嶋悦子の火事騒動も目的があった。金子逸見の目をごまかすためだった。たびたび騒動を起こしたのも新館の地下へ行くためだっだと手紙に書いていた。父親の理事長はわが子をいとしいと思わないのだろうか? 名さえ知らない祖母も似たようなものだが、わたしを救ってくれたことはまちがいない。

「ヘンな服きて、暑くないの?」と、奏香が訊く。「肥ってみえるし――よけい、ブサイク」

 クーラーのおかげで、暑くないと手まねで答えた。

 白天使が、やけに背の高い女の子をともなってやってきた。

「新しい患者さんよ。佐藤キリちゃん。樹木の木に、里山の里と書いてキリと読むそうよ」

 ドラゴンの模様が背中にある長袖のTシャツを腕を通さずに肩にはおった彼女は、無言で奏香のむかいのベッドに陣取った。よろしくとも、はじめましてとも言わない。Tシャツを両肘でうしろへ落とすと、ベッドに横になった。下着と兼用のタンクトップを着ているので、タワシのような腋毛が見える。

 なんか、かわいい。

 キリは独特の風貌をしていた。太い眉に高い鼻筋、それに長い顎。ポニーテールをしているが、鼻の下にはうっすらとうぶ毛が生えている。奏香は異様な風体に恐れをなしたのか、無視を決めこんだようだ。キリは身体を起こし、ふっふっと鼻息をもらし、手さげ袋から丸い鏡を取り出すと、食いいるように見入った。そして、百面相というのだろうか、鏡を見ながら表情を変えるのだ。梅干しを食べたときのような表情をしたときは、思わず、笑ってしまった。目と鼻が顔の真ん中に寄って、老婆のようだった。

「なんやねん」声にも重量感があった。「いま、わろたやろ」

 うなずく。

「おまえなー、イワしたろかッ。うちはこう見えても、男を一人を殺ってるんや」キリはすごんでみせた。「中途半端な顔に産んだ親の顔が、見たいんかッ」

 もう一度うなずくと、

「ママイはなんで、こっちがいてほしいときにおらへんねん! オヤジは名前だけつけてトンズラするし」

 彼女の母国ではおかあさんのことを、ママイと呼ぶらしい。

「この鏡はな、ママイが買うてくれた魔法の鏡なんや。毎日、見てたら、きれいになるて、ママイは言うてたくせに、なんでやねん。なんで、おらんようになるねん」

 表情が歪んだ瞬間、地鳴りがするような音声が口からもれた。 「グウォー、グウォー」

 怒りの表現だと思って見ていると、どうもちがう。空気が薄くなるような慟哭だった。この世にこれほどの悲劇はないという形相だった。わたしのオカンも、ブサイクなわたしを生んで、いなくなったと書いてわたすと、泣き声が止んだ。

 キリは口角をあげて言った。「名前、呼びすてにしてええわ」

 彼女はわたしのベッドの縁に腰かけると、しなだれかかってきた。わきがの臭いがつよい。

「ママイがゆーてん、おまえみたいなアホの不良はもういらんて。ほんで、おらんようになってしもた。ちっこくてかわいい子になられへんでも、おってくれるだけでよかったのに。魔法の鏡なんかいらんのに」

 うちのオカンは、魔法の鏡をくれなかったと書くと、キリは抱きついてきた。そしてのぞきこむ。いままで接したことのないピュアな微笑だった。キリはわたしの首に腕を回し、鏡を貸してやると言う。顔のぜんぶが映る楕円形の鏡を手に取る。罪人が映っていた。父と同じように、自分自身を裁く日がくるのだろうか……。

 奏香が頭をもたげた。

「詩子にベタつかないでよォ。別の部屋に移ってもらうわよ」

「ひっつく気はないねんけどな。おらんようになってしもたママイのことを思うとな、サミしいてたまらへんようになんねん」

 キリの肩を抱いていると、彼女は耳元でささやいた。気にくわんやつがいるときはいつでも言ってくれと。そのとき、父の携帯の動画で見た異国の女性とキリが似ていることに気づいた。

 

 あくる日は、週に一度の回診で、院長を先頭に、若い医師のグループと徳永師長がぞろぞろ病室に入ってくる。桜庭もいる。この病院では看護師や介護士は名札を付けているが、医師で名札を付けているのは院長と桜庭だけだった。名なしの彼らは、八嶋悦子の言っていた、選ばれた四人とどんな関係があるのだろうか?

「気分はどうです?」という質問は毎回同じ。「変わったことはありませんか?」も同じ。

 もしこの場で、病院内の地下トンネルであなたの妹の八嶋悦子は殺害されたのですかとたずねれば、返答してもらえるのだろうか?「クスリはきちんと服用してくださいよ」

 一度、発覚してからは靴の踵で踏み潰して、食べ残した食事に混ぜて捨てていると答えれば、どんな表情を見せるのか?

「問題が多いようですねぇ。困りましたねぇ。治りたくないのですか」

 院長はわたしの前で歩みを止め、憂欝そうに首を振ってみせた。桜庭が院長に何事か耳打ちし、わたしにむき直る。

「ミーティンググルームに来てください」

 行列が病室を出るさいに、奏香が桜庭と呼びとめた。

「佐藤さんは診てもらわなくていいんですかァ」と甘えた声で言った。

 キリは殺気立ったが、わたしが目で合図するとおとなしくなった。

 白天使に付き添われて、ミーティングルームへ移動した。なんどもきたが、そのつど問題行動を起こした。不透明のガラス窓のある室内はカーテンで自然光がさえぎられている。彼女のうっとおしいカウンセリング治療を受けるのはこれでなんど目だろう。

「リラックスしてちょうだい」

 玩具に似たグッズで遊べる箱庭療法はたのしいけれど、それによって自分のどこがどう変化したのかわからない。

「今回は、いつもと違って、本音で語り合いましょう。いい?」

 彼女はゆったりした椅子に腰かけると、ビデオカメラのスイッチをオンにした。毎回、録画される。本音ではない、完璧に創作されたやりとりを撮り終えると、スイッチをオフにし、口元に人差し指をもっていく。首をかしげると、眠るマネをしろと声を出さずに言った。その通りにすると彼女はスイッチをふたたびオンにし、またオフにした。面接の間中、眠っていたことに偽装しているのだ。

 彼女は白い紙を出すと、自分の質問に答えるようにと言った。盗聴を気にしているようだ。

《野崎さんと親しいってというのはほんとうなの?》彼女は質問内容を手書きした。《どうして、わたしのことをじっと見るの?》

《精神病ですから》と書くと、《ほんとうの病人は自分の病気を認識できないものよ》と彼女は返してきた。

 彼女はテーブルの下に来いと手招きした。二人でもぐりこむと、彼女は聞きとれないくらいに声をひそめて話した。

「もうとっくに退院してもいいはずなのにね。でも、あなたのおかあさんが引き取りを拒否しているの」

《母はどこに?》と白い紙に書いた。

「もしかすると、あなたが寛解したことを病院側が隠してるのかもしれないわ」

《なぜ?》

「わたしもね、ここで働くの、やめようかと思ってるの。ナットクできないことが多くて……野崎さんにも話したんだけど、真剣に聞いてくれないの」

 これが最後の診察になると思うから、本当のことが話したかったという。

《わたしのカルテはどうなっていますか?》

「気の毒だけど、寛解の見込みなし。社会生活を送るには不適格となっているわ。ごめんね、なにもしてあげられなくて」

 テーブルの下から這い出て立ちかけると、「預かってほしいものはない? わたしてくれればここを出してあげる手助けをしてもいいわよ」と、彼女は言った。

 しばらく考えるふりをして、ソックスの中からSDカードを取りだし、彼女にわたした。

「八嶋悦子さんから預かったものなの?」うなずくと、彼女の口元に笑みがうかんだ。「怪しまれるといけないから、もう行って」

 その日の午後――、桜庭医師は新館の非常口から飛び降りた。光輝からの情報によると、それほどの高さはないが、泥棒よけの鉄柵にむかって落下したために内蔵を射抜かれたという。

「串刺しだよ、串刺し」と光輝は言った。

 桜庭はわたしの渡したSDカードのファイルをひらいたのだ。彼女が自ら死を選んだとしたら、マンションでの表札通り、彼女は野崎隆行と親密な関係にあるということだ。

 次の日、ラウンジでキリといると、あとからきた奏香が長いまつげをしばたたかせながら、「前から気に入らなかったのよ、桜庭のこと。でも死ねばいいなんて、思ってなかったよ」

「ここってコワイとこやな。治してくれる医者が自殺するやなんて、安心して診てもらわれへん」とキリが口をはさむ。

「バッカじゃないの、あんた」と奏香。

「あんたみたいな日本人が大勢いてるから、ママイはうちをほったらかして逃げたんや。白人以外の外国人をバカにしてるんや」

 キリの母親はどうしても日本の生活になじめなかったという。言葉の問題もあるがそれよりも、この国の閉鎖性に適応できなかったとキリは思っているようだ。

「うちな、ほかにヤツ当たりする人がなかったんや。それでママイに言いたい放題ゆーて、それでママイはおらんように……。ほんならすぐにゼンゼン知らん男の人らがやってきて、ママイのいてるところに連れて行ってやるってゆーたんや。ほんでな。ニタニタわろうて、一万円やるからやらせろってぬかしよった。それでお金に困ってたし……そのあとも……」

《キリは何もわるくない》とわたしは書いた。 

 彼女はうんうんとうなずいて抱きついて泣きだした。

《キリのママイはなんの仕事をしていたの?》

「昼は病院の清掃の仕事をして、夜は居酒屋で働いていた」

《千久馬病院?》

「なんで知っとうのん?」

《いつ、いなくなったの?》

「去年の十一月かな。いっときは保護施設に入ってたけど、いややったし、ママイを捜したかったからずっと独りで暮らしてた。ママイがおらんようになって、すぐにやってきた男の家に泊まったりもしてた」

 ママイは組織の人間の機嫌をそこねたせいで、殺されていると告げそうになる。

《キリは、どうして人を殺すことになったの?》

「その男が、いやらしいことしたあと、ママイの悪口を言うたからや。腹がたって、そいつの胸を刺した。刑務所に送られると思てたら、ここに連れてこられた」

 ぐわーっぐわーっぐわーっと彼女は泣き叫ぶ。

「馬が啼いているみたい」

 奏香のひと言がキリの逆鱗にふれたようだ。いきなり、奏香にとびかかり、食堂で手に入れたのだろう、プラスチックのフォークをのどに突きつけたのだ。

 止めようとしたそのとき、「もうけっこうよ」という声が聞こえた。灰色の男たちとやってきた徳永師長はわたしを見るなり、「ずいぶん我慢してきたけれど限界ね、桜庭先生に何を言ったの? あんたとの面接治療の直後に先生はあんなことになったのよ」

 首をかしげ、それから横に振った。

「山田のことだって、あんたのワナにかかっのよ。いまだって、あんたがこの子を操ったんだ。他の患者にも悪影響をおよぼす魂胆でいるんだ。子どもだと思ってあなどっていたのが、まちがってたよ」

 地下の保護室行きだと言う。徳永師長は灰色の男たちに命じ、わたしを引き立てようとした。

「やめてェーッ」

 奏香は、わたしを拘束する二人の男の腕にしがみついた。突き放されると、彼女は徳永に言った。

「おじいちゃまに言って、あんたなんか、やめさせてもらうわ」

 キリはおびえた熊のようにその場でうろうろした。

 徳永は勝ちほこったように、「油布奏香さん、あなたは近日中にサンパウロへ旅立つことになってるのよ。どんなにいやがってもね、おじいさまは、はじめっからそのつもりなの。あちらの病院に入ることも決まってるし。だからもう、ここの病院とは関係なくなるわけよ」

 奏香は突然、「あーッ」と短く叫び、「どこへもいかない」とわめいて固定されたテーブルに額をぶつけた。

 奏香は、はね返され頭から後ろへに倒れた。わたしは介護士の腕をふりほどき、床に倒れている彼女を抱きかかえた。灰色の男たちも異常を感じたのか、心配そうにのぞきこんだ。

「やめんかいッ」

 見んなとキリは大声を出し、一人の男にぶつかっていった。もう一人がキリをはがいじめにした。奏香がうっすらと目をあけた。彼女は血がにじむほど唇を噛みしめ、失禁し、身震いをはじめた。呼びかけても反応しない。わたしは立ち上がり、徳永師長に、保護室に行くと手真似で伝えた。いっしょにいることで、奏香の神経を余計に乱すように思えたからだ。

「ほんとはしゃべれるんじゃないの。手といっしょに唇が動いてたわよ」と徳永は怪しんだ。「もともと話せるくせに、芝居をして、みなの同情をかっていたのね。まんまと騙されたわ」

 奏香が治療室に運ばれたあと、洗面用具をとりに病室にもどった。キリがついてきた。突然、魔法の鏡がないと、キリが騒ぎだした。病室にもどり、金子逸見のベッドに行き、手を差し出した。

 彼女は手鏡を返しながら、つぶやいた。「鏡がこわいのよ。だって、わたしじゃない、わたしの顔が映るのよ」

 キリに、袖に隠した剃刀をこっそり渡す。廊下に出ると、光輝がいた。目線が合うと、光輝は片目をつぶって見せた。

「あそこは牢獄だよ」と嗤いながら言った。

「よそ見をしないで歩きなさい」徳永師帳はわたしの背中を押した。

 徳永は行き当たりのドアの横壁を自分のスマホで開錠し、階段を下へくだっていった。ほんの少し地中にくだるだけのことだが、冥界に行く気分になる。

     23 シールドルームの闇

 保護室の扉はステンレス製で寒々としていた。ぶ厚い扉がキーカードで開くと、コンクリートの床にしみだらけのマットレス。他には洗面台と一体になったポータブルトイレが備えてある。徳永師長は重い扉をストッパーで支えながら、「霊安室は近いよ。あんたも年貢の納めどきだね」と言う声が興奮で震えていた。

 この声の主は、キリの母親の首をメスで切り裂いたとき、奇声を発していた。防護服で姿を隠したつもりでいても、白天使や、石塚や、奏香の父親の声も聞き分けられた。むろん野崎の声も。母の声はなかった。

 上着を脱ぐように言われ、身体検査をされる。ベストの裏の通信不可の赤いスマホを見つけた徳永は唇の両端を吊って言った。「こんな玩具に騙されると思ってるのかい?」

 わざとらしい嗚咽をもらしながら、右胸に手を入れ、通信不可の黒い携帯を手渡した。徳永は会心の笑みをもらした。「二つも持ってたんだ。念のためにスニーカーもいっしょにもらっていくよ」

 ドンと背中を突かれ、鍵のかかる音を背中で聞いた。究極のワンルームだった。食事は、扉の下部に取り付けられた差し入れ口から入れられるそうだ。ひきこもりの経歴をもつわたしとしては、最適の環境と考えるべきなのだ。孤独には慣れている。閉所恐怖症でもない。空調設備にも問題ない。見上げると、赤目の監視カメラが目につく。ナースステーションから視られているらしい。

 膝を抱えてマットレスの上にうずくまる。七月も半ばを過ぎたというのに異様に寒い。徳永師長が室内温度の設定を低めたようだ。厚着をしているおかげで、耐えられた。

 わたしが犯した大罪の元凶――あの日も寒かった。野崎隆行がわが家に寄宿するようになって、十日ほど経っていた。日曜日だというのに、朝早くから家事を手伝うようにと母に命じられ、ふてくされていた。家事など、もっとも母には無縁のものだ。いつものように部屋から一歩も出なかった。部屋の外から、母は怒鳴った。

「これからは、おねぇちゃんのあんたが率先して、掃除や洗濯をせんといかんのやからね!」

 野崎が同居するようになって、母は以前の無頓着な母ではなくなっていた。こまめに掃除機をかけ、洗濯機をまわす。その音が耳障りだった。部屋の窓から鈍色の空を見上げては、ため息をついていた。

 家の外から女の人の叫び声が聞こえた。揉め事の所在をたしかめようと、一階に忍び足でおり、キッチンの窓からのぞき見た。住宅街なので、罵声が聞こえることはめったにない。「死んでやる」と泣きさけぶ声が聞こえた。玄関の外にいる母と野崎の姿もかいま見えた。もしかすると、そのときからわたしたち家族を陥れた敵との闘いははじまっていたのかもしれない。

 単なる好奇心とは言えない、内なるよこしまな心が働いたのだ。母と野崎の二人がもどってくる前に、キッチンの食器棚に父のビデオカメラを設置して隠し撮りするという思いつきに夢中になった。玄関脇の父の書斎から小型ビデオカメラを見つけて、セッテイングした。コーヒー豆の入っていた箱の中にビデオカメラを入れ、レンズの前に穴を開けた。キッチンと居間とは壁一つで隔てられていた。居間の壁ぎわのソファの影に身をひそめた。

 外の騒ぎがおさまったころ、複数の足音が玄関から聞こえた。玄関につづく廊下でも、女二人は言い争いをやめなかった。

「近所の手前、みっともないことは、せんといてほしいわ」

 母の声だった。もう一人がだれなのか、そのときはまったくわからなかった。

「野崎さん、おばさんに言ってちょうだい! わたしたちは近く結婚するんだって」

「いいかげんにしろッ」

 二人の女を制止する、野崎の声が聞こえた。

「ぼくは、だれのものでもない。関係したからといって、いちいち結婚しなくちゃならない法律でもあるのか」

「ひどい! あなた、言ったじゃないの。いつまでもいっしょだよって。忘れたの」

「気がかわったんだよ。しつこい女に惚れてくれる男を捜すんだな」

「ほんまやわ。頭のおかしい女でも、かまへんっていう物好きなヒトがいてるわ」

 ののしりあいはつづいた。ドシンという物音がした。うめき声がした。壁に耳をあてていたわたしは、歯ぎしりが母や野崎に聞こえないように両手で口を押さえた。

 十分後に救急車がやってきた。サイレンが止まると、キッチンの物音は隊員の声と足音のみになった。二階の由衣の部屋にも、騒ぎは筒抜けだったはずだが、由衣は気配を消していた。

 救急車のサイレンが遠退くと、派出所の警官がやってきた。母一人が応対していた。話しぶりでそれだとわかった。母は警官に伴われて、出かけていった。

 家中が静まりかえった。書斎を抜けだしたわたしは、食器棚からビデオカメラを取り出し、パソコンのハードディスクに録画した映像に読みこんだ。そこに何が映っているのか、たしかめるのに時間はかからなかった。再生すると、テーブルの手前に髪の長い女のうしろ姿が映り、むかい側に母と野崎がいた。「別れたくない」という女の声に、「迷惑だ」という野崎の冷淡な声がかさなる。

 母は声を立てずに笑っていた。女がすすり泣くと、野崎は立ち上がり、彼女を椅子から床に引きずり落とした。女はレンズの視界から消えた。野崎は、倒れている女を足で踏みつけた。女はそのつどグッグッとうなった。母は立ち上がると、シンクの引き出しからキッチン鋏を取り出した。野崎と顔を見合わせ、ほんのちょっと笑い、女のいるあたりにむかってそれを投げ捨てた。

 野崎は、「女のジェラシーは独善的で醜い」と言った。

 光輝も同じ言葉を使った。

 女が、キッチン鋏で手首を切る映像はなかったが、その瞬間はわかった。押し殺したうめき声を女が発すると、母はわたしの知っている母とは別人の表情を見せた。大笑いしたいのを必死でこらえているように見えた。母の勝ち誇った横顔が映り、しばらくして幽霊のような生気のない野崎の横顔が、カメラの前を横切った。立ち去ったのだ。救急車がくるまでの間、母はテーブルに肘をつき、金色のライターで煙草を吸っていた。女性の顔が映っていなかったので、金子逸見と同室になっても気づかなかったのだ。

 再生を停止しようとして手が止まった。すでに録画された映像もフォルダに入っていた。ファイルをひらいた。由衣が映っていた。眠っているユーイ、着替えているユーイ、本を読んでいるユーイ、父の手が映り、花柄のワンピースを着たユーイの唇に口紅を塗っていた。母に見せるつもりはなかった。母の売春行為と同様に、知る必要のないことを知ったと後悔した。愚かにも、妹を救うことを考えなかった。由衣の望んだ行為でないことは、あきらかなのに、けがらわしいと思ったのだ。ひきこもるようになったときから、家族の不幸を望む、もう一人の自分の存在に気づかないふりをしていた。

 母は、わたしと由衣を差別して育てた。持ち物も着るものもわたしは、リサイクルショップで買ったものだったが、美少女の由衣には物惜しみをしなかった。それが、わたしを頑なにした。鬼にした。だから、父親と淫らな行為にふける妹の化粧箱に「バカヤロウ」と平気で書いた。由衣は傷ついたにちがいない。姉のわたしに知られたことがつらかったのだ。父が自ら命を絶ったとき、由衣は県警本部につくまで一粒の涙もこぼさなかった。父のパソコンでアニメをいっぱい見た夜に、はしゃぐ由衣をわたしは憎みさえした。

 父の遺体のそばで、由衣は、「パパは自分から死んだのね」と言った。殴られて切り刻まれて死ぬことのほうが、彼女は恐ろしかったのだ。だから、遺体に「よかったね」と言ったのだ。そして、自分は、甲羅に閉じこもるカシオペイアになろうと決心した。わたしの妬んだ由衣は、自身の容姿を忌まわしいものと感じていたにちがいない。母が由衣にかわいい洋服を着せていたのは魂胆があったからだ。いまだからわかる。母は父と由衣を破滅させたかったのだと。

  扉があいた。野崎が姿を見せた。折れた右腕は固定されたままのようだ。「ひきこもりの精神障害者にしては、よくやったと誉めてやるよ」 

 乱れた髪型はそのままだったが、野崎はウエストを絞りこんだ細身のスーツを着用していた。めずらしくトラディショナルなスタイルだ。いつもの遠くを見ているような眼差しのせいで、より陰湿で残酷な印象をうけた。

「思うさま翻弄してくれたよな」

 ナースセンターのモニター画面は、彼の命令でオフになっているはずだ。

「終わりにしようよ。詩子だってこんなところで、これから先、長い時間を過ごしたくないだろ? 死の痛みも快楽の一種だよ。一応、教えておくと、この部屋の正式名はシールドルームだ。鉄鋼製の円筒のことをシールドって言うんだ」

 彼はわたしを見下ろし、「ぼくとしては満足すべきなんだろうね。詩子の人生をコワすのが目的だったんだから。反対に、こっちの顔をヤられたけどね。おかげさまで、教師をやめるいい機会になったよ」

 彼の目は、瞳孔が微妙に揺れていた。

「詩子の頭の中をかきまぜるために気絶させたあと、ある場所でゆっくり眠ってもらったんだ。手首の傷はそのときのものだよ。現実と幻想とが反発しあうように、きみの母親は日常的にきみに薬をもっていたんだよ。だから、いつも居眠りしたんだ。歯ぎしりは眠ることへの抵抗だった。しかし、ときどき目覚めて悪さをした」

 野崎は、腰をおろした。手の届く場所に魔男がいる。

「ぼくがいまから話すことは、ぼく自身にも予測できない。未来予測がもっともむずかしい学問だって知ってる?」 

 彼は自らをあざ笑うような空虚な表情になった。

「まさか、きみがぼくたちを撮っているなんて思ってもみなかったよ。きみはずる賢いから、ビデオカメラからぬきとったSIMカードの動画をカードリーダーとアダプタをつかって、自分のPCからUSBメモリへ読みこみ、ビデオカメラの録画を削除してもとあった場所にもどした。だから、ぼくは気づかなかった。でも、由衣が首をくくったあと、化粧箱を見て、きみが何もかも知っていると気づいたよ」

 彼は、八嶋悦子の盗みだした大金のありかをさぐるためだと、桜庭を焚きつけて芝居をさせた。まさか、母と野崎が共謀して、金子逸見に手首を切らせる動画のSDカードを桜庭にわたすとは、夢にも思ってなかったようだ。彼が思ってもみない動画は他にもあった。父か撮ったと思われる、マスキールに託されたSDカードの画像だ。野崎をふくめた複数の男たちは、少女や少年を思いのままに操っていた。さいしょは怯えていた子どもが、大人たちの行なう地下トンネルでの残酷な行為を見せられるうちに喜びをあらわに見せるようになり、自ら手を下すようになる。そして、性行為さえ受け入れる。それら一連の画像が、医師である桜庭の理性を砕いたのだ。

「ごていねいに、ぼくが、邪魔になった子どもの首を絞める動画まで見せるとはね、おどろきだよ。きみの頭の中には叔母と同じ、復讐の二文字しかないようだ」

 彼の声は粘り気があって不快だった。

「能天気な桜庭にトドメを刺したきみは、ぼくらと同類だ」

 話しながら、彼は三角巾で吊った腕をなんどもさする。

「叔母は、娘の園子に会わせてやるというぼくとの約束を信じて、授業中にきみをさらし者にした。娘が、どこにいるのかわからなくなって自暴自棄になっていたからね。彼女は、義理の娘だけは〝贖罪の山羊〟にしたくなかった。たとえヒト細胞株でつくられた子どもであっても、提供したくなかったんだ。掟に逆らって、〝上層民〟の彼女が組織に捉われるなんて、本人でさえ信じられなかったと思うよ。園子は死んだよ。由衣のように」

 残酷な言葉とは裏腹に、野崎の表情は楽しげだった。

「金子逸見は、五年前に光輝を指導して顔が変形するぐらいヤツに殴られたんだよ。小学生だった光輝は、金子を血まみれにしても足りなかった。自分で耳を削いだ。なんで知ってるかって? その学校にぼくもいたんだよ。ぼくは臨時講師だからね、渡り鳥のようにいろんな学校をまわるんだ。好都合と言えばそう言えるよね。気に入った子どもを捜すには教師の仕事は最適だったよ」

 彼は前髪をかきあげたながら、

「金子逸見の恋人でもあったし、叔母の同僚にもなれた。そうそう、きみの淫乱な母親の愛人にもなれたしね。信じられないだろ? でも事実なんだ。詩子はだれにも関心がなかったから、ぼくと八嶋悦子が、甥と叔母の関係だったなんて想像すらしなかっただろ? 両親がそろって悪魔の手先だったこともね。きみの父親が死んだ理由はしごく簡単だよ。彼は借金で首が回らないにもかかわらず、贖罪の儀式に、由衣を差し出すことを拒んだ。きみの母親はよろこんで由衣を差し出そうとしたのにさ。ほんとうの母親じゃないから当然なんだけどさ。しかし、突然、いなくなった。警察に届け出ても、人生に嫌気のさした中年女が失踪したとされるだけだ。由衣の実の母親は、きみの父親が飛び降りたときに同じ部屋にいた。ぼくのもっとも嫌いな男もそこにいた。もう知ってると思うけど、八嶋観察官だ。こいつはなかなか手強い。もう一人の重要人物は、声だけの登場なので、ぼくでさえ、だれなのか、わからない」

 彼は肩を落とし、両腕で膝を抱き、クスッと嗤った。

「詩子が入学してきたときから、ぼくはきみに興味があったんだ。どこにでもある公立の中学校だったから作文を書かせても、綺麗事を書いたものがほとんどだった。国語の教師から、詩子の作文を見せられたときに感じたんだよ、おれと同じ悪意をね。欝屈してるのに残酷なんだ。いじめられようものなら別人の形相になって、反撃するのを見たよ。硬球を投げつけられて、前歯を折った男子がいた。不登校になったのは、クラス全員が、きみを恐れたからだよ。調教されていない獣みたいだったからね。人間の創った怪物だよ」彼は嗤った。「人間ってふしぎな生き物だと思わないか? 弱い者を挫くよりも、強い者を挫くほうが何倍も愉しめるんだ。相手が強ければ強いほど、降ったばかりの雪を踏み散らかすときようにうれしくなるんだ。トランスヒューマノイドだと知ればなおさらだ。きみ以外の実験体は、一人は免疫不全で拒絶反応を起こし死亡した。一人は自ら命を絶った。あと一人はどうでもいいか」

 彼は闇を誘う暗色の天井をちらっと仰ぎ見ると、

「叔母や金子逸見は自分からコワれたんだ。桜庭も。しかし、きみはなかなかコワれないね。ぼくらと遺伝子がちがうからかな?」

 野崎はチチと舌を鳴らし、わたしを指差し、「桜庭からは言われつづけたよ。どうして詩子にかまうのかってね。彼女に科学の成果は理解できない。あるのは浅ましい女のジェラシーだけだ」

 彼は左腕で、上着のポケットからプラスチックの小さなケースをなんとかつかみ出すと立ち上がり、粒状のクスリを口に頬張り噛みくだいた。

「母親ってなんだろう。ぼくの母は、愛人だった。父とこの病院を恐れてどこかに消えた。本妻も実家にもどったきりだ。実の母親は、ぼくのことなど忘れてしまっただろうな。父は暴君だったからね。そんな父を見て育ったぼくは、医者になるのだけはごめんだった。光輝は幸せだよ。あんなにやさしい母親がいるんだから、愛人の子どもだってことぐらいで荒れるなんて贅沢だよ」彼の頬がピクついた。「父さんは眠っているぼくの眉間をいきなり殴って怒鳴るんだ。起きろ、この能なしって。それでも起きないと、こんどは腹を蹴るんだ」

 口調がいつのまにか、少年のものになっていた。

「学校に行きたくなかった。食卓のテーブルの脚にしがみついて離さなかった。父さんはテーブルの脚ごとぼくを引きずって玄関まで行くんだ。精神科の医者がそんなことをするなんてだれが信じる? ぼくはカウンセラーにかかったことなんてないよ。父さんは断言するんだ。あんなもの効きやしないって……」

 彼は自嘲気味にくつくつ嗤うと、ぶるっと身震いした。

「躁と鬱の症状のくりかえしでね、かかわった人間を、苦しめてコワすことが生きがいなんだ。本心を言えば金なんて、どうでもいい。じいさんに言えば、殺されるだろうな。いまこの瞬間にぼくに課された役目は、死んだ叔母のユーザーネームとパスワードを聞き出すことなんだけど、きみがしゃべるとは思えない。話せるようになってることは、知っているよ。思うんだ。何もかもきみやぼくのせいじゃない。物事を複雑にした者たちに責めはあるんだ」

 三角巾の内側に手を入れた彼は、サバイバルナイフを取り出した。

「こいつは光輝から取り上げたナイフだ。使いようによっては人間の首も切り離せる。まさか、弱虫のあいつがこんなものをもっていたとはね。だからさァ、詩子には、強くて醜い怪物のままでいてもらいたいんだ」

 野崎はよく光る刃にわたしに向ける。

「忘れないうちに言っておくんだけど、きみの母親をこの世の地獄へ送ったのは、ぼくじゃない。たぶん、光輝と母親の仕業だ」

 彼は手の中で鋭利なナイフをもてあそんだ。魔男は悪魔になりきれないのか、心を決めかねている様子がかいま見えた。チャンスだった。三角巾からのぞく、もう一方の手に突進して噛みついた。野崎はナイフを取り落とした。とまどい、突っ立つ彼の顔面を握りこぶしで殴りつけた。野崎は唸り声をあげながらわたしを突き倒し、ナイフを拾い、切りつけた。上着は切り裂かれたが、コルセットとベストに守られて傷を負わなかった。

「おれに勝てると思うのかッ」野崎は悲鳴に似た声で叫ぶ。

 跳ね起きて利き手を脇の下に入れた。カッターナイフを引きはがし、二度ノックし、彼の大腿に突き立てた。尖った切っ先は布地の下まで達したが、手応えがない。復数回、突き刺した。彼は気力を削がれたのか、傷ついた足をかばいながら保護室を出て行った。

 静寂が訪れた。病室のように消灯時間はない。部屋の隅々まで照らしだす明かりは常夜灯と同じだ。違っているのは眩しいほどに明るいことだ。由衣の腕時計を耳にあてる。過去と現在と未来をつなぐ音が聞こえた。

 折れた釘のように二つ折りになって歩く父の姿が、目の前を横切った。父はきっと言うだろう。「詩子、いけないよ。わたしのようになっては、いけない。かならず報いを受ける」と。

 右腕のガムテープをはがす。皮膚が一枚、はがれたような気がした。

     24 家畜の子  

  扉がわずかにあいた。その瞬間、この部屋の中にあった重く湿った空気が霧散した。刺すような光も扉の外側にむかって逃げていく。恐怖心はなかった。

「昇天してないよな?」光と闇の狭間から声が聞こえる。「携帯の動画を見た徳永は、発狂しかねないほど怒り狂っててたよ」 

 思った通り、光輝だった。餌に食いついてくれたのだ。

「モニターには映らないけど背を低くして出てこいよ」

 白天使が監視カメラのスイッチをオフにしているので、ナースセンターのモニターには何も写っていないと言う。

「出る前にシャーペンみたいなナイフをこっちへ投げてよ。兄貴の落としたサバイバルナイフもわすれずに」 

 言われる通りにし、這ってでると、通路の照明は消されていたが光輝の額にフラッシュライトが装着されているせいで暗くはない。 学生服姿の彼はリュックを背負い、腰のベルトにサバイバルナイフとわたしたシャープペンシルを差し、包帯を巻いた右手にはハンマーが握られている。

「お節介の女たちが、寝静まるのを待つのに時間がかかったよ。二四時間店開きしてるからね。ほ~んとまいっちゃうよ。でも、ほら、『八つ墓村』を真似る時間はあったんだけどさ」

 彼は、胸のポケットから取り出したキーカードをひけらかした。ラミネート加工してあるせいか、ピカピカとよく光る。

「八嶋悦子の金はほんとにあるんだろうね。いまさら、ないなんて言ったら、そのすっとぼけた顔にこいつをぶちかましてやる」

 光輝はそう言ってハンマーを持ち上げた。ライトのせいで、顔がよく見えないと言うと、彼は額に手を伸ばし、スイッチをオフにした。

「詩人のランボーとちがってさ。あちこち放浪して旅先で人生をおえようなんて、レプの血をひくぼくはみじんも思ってないからね。ネプリムとしての使命を思い出したとたんに、非常ベルを鳴らすよ。それか、手っ取りばやく保護室に押しかえしてもいいしさ」

 いびつな耳が見えた。

「言っとくけどさ、株券やビットコインとかじゃなくて、エンでわたしてくれなきゃ、交渉は不成立だからね」

 指でOKサインを出す。通路から階段下に出ると、青みがかった照明が、彼の憂欝な横顔を美しく飾っていた。妥協を知らない、シンプルな気質を横顔は表していた。

「しみったれた逃亡劇なんて、超人のぼくには似合わないと思うんだ。そうだろ? 四人の〝管理人〟の長である、王とも〝主催者〟とも呼ぶ方から聖名をいただく儀式だって、あと少しですませられるかもしないし――いくらあるのか、言葉以外で証明してみせてよ。俗世に行っても、ぼくとママが一生、安全で快適に暮らせる金額が必要なんだからさ」

 メモ長にはさんだ残高表を渡した。彼はあきらかに戸惑っている。十分の一であっても、平均的な日本人の感覚すれば驚くほど高額だったからだ。

「ウタの口座にあんのか?」 

 うなずいて見せた。

「八嶋悦子のユーザーネームとパスワード、どうやって知ったんだよ? もったいぶらずに教えろよ」 

 凛凛しい出で立ちの光輝は顎を突きだし、唇の両端を釣りあげると、不自然な笑顔をつくってみせた。危険なにおいがした。

「ウタが油布家に脱ぎ捨てたブーツを、取り返してやったんだからさ」

 青く染まった光輝はハンマーを腋の下にはさむと、ビニール袋にくるんだ父の形見の靴をリュックから取り出し、通路の床にそっとおいた。この超人、言葉においては規制の概念を否定しても行動においては破壊を好まない。数年前、金子逸見に暴力をふるい、直近ではわたしの頭を直撃したが、その日が、X少年のニュースが全国をかけまわった五月二七日だったからだ。

「口座の金はぜんぶ、もらう。わたさない気なら、ここから先へは進めない」と、光輝は肩を怒らせて言った。「命が惜しいなら、素直になれよ」 

 新館の地下にある秘密の部屋や研究所へ行くには、どうすればいいのかと、シャープペンシルを借りて廊下の壁に書いた。

「ぼくが知るわけないだろ」彼はシャープペンシルをつかみ取り、背を向けた。「〝管理人〟に認められた領域にしか、〝中層民〟は行けないんだよ」

 光輝の膝小僧の真後ろを蹴飛ばした。彼はよろめいた。両腕をめいっぱいのばし、リュックを背負った背中をつよく押した。ふいをつかれた彼はうつぶせに倒れた。額を打つ音がした。シャープペンシルが通路を転がっていく音も聞こえた。彼の細い首に片足をのせた。

「大金を払うんだから、ついてきてもらうわよ。いやだと言うんだったら、この靴の威力を見せてあげる」

「ヤバッ、話せるじゃん」彼は身体を反転させると、仰向けの姿勢で笑い声をあげた。「母親と同類の〝家畜〟だって、さいしょっからわかってたけどさ」

「神と人間の女との間に産まれた〝ネプリム〟にしては根性がないじゃん。あんたもママも〝中層民〟だもんね。ごめん。ママは〝下層民〟だった」

 父が、わたしのために買ったであろうグレイブルーのスカーフを、整った顔に投げつけた。血に染まったスカーフは、この日のためにあった気がした。彼は半身を起こし、笑いながら首に巻きつけた。わたしはスカーフの端を持ち、絞めつけた。

 光輝はわたしの手を払いのけた。「だれにもらったんだよ。ウタにぴったりの色だよな」

「キーカードとあんたのスマホを、貸してよ」

「キーカードは、キャッシュカードと交換だ」

 手を離し、言う通りにすると、光輝の顔が上気した。

 彼は、飛び跳ねるようにして起き上がると、キーカードを投げ捨て、駆け出した。追わなかった。もどってくることが、わかっていたからだ。

 小一時間、待った。その間に、反撃の準備をした。

 光輝は怒りにたぎった顔つきでもどってきた。切れ長の目が吊り上がり、こめかみに青筋を立てていた。

「暗証番号は、【3826】じゃないのか!」

 思わず、笑った。白天使は、病院からもっとも近いコンビニで小額の現金を引き出そうとしたが、できなかったようだ。同じ、失敗を、わたしもした。

「たずねなかったよね、暗証番号」

「そうだけど……」

 父は、わざと、詩篇38:2-6に丸印をつけた。父の書斎を荒らした白天使は、「刑罰の日は来た。報いの日はきた」という聖句に目をとめなかった。父にとって、報いの日とは、去年の十一月二十八日以外にない。死を決意したときに、暗証番号を変更したようだ。【1128】に。

 暗証番号を教える。光輝は自分のスマホで白天使に伝えると、徳永師長が持ち去った黒い携帯をわたしの胸元に突きつけた。これも靴といっしょに白天使が手に入れたのだろう。

「このスマホで、残りの金をママの口座に振り込んでよ。**銀行の高槻支店、口座番号は【0033***】」

「この携帯じゃ無理だよ。通信不可の偽物だもん。本物は、野崎が壊しちゃったからさ」

「嘘だッ」

「ないものを出せって言われても困るんだよね。そうじゃん。あんたらがよってたかって、オトンを殺しといて、いまさら、携帯がどうのこうのなんて、よく言うわ。わたしの口座にある金額じゃ足りないって言われても、どうすりゃいいのよ。ねぇ? わたしがオトンの口座に隠していると思うんだったら、たしかめればいいじゃん」

 以前のわたし以上に世情に疎い光輝は、死亡した人間の口座がなくなることも知らないようだ。

「たしかめるから、オヤジのキャッシュカードのありかを白状して、暗唱番号を教えろよ」

「知るわけない。三年前から、ろくろく帰ってこなかった父親なんだよ。あんただって、ママのカードの暗証番号を知らないでしょ?」

「知ってるよ。【1990】。ママのおとうさん、ぼくのおじぃちゃんが亡くなった年なんだ」

「たぶん、ちがってると思うよ」

「なんで、ママがぼくに嘘をつくんだよ」

「あんたが、ママのカードを盗んで、勝手に引き出したら困るからだよ」

「なんで、ぼくが……」

 わたしは光輝の胸を強く押した。光輝はのけぞり、倒れた。彼のみぞおちの上に右足をのせた。リュックの荷物が彼の背中に食い込むはずだが、騒がない。五月二七日以外の彼は、反撃できない。痛めつけられることに慣れているせいだ。事あるごとに、野崎に鞭打たれているからだ。父の場合は刑罰として鞭打たれたが……。

 右足に体重をかけながら、「計算が合わないと思わないの? ほぼ三○年前に、爺さんが死んでるのに、あんたのママは、まだ二○代だよね」

「言いがかりをつける気かよ」

「コーキのママは中学生くらいの年齢で、コーキを産んだことになってるけど、ほんとなのかな?」

 由衣のことが頭の隅にあった。由衣は、妹なのだから、父と母の間に生まれた子どもだと、盲目的に信じていた。母の由衣に対する裏切り行為も、実の子どもではないと考えればわずかだが、気持ちが楽になる。

「相手が院長だからって十二、三の娘に、子どもを産む選択を、あんたの婆さんがさせるかな? 不自然だと思わないの?」

「いますぐ、オヤジの口座のありかと――暗証番号を――」

 半身を起こそうとする彼の頭を携帯を握った手で殴った。

「研究室へ行きたくないのかッ!」と光輝はわめく。

「これを、見なよ」

 偽物の携帯だが、コピーした動画は本物だ。彼の鼻先に携帯画面を押しつけた。旧館につづく地下トンネルで撮影されたものだ。徳永師長が華奢な見習い介護士の女の子にまたがり、彼女の首を締めている動画からはじまる画像の中の光輝は、顔をおおってうずくまっていた。周囲には病院の関係者の顔がいく人も見える。むろん白天使や野崎の顔も――。マスキールにもらったSDカードの動画からわかったことだが、彼らは切り刻む殺害方法をとる場合のみ、血しぶきを避けるために防護服に着用するが、絞殺と撲殺の場合は顔をさらしている。父を殴打した男たちも、顔を隠していなかった。彼らは殺人の証拠となる動画を怖れていない。怖れるどころか、ライブで限られた対象者に――国内外のプレミアム会員とでもとうのだろうか――見せているようだ。見物人の書き込みが画面に溢れていた。『手ぬるい、頭の皮を剥げ』『性器をアップしろ』『腹ワタをえぐり出せ』などの日本語に混じって他国の言語が行き交っていた。

「教えないなら、こっちにも考えがある」コーキの顔は怖れと怒りのせいで、青白くなった。「警備員を呼んでもいいんだぞ」

「お金は手に入らなくなるけど、それでいいんだったら、どうぞ」

 動画の徳永師長は絞殺した見習い介護士の頭を大きなビニール袋でおおい、首まわりをセロテープで止めた。その様子を目にした光輝は死体ににじりより、バンドエイドを一枚、一枚、貼りつけていく。由衣が、わたしのボードにメモを貼りつけるとき、バンドエイドを使ったのは、この動画を見たせいだった。

 コーキは手のひらで携帯を遠ざけ、「だるいんだよ」とうそぶき、頭を左右にふり、「『獣は苦しみに噎び泣き、病人は絶望の声をあげ、死人は悪夢にうなされる』」と天才詩人の言葉を引用した。そして、「だれが、ウタに〝制裁の儀式〟を暴露したのか、見当はつくけど、そいつは今頃、捕まってさんざんな目にあってるよ。いまから、そいつを制裁する儀式がたのしみだよ」とうそぶいた。

 マスキールの潤んだ瞳を思うと、胸の真ん中が敵の矢で射ぬかれたような激痛を覚える。わたしはマスキールに対して、父と同じか、それ以上の過ちを犯した。なぜ、いっしょに地球の裏側まで逃げようと言えなかったのか……。二人で、『ぬけだせるぬけだせるぬけだせる』と呪文を唱えるべきだったのに。

 廊下の照明が点滅した。急げという合図のようだ。わたしは無視した。白天使は目的を果たした直後に、わたしを殺すはずだ。短気な野崎もそのつもりだったから、サバイバルナイフで脅したのだ。母親と光輝を引き離さなくてはならない。組織への疑念と怒りを感じさせるために、さらにべつの動画を見せた。自動車事故で死亡したはずの山田介護士は、青い防護服に身を固めた複数の大人と子どもによって殺傷されていた。野崎らしき防護服の男が山田をビニールシートでくるみ、ストレッチャーにのせると、同じ青い防護服を着た光輝らしき人物が、遺体に近づき、ここでもバンドエイドを貼ろうとして、「邪魔だ。どけッ」と声を荒げる野崎に阻まれていた。光輝は、だんご虫のようにまるまっていた。

『臆病者は目障りだ!』というたぐいのコメントが列をなしていた。『腰抜けは塩漬けにして灰にしろ』『骨無しは簡単に焼ける』『こいつは〝中層民〟の恥だ』『知ってたWWW』。

 光輝は遺体の傷を手当てしているつもりなのだろう。それが彼にできる、唯一の死者への悼みなのか……。動画は一旦途切れ、ここへきた最初の日に、山田から聞かされた両開きの焼却炉の中へ投げこまれた。その瞬間、防護服の集団から拍手とどよめきが沸き起こった。『めでたく地獄の釜へ直行』『おめでとうございます』『ついでに臆病者も放りこめwww』。

 光輝は仰向けの姿勢のまま、手の甲で目元を隠した。

「賞味期限の切れた役立たずの人間を、裏切り者を加熱処理するのは合理的な消去法なんだよ」声がくぐもっていた。

 わたしは踵を浮かし、弾みをつけて彼のみぞおちを踏みつけた。

 光輝は呻き、虚ろな表情になった。「若い介護士も山田も灰にされて、〝下層民〟であることの不平等感から解き放たれたんだ。安楽死だよ。ゴミから生まれた人間は、ゴミにもどる。あとには、何も残らない。天国も地獄もない。ここにコメントを書く連中のように、生きている間にやりたいことをやり尽くしたいって、ぼくだって思うよ。たださ、考えることと行動することが自分の中で一致しないんだ。なんでかなぁ……」

「まともだからよ」

 わたしは踏みつけていた足をおろし、身をかがめ、中腰の姿勢で彼に語りかけた。

「殺すことが、たのしいヤツらのほうが狂ってるんだよ。あんたは気紛れでわがままだけど、野崎や連中とはちがう」

「〝制裁の儀式〟の間中、ヴェルレーヌがランボーを撃ったときのような気分になるんだ。せつなくて……悲しいんだ」

 彼は地下トンネルでの阿鼻叫喚の宴を苦痛に感じていた。

「あんたのママが、あんたを苦しめている。気がついているよね? ママは八嶋悦子をわざと逃がした。山田の不正を理事長に告げ口もした。あんたの病室にわたしが捕まっていたとき、野崎が行くようにもしむけた。ママはびっくりするくらい残酷で利口だよね」

「……ママはきれいで、やさしい」

「だったら、なんで、ママは、ここに自分はこないで、あんたを寄こすのよ。わたしの家に押し入って、ドロボーはするのにさ」

 光輝は身体を起こし、「ぼくは〝上層民〟と血縁関係があると認められた〝中層民〟なんだ。ウタもおとなしくしてれば、〝中層民〟の扱いを受けられたかもしれないのに、自分で台無しにした」

「あんたは、婆さんが産んだ子だから、婆さんの戸籍になって当然なんだよ。あんたのママは、父親の違うお姉さんなんだって、知ってたよね」

 彼は両手をついて立ち上がり、「ぼくは、もうすぐ〝上層民〟になれる、きっと」とつぶやいた。

「これからはカタカナのコーキで呼ぶことにするよ。光かがやく子になりたいなんて、らしくないよ。宇宙人との混血だと言って、自分を蔑むのもやめなよ。〝上層民〟なんてクソの集合体なんだからさ。円周率みたいに、どこまでいっても無限に数字がつづくことを願う連中なんだよ。愉しみのためなら、なんだってやれる」

「ぼくが〝上層民〟になって、いつか王にならないと、ママが、ママが、かわいそうだよ。もしかしたら、ママの子じゃないのかもしれないのに、一生懸命、働いて面倒を見てくれたんだから、ぼくにできることで恩返ししなくちゃ」

 彼の頬を、平手で張った。手のひらがしびれるほどの痛みが走った。野崎をこぶしで殴ったときは夢中だったせいで、何も感じなかったのに……。

 コーキは、あらがう意志がないのか放心状態の顔つきでいる。

 わたしはコーキの頬を両手ではさみ、「コーキは、いまのコーキのままでいいんだよ。だれかが傷つけられることが、つらくてやりきれないコーキが、わたしは大好きだよ」

「いまのままじゃ、いつか、ママに捨てられてしまうよ。ウタみたいにひとりぼっちになるよ」

「ママにお金を渡しても、おんなじだよ。裏切られて殺される」

「ウタは、ぼくを騙そうとしてるんだ」コーキは足踏みをし、両手をこすり合わせる。いてもたってもいられない仕草を見せた。

「コーキのママも、うちのオカンも、つらいことがいっぱいありすぎて、おかしくなったんだよ。わたしたちよりも、もっともっとつらい思いをした」

 コーキは涙を見られないようにうつ向いた。

「ウタの母親の一族が、どれだけ悪どいか知らないだろ? ウタはハーフだから、ぼくの気持ちが通じないんだ。ウタの母親はソン・ミヒが本名だ。ミヒの父親の名が、ソン・インスン。インスンは〝管理人〟だった台湾人の留学生ソウ・シイの身内だと偽って、ミヒを〝贖罪の山羊〟として差し出したんだ。それで、〝管理人〟になって、組織のから大金をせしめたけれど、嘘がバレて〝家畜〟として制裁されたって、ママが話してくれたよ。ウタの母親も追放されたんだ」

「ソウ・シイって、どんな字を書くの?」

「むねって読む漢字に、こころざしと偉大の偉だよ」

「宗志偉は、どうなったの?」

「戦争が終わって数年後に、台湾に帰国した宗は、大陸からやってきた連中に殺されたらしい。戻ってこなかったから、千久馬病院の院長が宗の後継者になったそうだ」

 タチソを検察したときから気づいていたことだが、組織の人間の口から聞くとさらに確信がもてた。コードネームの〝ヤソウタ〟の最後に残ったパズルの一文字がこれで判明した。コードネームはヤシマ、ソウ、ウカジ、タツキの四人の苗字からとられていた。この中の生存者は年齢から考えると、立樹理事長一人と思ってまちがいない。宗志偉がいなくなったあとも、コードネームにその名を残した。現在は、ヤシマ、ウカジ、タツキ、チクマの姓をもつ四人が、〝管理人〟であり、その中の一人が〝主権者〟に選ばれる。

「ウタの父親は、立樹理事長が三年前に勇退したあと、〝主権者〟の地位に就いたが、役目を果たさなかった。ふさわしくない王は消滅するしかないんだ。それが掟だから」

 コーキは組織の順位の話をするうちに、活気を取り戻したようだ。瞳に輝きがもどった。

「〝管理人〟の席が空くと、〝上層民〟と呼ばれる会員の中から〝主権者〟が指名するらしい」

「父はだれを選んだの?」

「知るわけないだろ」

「新しい王には、だれがなったの? で、いま〝管理人〟は何人いるの?」

 コーキは空気が悪いと言って、空咳きをした。

「新しい王に、八嶋悦子のお金をくすねたことがバレるとどうなるの?」

「ママが言ってたよ。〝家畜〟の子孫は空恐ろしいって。ウタは正真正銘の悪魔の子なんだ。ウタの母親は、宇梶を名乗るようになったとたん、夫の両親を追い出しただけじゃない。義理の父親を毒殺したってさ」

「あんたたち親子だって人殺しに加担してるじゃないの。あんたとあんたのママがわたしのオカンを地獄へ送ったって、野崎が教えてくれたんだけど、どうなの? オカンに何をしたのよ」

 右胸から取り出しておいた消毒スプレーを、コーキの目にむかって噴射させた。コーキは硫酸でもかけられたように騒いだ。

「失明させる気かッ」

「質問に答えてくれないからだよ」

 コーキは目をこすりながら、「あいつがどう言おうと、ぼくとママは〝制裁の儀式〟を見ているだけだ。ぼくが院長の息子として認められるようにママはどんなにつらいことも、じっと耐えてきたんだ」

 わたしが現実を拒み、モモのいる妄想の世界に居つづけたように、彼も大人になることを拒否している。時間の流れないここでは、永遠の少年でいられるのだ。ランボーを暗唱しても、彼は放浪と堕落を愛した詩人の末裔ではない。金子逸見を殴ったおかげで、母親の勤める病院に特別待遇でいられるようになり、八嶋悦子の預金を手に入れれば、母親の関心を永遠に繋ぎ止められると信じている。

「コーキのママは、あんたを人殺しの仲間にしたくないと本気で思ってるの? ないよね?」

「ママはいやいや院長に従ってるだけだ、実の息子のぼくのために」

 コーキは「実の息子」と言ったあと、鼻歌まじりでリュックを背負いなおした。ヒップホップが好みだと思っていたが、彼は、尾崎豊の「僕が僕であるために」を口づさんだ。「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」と。父にとっての「Calling・You」と同じ思いなのだろう。

「たぶんだけど、ママはコーキを捨てて逃げるつもりでいると思うよ。わたしが、コーキのママの口座に、大金を振り込めばの話だけどね」

 光輝はわたしの胸ぐらをつかんだ。「ぼくとママは一心同体なんだ。ウタに何がわかる!」

 このブスがッと怒鳴った。

「あんたはさ、『地獄の季節』を口ずさみながら、自分をかまってくれるママに依存していたいだけなんだ。子猫みたいに一時も離れずに、ママがそばにいてくれることだけを願っているんだ」

 繊細で傷つきやすい彼は、本音では、どんなわがままも許される病院の暮らしをこよなく愛している。

「ママは、一日でもはやく病院を出て、ぼくと二人きりで、だれにも邪魔されずに暮らしたいといつも言っているよ」

 本気だと思うと、コーキは弱音を吐いた。

「無理なことだって、コーキ自身がいちばん、よくわかってるよね? ここでは、狂気が許される。勉強しなくていいし、働かなくても食事に事欠かないし、太陽や月や星はじかに見られないけど、室内の温度は常に一定に保たれて暑さや寒さも感じなくていい。それに、あんたの場合は、外出だって好きなときにできる。ここにいてできないことは、ママに、使いきれないお金を儲けさせてあげることだけ。あんたのママは何しろ、お金だけじゃなくって、金目のものならなんでも盗むもんね。ウチのオトンの時計もオカンのアクセサリーやブランド物のバッグも持っていったみたいだしさ」

「もう、何も言うな!」

 レプティリアンの一族だと自称はしても、院長や野崎や白天使のように言葉のやりとりで人の中枢神経を彼はあやつれない。犯罪集団の手先のように見えるときでさえも、心の根底にある魂を闇に沈めきることができない。コーキはあきらかに動揺していた。

「名前の順番からすると――」と、わたしは言った。「八嶋監察官の祖父が組織の創始者ということになるよね? 二代目は本来ならコードネームの〝ヤソウタ〟の順にいきたかったんだけど、宗志偉の行方がわからなくなったせいで、年長者の立樹理事長が後継者に選ばれた。で、三代目がなぜ、父になったのかなぁ……。順番に関係ないなら立樹院長か、八嶋監察官がなるべきなんじゃないの? もしかして、〝主権者〟の世襲制は禁じられてるのかな? 王はどうやって、選ばれるの? 前に言ったよね、王は七人いるって」 「いきなり、なんの話だよ。早くしないとママが待ちくたびれてしまうよ」

「ネットカフェで調べたのよ。戦時中、ここが陸軍の貯蔵庫だったことは知ってるよね?」

 コーキは周囲を警戒しはじめた。

「医薬品や火薬をつくる工場もあった。戦争終結の玉音放送を聞いた将校らは、部下を引き連れてその日のうちに立ち去った。終戦を阻止するためだったのかな? 残ったのは、トンネル開削のために動員されていた地元民と朝鮮人労働者と学生だった」

 コーキは額の汗を手の甲でぬぐった。苛立つ彼におかまいなしに、わたしは話をつづけた。

「学生の中には医学生もいた。本土決戦に備えて、火薬と糧食の他に医薬品が大量にあることを、彼らは知っていた。医薬品といっても、軍隊や軍需工場で使用されていたメタンフェタミンが主だということもね。眠らず、長時間、働ける薬のことよ。もちろん戦うこともできる。ここからはわたしの推測なんだけど、ほとんどの地元民と学生は食糧を盗んで逃げたけれど、将校の一人だった八嶋監察官の祖父から命令を受けた三人の医学生は残った。それに加えて、ひとにぎりの地元民と朝鮮人もくわわった。彼らは医薬品を保管している地下倉庫への通路を、火薬をつかって爆破して、人目に触れないようにした」

「それがなんだって言うんだよ」コーキは唇を尖らせた。

「終戦後、封鎖した地下トンネルを再利用して、覚醒剤をつくり、大儲けをした。当時は合法だったのでなんの問題もなかった。軍の支給品が大量に出回った時代だもんね。GHQの幹部でさえ似たようなことをやってたそうだから彼らに手を貸すことも厭わなかった。戦勝国の幹部に罪の意識など皆無だった。敵国だったんだから、日本人が自滅してくれることに大賛成だった」

 昭和二○年代、敗戦国の日本人は解放感を味あうと同時に価値観の変化に戸惑い、生きる目的を見失い、ヒロポンと呼ばれる覚醒剤に溺れる者が続出したと、ネットの記事にあったと言うと、コーキは、「いまだって、変わらない」と吐き捨てた。

「四人の医学生は祖国復興のために精神を病んだ人々を手助けするという大義名分で〝管理人〟と称して、覚醒剤で大儲けした金を元手にして、地下トンネルに隣接する精神病院を建てた」

「ウタのくだらない話を聞いている暇は、ぼくとママにはないんだ」

 きびすを返すコーキの背中に言った。

「組織の言う〝上層民〟とは、〝主権者〟と〝管理人〟に認められた顧客のことだよね。彼らは、世間では、〝上級国民〟と呼ばれている連中の仲間だよね。権力と財力をもつ彼らに、組織は、彼らの望む子どもや特殊な薬物を供給しつづけることで利益を得た。終戦の時に、四人に協力した者たち、地元民と朝鮮人は、病院で雇われた。その状態が三代もつづいた。学費は組織が出したので、優秀な子どもは医者になった。看護師になる者もいた。あんたのママもわたしのオカンも、〝贖罪の山羊〟にされたあとで、組織から出る学費でナースになった。あんたのママとオカンの違いは、ママは組織に関わりつづけたけど、オカンはオトンと結婚したとき、組織との関係がきれたことくらいかな。だから、オカンは、あんたのママや野崎と顔見知りじゃなかったけど、野崎と付き合ううちに気づいたんだ。昔、自分が〝贖罪の山羊〟だったことを」

 コーキは背を向けたまま、「〝贖罪の山羊〟に選ばれる女の子は名誉なことだって、ママは言ってたよ」

「本気にしてないよね?」

 わたしは、コーキの前にまわり、別の動画を見るように言った。

「ここに映っている女の子が、名誉だと思うの?」

 コーキは顔をおおった。

「時が経つにしたがって、桜庭のように、組織とはなんの関係もない人間も雇うようになった。彼らは厚遇された。そのせいもあって、〝下層民〟は管理人の命令をきかなくなっていった。若い看護士や山田のように逃げ出す者や歯向かう者が出てきた。理由は簡単よね? 汚い仕事だけさせられて、いい思いは、させてもらえないんだもんね」

「話が長いんだよ。ウタの魂胆なんて、お見通しだよ。このままここで、消されるのを待つ気なら、そうしろよ。かかわるのはごめんだ」

 逃げるのにいるだろうから懐中電灯のかわりにしろと言って、コーキは頭に装着したフラッシュライトを外し、わたしの手に押しつけた。わたしはそれを彼に投げ返した。

 棒立ちになった彼に言った。

「この病院の患者は、さいしょっから消されている」

 旧館の入院患者の大半は、周囲との人間のつながりを断ち切られ、どこにも行き場のない状況下におかれている。

「ぼくはここで自由になれた。外の世界で見られないものを見られる。地下トンネルの儀式は犯罪なんかじゃない」

「ここに自由はない。その証拠に、あんたは病院のクスリがないと生きられない。現実の世界に出ていって、傷つくのが恐いだけなのよ。耐えられないと思いこんでいるんだ」 

「ぼくは、ぼくは負け犬じゃない」コーキの声は上擦っていた。「コンピュータのデータベースにさえアクセスさえできれば――ぼくは、あしたにでも王になれる」

 謎の一端が、別の角度から見えた。

「データベース……」独り言が声に出た。「〝管理人〟って、もしかして〝データベース管理者〟のことをさしてるのかも……? 〝上層民〟もだけど、〝中層民〟も〝下層民〟は言うまでもない。限られた一部の人間、七人の王と〝管理人〟にしか、どこにあるかもわからないコンピュータのデータベースにアクセスできないシステムになっている。そうか、そうなんだ。患者の個人情報に関することなんかじゃない。世界中の顧客のあらゆる情報が管理されているんだ」

 コーキは笑顔になった。

 わたしは彼に言った。「ユーザーにも階層があって、アクセスできる領域が定められている……だから、コーキは領域という言葉を使ったんだ」

 コーキは学生服の襟のホックを外し、腕まくりをしながら、「ママもぼくも人を殺したいなんて、かけらも思ってないよ」

 わたしは、コーキの腕をつかみ、子どもたちが大人にもてあそばれる部屋はどこなのか再度、問いつめた。その奥に研究室がある。データベースにもアクセスできるはずだと。

「ママに相談しないと……」 

「コーキに意志はないの? あるなら証明してみせてよ」

「あるさ。でもいまは、ママが待ってるから……」

「あんたを待ってるわけがない。山田に、金の亡者だとののしられた、あんたのママは、わたしがコーキを信用して必要なことを話すのをいまかいまかと待っている。オトンの口座なんてないよ。八嶋悦子の海外口座に残りのお金はある。でも、いま、パスワードやユーザーネームを言えば、わたしもあんたも、殺される。もともと院長のお金なんだから――ママだって、殺されるかもしれない」

「なんで、ぼくやママまで殺されるんだよ」

「知りすぎたからよ」

 わたしは階段を駈けあがる。キャッシュカードと交換したキーカードを使って、通路に出ると、螺旋階段を一気にのぼった。後を追ってきたコーキは思いつめた顔つきで、山田が所有していた鍵を学生服の内ポケットから取り出し、ステンレス製の扉の外へ出た。しかし彼の勢いはそこまでだった。ガレージのフェンスを目にすると、光輝は小学生が整列するときのように両脇に両手をそわせて急停止した。いるはずの母親がいないせいだ。

 彼は自分の携帯で白天使を呼び出した。

「なんて言ってる?」わたしは息をきらしながらたずねた。

「すぐ行くから、そこで待ってろって……」

「ママは来ないよ」

「どうして断定できるんだよ」

「うちのオカンといっしょで、手間のかかる、手際のわるい子どもに見切りをつけてるんだよ。今頃、八嶋悦子のパスワードとユーザーネームをわたしから聞き出す、べつの方法を考えてるよ」

「ぼくのママと、ウタの母親はちがう!」

 どちらにも裏の顔があると、わたしが言った瞬間、後頭部に強い衝撃が走った。眉間が張り裂けそうになるほど、頭の血が逆流した。振り返ると、野崎隆行の血走った目が見えた。

 彼の身体は傾いていたが、松葉杖にすがって、どうにか立っている。応急手当を受けたのだろう。松葉杖を持ちあげる気力は残っているらしい。杖の先で殴られたわたしは、カミソリを手にした。コーキはハンマーをかざしている。

「光輝! こいつをヤれッ」野崎は震える声で言った。「こいつを殺せば、ぼくと同じ立場になれるようにオヤジに頼んでやる」

「なんど同じ嘘をつけば、気がすむんだよ。そのたンびに酷い目に遭わされて……もう、ごめんだよ」

 コーキはハンマーで野崎の松葉杖を軽く叩いた。松葉杖は野崎の腋の下から地面に落ちた。彼は呆気なく横転した。

 わたしは周囲を見た。

「なんで、警備員が来ないの?」

「こいつは、年下の、しかも非力な女にさえ、勝てない」

 コーキは松葉杖を拾いあげ、振り下ろしたが、野崎の顔面に当たる寸前で止めた。打ちつける素振りを見せただけなのに、野崎は口から泡を吹いた。

「ええッ」思わず、後退りした。

「こんなヤツ、八つ裂きにしてやる」とコーキは言い放った。

 野崎は白目をむいて、全身を痙攣させている。

「とりあえず、逃げようよ」

 暗がりたたずむコーキは泣き笑いの表情を見せた。涙を必死で堪えて笑っているコーキとユーイはよく似ていた。

 こっちに向かってくる複数の足音が聞こえた。

 灰色の男たちが、わたしたちを取り囲んだ。くの字の格好に倒れたた野崎を、彼らのうちの一人が抱きかかえると、別の一人が耳に装着した無線機で連絡をとった。

 一瞬、時間が止まったような気がしたが、灰色の男たちは無言で距離を縮めてくる。コーキはわたしの前に立ちふさがると、「かかってこいよーッ」と怒鳴った。

 背後に迫ってくる存在に気づかなかった。

 首筋の一点に微かに触れる感触を感じたとたん、視界がぼやけ闇に包まれた。思考が停止する間際に、コーキのひきつった顔が目の前をよぎった。

  鼓膜をやぶるような喚声が、意識を目覚めさせた。

 入院当日に目にした金属製の肘掛椅子に、わたしは座っていた。結束バンドで手首が左右の肘掛にくくりつけられ、左右の足首も同じような状態で椅子の前脚に固定されていた。

 薄暗い。

 わたしの目に映るのは、円柱を背にして立つ真っ白の防護服に身を固めた十数人の姿だった。顔面が、防護メガネと一体になった樹脂製の防塵マスクを通した彼らの笑い声は、地鳴りのように鼓膜に響いた。映像で見るより、眼前の彼らのいでたちが、ものものしいことにたじろいだ。

「くれぐれもみなに言っておくが――」立樹院長の声がした。「〝家畜〟の解体は、社会貢献の一貫なのだということを肝に銘じてもらいたい」

「もっと早くに制裁すべきでした」徳永師長の声が聞こえた。「宇梶周平の庇護を傘にきて、身分をわきまえずに、しょっちゅう病院の内部に侵入していました」

「盗撮をするためだったんよ」コーキの弱々しい声が重なる。

「見せしめではない」監察官の声だ。「組織を裏切った者の末路がどうなるのか、思い知らせなくは、組織の運営が危うくなる。そうなれば、ここにいる者たちすべてに被害がおよぶ」

「本来なら光輝、おまえも罰すべきなのだが……」院長の声はいつも通り感情がない。「隆行に対して行なった暴力は許しがたいが、あれにも問題があった」

「和久井ナースにも責任の一端はあるんじゃないですか」石塚事務長の声だ。

「どうしてでしょう。わたしも光輝もできるかぎり、院長の指示に従いましたわ。事務長こそ、いつも高見の見物じゃありませんか」白天使は言い返した。「監視カメラを見ていただければ、おわかりだと思いますが、光輝は、松葉杖にかるく触れただけです」

「あなたたち親子は今後、隆行さんに近づくべきじゃないわ」

「繊細な神経の隆行さんには、わたしの介護が必要なんです」

「二人とも黙りなさい」院長は制した。

「さっさとケリをつけましょう」と徳永師長は急かした。

「ええかげん、殴る蹴るはしたんですけど、もっと痛めつけるんですか。くたびれまっせ」脂顔の刑事もいるようだ。

「舌の先も切りましたし……」細顎の声も聞こえた。

 あとは灰色の男たちのようだ。祖母もこの場にいるのだろうか……。

「はじめよう」監察官の声が地下のトンネル内に反響した。

 防護服の人垣が左右にひらいた。円柱が目に入った。

「明かりを――」院長が命じると スポットライトのような照明が頭上から降ってきた。

 拘束着のせいで、蓑虫のような格好になったマスキールが横倒しになっていた。頭を前後に振り、口を開けるが、呻き声しか出ない。脹れあがった唇から血がしたたり、紫色になっている。

「わたしとしては、なるたけ、内蔵に負荷をかけたくないのだが……」院長は穏やかに言った。「掟には逆らえない」

 監察官が反論した。「死体や眠った者の解体を見せるだけでは、見物する者たちのボルテージがあがらない」

「ペンチで歯を引き抜くところを映せば、ユーザーの興味を満たせると思いますけど、いかがでしょう?」白天使はおもねる口調になった。「わたしが、やりましょうか?」

「血反吐を吐くまで殴りましょか」脂顔も同調する。

「光輝、撮影の準備をお手伝いなさい」と白天使。

 コーキと刑事と灰色の男たちが、蓑虫になったマスキールを中心にして、カメラやライトや脚立などをセッティングしていく。

「きみが動画で見た映像には、欠けている部分がある」院長はわたしを振り向いて言った。「それをいまから見せよう。人体は、このように再利用されるべきだと、きみもいずれ自身の身体で思い知るだろう」

 手術用のベッドやその他の医療器具が、あっという間に備えられた。目を懲らすと、彼らの足元に臓器を保存する容器がいくつも並んでいるのが見えた。

「宇梶くんも死後、組織に属する重要人物に恩恵を与えた。パーツにしろ、細胞はいまも生きている。薬物中毒だったので、肝臓を提供できなかったのは残念だった」

 喉がカラカラに乾いていた。声を絞り出した。「八嶋悦子のユーザーネームとパスワードを知りたいなら――」

 院長は、「そんなことは、どうでもいい」と言った。「もともとわたしが動かしている金だ。妹がどんな小細工をしようと、結局は、あるべきところにもどってくる」

 喉が張り裂けるような悲鳴を上げた。

「音響効果バツグンやなぁ」脂顔の刑事の嘲笑う声が聞こえた。

 拘束衣を脱がされた裸体のマスキールと目があった。かすかに、うなずいたように見えた。彼の鳶色の目が落ち着けと言っていた。血に濡れた唇の形が、ア、タ、リ、ヤと言ったように見えた。

 イスラエル王国のアハブ王の娘、アタリヤは両親と兄弟と長子を惨殺されたのちに、ユダ王国の女王となり、おびただしい血を流す。マスキールは報復を望んでいるのだ。

「アイズ・ワイド・シャット」。大きく目を見開いた。

 その場にいる人間が入れ替り立ち替り、ペンチでマスキールの歯をランダムに選び一本ずつ引き抜いていった。仕上げは、脂顔の刑事の手で、頭の皮がはぎ取られた。光の中に浮かびあがったマスキールは血を吐き、呻きつづけた。彼が麻酔で安息を得られたのは、わたしには永遠とも思える時間ののちだった。

「院長は手際がいい。すばらしい」と監察官が称賛すると、院長は「時間を無駄にしたくないのでね」と返した。

 撮影をする機材が片付けられると、マスキールは、本物の家畜が解体されるように内蔵が抜き取られ、角膜や皮膚も採取され、残った肉体はビニールシートでくるまれて運び去られた。焼却炉へ投げこまれるのだろう。父や山田や見習い介護士の女の子やキリの母親も同じように処理されたにちがいない。

 悪夢を見ているのだと、自分自身に言い聞かせた。

 もう一度、首筋に何かが触れた。意識が遠のいた。

     25 夢の番人

  シュー、カチ、シュー、カチ……。規則正しい機械が刻む音が聞こえる。なんの音だろう? ここはどこなのか?

「聞こえるか?」

 重いまぶたをほんの少し開ける。光がまぶしい。黄金の仮面がわたしをのぞきこんだ。「アイズ・ワイド・シャット」のポストカードを目の前で見るようだ。話そうとしても話せない。唇が縫いつけられたようにひらかない。

「わたしの声が聞こえるか?」

 父が飛び降りる寸前の動画の中で聞こえていた声だった。仮面の内側にボイスチェンジャーが内蔵されているのだろう。意識を騒つかせる不快な音声だった。

「感じるだろ? 何かを」

 父の好んだ「Calling・You」が頭の中で聞こえる。訳詞が、思い浮かぶ。

   聞こえる?

  あなたを呼ぶ、わたしの声が

  聞こえるでしょ?

   感じるでしょ? 何かが変わる

  すぐそこに新しい幸せが

 「きみは、頭の中で言葉をつむげばいい。わたしにはそれで伝わる。返事をしてみなさい」

 うっすらと目を開けたが、焦点が合わない。頭の中がぐるぐる回っている。身体に痛みはなかった。シュー、カチッ、シュー、カチッという金属音が断続的にきこえる他はなんの音も聞こえなかった。首から上は固定されているらしくまったく動かない。ここはがどこなのか……わたしは知っているような気がした。

「あ、た、まを使うんだ。思考を言語に置き換えなさい」

〈……わからない〉 

「いま、『わからない』と脳の神経細胞が言語化した。それでいい。つづけなさい」

 以前、八嶋悦子が、ワイアレスイヤホンに似た補聴器を耳にしていた。そのとき、彼女がわたしの思考を読めると感じた。それと同じ機能のものを、黄金仮面は耳に装着しているのか?

「何が見える?」

 目を大きく開いて見るが、宙に漂う黄金の仮面しか目に映らない。

〈この声は……いつも頭の中で声が聞こえていた〝言霊〟なの?〉

「現在のきみは、神経細胞の発する電流に似たパルスに乱れが生じている」           

〈パルス……?〉

「早急に、神経回路を正常化しなてはならない」

 皮の手袋をした二本の手が黄金の仮面の前に見えた。

   I am calling you

  Can’t hear me

  I am calling you

 「エンハンサーの遺伝子の読み込み作業に時間を要している」

 おぼろげながら視野が広がっていった。

「細胞増殖にかかわる〝MYC〟と遺伝子の周辺にあるエンハンサーの関係を分析した結果、トランスヒューマノイドであることは立証できた」

 黄金仮面は黒衣で隠れた腕を大きく真横にひろげた。カラスが羽をひろげて、空中ではばたいているようだった。

「人間は一生かかっても脳細胞の一割も使えない。本来の脳細胞は、全宇宙に匹敵する。きみ自身の肉体は有限体だが、トランスヒューマノイドの脳内の構造はそうじゃない。すべてがデータベース化できる。巨大なコンピュータに匹敵する意識体になる」

 創られた脳は、風や、雨や、雪や、星の輝く月夜の桜を詩的に感じられない。未来の人類は機械化されて不死になるという科学者の言説を、わたしはけっして信じない。

「幼稚な考えだが、何も考えないよりいいだろう」

 黄金仮面は雑音のような笑い声を立てた。

「AIはすでに人間を凌駕している」

 家族と別れるつらさを、AIは知らない。

「どうして、おまえは、トランスヒューマノイドであることを認めないのだ。だれもが、一度は夢見る、永遠の命をおまえは望んでいないのか?」

〈いまのままのわたしでいい〉 

「人間のDNAは四種類の塩基が三○億対、並んでいる。その配列が持つ情報がゲノムと呼ばれる。生きるために必要な遺伝子はゲノムの一から二%程度だ。ゲノムの約六○%はかつてはがらくたと言われていたエンハンサーだ。エンハンサーは、さまざまな遺伝子のスイッチを入れる役割を通じて多様な細胞を生み出す一方で、塩基配列に違いがあると、制御される遺伝子の働きをも変化させる」

 ふっとひらめいた。夢を見ているのだと。夢を見ている最中に、これは夢だと気づいたことが、なんどもあった。

〈オレさまなの? わけのわからないことを言って、わたしをびっくりさせようとしてるの?〉

「なぜ、理解しようとしない?」

〈トリガーON……〉

「何を言っている? 聞こえない声が聞こえるのは、きみの脳細胞が情報の処理をまちがった方法で行なっているせいだ。きみの言う〝言霊〟や〝オレさま〟は、脳細胞のデータのひとつだと思っていい。ゲノムに十万から百万箇所あると考えられているエンハンサーの働きが活発になり、遺伝子のすぐそばにあるスイッチを入れる。それを合図に遺伝子の読み込みがはじまる。そのせいで、大脳に関与し、独立した存在であるかのように錯覚させているのだ」

〈やっぱり、オレさまはいたんだ……〉

「思考を逐一、意識に伝達することになれば、己れを己れだと認められなくなる。自我が統合できなくなる。通常の状態では、大脳皮質は本人に必要とされる情報だけを提供して、つつがなく日々を過ごしている。ところがきみは、時間を浪費し、大脳皮質にくだらない情報ばかりを蓄積して惰眠をむさぼってきた。思考能力は退化し、他者の目には愚か者に映ってしまうのだ」

〈愚か者……〉

「わたしとしては、デカルトのいう我思うゆえに我ありという哲学に反することに挑戦してみたかった。己れを己れだと自覚する神経細胞をいじくるうちに、わたし自身の思考にも変化が生じてきた。いまさらながら、自分にこんな野心があったことに驚いている。わたしは脳の調整役だけでは、満足できなくなったのかもしれない。わたし自身が、トランスヒューマノイドとなるべきだと気づかされたのだ」

 手足に意識を集中した。指がどこにあるのか、爪先がどこにあるのかを――。ここが夢の世界であると仮定するなら、全身をこんなに重く感じるはずがない。

 頭が何かで締めつけられている。思い切り、首を動かした。

「やめるんだッ。そんなことをすれば、何もかもおしまいになる」

〈……死ぬってこと……か?〉

 黄金仮面が目の前から消えると同時に呼吸が苦しくなった。だれかが大声で叫んでいる。「脳波が乱れてる。アクセスできない! 機器に異常が生じている!」

 もう一人のわたしが、ベッドに横たわるわたしを俯瞰している。何本もの液体の流れる管が、わたしの頭と身体の周りにのびている。

〈……ここは……もしかすると……〉 

 高校に数日、かよったあと、いた場所だ。光のささない部屋で、さまざまな医療器具が、わたしを取り囲んでいた。八嶋悦子が、物置きのようなところだと言った場所。旧館の五階だ。

 鉛のように重い腕をあげようとした。何かが引きちぎられるような音がした。

「なんてことをするッ」黄金仮面の声だ。「いまから人工心臓に切り替えようとしているんだ。命をつないでいる管を外してどうする気だ。血の流れが止まり、ただの死人になってしまう。せっかく、無限体になろうとしている最中だったというのに――何もかも台無しにする気なのかッ。意識が、永遠に生きつづけるというわたしの夢をおまえは砕くのか!」

 大きな物音がした。だれかが、管から流れ落ちる液体のせいで足を滑らせたようだ。悲鳴に似た金属音が聞こえた。

 もう一度、目を大きく開けると、マスキールの鳶色の瞳が、わたしを見つめていた。

 大きなやすらぎが、感覚のない身体を包みこんだ。

  白い壁がなくなり、透明の窓があらわれた。濃い緑の木々でおおわれた森が見える。

「どこにいるんだろ?」

 部屋の外に出るためにベッドから起き上がった。わたしの他にははじめからだれもいなかったように、室内は静まりかえっていた。

 なぜか、一瞬で、マスキールの声も顔も忘れてしまった。

 窓にむかって体当たりした。重みの感じられない身体なので跳ね返された。

「ぬけだせるぬけだせるぬけだせる……」

 つぶやくと、大音響とともに窓ガラスは四方に飛び散り、わたしは破片の一つになって窓の外へ投げだされた。

 ぐるり、ぐるりと、宙を舞った。

 紺碧の空の下に、緑の大地がひろがっていた。わたしはそこにすわると、両腕で自分自身を抱きしめた。

 これが、死の正体だったら、この世界を創った何者かに感謝したいと思った。「Calling・You」が聞こえる。

   聞こえる?

  あなたを呼ぶ、わたしの声が

  聞こえるでしょ?

  上空を見上げる。緑の羽根を背中に生やした少女が雲ひとつない青空を翔んでいく様子がはっきりと見えた。

「待ってッ」

 少女はゆっくりと、空から降りてきた。

「やっと通り抜けられたのね」

「そうみたい」

「いっしょに遊ぼうよ。ここじゃ、朝から晩まで、遊ぶことが取り決めなんだから」

 少女のそばに駈けより、思わず口走った。

「モモとモモの仲間みたいに、集まっておしゃべりするんだよね?」

「ゆっとくけど、ここは、モモの身の代金の十万時間を貯蓄し終えたあとの世界じゃないからね」

「じゃあ、時間に縛られるの? だったらがっかり」

「さいしょっから、そんなもののない世界だよ」

「へぇ、いいじゃん」

 安堵したとたん、背中から唸り声を聞こえた。肩に痛みを感じ、振りむくと、口から泡をふいた獰猛な顔つきの黒い犬が、吠えたてていた。少女は腰にぶらさげたサバイバルナイフを鞘からぬくと、シッシッと言いながら犬を威嚇した。犬は少女の腕にがぶりと咬みついた。わたしは思わず、犬の頭を平手でたたいた。たいした力でもないのに、犬はキャインと吠えてどこかに駈けていった。

「時間はないけど、あいつがいるから、面倒なのよ」

「わたしがやっつけてやるよ」

「森に行けば、仲間が待ってるから、連れてってあげる」

「仲間って?」

「仲間は、仲間よ。むりやりしゃべらくてもいい仲間」

 真っ先に由衣の顔が思い浮かんだ。そして、父やマスキールの顔も……きっとみんないる。

「ここんとこ、弱ってる子がいてね、仲間は心配してるの。森の外に出ると、黒い犬がうろついてて咬みつかれるし。みんな、ノイローゼ寸前よ。だから、わたしがこうやってときどき外にやってきて、犬を追っ払うの」

「弱ってる子って、もしかしてユーイのこと?」

「ここのみんなには、名前なんてないんだよ」

 さっき逃げた犬がもどってきた。

「やっぱり、あんたを連れて行けないわ。だって、黒い犬がついてくるんだもの」

 それでもわたしは、少女にくっついて、深い森の中へ入って行こうとした。黒い犬がわたしに飛びかかった。咬みつかれた。全身がバラバラになるような激しい痛みに襲われた。

「詩子ッ、目を覚ますんだ!」父がわたしを呼んでいる。

「逃げるんだ!」マスキールの声も。

〈ツカレタカラ、ホンノスコシ ネムラセテ〉

 意識が、次第に遠退いてゼロになっていく。

 〈いよいよ真打ちの登場なのか。やれやれ!〉

〈オレさま、帰ってきてくれたの?!〉

〈ワタシを、おかしな名で呼ばないでもらいたい〉

〈だったら だれなの……? 黄金仮面なら、ほっといてよ。まぶたが開かないくらい眠いんだから〉

〈眠ってどうするんだ。一日八時間の睡眠が必要だなんて、まさか信じていないだろうな? 生きるか死ぬかの一大事に、せっかく立ち合っているんだ。まぶたをしっかり開いて、目ン玉を剥き出しにするんだ〉

〈ほんとに、だれ……?〉 

〈類人猿と人類の中間にあって、遺伝子の伝達のかなめとなる直立猿人のように、なくてはならない存在なのだ。わかるか? わからないか? 話が突然、凡庸になるせいで、どうでもいいように聞こえてしまうんだな。諸々の事情が重なって、本来なら、感知できない、ワタシが、わざわざ話しかけているのだぞ〉

〈勝手にしゃべくってればいいよ。頭ン中がまだら模様なんだから……〉

〈バクハツ現象が起きたので、脳の組織の大部分があわてて沈んでしまったのだ。自我だ、無意識だと日頃は、脳を支配してる二大勢力だと豪語してるが、本質的には無責任な連中なのだ。神出鬼没の無意識のせいで、気が小さいくせに自己主張の強い自我が萎縮してしまったようだな。そうならないように、ワタシとしてはずいぶんと働きかけたんだが、阻止できなかった。おかげで、気の休まらない時間を過ごした〉

〈だれか知らないけど、黙ってよ〉

〈雑念のクソ溜めのような神経細胞の回路をかいくぐり、折り合いをつけるのはナミの手腕じゃできない。忍耐強いワタシだから、いままでやってこれたのだ。常識を無視して、本能のままに生きようとする、わがままなヤカラを手玉にとるのにどれほど神経をすり減らしたことか。ワタシが踏張らなければ、おまえの神経がもたなかったからだ。しかし、ここまで追いつめられると、あとは徹底交戦あるのみだな。吠えまくって、がぶりッと、咬みつくくらいしかすべがない〉

〈性悪の黒い犬って、あんただったの?〉

〈わるいか? 過激にもなるぞ。罪の意識も、マットウに生きる意欲のかけらもないややこしい連中が、次から次へと顔出しするんだからな、なんとかするしかないだろ。天使ヅラしたそいつらを片っぱしから、ねじ伏せるしか解決策がない。ワタシのフリをして、〝オレさま〟だのと騙るヤカラまで現われて、そいつをどうにか退治した思ったら、脳をハッキングして意識にじかに接触する人間まで出現して、もう、何から手をつけてよいか、困惑しておる〉

〈黄金仮面が、わたしの頭の中をいじくったせいで、こんなことになってるの?〉

〈さきに言っておくが、ワタシは自我の味方ではない。通常は、おまえとワタシはけっして意思の疎通ができない。なぜなら、ワタシは、夢の番人なのだから」

〈……ユメノバンニン……なんなのよ?〉

〈一般的には、超自我、スーパーエゴとも呼ばれてる。中間管理職だと思ってくれればいい。社長でもないし、平社員でもない〉

〈……ナニ、余計、わからない……〉

〈まだまだ覚醒する気のない、ドリームキャッチャーのおまえの思考の程度に合わせて説明すると、ワタシこそがおまえにとって唯一無二の存在、つまりおまえを操れるの意識体なのだ〉

〝オレさま〟でも〝言霊〟でもない、〝夢の番人〟の言葉にひややかな感じはなかった。わたしはどうにか首をまわし、ワタシと名乗る彼を捜したが霧の中にいるようでどこにいるのか、見つけられなかった。

〈人間には、意識と無意識があるいうことくらい認識しているか? 御託をならべていた人間も似たようなことを言っていたが、根本が異なる。目覚めてるときに感じたり、考えたりする大脳皮質のあるパートを意識といい、その意識とは無関係に反応する直感や感情や思考のパートを無意識という〉

〈……まどろっこしいから……はしょって話してよ〉

〈理屈でわかることと、納得して実感することとは雲泥の差がある。たとえがわるいけど、無意識がねっとりネバネバタイプの納豆だとすると、表向きは天敵のような意識は、納豆から抽出された蛋白源みたいなもの。近しいが、ほど遠い。互いに相手を認識しないほどに、関係性が遮断されている。余計、わからないか……。くたびれはてて、ついうたた寝をしたとする。とたんに、血迷った連中がひょいと顔をのぞける。こいつを世間では白日夢と言うらしいが、神経回路を死守する番人のワタシの目を盗んで縄張りに押し入ってくるヤツの名前にしたら、上出来だと思わないか? ろくでもない連中が大事な脳にいたずらをする。夢の番人としてはこのさい、一戦を交えるしかない〉

〈もしかすると、DNAを操作された、わたしの意識だけが、こんなふうに声が聞こえるの……?〉

〈面倒見のいいワタシは日夜、仕事に励んでいた。ところが、思わぬ事態が生じた。わがままな自我のヤツが、自我であることを放棄する暴挙に出てしまったのだ。自我をつくっている脳髄が表層の意識を見失しなえばどうなると思う? 肉体は生命意地装置で生かされているのに、思慮の足りない脳細胞が思考することを手前勝手にやめてしまったんだ。なってしまったことはしょうがないとも言えるが、もう一度、言う。夢の番人としては一日も早く、自我を目覚めさせることを切望する。夢マボロシの中で、のんべんだらりとしてる自我に、そのことを知らせるのが第一の役目、第二に、脳髄全体で創った世界から自我を脱け出させること。そのためには地下にもぐってる有象無象の無意識を総動員して、大規模侵攻作戦に転じて、敵対関係にある意識の範囲をすこしでも拡大して、覚醒させないと座して死を待つことになる。エンドレスの世界に閉じこめられる。しかし近頃、困ったことに、ワタシのよりどころにしてる、頭と身体を支える心肺機能の減退が著しい。ヤブ医者でかまわない。どうにかしてもらいたい。あたりまえの要望だと自覚してほしい。脳を統括する夢の番人にも意地がある。このまま逝ってまうわけにはいかない〉

〈どうして、こんなことになったの?〉

〈自我がどうして、意識を眠らせることにしたのか、その理由を肝心カナメの魂に悟らせることからはじめないことにはどうにもならない。なにしろ、わたしとしてもはじめてづくしの体験なので戸惑いや失敗の連続だが、どうにかするしかない〉

〈さっさと大規模掃討作戦をやってよ?〉

〈脳そのものが常に意味を求める習性がある。それを刺激するしかないのか。うむうむ。ワタシの役目をいったん全面放棄して、自我という名の表層意識と自覚のない無意識とを融合させたマルチな人格にしてしまおうのはどうかと考えている〉

〈どうなるの?〉

〈意識が消滅するか、しないか……わからんが、気にせんでもいい。だれもが通過するんだ。どのみち、二度と、ワタシと出会うことはない〉

 夢の番人の話がやっと終わったとたん、

「娘よ聞け!」

 父の声が頭の中ではっきりと聞こえた。貫いたと言ったほうがあたっていた。

 重いまぶたを引き上げる。

 浮き上がった父がいる。周囲には何もない。暗闇の空間にいるとでも言えばいいのか?

 死んだんじゃないの! 生きてたんだ!

 胸が熱くなり、まぶたから涙があふれる。

 ぜんぶ夢だったのだ。長い長い夢だったのだ。もともと妄想癖のあるわたしなんだから、こういうことがおきても不思議じゃない。 由衣といっしょにタクシーに乗ってパパに会いにいく途中で、事故にあって、どこかの病院に搬送されたのだ。

 だったら由衣もオカンも無事だ。

 もうこれで何も思い残すことはない。たったいま死んでもいい。わたし以外のみんなが生きているなら……。

 おまえは、ワタシなのだという夢の番人の声が思考に重なった。

  目覚めたとき、真っ先に気づいたことがあった。細胞が新たに分裂し、統合されたような感覚が身内にみなぎっていた。

 手の指が動く。足の指も動く。口を開ける。歯を噛み合わせる。頭を揺らした。

 なぜ、わたしは生きているのか? どこにいるのか、わからないが、窓ガラスを通して陽光を感じることができた。

     26 屋上の宮殿

  日差しは感じられるが、頭が南に向いているせいで窓そのものは見えない。部屋の広さは、新館のコーキの部屋と同じだが、トイレとシャワールームが併設されている。入院した最初の日に、新館には三階から七階までが病室だと山田から聞いた。もしかすると、ここは七階かもしれない。お嬢様の奏香がいたという部屋と同じなのか……。

 絵画教室で新館の屋上に移動するとき、旧館の二階にある職員専用のエレベーターで一旦、地下に降り、隣接する新館の職員専用エレベーターに乗り換え、屋上まで一気に上がっていた。たった一度だけ、七階で停止したことがあった。男性の看護師があわてた様子で乗りこんできた。その男は、わたしたちを引率する看護師と介護士に何事か耳打ちした。「準備がある」というひと言が聞こえた。結局、その週末の絵画教室は取り消された。

 男性の看護師は、なんの準備をしていたのだろう。

 マスキールにもらったSDカードの保存ファイルには、新館の屋上だと、ひと目でわかる動画が映っていた。一連の出来事が、残像のように脳裏に浮かびあがった。 

 動画は、父が最期に残した言葉、「詩篇45章10節と11節」をすこし前の8節から再現している光景だった。美しく着飾った少女が弦楽器の奏でる音色とともに映し出されると、フードつきの裾まである黒いマントに身をつつんだ数十人が平伏した。みな、黄金の仮面をつけている。そのうちの一人が、少女の手をひき、大理石の台座に身をおく同じ扮装をした人物のもとにいざなう。

 動画の記憶のせいで、昏睡状態で黄金仮面の幻影を見たのか?

 黄金色の冠をかぶり、杖をもった人物が大理石の椅子に座り、そのそばに同じ格好の小柄な人物が控えていた。男女の区別はわからない。王とおぼしき人物が詩篇45章10節を唱える。「娘よ、聞け。かえりみて耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家とを忘れよ」

 仮面をつけていても父の声だとわかった。日付は二年前の〝贖罪の日〟令和元年、二○一九年九月二十日の深夜だ。この年、父は〝主権者〟と呼ばれる地位に就いたのだろう。父のそばにいるのはだれなのか?

 少女をいざなった人物は深く一礼し、「王はあなたのうるわしさを慕うだろう。彼はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ」と詩篇45章11節で応じた。院長の声だ。父は少女に過去を忘れよと言い、院長は今後は、王である父を神のごとく敬えと言っているようだ。さらに院長は、父の足元に少女を横たえると、七度鞭打った。あとは……、あとは思い出せない。脳の神経細胞の一部がショートしたのかもしれない。

  身体を、起こそうと手足に力をこめる。ドアが開いた。エレベーターで出会った男性の看護師が入ってきた。ひと言も話さない。検温をし、点滴袋を取り替える間も、けっして目を合わせない。看護師がドアの外に出るとき、灰色の男の一人の足元が、隙間から見えた。廊下で見張っている気配だ。ベッドから起き上がり、床に足を下ろすだけで何分もかかった。点滴の管を引き抜き、立ち上がると、めまいがした。這ってトイレに行く。

 曜日も日付もわからない。部屋のどこかに監視カメラが仕掛けられているはずだ。ゴッホの「黄色い家」が白い壁にかかっていた。壁を伝って歩き、重い腕をあげ、手をのばし、複製画を払い落とした。スチールの額縁もプラスチックの表面も、ひびが一つも入らない。両足を絵の上に乗せた。何かが砕ける音がした。

 直後に、白天使が入ってきた。いつから、ここにいるのかと、かすれた声でたずねても、彼女は頭を少し傾げ、悪さをやめられないのねと言った。

「後片付けがたいへんなのよ」

 彼女は、わたしをベッドに腰かけさせると、複製画をもとの場所にもどした。

「奏香や……キリは……元気にしてる?」

 気を失う前に、絶叫したせいだろうか、声が出にくくなっていた。

「なんとかね」彼女は何事もなかったように普段通りに話す。「奏香ちゃんはあいかわらず、わがままだけれど、詩子ちゃんがいないことに慣れたようよ。ほら、もともと気紛れだったでしょ? なんといっても油布家の跡取り娘ですものね。跡取りなんて、古くさい言葉よね。いまの若い人たちはなんて言うのかしら。詩子ちゃんは、〝跡取り〟知ってる?」 

 彼女の涼しげなも目元の顔を見つめる。

「あちらのおとうさまは将来、うちの光輝を婿養子に迎えたいっておっしゃるのよ。光輝と奏香ちゃんも大乗り気なの」

 わたしの妄想はいつはじまったのだろう。あたらにはじまった、この物語に真実はあるのだろうか? 

「すぐに慣れるわ」と彼女は言った。「新しい環境に」

「三ノ宮のタワマンに、住むってこと?」

「それは無理よ。容姿に基準があるから」

「母と同じようになるんだったら、なぜ、新館にいるのかな?〝家畜〟になるんだよね? どこへ行くの?」

「悦子さんの海外口座の場所とユーザーネームとパスワードを教えてくれる?」

「思い出せない……」

 嘘ではなかったが、白天使は固い表情になると、サイドテーブルに由衣のキティちゃんの腕時計を置いた。手に取り、日付を見る。九月十九日。病院に帰った日が七月十三日の火曜日だったので、二ヵ月以上経過したことになる。

「明日は〝贖罪の日〟よ」と彼女は言う。

「容姿に問題のあるわたしには、関係ない」

「儀式にはね」白天使は曇りのない微笑を浮かべた。「でも、女の子は一人じゃ足りないのよ。参加する会員全員の要望に応えなくちゃならないから」

「だから何?」わたしは、彼女の先の欠けた小指を見た。

「わかってるでしょ?」彼女は小指を手の中に隠し、わたしを見下ろした。「〝家畜〟は、〝下層民〟に与えられる獲物なのよ」

 白天使が立ち去ると、日差しを眺めた。秋のやわらかい日差しではない。熱のある光を肌に感じる。水分を摂る。ガムテープをはがした右腕がかゆい。ボタンのない寝巻きの袖をたくしあげた。ガムテープを剥がしたあとが、あざやかに残っていた。地下トンネルで気を失い、旧館の五階に移動し、いまここにいる。どんなに長くても、一週間かそこらしか経っていないはずだ。白天使は時計の日付を細工し、明日は、〝贖罪の日〟だと、わたしに思わせようとしている。

 八嶋悦子のユーザーネームもパスワードも、頭が踏みつぶされたように思い出せない。 

 男性の看護師が夕食を運んできたとき、わたしはわざとベッドから転がり落ちた。彼は、わたしを見下ろし、何も言わずに、食事を置き、いなくなった。体温は計らなくてもいいらしい。

 マスキールが盗み撮りした動画のつづきを思い出せば、つぎにとるべき行動が決められるような気がした。

 消灯時間を過ぎて、病室のドアが開き、コーキが足音を忍ばせて入ってきた。いつもの手口で、見張り役の灰色の男を買収したのだろう。コーキと白天使の弱味は、金品だ。

「死んじゃうかと思ったよ」コーキは鹿爪らしい顔つきで言った。

「〝家畜〟のわたしになんの用があるの?」と訊くと、彼ははにかんだような笑顔を見せた。

「コーキのママは信じないけど、覚えてないんだから、どうしようもない」

 コーキは唇に指を当てて、後ろ手に持っていた由衣の赤いスマホを前に向けてちらつかせた。病院の寝間着に着替えさせた白天使が手に入れたのだろう。

「なんのつもり? もうわたしには用のないはずよ」

 彼は首を横に振り、「欲しがってると思ったからだよ」

「首筋に注射されてから、何日くらい経ったの?」

「きょうが、七月十七日だから、四日間かな」

「四日間か……」

「こんどこそ、本物の冒険をしようよ」とコーキは言った。

「寝言は、寝てるときに言うもんよ」水分を補給したせいで、滑舌がよくなっていた。

 コーキの手から赤いスマホを受け取ると、動画を再生した。記憶の途切れた箇所まで早送りした。マスキールからもらったSDカードのデータを、由衣のスマホにもダウンロードしてあった。

「この子のこと、〝贖罪の山羊〟っていうらしいよ」コーキはわたしの隣に座り、画面の中の少女を指さして言った。「選ばれる子は名誉なことなんだって、ママが言ってたよ。この前、話したからもう知ってるよね」

 少女は泣き叫ぶこともせず、蝋人形のように身じろぎひとつしない。うつろな精神状態にいるように見える。薬物で痛みを感じないように処置されているのだろう。周囲にいる黒衣の者たちはそれぞれ松明の形をした照明器具を手にし、微動だにしない。まるで、明暗が逆転している陰画を見るようだ。院長は死人のような少女を抱きあげると、彼女を父の膝の上へと運ぶ。居並ぶ仮面の中から一人が進み出て、ひざまずき、「あなたの愛する娘は、かつての王の娘である」と言った。監察官の声だった。 

 かつての王……? 理事長の娘ということなのか? 九十近い老人の子どもなのか? もしかすると、わたしのいた病室のすぐ近くに少女はいたのかもしれない。子どもの頃から、思いこみの固まりのようなわたしは集団生活に馴染めないことを理由にして、同じクラスの生徒の顔も名前も記憶しなかった。机や椅子の間に生息する異種の生命体のように彼らを感じていた。自分と彼らとは永久に交わることのない平行線なのだと決めつけていた。それが、自分を守る唯一の方法のように思っていた。

「これ、盗み撮りだよね?」わたしはたずねた。「マスキールはどうやって、映したのかなぁ? 父以外にも、マスキールに、盗み撮りを依頼した人物がいたと思わない?」

 仮面の男たちの中にまぎれて隠しカメラで、撮影したか、あるいは、周辺の雑木林のどこからか望遠レンズで撮影したのだろう。画像が安定しないし、音声も乱れて聞き取りにくい。

「依頼者なんているはずないじゃん」とコーキは早口で言った。

「野崎はどうなったの?」

「知ってて、わざと訊くかなぁ」

「夢だったのか、現実だったのか、よくわからないのよ。だって、コーキは、院長の息子を傷つけようとしたのに、お咎めなしなんて、不公平じゃないの?」

「ああ、それ」コーキは言った。「兄貴は、おかしくなってしまったんだ。きょうも、口から泡を吹いてたよ」

「コーキのママは、さぞ、ご満悦だろうね」

「それはないよ、だってママは……」

「コーキもいよいよ〝上層民〟になれるってわけね。野崎のかわりにさ。ママの忍耐が報われたね。おめでとう」

 コーキはうつむき、残高表の金額を口にした。

「二億円と三百八十二万三千円って、おかしな金額だな」

 二億円は、八嶋悦子の口座から引き出した金額で、残りは父の遺産だと言うと、「そうか、それで、ぼくらは勘違いしたんだ」と一旦は納得したようだったが、「でもやっぱり、ママは、すっきりしないって言うんだ。もっとあるはずだって」

 わたしは動画をもう一度、再生した。

「この動画で特定できるのは、声をだした父と院長と監察官よね。父の隣にいるのはだれ?」

「ウタの一族の生き残りだと思うよ。たしか、宇梶八千代とかいってたな。夫が嫁に殺されて、息子といっしょに昇格したって噂だ。二年前の四月に、ウタの父親は〝管理人〟から〝主権者〟に、婆さんは〝主権者〟の補佐役だから〝管理人〟になれたみたいだ。けど、頼みの綱の息子が飛び降り自殺したからいまじゃ、〝中層民〟のぼくらより下の下〝家畜〟のはずなんだけど、ババァのくせに理事長の愛人だという噂もあるし、複雑すぎて、なにがなんだかよくわからないよ」

「〝家畜〟なのに解体されないの?」

「〝家畜〟だからって、制裁されるわけじゃないよ。あくまで、組織に叛く罪を犯した裏切り者に限られてる」

 彼の頭の中では、この頃の祖母は、四人の〝管理人〟の一人なのだろう。残りの三人のうちの二人は、立樹院長と、八嶋監察官だとすると、あと一人は千久馬病院の関係者なのか。

「わたしのばあちゃんって、やり手なんだね。宗偉志の子孫を騙る人間の子どもを嫁にして、いっときは、宗と宇梶の両家の代表になったみたいじゃん。ということはさ、理事長は八嶋監察官に長女を嫁がせることで、娘に両家を代表させようとしたことになるよね?」言葉が以前のようにすらすら出てくる。「でさ、父の後継者はだれがなったの? たぶん、初代理事長の血をひく監察官だよね? そのつぎがコーキだとすると、すごい出世になるじゃん」

 コーキは形のいい鼻をうごめかした。「〝贖罪の山羊〟を供する儀式の様子を見た〝中層民〟っていないんだよ。〝上層民〟と〝会員〟に限られてるからね」

「コーキも参加してたんだ。すごいすごい!」

「エヘッ」とコーキは照れ笑いを見せた。「ママもいたんだよ」

 わたしは唐突に、「背中の鞭のあとは、だれがつけたの?」

 隣に座っていたコーキが、立ち上がった。

「ぼくの部屋にあった愛用のベルトを見なかったの? 思ったほど観察力がないんだな。洞察力も足りないってことだ」

「コーキは、永久に〝贖罪の日〟の儀式のメンバーには加われない。だって、ヤられる側なんだもん。嘘で自分を騙すのはやめなよ。虚しくなるだけだからさ」

「な、なんてこと、言うんだよ……ぼくは、ぼくはレプでネプリムだよ。自分を戒めるために、鞭のかわりにベルトでパンパンって打ちつけてるんだ。最高位の王であるおじいさまから聖名をいただく、その日に備えてるんだよ」

「あんたのジジィは、いまはもう王じゃない」

「おじいさまは、王よりえらいんだッ」

「ジジィは、あんたを孫だなんて、思ってない。院長はあんたを息子だと認めていないし、野崎は弟だと思っていない。小さいときから、あんたは野崎に――べつの動画はロックしてあったから見ることができなかったでしょ? いま、見せてあげるよ」

 コーキは病室の床にうずくまり、耳をふさいだ。「やめてよ、やめてよ、お願いだから……」

「野崎のせいで、コーキは壊れてしまった。そのことをあんたのママは知っていて知らん顔している。だからコーキも言えなかった。金子逸見やわたしにしたこと以外はぜんぶ、野崎のしたことなのに、自分で耳をそいで、鞭のあとも自分でつけたと嘘をつきつづけてきた。少年Xに憧れたのは、Xが野崎のように残酷な加害者だったからだよね」

 彼はこぶしをつくり、「ママは、何も知らない!」とわめいた。

「ランボーはさ、詩にもヴェルレーヌにもさっさと見切りをつけて、思うままに生きた。あんたはママや野崎がいないと、息さえできない。野崎には奴隷のように従うしかないと思っているし、ママには真実を告げると、嫌われると勘違いしている。あんたのママは卑怯だと思うよ。いまだって、コーキを利用して、八嶋悦子のお金がもっとあるはずだから、探らせようとしている。自分ひとりのものにするためにね。二人で冒険しようだなんて嘘をつかせて――もう、わたしには何も残っていない。まだ足りないの? 強欲にもほどがあるよね。金の亡者だけならまだ許せる。あんたたちは、裏切ることを楽しんでいるように見える」

「ちがう、ぜったいにちがう! ママは裏切らない」

「天使のようにきれいなコーキのママがなぜ、人殺しの場に息子を行かせるのか――わたしのオカンがどうしてわたしをこの病院に置き去りにしたのか――動画を見たときから何時間も考えた」

 光り輝く子の両目から涙がこぼれた。

「なんでだよ……なんで……ママは……」

「コーキもわかってると思うけど、ママとオカンは、子どものころに動画の女の子と同じ目にあった。二人の親は、組織に忠誠を誓っていたから、生け贄になれば、輝かしい将来が約束されると信じていたんだと思う。でも違った。組織が大きくなるにつれて、末端の者にまで利益は還元されなくなった。医者になった者は別だけれど、山田のように利用されるだけの者もでてきた。〝上層民〟〝中層民〟〝下層民〟〝家畜〟という区分けをする言葉が、そのことを表している。ちがうかな。コーキのママもうちのオカンも、男たちの生け贄にされただけじゃない。〝主権者〟や〝管理人〟や〝上層民〟と呼ばれる連中の子どもを産まされた。そうやって産まれた子どもは数えきれないくらいいるんだろうね? コーキもわたしもそのうちの一人だよ。組織の言う血族なんて、互いを裏切らないための保険みたいなもんだね」

「しゃべりだすと、とまらなくなるんだな……」

 オレさまとわたしは合体したんだから、心の声が空中に発散されて当然なのだ。

「コーキのママとうちのオカンは、わが子を連中から守るためによくも悪くも悪戦苦闘した。わたしのオカンはだれの子かわからない子どもを預かり、育てた。その子を生け贄にするためにね。コーキのママはわが子を〝管理人〟にするために、野崎のやりたいようにやらせた」

「そうだよ。ママは、ぼくのために、努力したんだ」

「コーキのためじゃない。お金のためよ」

「ママを、ママを屈辱することは許さない」

「あんたのママは、実母に捨てられた野崎に、母性愛を見せつけてコーキを痛めつけるように仕向けた。そうやって野崎の精神を狂わせていったのよ。結果は成功したとも言えるけど、ママは結局、コーキと二人で暮らす自由よりお金を選択した」

「この場所から、だれも逃げられないんだよ、だれ一人」

 わたしは、秘密の部屋へ行きたいと言った。「儀式のあとで子どもたちは、レイプされる部屋に連れていかれる。その動画もあるよ。研究所はそのすぐそばにあると思う」

「ここに映っている仮面の男たちのだれかれなしに、この女の子はへんなことをされるっていうのか?」 

「儀式に参加したんじゃないの?」

「……」

「すぐにバレる嘘はやめなよ。あんたが加われるのは、地下トンネルでのリンチ殺人だけだよ」

「地下トンネルでの〝制裁の儀式〟では殺される前に、罪状が読み上げられるんだ。ウタは気絶してたから聞かなかったけど……」

「マスキールは父や院長の忠実な部下だった。母親や妹を奪われても、限界まで我慢した。コーキといっしょで、逃げ場がないと思ってたからよ」

 彼はしばらく口をつぐんだ。

「正直に言うよ。正しくないことはわかってるよ。殺されることを考えたら、従うしかないじゃないか。死んだら何もかもおしまいじゃないか。意識のない状態になるんだから、恐怖も何もないって、院長は言うけど、無になるって、考えただけでも恐ろしいんだ」

「だったら、無になると思わなきゃ、いいんだよ」

 自分で言いながら、自分の言葉を信じていないことに気づいていた。大いなる者の存在を認めない彼らだから、身の毛のよだつことができるのだ。わたしも同類だった。

「子孫だからと言って、〝管理人〟になれるとは限らない。なんでだろう?」わたしは自問自答した。「〝管理人〟となる者はまずはわが子を提供することが求められる。もしくは子どもを手に入れるルートの確保が求められる。そうでないと常時、子どもを集められないもんね。自分にとって、もっとも大切なものを提供させることで、悪魔になれるということか……」

 かつては理事長、いまは、おそらく八嶋監察官を頂点とする組織は子どもたちを、この世で力のある男たちに提供している。国内、国外を問わない。そうやって途方も無い富と権力を手中におさめている。それが、彼らの信じられるものなのか。

 わたしはコーキに訊いた。「一年を通して、日本中で九歳未満の子どもの何人が行方不明者になっているのか、知ってる? 二○○六年から二○一九年の間だけで、千二百五十三人いるんだって。ネットの情報だから、どこまでほんとかどうか、わからないけどね。アメリカや中国ではもっとたくさんの子どもが、いなくなってる。世界中に人身売買業者がいて、難民や移民の子をさらっている」

「自分ひとりが、正しいと思っているのかッ」

「無力だと思っている。コーキといっしょだよ。でも、なんとかしたいって思ってる。だから、ママに内緒で由衣のスマホを持って来てくれたんだよね?」

 わたしは、心の中で次の展開を待っていた。そして、自分がどうすべきか、わかっていた。コーキの手助けがどうしても必要だった。彼を傷つけることになる。それはわかっていた。

  三日後、七月二○日の深夜に、コーキは見覚えのあるトートバッグをたすきがけにし、女性かと見紛うフェミニンな装いでやってきた。何もかも白天使のものなのだろう。栗色のヘアウィッグをかぶり、淡い色調が混在したブラウスに、スカートに見紛う同じ色合いのふくらんだパンツ。襟元には、グレイブルーのスカーフが結ばれていた。血の跡が、模様にしか見えない。

「ウタにも着替えを用意してある」

 一週間前に彼が着ていた学生服をトートバッグから出した。

「寝間着の上に着ればいいよ」

「これを、わたしが着るの? 反対じゃないの?」

「これでいいんだよ。ぼくに似合ってるだろ? こういうの、ウタが着ると、洋服がかわいそうなんだよ」

 靴だけは、父のものを持ってきてくれた。

 キティちゃんの腕時計を、傷跡のある手首に付けた。

     27 どこにもない家

  暗がりの中から黒ずくめの男が通路とガレージとを隔てるフェンスに近づいてきた。なぜ、コーキとわたしが、ここにいることがわかったのだろう。バックパックを奪った男が、ふたたび現われたのだ。

「あんた、だれ!?」と訊くと、「八嶋悦子の元夫のイサカだ」と名乗り、「きみを助けにきた」と言った。

「強盗のくせに、よく言うわ。何が目的なのよ」

「知人から連絡があった」と言う。知人とはだれなのか、とたずねる前に、イサカは言った。「自分は弁護士なので生前の妻から、きみの保護を依頼された」

 コーキはこの男を熟知しているはずだが、「こわーい。ママが、ママが、いっしょに来てくれないと、ぼくはついてけないよ」と、女の子のしやべり方をして話をそらした。

 コーキの額を人差し指の先ではじき、「お芝居なんでしょ?」

 彼はペロリと舌をのぞかせると、秘密の部屋には霊安室から行けると言った。そして、「とうとう冒険の旅に出るんだね」と弾んだ声で言った。「この瞬間をずっと待ちのぞんでいたよ」

 女の子の手のように細い手が触れてきた。「キモいじゃん」と言うと、「かわいくねぇの」と言って笑う。

 イサカは特大のペンチで金網を切断した。電流は流れてないのかと訊く間もなく、三人で葬儀社専用の駐車場を横切り、霊安室と書かれたドアの前にきた。鍵のかかっていないドアを開けると、いっさいの装飾を廃した室内の中央に、一見、なんの変哲もない棺がひとつ置かれていていた。祭壇と焼香台もある。この場所で遺体は葬儀屋を待つらしい。コーキは棺の蓋を開けて、「ああ、こいつか」と言って、さして広くない部屋の祭壇にむかって歩いていく。締め忘れた蓋を閉じようとしたわたしは愕然とした。イサカはしばらくの間、立ち尽くした。奏香が同じ中学校に通っていたという少年の遺体だった。ひと目では、見分けがつかないほど顔面が変形している。内蔵を抜き取ったあとに、火葬場に送ることもあるのか?

 コーキは金メッキの蓮の花をまたぎ、仏像の背後にある、センサーの前で立ち止まった。彼は自分のスマホをかざし、「ひらくはずないか」と独り言を言った。

 イサカは、たしかじゃないがと前置きし、「このセンサーは、声紋認証システムが使われていると思うので、上層部に承認された会員の声でないとドアは開かない」と言った。しかも、彼らの定めたコンパイラー言語を発しなくてはならないという。

「コンパイラー言語って何?」と問うと、イサカは「機械がわかるように命令語に置き換えた言語のことだ」と言った。

 なんのために父が死の前日に、由衣へメッセージを残したのか、ようやく理解できた。詩篇の45章の10節からとられた命令語。たぶんだけれど、携帯をもたないわたしのために由衣の携帯へ伝言したのだ。由衣もそれを知っていたから、あの場所に残した。

 どちらが正解かわからなかったが、幾多に父の携帯を渡し、父の音声の入った由衣のスマホを手元に残した。

 赤いスマホをつかい、父の「娘よ、聞け」という声をセンサーに近づけると、カチッと金属音がした。祭壇の横壁が内側に開いた。 コーキは女の子のように手を叩いて喜んだ。

 中に入ると、男たちが少女や少年と交わる部屋だった。動画で目にした通り、広い空間に贅をつくした内装が目につく。壁紙の陰欝な色調もだが、シャンデリアといい、複雑な色合の敷物といい、仰々しい家具といい、ビクトリア朝時代の遺物かと思える光景を美しいと感じる感覚が、社会と没交渉のわたしには欠けている。

 装飾過多の長椅子がいくつもある。この上で、くりひろげられる行為にたいして、彼らは一片の痛みも感じないようだ。理事長と仲間はここで、棺の中の少年をいたぶり、憂さ晴らしのついでに死にいたらしめたのだろう。奥へとつづく扉がある。扉をあけると、素材はわからないが壁があり、手のひらをおく形のセンサーが設置されていた。

「炭素繊維でつくられている」とイサカは言った。「ヒトに連れられて、なんどか、はいったことがある」

 わたしは迷わずセンサーの上に手をのせた。轟音を立てて、壁が左右にひらいた。確信はなかったが、一人だけ生き残ったトランスヒューマノイドのわたしの指紋は承認されているはずだった。しかし、主権者であっても、排除された者は二度と入れない。

「それで父の指紋が消されてのか」と独り言を言いつつ、二人を振り向いた。

「やっぱり」と、コーキは落胆した声で言った。「ウタが八嶋悦子の実験体だからだよ。五歳のときにここへ送られてきたみたいだよ」

 ママから聞いたのか、という問いを飲みこんだ。

  既視感のある無機質な室内を見回した。閉じられた記憶が雪崩のように蘇った。八嶋悦子の子ども、弥生も一緒にいた。ピンクの頬をした弥生は、わたしにピーターパンの絵本を読んでくれた。妖精のマボロシを、由衣だと思ったときもあったけれど、弥生はわたしの心の内で生きつづけていた。

 しだれ柳のように何本もの管がたれさがり、透明のカバーで覆われた、四つのベッドが並んでいる。祖母の家に預けられたのは、ここへ送られるためだった。母はそのときから、父と祖母への不信感をつのらせていった。父の性癖を知るにいたって、不信は憎悪となった。しかし、母が祖父を毒殺したというのは、白天使が自分の罪を正当化するためについた嘘だろう。憶測にすぎないが、コーキの父親は院長ではなく、〝管理人〟の一人だったわたしの祖父だったのだ。だから、理事長や院長はコーキを後継者の一人とみなさなかった。苛酷な幼児体験を強いられた白天使は怒りにかられ、祖父に毒をもった。

 保育器をおおきくしたサイズのベッドがあった。幼いままの弥生だった。いまにも目を開けそうだった。蝋人形のように青白い由衣と〝贖罪の儀式〟に映っていた少女は、弥生の両隣で眠っていた。二人は、弥生とおびただしい管で繋がれていた。八嶋監察官の娘と思われる、もう一人の少女は、皮膚が老婆のようにひからびていた。

「やはり、弥生は、彼女の実験体になっていたのか……」イサカは呻いた。「病死したと、悦子から聞かされていたのに……」

 弥生は頭、鼻、喉、胸、腕など全身の至るところに管が刺しこまれ、二人の少女とともに生命維持装置と思われる機器につながれていた。

「実験室の感想はどお?」コーキの目はその名のとおりに輝いている。「トランスヒューマノイドは、八嶋悦子の子どもの弥生と八嶋監察官の娘の園子って子だよ。あとの二人、ウタの妹ともう一人の女の子は、弥生の命をつなぐために血液を増殖して提供してるんだ。かわいそうだろ?」

 自分の脳細胞が揺れる音を聞いた気がした。

「それもママが教えてくれたの?」

 わたしはカバー越しに由衣の頬をなぞる。父の死に顔と同じように死人にしか見えなかった。

「ウタはさ、ぼくを小者だとあなどってるだろ? 疑ってるみたいだけど、カメラワークの関係で映ってないだけなんだ。〝贖罪の儀式〟の場にぼくはいたんだよ。そのとき――」コーキはたすき掛けのトートバッグを背中に回し、生け贄の少女を指差した。「この女の子の血を飲ましたもらったんだ。彼女、まだ生きていたんだよ。スゴイだろ? ウタの血だって飲んだよ。知らなかっただろ?」

 イサカがコーキに飛びかかった。「おまえは、おまえは……」

「さっさとヤれよ、おっさん。ジジィといっしょで男好きなんだろ。それもとびっきり若いヤツをさ。棺桶の少年も、あんたがいたぶって殺したんだ。何もかも知ってんだよ。変態ヤロウ! あんたは娘の生死をたしかめる目的で組織に潜入して、ミイラとりがミイラになったんだ。よくあるパターンさ」

 イサカはコーキの首にかけた手を離し、全身をおののかせた。

 コーキは爆笑した。「八嶋悦子はこいつの性癖が疎ましくて離婚したんだ。捨てられたんだよ」とコーキは言った。「彼女は逃げたつもりだったが、逃げきれずに、別れた妻の子を引き取った八嶋監察官と再婚させられた。八嶋悦子はわが子のようにその子を愛したが、監察官は〝管理人〟になるために娘を差し出したんだ。娘は、儀式の直後に自殺した。それで、八嶋悦子はアルコール中毒になったんだ」

 イサカは土気色の顔をあげた。「死んだ少年は、クスリをやりすぎた親が金に困って売ったんだ。おれもいまじゃ借金まみれだ。宇梶に代わって、主権者となられたお方の目を愉しませるために、この子を痛めつけたよ。ご命令とあらば否応なしさ。借金がチャラになるだけじゃない。これから先は、金儲けもさせてやると言われたんだ。一石二鳥いや、三鳥なんだよッ」

「悦子さんも、同じことを言ったの?」

 イサカは、えっと声をもらし、動揺をかくすように首を横にふった。そして、目をそらし、口ごもりながら、「あんたの父親が、飛び降りるときに撮られた動画のせいで、八嶋監察官の手下の刑事に脅されて、あんたをつけ回して、生き地獄へもどって来たんだ」

 二度と足を踏み入れるつもりはなかったとイサカは言った。

 コーキは、入ってたきたドアと向かい合わせの位置にあるドアを開けた。自動的に天井の照明が点いた。ベッドや照明器具や薬剤など、手術に必要だと思えるあらゆるものが備えられていた。この場所で由衣は植物人間にされたのか。

「この上にある研究室も見たいよな? ぼくは見たい。いままでは、ママから聞いてただけだから、想像ばかりがふくらんでさ。よぶんなことまで、考えてしまったよ」

 コーキはわたしの手を引っ張り、ドアノブのあるドアの監視カメラに由衣のスマホをかざすように言った。ドアが開いた。闇に向かってのびる長い石段があった。夢で見た石段と似ている。昇りはじめたとたん、目の前を妖精がよぎった。妖精になった弥生の意識は生きているのかもしれない。一段をあがるごとに、足元の照明が点滅した。

「マルチ人感センサーって、これのことなんだよ。ウタが一緒だからのぼれるんだよ」コーキは興奮しているようだ。「すげぇよ。保護室へ行くときのLEDとは、別物なんだ」

 階段が途切れると、両開きの扉が待ち構えていた。ドアノブはないが鍵穴のような凹みがある。コーキは山田の所有していた鍵の束から一つ選び、扉を開けようとしたが、鍵穴ではないのでひらかない。

「山田はさ、死人が出るたんびに、所持品の中から鍵を集めていたんだ」

 白天使が山田の死体から盗んだのだろう。

「もとは八嶋悦子の鍵だけど、院長に拒否られてたから、この鍵も使えないのかなぁ……」

 コーキはつぶやき、トートバッグからシャープペンシルを取り出し、左手の人差し指の先を傷つけた。そして、凹みに指をのせた。

「きみの血液じゃ、ひらかない」あとからやってきたイサカが言った。「わかってたことだろ」

「あーあ、ぼくの遺伝子コードじゃだめなんだ」コーキは溜息をついて、シャープペンシルをわたしに返した。「なんで、予想していた通りなんだろお」

 コーキはわたしの背中を押した。シャープペンシルを二度ノックし、指先を傷つけた。その血を凹みにたらすと、ドアはひらいた。つまづきながら、中に入った。

 ロッカーに似た長方形の機械がまるで図書館の本棚のようにずらりと並んでいる。何台あるかもひと目では判断できない。

「コンピュータルームに見えるけど、そうじゃない」コーキはわたしから赤いスマホを奪い取り操作した。「ここでも使えるかどうかためしてみようっと――えーと……八嶋悦子のコードナンバーは……と。ぼくってすごくない? 暗記してんだよ」

 ディスプレイに数字を表示した。入院したさいに病院に提出する社会保険証番号がコードナンバーになると言う。

「ママがこっそり調べておいてくれたんだ。それを入力すると……これで起動するはずなんだ」

 ゴォーン、ゴォーン、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。天井から伸びている複数のコードと共鳴するように鼠色の大型機械は鳴った。「ワォ! ママから聞いてたけど、ほんとだったんだァーッ」

 衝立てのような壁がゆっくりと下がってくると、赤と黒のプッシュボタンが二つならんだ液晶パネルが現れた。コーキはわたしの手から赤いスマホを奪い、パネルに近づけた。ディスプレイが同じ色になったとたん、白いガウンをまとった笑顔の八嶋悦子が映し出された。映像と同時に、シューマンの「トロイメライ(夢)」が聞こえてきた。

「マジか、ウソだろ!」コーキが大声をあげると同時に、画面上の八嶋悦子が口を開いた。「こんにちわ。会えてうれしいです。いま、あなたたちは、わたし、八嶋悦子の神経細胞に働きかけています。意識は清明です。周囲の状況が正確に把握でき、適切に対応できる状態です。抽象能力に障害はありません」

 抑揚のない無機質な声だった。

「ぼくがわかる?」

「和久井光輝くんです。隣にいるのは宇梶詩子ちゃん」

 彼女と瓜二つの画像はわたしを見つめる。

「ここで永遠のときを過ごしています」

 八嶋悦子本人ではない。単なる3D画像だ。アニメオタクのわたしには直感でわかる。

「ここにくれば、会いたい人と会えます。わたし八嶋悦子は娘と再会しました。他の子どもたちとも親しくなれて、とても幸せです。ここは天国。意識をコンピュータに接続したおかげで、わたしは無限体となれました。ここは、子どもたちと、わたしの家です。そうです。世界に一つしかない、どこにもない家です」

 死者同然の相手とどうやって再会したというのだろう。口の中に胃液が逆流してひろがる。五感が違和感を訴え警報を鳴らしている。なんのために造られた機械か知らないが、まやかしであることだけはまちがいない。コーキから赤いスマホを取り返し、めったやたらとキーを押した。

「キーを――キーをもとに――わたしは、タツキエツコ、訂正、ヤ、シ、マ、エエエエツツツココ……」

 画像は歪みながら消えた。

「ナニすんだよー。せっかくオバサンが話してんじゃん」

 アニメの『サイコパス』で描かれる、脳の集合体で生きている人間を支配する、シビュラシステムなんて現実にはあってはならない。ましてや、それが、機械の集合体なら、なおさらだ。

「持ってきてるから黒い携帯も試そうよ。ウタのオヤジが出てくるかもしれないじゃん」

 赤いスマホを握り締めたまま、研究室の外へ駆け出した。

「待てよ、むちゃくちゃに押したままだと、無限体の生命維持装置が停止してしまうかもしれない。そんなことになったら、院長や兄貴に殺されるよーッ」

 コーキは頭からウィッグをむしり取ると、振り回しながら、わたしを追いかけてきた。階段を駈け下りた。実験室にもどり、由衣と弥生とをつないでいる管という管を手当たり次第に引き抜いた。ケチャップのように赤い血や白濁した液体や透明な液体が床に流れ出した。生け贄の少女と弥生をつなぐ管も引き抜いた。館内に非常ベルが鳴り響いた。イサカはいつのまにか、姿を消していた。

 コーキは絶叫した。「やめてよーッ、やめてよーッ」

 わたしとコーキは障害物競走でもしているように、ベッドのまわりを駈けまわった。コーキは履き慣れないローヒールのせいで、わたしに追いつけない。生命維持装置がけたたましい音を立てる。由衣をおおうカバーをはぎ取ったわたしは、透き通るように白い顔を抱きしめた。どんなに謝っても、由衣はかえってこない。

「ごめんね、由衣。おねぇちゃんが悪かった。ずっとそばにいてくれたんだね。ほんとうは、由衣が大好きだったんだよ。ひとりぼっちで、さびしかったよね」

 コーキはウィッグをかぶり直し、「わかったからやめてよ」と言った。

「ナニがわかったのよ!」

「アラームが鳴ってる。みんなを死なせないでくれよ」

「みんな、生きていないよ」

「このまま実験室にいたら、ぼくらはマジで殺されてしまうよ」

「すぐに殺してよッ」嗚咽が止められなかった。「生きてる資格が、わたしにはないんだから」

 コーキは数分ごとに性格が変わるのか、憑き物がおちたように、「ウタは、目的があってもどってきたんだろ? だったらやりぬきなよ。母親だって、見つかってないじゃん」 

 さっきまで暖かかった由衣の頬が冷たくなっている。由衣はこんどこそ逝ってしまった。このままそばにいたかった。それが可能ならそうしただろう。捕らえられて、切り刻まれる前に、為すべきことがあった。由衣のスマホで、大阪府警の幾多を呼び出し、こちらの状況がつたわるよう通話中の状態にした。

「待っててね、由衣。かならずもどってくるからね。三○分先が見通せるカシオペイアは、『どこにもない家』で眠っててね」

 コーキと後先になりながら実験室と呼ばれている部屋を出た。秘密の部屋を通りぬけた。警報が鳴ると同時に、どこも開け放たれた状態になっていた。霊安室から外へ出たとたん、数人の警備員につかまりそうになった。

 コーキは白天使そっくりの仕草で頬に手をあてがいながら、「院長のご命令で、ご遺体に死に化粧をしにきたのよ。状態がわるいから」

 そう言って、キーカードと鍵の束を見せると、彼らは霊安室へとなだれこんでいった。ほっとしたわたしは、駐車場の縁石に足をひっかけてよろめいた。

「ダッサ。病院の連中もやってくるから、いそいでくれよ」

  駐車場の外に出ると、すり鉢状のコンクリートの側溝に沿って入り口のゲートとは反対方向に向かった。密集した木立の間を走りぬけ、土手をのぼった。太い針金に短く切った針金をからませた有刺鉄線が行く手を阻んだ。大型バイクにまたがったイサカが現われた。逃げたと思っていたが、病院内の某所に停めてあったバイクを動かしにもどったという。

「このあたりで待ってれば、合流できると思ってたよ」

「そんなものに乗って、どうする気だよ」とコーキは言った。

「まあ見てろよ」

 イサカのバイクは鉄条網にむかって疾走した。火花が散った。皮手袋をはめた彼は、からみつく針金を、くぐり抜けられる大きさにペンチで切断した。

「退いてろよ」イサカはそう言って鉄条網をブーツで踏みぬくと、「先に行く」と言ってプールに飛びこむように道路にむかって単身で跳躍した。わたしとコーキも飛んだ。ひらひらしたブラウスとパンツのせいで、錦鯉が泳いでいるように見えた。

 竹林をぬけ、敷地の外に出ると、空気の匂いが違っていた。夜空を見上げる。遠くに近くに数えきれない星が散らばっていた。病室にいては、けっして眺めることができない光景だった。カシオペイアの「どこにもない家」はあの星のどこかにあるはずだ。

「なに、ぼんやりしてんだよッ。みんなの騒ぐ声が聞こえないのか」と言うコーキの声に応じるように、「見つかるのも時間の問題だな」とイサカが言った。

 病院を見下ろした。正面からはさほどわからなかったが、裏手の路肩からながめると建物は路面よりかなり低い位置に建てられていた。「えぐられたような土地なんだな」とイサカが言うと、コーキは、「こんな場所だから、ずっといられたんだ」と言った。 

 赤いスマホの着信音が鳴った。コーキがのぞきこむ。悲鳴に近い細い声がいきなり聞こえた。宙を翔んでいるような浮遊感が感じられる声だ。だれの声だろうと、コーキは首をかしげている。「おねぇちゃん、ユイをおいていかないで……お、ね、が、い……ユイを……た、す、け、て……」

 暗がりでもコーキの派手な格好が目立つ。「ウタが、あんなことするからだよ。こうゆーの、天罰っていうのかなァ」

 このスマホの機能の一つに意思の伝達にあるのではないか。もしかすると、あのコンピュータの中に由衣の意思も閉じこめられているのかもしれない。どうすればいい?! 頭の半分が昇天しそうだった。冷静になれ、と何度も自分に言い聞かせる。由衣の声に似ているけれど、あれは由衣じゃない。由衣はあんなふうに甘える子じゃなかった。

「おれに貸してくれッ」

 イサカは、弥生の声を聞かせてくれと言って譲らない。拒むと、スマホを取り上げようとした。揉み合ううちに、イサカはしぼむようにその場に倒れた。

「ああ、肩が凝った」首にトートバッグをぶらさげたコーキはいつのまにか、注射器を手にしていた。「最近、無痛の針があンだよ。ママが貸してくれたんだ。これで二、三時間は寝てるはずだよ。ウタにも使ったから、知ってるよな」

 コーキはウィッグを投げ捨てると、しゃがみこんだ。「こんなことして、なんになるんだろ。なんにもならないか」

 その声に精気がなかった。表情も虚ろだった。具合でもよくないのかと近寄ったとたん、彼は立ち上がり、わたしの首に包帯をからめた。「盗撮したのは、ぼくだよ。そうさ、ぼくは、そうやって儲けてたんだよ。ウタの両親はぼくに脅されて、にっちもさっちもいかなくなったのさ。腹が立つだろ?」 

「コーキじゃない。あんたのママが――パパはそれを知って――ママのスマホからSDカードを取り上げた――そして、マスキールに――ママを守るために――」

 包帯が絞まる。

「黙れ! ぼくに騙されたママは今頃、組織の連中につかまって、泣く泣く夜勤の通常業務をこなしていると思うよ。逃げるか、金か、どっか一つにすべきなのにさ」

 生温い感触が、首筋を圧迫する。

「ここまでついてきてやったんだから、全部よこせよ。ママは騙せても、ぼくは騙せない。ウタの口座の金はほんの一部だろ。八嶋悦子が国内の証券会社に預けてるわけがないんだよ。だれも手出しできないように、ケーマン諸島かスイスのどこかに口座があるはずなんだ。なんなら、ぼくと仲間になンないか? 汚い大人どもをきりきり舞いさせてやろうよ」

 学校でもこんな体験がいくどもあった。日頃、わたしを仲間ハズレにしている連中がおためごかしの親切を口走るとき、かならず陰湿な企みが隠されていた。他人と言葉をかわすことは残酷な現実と向き合うことなのだ。できることならそんな連中とは永久に接触したくないと思ってきた。だから、自分のまわりに壁をつくった。

 トートバッグがブブブと音をたてた。彼の手が包帯から離れた。彼自身のスマホをいびつな耳に当てると、「うん――ああ――わかった――心配しないで」と返事をした。

 話の内容は聞こえなかったが、白天使からだろう。

「あんたに書けるシナリオじゃないよね?」

「ぼくじゃないって、なんで思うのかなぁ。ウタは、ぼくを天才だって認めてないんだ」

 わたしは手の中の赤いスマホを離れた場所へ投げ捨てた。コーキは駆け出そうとした。彼の軸足に足をかけた。コーキは転んだが、素早く立ち上がった。わたしはシャープペンシルを二度、ノックした。コーキはペンチを手にし、わたしの顔に突きつけた。イサカの持っていたものだ。注射で気絶させたあとに拾ったのだろう。

「ウタを見習って、危険を察知したら、迷わず臆せず、行動することにしたんだ」

「ヤワなあんたが、わたしに勝てるはずないじゃん」

 コーキがペンチを振り上げる寸前に、彼のお腹の前で揺れているトートバッグを切り裂いた。

「ママに叱られるよぉ」

 わたしは直進し、スマホの上に靴の踵をおいた。サイズオーバーの靴は便利だった。

「ぼくさ、なんてゆーか、モノを大事するタチなんだよ。惜しいものなんて、なぁーんにもないんだけどさ、一度でも自分の手垢のついたものって、ぼくの魂が乗り移った気がするじゃん」

「これがあんたのものだったことは、一度もない」

「助けてやっただろ。ヒトの親切を無にすんのかよ」

 コーキは言葉を捜している様子だ。

「それがあれば、ウタの妹が棲みついているコンピュータともアクセスできるだけじゃない。王とも話せる。使いようによっては、ぼくたちは生まれ変われるんだよッ」

「だれが、生まれ変わりたいなんて言ったのよ。わたしは、こんなわたしが大嫌いだけど、由衣のおねぇちゃんでいたいのよ」

 スマホを踏みつぶそうとした寸前、コーキはホームスチールするようにわたしの足元に滑りこんできた。地面で手のひらをこすったのだろう、肉の焦げる臭いがした。驚くほどか細い手首が暗がりに見えた。スマホを踏みつぶした。

「あんたにも、わたしにも必要ないものよ」

 彼に背をむけ、高槻駅の方角にむかって走った。コーキはついてきた。隣にならぶと、わたしの腕を左手で引き止めた。

「ここのやつらにまともに逆らうなんてムリだよ。逃げられると思ってるのかよ。もう少し先に行ったところで、無線機にコールサインが入るようになっているんだ。院長の雇ったヤクザまがいの警備員が、すっとんでくる段取りになっている」

「灰色の男たちがなによ。金子逸見を殴ったときのあんたはどこへいったのよ。わたしの頭だって、もう少しで真っ二つにするとこだった」

 コーキは一瞬たじろいだが、「わかったよ、思い通りにすればいいよ。でも、そのまえにどうしても見せたいものがあるんだ」

「なによ」

「ママも知らない、ぼくだけのフロアだよ。そこへ行けば、病院の連中に捕まらないし、ウタの知りたいことがわかるよ」

     28 メンタル補助カウンセラー

  たったいま抜け出た鉄条網をもう一度くぐろうと言う。こばむまえに、彼は言った。「いまさらって思うだろうけど、話しておきたいことがあるんだ。二月の、三日だったと思う。ウタは妹があんなふうになって半狂乱になったんだ。覚えてないだろ? ウタは死にたがっていた。ぼくは見るに見かねてそんなウタがかわいそうでさ、死なない程度に包帯で首を絞めたんだ。それが、おれの役目っちゃ役目だからさ。わざわざ電車に乗ってさ」

「へぇ、ごくろうさん」

「なんてゆーか、ラクにしてやりたかったんだよ。でも、ウタんちの母親が殺さないくれって頼むもんだからさ、ウタを殺しそこねたってわけ」

「オカンをどこへやったのよ」

「知ってどうするんだよ。あそこは死ぬよりひどい場所だよ」

「居場所を知ってるの?」

「ぼくはネプリムで、なおかつレプティリアンだよ。不可能を可能にする能力があるって何度も言ってるじゃないか」

 嗤った嗤った嗤った。「手首を切られたのは、二月のはじめ頃じゃないよ。四月の中旬、正確には十五日だよ。そのあと旧館の五階に連れて行かれたんだよ。野崎にね。なんで嘘つくの?」

 コーキは真面目な顔で首をふる。「ウタは思い違いをしてるよ。頭の中で時間の感覚がぐちゃぐちゃになっても、病気だから仕方ないけどさ。トランスヒューマノイドの宿命かもしれない」

「コーキのほうが――」重症だと言いかけて口を閉じる。

「ウタは、千久馬病院に入院して二ヵ月近く治療をうけた。高校に通ったのはそのあとだよ」

「わかってるよ」

「兄貴ともめて二度目の入院をしたのも、同じ千久馬病院だよ。それが事実だよ」

「仮に、それがほんとうだとして、なんで、首を絞めるなんて、おせっかいをすんのよ」

「この病院では、患者のほうから死ぬことを絶対支配者である理事長にお願いするんだ。そしたら、自分はなにもしなくて死ねるんだ。首を吊ったり、事故ったり、飛び降りたりできるんだ。ゆーなれば、ぼくの職業はメンタル補助カウンセラーなんだよ。合理的なシステムだろ?」

 胸底でたぎるマグマがいまにも噴火しそうになった。

「父も由衣も理事長に死ぬことをお願いしたって言いたいわけ? マジメに話を聞いて、ソンした。メンタル補助カウンセラーのあんたもジジィにお願いしたらどーよ? 兄弟そろって包帯が好きみたいだから、自分で絞めなよ。ごめん。言いすぎた」

「ウタって、黙ってるときの印象と話した印象と別人なんだなァ。こんなに自己主張がつよいと思わなかったよ」

 こんなふうに言われるのがつらくて、〝言霊〟が頭の中でのさばり、舌から言葉を封じた気がする。わたしがわたしであること。それが否定されるのであれば人とのコミュニケーションなんていらない。そう思って生きづらい時間を生きてきた。でも、話さなくては何もはじまらないのだということにもようやく気づいた。

「だったらさ、桜庭は自分から飛び降りたんじゃなくて、あんたが突き落としたことになるよね」

「理事長から本人が希望してるって聞いたからさ」

「コーキにお達しがあったの? 違うよね? あんたは、人を殺せない。だいち、病院の車かバスにしか乗れないコーキが、うちの家まで電車にのってやってこられない」

「そうだね」コーキは悲しい顔をした。「でも、レプだっていう証拠を見せるよ」

 病院内にある、秘密を知る場所をみせるとコーキは言う。脱走時に通った側溝にもどると、コーキは排気口の鉄柵を指さした。人の頭がやっと通れる大きさだ。コーキは鼻歌まじりで鉄柵を外した。

「『不思議の国のアリス』になれってこと?」と訊くと、「尻が抜ければ、行けるよ。ダンス、ダンス、ダンス、ダンスさ」

 コーキはあいかわらずランボーを口ずさんでいる。

「ああ、時よ、来い、陶酔の時よ、来い~」

 コーキは洋服を脱ぎ捨てた。スポーツ選手が着るような身体にフィットしたボディスーツを身につけ、防弾チョッキに似たものを重ね着していた。頭のイカレた人間の発想は似るものらしい。

「これ、もったいないから、着ろよ」

 コーキは抜いだ服を、わたしに着るようにすすめた。断った。コーキは首にひっかけたトートバッグを背中に回し、排気口をくぐった。あとについていった。呼吸がしにくいような狭さのところから、人の幅ほどの隙間に出た。爬虫類のレプティリアンなのにどうしてスイスイくぐれないのか訊いてみる。イジワルのつもりだったが、本人は大真面目に答えた。

「レプの細胞が地球の物質には浸透できないんだ。だからここの建物は、特別のシールドがくまなく張り巡らされているんだ。鉄の筒じゃないよ。放射能や電磁波を遮断するシールドだよ」

 新館と旧館のつなぎ目の壁の中が、空洞になっているなんて思いもよらなかった。コーキは自分から行こうと言っておきながら、昇りながら地底に飲みこまれるような錯覚にとらわれると愚痴る。

 クモの巣だらけになりながら改築時に作られ、そのままになっている木材の足場を伝ってのぼっていった。

「さきに、新館をのぞいてみようか」

 コーキが「ぼくのフロア」というだけのことはある。階層ごとに隙間があって、立つことはできないが、中腰になって歩くことはできる。ただし、電気などのライフラインの大小の配管が縦横に走っているので、つまづかないようにしないといけない。

「あんたが、天井を抜けられると言ったのは、ほんとうだったんだ」

 コーキが指差すところをのぞくと、新館の待合室が見下ろせた。電気系のコードを通すために開けられたもののようだ。八嶋悦子が飲酒する場所だったという。

「もう死んじゃったけど、血のつながっていない娘を、夫が連れてくる日を、この穴からのぞいて待ってたんだ。とっくに死んでるのに、じぃーと待つんだよ。わざと酒をこぼしてたよ。新館ったって、かなり古いからさ、コンクリートにひび割れができてんだよ。天上のシミはこうゆーことだったんだよ。難解な物事の答えなんて、たあいないもんだよな」

「八嶋悦子はどこへでも、行けたんだね」

「ぼくらは、屋上へも行けるよ。いつか、宇宙へも行ける」

 さらに昇る。旧館の一階と二階の間にも新館と同じような隙間があると言うので移動した。こちらは隙間というより、広間と呼んだほうがふさわしい気がした。

「戦後すぐに建った建物だから、つくりは雑っちゃ雑なんだけどさ、全体にゆとりがあるんだ」

「オカンはなんで、この病院のことを知らなかったんだろ?」

 祖母の家は知っていたのに……。いや、知らなかったのかもしれない。調べてわかったのだ。

「神戸に住んでたからだろ。神戸地区は千久馬病院を利用したんだ。贖罪の儀式は、どっかのホテルでやってたらしいよ」

 ラウンジに飾られた廃墟のホテルの写真が思い浮かんだ。

  のぞき見の穴は、窓のない病室のためにつくられた通気孔である。通気孔をふさぐ網状の蓋はあらかじめ取りのぞいている。どおりで、いろんな人のことをなんでも知ってるわけだ。こぶし大の大きさの丸い穴に目をつけると、金子逸見の寝顔が見える。幼子のように眠っている彼女の姿をここからのぞき見していたのだ。もしかすると、彼は金子逸見に対して特別な感情があるのではないか。

「気になる人に暴力をふるったのは、どうして?」

 コーキは聞こえなかったように、「せっかく逃げ出した八嶋悦子が、どうしてもどってきたのかわからないよ。偽物が許すはずないのにさ」

「偽物って、なによ?」と訊くと、コーキはしばらく黙っていたが、「ウタのために、本物はもどってきたんだね」

「野崎は叔母と言ったし、コーキもぼくのオバサンって呼んだよね」

「疑問に答えてやるよ」

 ネズミのように上へのぼって、横へ這った。ついたところは新館二階の院長室の真上だという。コーキの細い指がさししめす方向を見ると、段ボールで囲った場所があった。中をのぞくとビニールシートの上に絨毯が敷いてあり、一人用のミニテーブルには小さなテレビが置いてあった。スタンド型の照明器具もあり、そばには単身者用の小型冷蔵庫まである。秘密基地だと、彼は言った。無断で電気の線をひいて使っているらしい。幼い頃の日の夢を、彼はこういう形で実現したのだろう。頭に着けたフラッシュライトを外し、テレビのスイッチボタンを押したコーキは、ノイズとともに明るくなった色のない画面に鼻をうごめかした。

「観葉植物の中に盗撮用のカメラを仕掛けてんだ」

 彼はタバコを吸って、煙で輪をつくった。

「どうやって?」

「暴言を吐いて暴れると、院長がここで診察してくれるんだよ。すぐにいなくなるくせにさ」

 画面の半分を占領する白っぽいものが、白衣を着た立樹院長の背中だとわかるのに数秒かかった。よく見ると、背中のむこうに野崎隆行のひきつれた顔とやせた肩がチラチラ見える。そのすぐ後ろのソファには宇梶八千代、理事長、八嶋監察官の顔が並んでいる。コーキは、自分はコードレスのベッドホンを手にし、わたしにはワイヤレスイヤホンを投げてよこした。

 院長の声が最初に聞こえた。「イサカの死体は早急に処分しないと――おそらくコーキの仕業だろう。夜勤の和久井ナースが言うには、GPS機能を切っているので、二人の居場所は不明だそうだ。責任者は隆行、おまえだろ。山田に代わって、やりたいと言うから、おまえに警備を任せたんじゃないか。警報が鳴ってから、対処するまでの時間がかかりすぎる!」

 イサカを眠らせただけじゃないのかとたずねるが、コーキは返事をしない。「警備の者の不祥事まで責任転化されちゃ、かないませんよ。連中は光輝と詩子を見つけたくせに、取り逃がしてるんですよ」

 院長と野崎とはデスクをはさんで、言い争っている気配だ。

「どうして宇梶周平の端末機を、娘の詩子が所持しているんだ。取り上げたはずじゃなかったのか」

「石塚事務長に言ってください。徳永師長にも」

「徹底的に家捜ししたのか? 母親の行方は不明のままか?」 

「そちらのほうは手配ずみです」と野崎は答えた。

 院長はうなずくと立ち上がり、理事長にむかって頭をさげた。「まことに、申し訳ございません。このような不祥事を引き起こしましたことを深く、お詫び申し上げます」

「相手が子どもだから早晩、つかまるとは思っているんだがね。しかし、わしとしては、表ざたにしたくないんだよ。できるだけ、穏便にことをすませたい。光輝だけでも、和久井ナースを使っておびき出せないものかね」

 理事長のしゃがれた声に乱れはない。

「そうおっしゃられてもなにぶん、二人は親子として暮らしたことはほとんどありませんし……そもそも、先代の宇梶さんに頼まれて、わたしが父親だということになっていますが、この病院に引き取ったときから、父親らしいことはまったくしてやっていません」

 不快指数MAXと、コーキはつぶやいた。彼は知っていたようだ。自分が立樹院長の子どもでないと。知っていながら、認知してもらうことを望んでいた。

「管理人の血をひく男子は大事にせんと――と言っても、頭がおかしいようなら、いないほうがいいかもしれん。聞くところによると、自分を宇宙人だと言っているそうじゃないか。クリスチャンでもないのに神の子のネピリムだと言ったり、困ったもんだ。このさい用済みにするか? 組織を守るためには、悦子のことさえ見限ったのだからな」

 コーキは表情を変えなかった。煙のゆくえを目で追っている。

「例の場所はともかく、実験室と研究所はもう使いものにならんな」と言う理事長に院長の焦った声がかぶさる。「いますぐ修復にかかりたいと思っております」

「あそこまでにするのに、半世紀かかったんだ。一日や二日でどうにかなるもんでもないだろ。そろそろ潮時かもしれんな」

「理事長、いえ、おとうさん、何をおっしゃるのです。わたしは生涯をかけて、この研究に身をささげてきたんですよ。このくらいの事故で、あきらめるわけにはいきません」

 院長は横を向き、鼈甲のメガネのフレームをもちあげた。

「一人の人間の貯えた全知識をコンピュータに記憶させるという壮大な夢を実証することが、わたしの生涯の夢なのです」

 理事長のいる正面に向き直り、「個人の過去を検証し、そのうえで生きた脳細胞にコンピュータをつなぎ、連動させ、互いにただしく認識させる。その結果として、蓄積された記憶だけでなく、あらたに思考し、情報を処理分析するように脳の機能を活性化させたいのです。これは、極小のチップからなる集積回路でつくられたAIなどではありません。新人類なのです」

「わしは最初から、そんな研究は信じちゃいないし、必要だとも思っておらん。悦子は悦子で、妄想癖がつよくてヒューマノイドの研究費だと称して大金を使うし……そのせいで、日本各地に系列病院を建てるという、わたしの長年の夢を諦めざるを得なくなった。世界の中で、日本支部がもっとも貧しい」

 野崎が口をはさむ。「英気を養うのに必要なのは、金と少年ですか」

「隆行、口をつつしむんだ」院長が縁なしメガネの真ん中を押し上げた。「仮にも理事長にむかって、おまえは意見できる身分じゃない」

 理事長は画廊で見かけた日のように、なんども杖で床を叩いた。苛立ったときの仕草のようだ。あのときは、突然、現われた母にたいしてだったのだろう。理事長は若い頃の母を見知っていたはずだ。

 理事長はウッーウッーと唸り、「くだらない実験につぎこんだ金額を計算したことがあるのか。その金はいったい、どこから、どうやって得られたものなのか、わかって言っているのか。敗戦後、焼け野原になった日本をなんとしても復興させるという使命感がわれわれにはあった。海のものとも山のものともわからん新興企業に投資し、畳より安かった土地を買った。そのおかげで、金が金をうんだのだ。まあ、政府の肩入れもあったからだが……おまえたち親子には、わしらの味わった屈辱と苦労がわかっておらん」

「ぼくは全力で、理事長の要望にそってきました。まだ足りないとおっしゃられるのですか」と野崎が訴えると、院長は「おまえは口出しするな」と息子を黙らせた。

 コーキは退屈でたまらないという表情は見せると、ごろりと横になり、わたしの靴に踏まれた手に包帯を巻いたり、ほどいたり、巻き直したりしていた。「骨が折れたみたいだ」と言いながら。

 理事長の不快感は治まらない気配だ。「余命いくばくもない歳になっても、国を動かせる金に達しておらん。石油の一滴は血の一滴にひとしいと言われた時代となんらかわっておらん。いまのままでは世界を牛耳る大国の野望に早晩、飲みこまれるだろう。兆しはもう見えている。後継者となる人間には大局を見通せる胆力が、わしは欲しいのだ」

「お気持ちは重々、存じております」と院長は言った。「しかし、時代が変わりました。病院経営で、大金を稼ぐのは不可能です」

 理事長はつえの持ち手に両手とあごをのせた。

「この病院の年間における死亡者の数などタカが知れている。それも使いものにならない年寄りがほとんどだ。八嶋監察官の尊父が警察官僚だった関係で、身元不明の遺体の臓器を検視直後にもらいうけることができなければ、商売はなりたっていない。警察が押収した違法薬物についても同じことが言える。不純物の多い売り物にならんしろものと交換してもらわなくは、需要が供給に追いつかん」

「わたしは商売だと思っていません。薬物も臓器も警察の手元にあれば、焼却されるしかないものです。臓器にかぎって言えば、移植すれば助かる、会員とその家族のために手を汚しているのです。もちろん研究のためでもありますが」

 画面に映っていない人物が口をひらいた。女性の声だ。「八嶋警部は多大な危険をおかして協力してくださってます」

 コーキは欠伸をしながら、「この声の女が八嶋悦子の双子の妹だよ。死んだことになっている奏香の母親だ。若いころは音楽家の卵だった。立樹家の次女だった彼女はバイオリニストになる夢を捨てたとき、資産家の油布佑介に嫁いだ。会員でもあるしね。しかし、夫を嫌い、アルコール依存症で苦しむ姉の身代わりになることで、いまでは千久馬病院の後妻におさまってる。八嶋監察官の愛人でもある。こいつらは仲間うちで、くっついたり離れたりするんだ。反吐が出るよ」

 彼女の現在の名は、千久馬瞳だという。

「警察上層部の了承を得ないことには、わたしの一存ではできない案件です」と八嶋監察官が言った。「実は、限界なんですよ」

「八嶋くんの祖父であった少尉の英断がなければ、わしは町医者でおわっただろう。米国に留学するなど考えもしなかった。おまえにしてもそうだ。医者になれたかどうか……」

「このさい、立樹院長には〝管理人〟の職を辞していただきたい」と八嶋監察官は言った。「きみと、死んだ悦子はくだらないことに金を注ぎこみすぎた。できるだけの便宜を、はかってきたつもりでいるが、このままでは組織の存続にさえ危うくなりかねない。このたび、わたしが宇梶くんにかわって〝主権者〟に就任した以上、今後、病院運営に関して口出しさせてもらいます。とにかく、研究にかかる費用は、自費でまかなっていただきたい」

「この病院の建物も土地も理事長のものなんだ。なんで、あんたにあれこれ指図されなくちゃなんないんだよ。黙って引き下がるのは、あんたのほうだろ。二度とこの病院に足を踏み入れるな!」

 野崎は反駁したが、八嶋監察官は威嚇した。

「いいかげんに現実を見ろッ。ここの土地も建物も組織の経営する法人の所有になっている。むろん、病院から得られる利益もだ」

「オヤジ!! ほんとうなのかッ!?」

「改革は財政にとどまらないと、肝に命じてもらいたい」

 八嶋監察官は、これで失礼しますと周囲に声をかけ、画面から消えた。

 院長は肩をおとし、「警察官である間は〝主権者〟にならないと、自ら宣言しておきながら、いまになって……」

「弥生は、どうなっている?」理事長は話をそらした。

「処置が早かったので、もちなおしそうですよ」宇梶八千代が重い口をひらいた。「なぜ、悦子さんを死なせたのです……」

 コーキは耳打ちした。「ウタの婆ちゃんだよ。会ったことないだろ」

「あんたの義理のおかあさんでもあるんだよ。わたしにとって、あんたは、同い年のおじさんになるのよねぇ」

「ぞぞぞぉ」

 立樹院長は嘆息し、「悦子には、どのような数式も解析が可能でした。宇梶くんは悦子のために奔走してくれた。二人を制裁するという理事長の決定にわたしは最後まで反対でした」院長は椅子に腰をおろした。「しかし、まさか、研究資金をハッキングするとは……いつ、わたしの端末機を盗んだのか……。しかたなく、わたしが、自らの手で制裁したのです」

 端末機って何? と小声でコーキに訊く。特殊な携帯のことだと教えてくれた。「研究室のコンピュータとだけじゃないんだ。ありとあらゆるものと連動しているんだ」

「なんで、なくした日時もわからないんだよ」と野崎。

「わたしは忙しいんだ。毎日、端末機の点検なんぞできない」 

 理事長は息子と孫の口論をさえぎるように、「これを教訓として身の回りの警戒を怠らないことだ。八嶋監察官のように慎重かつ大胆に事をすすめるんだ。いいな」

 立樹院長は両手で机を叩くと立ち上がり、理事長にむかって怒鳴った。「黙れ、俗物! 金を盗みとられたのは理事長、あんたのせいだ! あんたへの怒りが、悦子を狂わせたんだ」

「そんなバカなことが、どうして言えるのかね。おまえは昔とちぃとも変わっておらん。自分の思い通りにならんと癇癪をおこすんだ。こんなことでは、八嶋くんの後継者に指名されんな」

「あんたが、二年前に悦子おばさんを処理しなかったからだよ」野崎が院長にかわって答えた。「オヤジが手を汚すことになったんだ。医者のオヤジはそれだけはやらなかった」

 院長は息子の頬を張った。「黙ってろ、なんど言えばわかる。理事長が、おのれの私利私欲のために悦子を――実の娘を利用したせいで、彼女はアルコールに溺れるようになったんだ。惜しんで余りある頭脳を、あんたは廃棄しろと命じた。わたしはあんたのように人任せにできなかった。わたしが手をくだした証拠の動画もありますよ。お見せしましょうか」

 老人の咳払いをした。「悦子はわれわれを破滅させようとした。おまえもそれをわかっていたから、最終的に同意したんじゃないのか」

「今回の事故はすべて、わたしどもの責任としていただいてけっこうです。管理人の職は辞します。会員でなくともけっこう。しかし、これまで通り、研究は継続させてもらいます」

 理事長は院長にむかって杖を投げつけた。「断じて許さん! まだわからんのかッ。そんな余裕はもうないんだ。何度、言えばわかるんだ。上の者の判断が誤れば、組織は存続できん。それは国もおなじだ」

「わかってください」院長は大きく肩を上下しながら、「意識とは脳の発するパルスなのです。きわめて短時間に流れる電流だと考えられています。わたしと宇梶周平が所有していた携帯は、粒子加速装置の一種で、パルスを数式に変化させ言語化できるよう設計されています。地下への出入りのさいに使われている、会員用の携帯と異なり、コンピュータと繋がり、意識を限界まで高めることも、消去させることも可能なのです。現在は実験段階なので、その性能がどう作用するかまでは明確にはわかっていません。危険をともなう実験だということわかっていました。ですから、開発者のわたしと、医学と科学に知識のある彼の二人だけが実験的に所有したのです。その彼をも、八嶋監察官は自殺へおいこんだ」

 由衣のスマホと父の携帯は連動しているのだ。

「商業化できそうな段階まできているのかね?」

 理事長の問いかけに院長の頭はわずかに動いた。

「成功すれば世界中の科学者をあっと言わせられます。選ばれた人間のみが永遠に思考することが可能になるのですから」

「使い方によってはありふれた人間の頭の中が、神か悪魔か、わからんものにかわるということかね?」

「神や悪魔という存在は、われわれ有限体の世界にはありえません。在りもしない死者の世界と同様に戯言にすぎません。意志のもっとも向上した有限体が、死者となる前に、無限体としたいのです。悦子はそれを遺伝子レベルで行なおうとした。わたしと悦子の研究は表裏一体でした。生身の人間を不死にするか、人間の意識のみを機械化することで不死となるかの違いでした」

「おまえのいう無限体とは、金属生命体のことかね?」

「精神世界にも現実世界にも存在しうる者のことです」

「つまり、そのう……もう一度、若い頃のように人生を愉しめるのか? ナニが可能になるのかね?」

 院長は押し黙った。話したことを悔やんでいる様子だ。研究の内容が正しくつたわらなかったことを後悔しているのではない。無知な人間に語った時間を惜しんでいる様子が溜息から知れた。

「無限体になれば奏香は治るの? ねぇ、お兄さま、どうなのよ」千久馬瞳の声は苛立っていた。「お姉さまの勝手な研究のせいで、脳に人工細胞株を植え付けられた奏香は人生を台無しにされたのよ」

 四人だけではなかったのか……。

「弥生は気の毒に、意識のない状態になってしまったじゃないの。隆行は後継者の器ではないし、詩子という子にいたっては、どうにもならないバカだって話じゃないの。この研究が、一族の繁栄のためだと言えるの。さんざんな結果よね」

「みなで話し合って決めたことなんですから、すんだことを蒸し返しても何もかわりませんよ」宇梶八千代が宥めた。「息子の心変わりのせいで、みなさんにご迷惑をおかけしたことはほんとうに申し訳なく思っています。親が言うのもなんですが、あの子は優秀でした。こちらでずっと働かせていただくものだとばかり、思っていました。管理人のつとめで、贖罪の儀式のために育てた子どもを、おわたしすべきでしたのに……。納得していたはずですのに」

「脳の仕組みは神秘なんです。感情が理性を凌駕するのです」と院長が言った。

「すんだことはどうでもいいわ。お兄さま、奏香をなんとかしてちょうだい。わたしはあの子の顔を見るのさえつらいのよ」

「奏香の妄想癖は遺伝的な要素がつよく、根深いものだ。いまの状態を、遺伝子組み替え手術のせいだとばかり言えないんだ」 

「なにもかも、お兄さまとお姉さまのせいよ」

「だからといって、死んだことにして姿を消すことはなかっただろ。クスリ漬けのおまえに、母性愛があるとは思えんね」 

 ドアのあく音がし、徳永師長が画面に映った。油布奏香の脈が弱くなっていると伝えた。千久馬瞳はわざとらしい悲鳴をあげた。

「あの子を死なせないでッ。なんとかしてよ。奏香をもとにもどしてよ。いなくなった詩子なんて、どうでもいいじゃないの」

「これで、金のゆくえも、携帯の行方も、詩子しか知らないことになるな」と野崎が言った。「オヤジ、おれたちは手を引こうよ。よけいなことに首をつっこまないでも、組織を束ねていけるさ。汚れ仕事は八嶋監察官におまかせすりゃいいんだよ。裏切れば、宇梶周平のときのように痛めつければいいのさ。運悪く死んじゃったけどさ」

 そのとき、わたしの隣にいるコーキが何を思ったのか、「ウタの頭を見せてよ。ほら、ぼくが怪我させたところだよ」

 もしゃもしゃ頭の髪を二分割して見せると、「ぼくの手より、ひどいね。深い筋目が入ってる。そこから腐るかもしれない。そしたら無限体になれないね」

「すぐに治るって。なんたって、つむじが二つもあるトランスヒューマノイドなんだから最強だよ。治らなかったら、ここンとこを分け目にしてもいいし」と言って頭を指差した。「治らないほうがうれしいんでしょ?」

「どうかな……ウタがおかしくなったら、代わってやるよ」

「またまたぁ」と気のぬけた返事をした。「やさしいんだね」

「恨んでないよね、ぼくのこと。無限体予備軍のウタに嫌われたくないからさ」

「恨むはずないじゃん。おじさんと姪なのにさ」

 入院した日、母について診察室に入ったが、母は遠い存在だった。もし、コーキが話しかけてくれなかったら、どんなに心ぼそかっただろう。だれかにたのまれた結果にしろ、わたしには励ましになった。いまから思うと、あの日を境にわたしの思考は少しずつ目覚めたのだ。コーキの話が作り話でなければわたしは、千久馬病院に入院する以前に彼と出会っていたことになる。そのときの記憶はまったくない。記憶で鮮明にあるのは、母との殴りあい、コーキとの出会い、八嶋悦子との遭遇、コーキや隆行とのバトルで脳天に怪我を負ったこと、そして祖母の家への帰還、由衣の眠る病室――すべてこの病院を訪れた日とそれにつづく日々だ。

「逃げようよ、いまからでも遅くないよ」 

 と言うと、

「みんなが、ぼくらのことを忘れかけた頃に、逃げればいいじゃん」

 コーキが気弱な笑顔を見せたそのとき、院長の机上の電話が緊急を告げた。ここにいることがバレたのか? 電話をうけた院長室の様子があわただしくなった。白天使が院長室に駈けこんできた。コーキの顔色が変わった。ずらしていたヘッドホンをもとにもどし、白天使をじっと見ている。彼女は院長に異変を伝えている。

 院長の気落ちした声が聞こえた。「とうとうか」

 千久馬瞳の首がのび、顔が画面に現われた。院長に、奏香のことでまくしたてている。たしかに、八嶋悦子と瓜二つだった。双子のようだった。

「……奏香の脳には、気質性因子が存在している」

「どういうことなのよ」千久馬瞳は院長の白衣の衿をつかんだ。

「簡単に言えば、脳の萎縮が進行しているということだ。弥生は細胞をいじった直後に意識をうしなった。悦子の手がけた子どもたちはみな、早い遅いはあっても、同じ結果になるだろう」

 院長室のいた者たちは全員、画面上から消えた。

    29  気質性因子

  奏香のいる病室をのぞきたいと、コーキにたのんだ。彼は二つ返事で引き受けてくれた。新館の集中治療室に奏香は運びこまれていた。カメラが設置されていないので、通気孔から眺めるしかない。それでは何も見えないのにひとしい。専門家でもないし、容態を知りようもない。心配しているだけで朝になった。外来患者が訪れる時間になると、院長も徳永師長も集中治療室からいなくなり、若い医師とナースが残った気配だ。

 コーキのスマホが鳴った。二言三言、話していたが、すぐにきれた。「マジにクソ気分になるよ」

「電話はママからなの?」

「どうしてここがバレたんだよ。いつから知ってたんだよ」

 足音がした。ふりむくと、排水管のパイプをまたいで、白天使がたたずんでいた。暗がりの中に立つ彼女は宙に浮き上がって見えた。コーキは白天使のそばに行くと、崩れるようにひざまづいた。

「ぼくは、Xくんのように、上手に自分を表現できない。だからウタを殺せない。ママ、ごめんなさい。ウタのもってた携帯は逃げるときに壊れてしまったし……ぼくは、ほんとうに役たたずだ」

 白天使は短い小指の手をのばし、コーキのいびつな耳にふれた。父が制裁される動画に写っていた白い手だ。短い小指の手がカメラの前を横切っていた。そして、父の撮った動画をはじめて見たとき、由衣は父を見ていると思った。高槻のネットカフェで見なおしたとき、気づいた。由衣が見つめていたのは、白天使だった。二人が似ていることに、それまで気づかなかった。由衣は母親がだれなのか、本能的に知ったのか、父から聞いたのか、わからない。

「この指のせいで、ずいぶんつらい思いをしたわ」白天使は小指を見つめて言った。「わたしの義理の父親は、子どもを殴ることでウサ晴らしをするような人だったの。指先の欠損は父親のせいなのよ」

「地下の特別室に閉じこめられたとき、わたしを殺しに和久井さんがくるものと思っていました」

 どうして、こんな大胆な発言ができるのか自分でもわからない。もしかすると、言葉で自分の意志を伝えられるようになったからかもしれない。

「わかっていたのね」

 うなずくと、〝贖罪の儀式〟の盗撮をしたのも自分だと彼女は告げた。

「この子は地下トンネルに行っても、いつも見ているだけでなのよ。殺される人が、かわいそうでたまらないみたいで……」

 彼女は聖母のように美しい。

「邪魔な人をこっそり殺すことが、わたしの自己表現なの。みんなの見ている前で殺すなんて下品よ。相手が山田であっても、人前で傷つけられない。どうしても避けられないときは刺すふりをして、患者さんから採取した血液を流してたわ」

 白天使はそう言ってコーキの隣にすわった。

「ママ……。ぼくがレプにお願いしたから、みんなは死んだんだよ。ママはなんにもしてないよ。それって、勘違いだよ」

「ほんの子どもの頃に、詩子ちゃんのおじいさまと出会って、彼の子どもをみごもって……それがコーキよ」

 白天使は、自分の母親がコーキの実母とは言わなかった。

「ナースになって、日を追うごとに自分じゃない自分がつよくなってしまったの。由衣は、院長との間にできた子どもよ。院長は認めないけど、事実よ。組織の命令だったけれど、周平さんは黙って引き取ってくれたわ。わたしは周平さんが好きだった。だから三人でときどき会ったわ。由衣ははじめて会ったときから、わたしが母親だとわかったみたい」

 父が、由衣を愛したのは、由衣が白天使と似ていたからだ。

「ママ、ママ、お願いだから、もう何も話さないで。ぼくらは自分の意志で何もしてないんだ。悪いのは院長なんだ、隆行なんだ」

「どこかに二人で逃げられるんだって、ずっと考えていたわ。でも、彼らに利用されてるだけだった。それでもいいと思っていたわ。コーキが、少しでも、いい環境で暮らせるんだったら……」

「ぼくはここが好きだよ。一生、ここでママと暮らして満足だよ。ママ、ママ、ぼくだけのママ……」

 コーキは白天使の胸に顔を埋めた。

「わたしたちは地獄に堕ちてしまったのよ。だから、もう、どこにも逃げられないの。どんなに遠くへ逃げても、自分のしたことは消せないもの」

 八嶋悦子は言った。一度、受けた傷は癒えない。一度、犯した罪は許されないと。

「けっして、だれにも言いません。誓ってもいいです。だから、いっしょに行きましょう。お金だって充分にあるんですから」

 白天使はかすかに笑った。「そうね、ここから出て行かないと、自分の創り出した恐ろしい物語からぬけだせないものね」

「ぬけだせるって、何度も言って、自分に暗示をかければいいんです」

 白天使はコーキの頭を抱きしめた。

「病院の寮に行って、ママの荷物をとってきてちょうだい。必要最小限でいいわ。この時間だと夜勤のナースが残っているから、見つからないように気をつけて行きなさい」

「勝手に行かないでよ。さっきみたいに、途中で、計画を変更したりしたら承知しないんだからね」

「子どもをおいて母親が先に行けるわけないでしょ。変更したんじゃないわ。警備員の様子を見てたのよ」

「ママがぼくとの約束をやぶるはずないもんね」

 コーキがいなくなると、白天使はわたしの手を握りしめた。

「あの子は、母が世間体をはばかったせいで、生まれてひと月もしないうちに養護施設のお世話になったのよ。あの子は身体も小さかったし、気性もやさしい子だったから、どうしてもいじめられてしまうの。とてもつらかったと思うわ。気づくと、Xくんの虜になっていた。あの事件のあった後に生まれた子どもたちで、少年Xに興味をもたなかった子なんていなかったんじゃないかしら。狂気の亡霊にとりつかれたようなものだったわ」

「施設で育ったんですか……」

「こんな話どうでもいいわね。あなたのおかあさんのことを話すべきよね。彼女は強いひとよ。実はわたし、院長とも隆行さんとも男女の関係にあったのよ。いまもそう。彼女は、そのことを嗅ぎつけて、宇梶八千代さんからお金を引き出すよう協力を求められたわ」彼女は遠くを見つめた。「八嶋悦子もそう、コーキに隆行さんとの関係をバラされたくなかったら言う通りにしろと脅してきたわ。院長の携帯を盗み出させたのよ。院長は、端末機と呼ばれる携帯を私用に使っていないので盗まれたことにしばらく気づかなかった。発覚したあとも、八嶋悦子に盗まれたと言ってくださったのよ。うすうすわたしが盗んだとわかっていたと思うのに……わたしのために八嶋悦子を殺してくださった」

 白天使はわたしの手を離し、上体を前後にゆすった。

「彼女ったら、タワーマンションを差し出せって言ったのよ。彼女にとっては当然のことだったようだけど、わたしはいやだった。あれは周平さんがわたしのために買ってくれたものよ。身体の関係なんて、なかったのに」

「八嶋悦子がいなくなってすぐに、なぜ逃げなかったんです」

「さぁ、自分でもわからないの。儀式が見られなくなるのが、さびしかったかもしれないわね。周平さんが飛び降りたときは悲しかったけれど、とても興奮したわ」

「父は、それでも、あなたを想っていたと思います。欲求を満たす相手は、子どもたちだったけれど、でも、それは父にとって理性で制御できない衝動だった。父は両親を嫌いながら、結局は組織に利用される結果になってしまったことを悔いていたと思います」

「詩子ちゃんがどう思っているのか、よくわかるわ。わかっているのよ。お金なんてどうでもいいって。でも、だめなの。いったん、自分のものにしたお金はお金じゃなくなるのよ。自分の身体の一部になってしまうの。だからほんの少しも譲れないの。増やすことだけが生きがいになるの。何をしてでもね。山田とも寝たわ。死人の荷物を集めてこさせるためにね」

 この人が、院長や野崎と別れて、わたしやコーキとこの病院を去ることができるのかどうか――。

「介護士見習いの女の子をどうして助けてあげなかったんですか。彼女、病院をやめるつもりだったんですよ」

「あの子のこと、ずいぶん、可愛がったわ。でも結局、秘密を知ると、お金をくれって言ってきたわ。みんな、おんなじなのよ」

「桜庭を殺したのは、秘密を知られたからじゃないですよね? 野崎を独占したかったからなんでしょ? 母も、あの男に夢中でした。どこがいいのか、わたしにはわからない」

 彼女は微笑むと、「詩子ちゃんのおかあさんは、わたしには考えられないくらい、自分を偽れる人だった」

「わたしにはわかるんです。母が迷った末に、野崎を選び、わたしを捨てたことを――母は、あの日、野崎に命じられた何者かに追われて、祖母の家の近くまで逃げた。でも、裏切られた。もしかすると、あなたが、追いかけた……」

「そうよ。彼の危うさに、惹かれる女性は少なくないもの。ああ見えてやさしいところもあるのよ。詩子ちゃんのおばあさまだって、彼の言いなりなんだから」

「母はどうなったんですか? 何を言われてもびっくりしませんから教えてください」

 白天使はあいまいな表情を見せると、夜までに仕事をすませてくると言っていなくなった。入れ代わりにコーキがもどってきた。いつもの服装だった。おしゃれなボーダーTシャツにジーンズ。手ぶらに近い。わたしのキャッシュカードを差し出した。「ウタに預けるよ。暗証番号は忘れてないよね?」

「三人で暮らせると思うと、すごーくたのしみ。こーゆーの、期待で胸がふくらむってゆーんだよね」コーキに重荷に感じさせないように、注意深く言ったつもりだった。

「もしかすると、ぼくは大人になれないかもしれない」

「ランボーは書かなくなってからも、自分の足で歩いて生きたから分身の作品が、後世に残ったんだよ。わたしは、そう思っている。ランボーは生き方を作品にしたんだって――だからコーキも」

 わたしは、コーキといっしょにここを出ていきたかった。はじめての人間の友達だったからかもしれない。

 コーキはジーンズのポケットからスマホを取り出した。ニンジン色に見覚えがあった。母のものだ。

「どうしたのよ、これ!」

「拾ったんだ」

「どこで」

「とある場所で……」

 答えにならない答えは正しいなのだろう。コーキはうつむくと、母の首を絞めたときに盗んだと言った。殺す寸前のところで、手をゆるめるのがむずかしいのだとも。手を止めたということは、母は生きているということらしい。

「いつか、わたしの脳も萎縮するのかな? コーキはおじさんなんだから、面倒みてよね」

「ぼくはさ、生まれることは選択できないけど、死ぬことは自分に権利があるって思ってるんだ」

    30 突然変異遺伝 

 「起きろよ、ウタ」

 いつのまに眠ったのだろう。外来患者のくる時間を待って脱出しようと話していた。途中で猛烈に眠くなった。白天使がおいていった、おにぎりは警戒して食べなかった。ペットボトルの水さえ飲まなかった。どうして……。まさか、コーキが無痛の針の注射器を使って……。

 目を見開くと、「ぼくやママには、隙間があってるんだよ。だからさ、いっしょに行けないよ」 

 わたしだって、長い間、隙間で生きてきた。家族のいる内側にも、学校のある外側にも居場所はなかった。自分の部屋だけが生きる場所で、本と音楽が心の支えだった。そんなわたしに母は、蚊がさしたくらいのことで傷ついたふりを見せるなとよく言った。自分の子どもの頃に比べて、至れり尽くせりの暮らしなのになんの不満があって、家に引きこもっているのか、わけがわからないとも。わたしを怯えさせることで助けようとしていたなんて、微塵も思わなかった。

「じゃぁな」コーキは、行きかけて、きびすを返した。「ダンテの先生、ヴィルギリウスは煉獄を案内しながらゆーんだ。『わたしたちには羽根がない。どうすれば良いか。やはり飛んでみるしか道はない。できるということを当たり前のように信じて……』」その声は涙をふくんでいた。

「コーキと出会う前に緑の羽根の少年の夢を見たんだよ。その少年は、ぬけだせるぬけだせるぬけだせるって何度も言うんだよ」

「その話、嘘だろ。ウタの目がキラキラすると、ウソ臭く聞こえるんだ」

「ごめん。少年じゃなくて、少女だった。妹の由衣は死のうとしたとき、わたしにメモを残したの。『モモ』という本に出てくる、亀のカシオペイアになるって。でね、偶然なんだけど、由衣のことをすっかり忘れてるときに夢を見たんだよ。緑の羽根をもった少女の夢を――少女は弥生ちゃんだった」

 物音で話を中断した。真下にいる奏香の周辺があわただしい。急いで通気孔をのぞいた。

「自力で呼吸していますし、心搏数も血圧も正常値です」

 白天使の声だ。院長が徳永師長に何事かささやいた。

「ナニ、言ってるんだ! 一向に目を覚まさないじゃないか」

 奏香のおとうさん、油布佑介の怒鳴り声がはっきり聞こえた。

 わたしは立ち上がった。

「なんだよ?」コーキが訝しむ。

「ちょっと見に行ってくる。ここからじゃ、よくわからない」

「見つかったら、よくて保護室。じゃなきゃ研究所行きになるよ。ウタは院長にとって手放せない、生きた手駒の一つなんだから」

「わかってるよ。理事長は立樹家の地位を不動にするために、『ヤソウタ』にちなんで、自分に近い管理人から誕生した子どもに『タウソナ』の順で名前をつけた。隆行、詩子、奏香、弥生。コーキとコーキのママが望む聖名ってこのことよね。『ウ』ではじまる名前が欲しかった。でも、わたしのほうがほんの少しコーキより早く産まれた。八嶋悦子は父親への反抗心から、四人の子どもの他に三人の子どもの頭に手を加えた。野崎と、奏香と……」

「ぼくだね。知ってたよ。自分のことだもの」

  集中治療室に許可なく入って行くと、奏香のベッドの周りを囲んでいた両親と白天使がいっせいに振り向いた。

 院長や徳永師長ではなく、油布佑介がさいしょに声を荒げた。

「これを見ろ。おまえが奏香をこんなにしたんだ」

 油布はこめかみを青くしていた。

「師長、とくにあんたには、くれぐれもたのむと言っておいたはずだ。それが、このざまはなんだッ」

 徳永師長は平身低頭した。「一度、持ちなおしたのですが、先にいらしたおかあさんが、何か言ったとたん、また昏睡状態にもどってしまわれて……申し訳ございません」

「入院したときからそうだ。看護がなってないんだ。どうして、個室から大部屋へ移したんだ」

 そのとき、ヨシエさんが、「本人が希望したのよ。画廊で見かけた詩子ちゃんといっしょの部屋にいたいと言って――」

「ヨシエ、おまえは口出しするなッ! 自分の子どもじゃないんだ」

 奏香の枕元に歩みよると、白天使が、人工呼吸器を外した奏香に声をかけた。「詩子ちゃんよ。わかる?」

 奏香は目を閉じていた。ながいまつげが目の下に影をつくっていた。

「ほら、ここに、いるのよ」白天使は奏香の耳元でささやいた。

 わたしは黙って、細くて折れそうな指の手をとる。冷たくて乾いている。黒い髪に触れても奏香は頭をもたげない。でも口元には、微笑が浮かんでいるように見える。

「奏香、詩子よ。聞こえてるんでしょ?」

 まつげが動いた。

「わたし、いくらでも話せるのよ。びっくりしない? 聞こえているんだったらうなずいてよ。話したいことがたくさんあるからさ」

「うだうだ言ってないでなんとかしろッ」と油布は叫ぶ。「わたしとこの子は、いますぐにもサンパウロへ行かなきゃいけないんだッ」

「退院は無理です。おわかりでしょ? おとうさんにも責任はあるのですよ」と徳永師長が言った。

「どういう意味だ!」油布は表情を変えた。

 うしろに下がっていた院長が前にすすみ出た。「まだ気づきませんか? あなたの娘さんへの親密な愛情が問題なのですよ」

 わたしはそのあとにつづく言葉が想像できた。奏香とおとうさんの親密な愛情――それが何を意味しているのか、あの家に泊まった日からわかっていた。ヨシエさんがブルブル震えだした。立っていられないのか、白天使の腕に抱きついた。院長はヨシエさんに向き直った。

「あなたも知ってましたね」

「わたし、わたし……」

「つらかったでしょう?」

 油布は頭を抱えてその場にすわりこんだ。

「それで――?」と、わたしは、ヨシエさんに訊いた。

「何もかも知っていると言ってしまったの。そしたら奏香ちゃんは、頭をベッドのふちにぶつけて死のうとしたの……」

 ヨシエさんは言葉につまると、油布の背中に話しかけた。「結婚してすぐに二人のことは気づいたけれど、知らないふりを通したわ。家族が欲しかったからよ。サンパウロへの転勤がきまったとき、うれしかった。奏香ちゃんは海外に行きたくないと言ったので、あなたたちの関係も終わると思ったのよ。でも、あなたは言った。おまえが日本に残れって、畑でも耕してろって」

「うるさいッ、黙れ」しゃがみこんでいた油布が立ち上がり、ふりむきざまにヨシエさんを突き倒した。ヨシエさんは倒れても、やめなかった。「羨ましかったの、二人が。だから、奏香ちゃんが死ねばいいとずっと思っていたわ。毒をもってやりたいと本気で思っていた。あんな山奥に住んだのもトリカブトを捜すためだった。奏香ちゃんはわたしの本心を見抜いてたわ」

 油布は、起き上がろうとするヨシエさんの顔を靴で蹴った。徳永師長が割って入った。油布は徳永の腕をふりほどき、「おまえのような女は、警察に突き出してやる」と息巻いた。

「好きにすればいいわ。そこで、あなたたちのことも話します」

 院長は白天使に、「奥さんを別室で休ませなさい」と命じた。

 徳永師長と白天使は、興奮状態のヨシエさんを抱きかかえるようにして出ていった。

「油布さん、もうおわかりですよね。すべてあなたの身勝手な欲望のせいです」

「恥をかかせやがって。のぼせあがるなよ。今後、どうなるかわかってるのか? おれの義理の父親は、この病院の理事長だ。あんたには実の父親かもしれないが、次の理事長におまえは選ばれない。第一、おまえが人に説教できる手合いの人間だと思ってるのか。おまえは子どもにこそ手を出さないが、使える女と見れば、孕ませてるじゃないか」

「理事長には、お宅のご事情をお話しましたところ、たいへん落胆されて、お帰りになられました」

「殺してやるッ」油布は院長の白衣につかみかかった。

「今夜、あなたをここに呼んだのは、あなたの犠牲となった二人の女性に会ってもらうためだったのです。このことがおおやけになれば理事長だけでなく、あなた自身と縁者の方々にまで類がおよぶでしょう。わたしを殺しても、問題は解決しませんよ。お嬢さんには、さらなる治療が必要のようですので、他のフロアに移ってもらいます。理事長もそれを望んでおられます」

「理事長がなんと言おうと、おれは、おまえらの言いなりにならんぞ。こんな病院、つぶしてやるッ。おれの一族にもそのくらいの力はある」

 油布は集中治療室を飛び出していった。院長は油布の言動など歯牙にもかけていない目つきで奏香を診察した。彼女はよほど深く眠っているのか、院長が痩せた胸に聴診器を当ててもまったく反応しなかった。大丈夫だと言った言葉は嘘だったのか?

「突然変異遺伝だとか、わけのわからないことを言って研究所に送るつもりなんでしょ? それで、植物人間にする気なのか!」

 院長はわたしを見た。

 次の瞬間、意識が飛んだ。目の前の映像が乱れた。白天使の顔がわたしを見つめながら、「気持ちを落ち着けてね」とささやいた。時間が巻き戻される感覚におそわれた。

  気づくと、わたしは院長の前で、ギャアギャアとわめき散らしていた。

「きみは何を言ってるのかね? 研究所などうちの病院にはない。この病院では、人工栄養を胃袋に注入して生き永らえさせる胃瘻の治療はしていない。養護老人ホームと勘違いしてもらっては困るね。ここはあくまで、精神に異常をきたした人たちと子どもたちに一日も早く、社会復帰してもらうためにある医療施設なのだよ。彼女もまもなく目覚めるはずだ。重い人生だが、彼女は与えられた環境の中で精一杯生きるしかない。今回、本人の希望で、高齢者がほとんどの個室から、ほとんどが子どもたちの四人部屋に代わってもらったが、やはり、ムリだったようだ。もう一度、はじめから治療に専念することになる」

「もう一度?」

「社会復帰できるまでなんどでも、だ。むろん、きみもだ」

 院長はメガネの奥の釣り目でわたしを見すえた。

「もし、わたしがここから逃げ出したら、地下の保護室か、研究室に送られるってことよね」

「だれから、そんなバカなことを――」

「コーキからよ。わたしの祖父と和久井ナースの母親の間に生まれた男の子からよ」

「残念ながら、コーキという名の少年も患者の中にいない。きみの妄想癖も治癒がむずかしいようだね」

「……ウソつきッ」

「きみは外泊許可がおりて帰宅したんだよ。おかあさんのもとにね。それが、一週間ほどで再入院し、数日たつかたたないかで丸一日、病室からいなくなったんだ。どこにいたんだね? 山田くんも担当の桜庭先生もずいぶん、心配してそこら中、捜しまわっていたよ。警察に通報するところだったんだよ」

「山田と桜庭は死んだはずよ。わたしは、コーキと二人で旧館と新館の隙間にいたのよ」

「山田くんも桜庭先生もピンピンしているよ。なんなら、ここに呼んであげようか。それに出入りの自由な隙間など、当病院にはない」

「現に、わたしはいたんだからッ。そこから、あんたが理事長と言い争いをするのを見たのよ」

「では、聞くが、きみはその間、何か食べたかね? トイレに行ったかね? クスリを拒否して服もうとしないから、どんどん妄想がひどくなるんだよ。突然変異遺伝の特徴的な症状なんだ」院長は眼鏡の真ん中を押し上げながら、「だれか、桜庭先生でも、山田くんでも、どちらでもいい。ここへ来るように伝えてくれ」

 十分もたたないうちに山田が現われた。たしかに浅右衛門だった。わたしは悲鳴をあげた。山田介護士は地下トンネルで殺されたのではないのか? 頬が痙攣し、足が勝手に動き、その場でぐるぐる回った。記憶にある映像が反転する。時間が逆行する。

 意識が失われていく。

     31 失われた時間

  押し殺した男性の声が聞こえた。

 目を開けると、院長がいた。眼鏡のレンズがまばゆい。

「端末機はどこだ」

「覚えていない」

 院長は細い眉をしかめ、「嘘はよくないね」と言ったかと思うと、手の中のニンジン色のスマホを床に叩きつけた。「これじゃないんだ。こんなもの、なんの役にも立たん。詩子が身につけていた黒い携帯も本物じゃない。ダミーだった」

「ぼくが、苦労して見つけたんですよ。それを……」

「この能なしめがッ」

 どこかで耳にしたののしり言葉だ。保護室に閉じこめられているときに、野崎が父親からうけた仕打ちを話した。そのとき、たしかに聞いた。

「もうガキじゃないんだ。ぼくが能なしなら、携帯を盗まれたあんたはなんなんだよ」

 目玉を動かす。何本もの管が、わたしを取り囲むようにぶらさがっている。

 院長の声がかぶさってくる。「端末機を渡さないと、幻覚は終わらないんだ」

「オカンはどこ? 教えて……」

「おまえの母親は今頃、異界の人間になっている。けっして出られない場所だ。理事長も隆行も手出しできんところだ」

「わたしも、行きたい」

「できない相談だ。おまえはいま、実験体なんだからな」

「実験体……? ここは……研究室」

「そうだ」

「もう、わたしは、人間じゃない」

「端末機を返せッ。金もだ。もし、返さないなら、おまえは実験体のまま、たった一人で闇の世界をさまようことになる。無限体になることは幸運なことなのだ。適性があれば、コンピュータと接続され、意識体となって再生できるのだからな。しかし、いまからおまえが行く世界はちがう。無限体となる選ばれた人間のために臓器を提供するんだ。だから、すぐには死ねない。腎臓、肝臓、血液、網膜、皮膚……少しづつ失われていくんだ」

「八嶋悦子はどこ……? ユーイは……」

「邪魔をしたおまえには残念だろうが、弥生は再生したよ。由衣の腎臓をもらってな。弥生はあと少しで、次元の異なる世界を行き来できるようになる。おまえの心配する由衣は焼却炉行きになった。科学の研究に多大な貢献をしたことになる」

 院長が耳元でささやいた。

「悦子は、アルコール中毒だったせいで、肝機能が落ちていたが、無限体になれたよ」

「待てよ」野崎の尖った声が神経に突き刺さった。「オヤジはこの病院の院長だが、詩子に関しては、行き先はおれがきめる」

「今回のことで、おまえの能力では、手に余ると判断した」

「ケリはぼくがつけるよ、かならず」

「端末機だ、端末機がいるんだ。あれがなきゃ、わたしは……〝主権者〟になれん。端末機さえあれば八嶋監察官を追い落とせる」

 駄々っ子のように同じ言葉を、院長は繰り返した。

 コーキが目の端に飛びこんできた。

「コーキ、いきなり、どうしたの」白天使が立ちふさがった。「ここには近寄ってはいけないって、なんども言ったはずよ」

 コーキは、院長と並んで立っている野崎隆行の前に来ると、ハグをするときのような仕草を見せて近寄った。野崎は戸惑いの表情を見せたが、コーキの肩を抱こうとしたが、野崎は胸を押さえると、前かがみになり崩れるように倒れた。何が起きたのか一瞬わからなかった。コーキの手には、サバイバルナイフが握られていた。

 白天使は、仰向けに倒れた野崎にすがって悲鳴のような声を放って泣きわめいた。「隆行さん、隆行さん、死なないでッ」

 院長は、ナイフを蹴飛ばすと、野崎の胸に手を当てた。「こいつは神経質だからなァ。刺されたと思いこむと、ショック死しかねん。安心しなさい。出血はしていない。人騒がせなやつだ」

 コーキは言った。「何もかも、あんたたちのためにやったのに、ママはあんたたちのために……。ねぇ、ぼくやママを無視しないでよ。ぼくらは生きている人間なんだ」

 院長は宥めるように言った。「コーキ、ここにいるのが、不満なのか」

 院長はコーキのうなだれた頭に手を置いた。

「コーキ、おまえはせっかく、隆行より高い知能をもって生まれたんだ。それを生かすことを考えなさい。いまからでも遅くない。しっかり勉強すれば、わたしの後継者となることも夢じゃない。そのためにも、感情に左右されては、いけないんだ」

 いいねと、院長は言った。

「だったら……名前を、聖名をぼくに」

「おまえの成長しだいだ」

 コーキはうなずくと、顔をおおう白天使をじっと見下ろしていたが、「ママはそんなに野崎が好きなの?」と言っていなくなった。 

 野崎隆行は眠ったままだ。かたわらで寄り添う、白天使の涙は乾くことはない。

「だれとでも寝るからこういうことになるんだ」と院長は白天使に言った。「しかし、コーキはどうやって、ここへ入ってきたんだ? おまえがまさか……」

 野崎は目覚めると、いつもはどこを見ているかはっきりしない眼差しが白天使に集中した。とたんに、ワーッと大声を張りあげた。彼女は、「あなたがどんな病気でもわたしは気にしません」と涙声で言った。野崎は、おれに近よるなと怒鳴り、立ち上がるやいなや研究室の外へ駆け出した。

「ふん、こんなもの」院長はサバイバルナイフを手に取った。

 刃は本物なのだが、力を加えて刺した瞬間に鞘におさまるようになっている。知らずに怖れていたわたしは自分自身を笑った。

 院長の顔が間近に迫った。「笑っていていいのかね」

 死刑執行人には不可解なようだ。

「き、そ、う、こ……」 

 わたしの言葉に院長は眉をひそめた。

「……もう競わなくてもいいんだ」

「キリと、奏香と、詩子と、コーキ……そとへ」

「どこへ行くというんだね? 実験体のおまえはいまからへ手術室へ直行するんだ。弥生のために、まずは肝臓を半分もらう」

 院長の釣り目は、本物のキツネのように愛らしくない。

「ヨシエさんの、住んでる家へ」

 夢のような暮らしがしてみたい、祖母との思い出がある家で。

「ここがどこか、おまえはまだわかっていないのか? ここは、おまえが暮らしていた矛盾に満ちた世界とはちがう。ここにいて買物に行くと言っても、おまえたちは支払わない。食事も勝手に出てくる。おまえたちが知っている世界のように、ここには生存競争なんてないんだよ。しかも、おまえたちはいま目にしている現象を現実と認識している。それはそれでまちがっていない。しかし、おまえの意識が現象を越えられないことを意味している。コーキのやまいと同じだ。ここでおまえたちは過ちを繰り返さないための、意識改革ともいうべき精神的鍛練を受けているんだ。そのためにありとあらゆる苦痛と苦悩が襲ってくるんだ」

「内蔵をえぐられながら……?」

「気質性因子の存在する者は極限の苦しみを受けるんだ。それがイヤなら、端末機と金を返し、八嶋悦子のように無限体となることだ。わかったら、白状しろッ」

「わたしには気質性因子がある……」

「脳を必要としない献体は痩せていようと、肥っていようと、狂ってようと関係ない。さぁ、どうするんだ。端末機はどこだ」

 ベッドのきしむ音がした。「わたし、バラを植えるわ」奏香の口調は以前とまったく変わらない。「魔女の庭だけど、バラを植えたい」

 奏香だ!

 院長は目を細めた。「目覚める気になったんだね、お嬢さん」

「詩子といっしょに魔女の家に行くわ。もし邪魔をしたら、おじいちゃまにゆって、あんたをクビにしてもらうわ」

 院長は鼻で笑うと、わたしの顔に一層、眼鏡の顔を近づけた。 「あとのことを考えると、打ちたくないが、自白を強要するときに使われる薬剤を点滴に注入したよ」

「端末機は、幾多という男に……」

「まだそんなことを言ってるのか。そんなやつは知らん。強情なヤツだ」

 意識が徐々にはっきりしてきた。

「預けた」

「あれは、わたしのすべてなんだ。それを預けただと……」

「同じものを、もう一度、つくればいい」

「つくれるものなら、とっくにつくっているさ。あれは悦子のつくったものなんだ。兄妹で一つずつもつために、彼女はつくった」院長の声が耳のすぐそばで聞こえる。「悦子から取り上げたものを、おまえの父親に貸したんだ。実験を手伝わせるつもりだった。宇梶もさいしょは乗り気だった。由衣を提供すると言ったくらいだからな。しかし、やつは約束を反古にした。母親は自分の命が惜しくて、おまえを差し出して逃げたが、すぐに確保したよ。ところが端末機を持っていない。わたしの端末機は盗まれたままだ。もう手元に端末機はない。なくなったんだッ」

 脳がコンピュータに接続されているなら、彼の意識にアクセスすることも可能なはずだ。

 意識を集中した。

 コーキの意識は屋上に存在していた。

 防護壁のない、青空の下で、彼はリラックスしていた。

 台座に寝転んだコーキは澄み切った空を見上げていた。病院は記憶にある通り、すり鉢状の敷地に建っていた。

「……ファウストの中でメフィストフェレスが言うんだ。『自由な海は、精神を解放する。思索するなんぞまるで無意味だ』って」

「いっしょに遠くへ行こうよ」

「ウタには、ぼくの不安がどんなものかわからないよ。なんでもないことが、ぼくにとってはむずかしいんだ。知らない人と話をすることや、人込みの中でぶらつくことや、信号で立ち止まることとかも……」

「駅まで、迎えにきてくれたことがあったよね」

「あそこまでが、限界なんだよ」

「少しずつ慣れるって」

「病院は天国なんだ。ぼくだけのフロアもあるし、ママもいるし……金子先生もいる」

「金子逸見を恨んでるんじゃないの?」

「先生はクラスのみんなから、ぼくを守ってくれようとしたんだ。でもぼくはバカだから、男子にそのことをからかわれて、それが恥ずかしくて先生を殴ってしまった――でさ、先生が大好きなのに手が止まらなくなって、泣き叫ぶ先生の声が気持ちいいんだ。よろこんでるみたいに聞こえたんだ。被害者が加害者になることで癒されることもあるんだ。もう一回、先生を殴ることができたらなぁ。でも、もう死んじゃうからどうでもいいよ。死ぬときは地下の保護室でって決めてるんだ」

 あるはずのない携帯の着信音が鳴った。頭の中で、「ケームオーバー」という、八嶋悦子の声が頭の中を駆け巡る。わたしの思考をさえぎるように、ゴォーという地鳴りがはっきりと聞こえた。

 激しい上下動が起きた。非常ベルのけたたましい音が鳴りひびいた。切迫したナースたちの声が緊急を告げている。

「地震です。避難してくださーい!」

 ドドドドドドド……上下動が左右の横揺れに変わる。隣のベッドの奏香が起き上がり、半身を起こしたわたしにしがみついてくる。「奏香」と呼ぶと、「詩子」と答えた。二人ともボタンのない白い寝間着を身につけていた。

 実験室にいるのだと実感した。奏香の手を引っ張った。二人とも足がもつれてまっすぐ歩けない。這って壁までたどりついた。ノブがないので、どのあたりが、ドアだったのか、思い出せない。助けを呼ぼうにも携帯が見つからない。

「ここはどこなのッ」奏香はいまにも泣きだしそうだった。

 力の入らない腕で壁を叩いた。微弱な音は非常ベルにかき消された。揺れはどんどんひどくなる。ガラガラと構造物が倒れる音に身がすくむ。怯えて縮こまった奏香の上におおいかぶさった。

 死ぬかもしれないと一瞬、思った。研究室に通じるドアが衝撃音と同時に吹き飛んだ。機材の倒れる音が一層、激しくなった。電気がショートする音といっしょに光の渦が迫ってきた。

 緑の羽根の少女が、頭上で舞った。「……ぬけだせるぬけだせるぬけだせる」

 可能なかぎりの大声で叫んだ。「ぬけだせるぬけだせるぬけだせる……」

 壁のドアが開いた。奏香を背負った。シャンデリアの落下した秘密の部屋を裸足で走りぬけ、棺の倒れた霊安室を通りぬけ、駐車場に出た。逃げ惑う老若男女の患者に押され、建物の外へと押し出された。吹き上がる炎が眩しいと感じた刹那、由衣を見捨ててきたことに気づいた。新館は炎上し、ほぼ倒壊していた。旧館はまだ形をとどめていた。

「コーキが中にいる……」

 もどろうとするわたしの背に、奏香がしがみついて離れない。奏香を振りおとした。ガラスを踏んだ足は血まみれだった。火元はどこかわからないが、すでに密閉した窓が割れ、白煙が出ていた。ガスの臭いもする。

「コーキ、コーキ、どこなのッ」白天使が患者を突きのけて走って行く。

 追いかける。背中で、わたしの名を呼ぶ奏香の叫び声が聞こえた。病棟の扉はすべて開け放たれていた。白天使のあとを追って必死で駆けた。長時間、眠らされていたせいで思うように前へすすめない。

 胸が張り裂けるような出来事が起こるとき、いつだってわたしは無力だ。もっともっと自分の気持ちに素直に行動していれば悲しみは避け得たかもしれないのに、そのときどきの安易な考えから異変を見過ごしてしまう。自暴自棄の感情が先立って、悲劇が目の前にやってきても、なぜか、そのことを意識をむけないようにしてきた。どうしてだろう。恐いのだ、心の受容のボーダーラインを越えるのが……。だから、わたしは現実を直視できない。でも、あともどりできない時間がまたやってきたのだ。父の時のように、由衣の時のように。

「ぼくは、どこへもいけない」というコーキの声がもう一度、聞こえたような気がした。

 身体の中心の頭が肉体を離れて激しい振幅のサイクルへ投げこまれたような気がした。白天使は旧館の地下への階段を駆け下りていった。

 保護室のドアは開いていた。

 中に入ったとたん、縊れ死んでいるコーキを目にした。床に尻餅をつき、首が折れたように前に倒れていた。グレイブルーのスカーフと包帯とをより合わせて作った紐をドアノブに結んで輪をつくり、そこに頭を預けていた。ひざの上に、赤いスマホがあった。踏みつぶしたとおもっていたが、ちがった。あれは、彼の手の骨が折れる音だったのだ。

「起きなさい」と白天使はコーキの全身をゆすった。「ふざけるのはやめなさい」と言って、コーキの首に巻きついた紐をほどこうとした。ムダだとわかっていて、そうせずにいられないのだ。コーキは答えない。白天使は手をとめ、両腕をだらりとさげた。魂が全身から抜け出したようだった。ドアにもたれたコーキのそばで、叫ぶことも喚くことも忘れているようだった。

 スマホを開くと、わたし宛てのメールがあった。『ウンコは流れない』と記されていた。 

 コーキ、コーキ……死ぬなんて……だめだよ。いくら天才だからって、死ぬのは早すぎるよ。彼の頭を抱きしめた。いびつな耳は青く染まり、わたしの繰り言をうれしげに聞いているようだった。

 白天使は両手を合わせて、つぶやいた。「これが現実なのよ。夢じゃない。そうなのよ。コーキはかえってこない」

「和久井さん……」

「わたしが隠している携帯を、お金を、院長にわたせばよかった。ちがうわ、ちがうわ。わたしが人を殺さなければコーキは死ななかった」

「そんなの関係ない」

 コーキの頭を抱いたわたしは、白天使の肩によりかかった。彼女はわたしの腕の中にいるコーキの髪に触れた。

「この子が唯一の慰めだった。でも、コーキが、わたしのせいでどんなに苦しんでいたか、詩子ちゃんは知ってるわよね?」

「和久井さんはだれも殺してなんかいない! コーキも同じことを言ってたでしょ。ママは少しもわるくないって」

「認めなくてはいけないのよ。嫉妬心から人を殺めてしまう自分自身の罪と狂気を……そのせいで、弟を、娘を死なせた」

「こんなの、嘘にきまってる!」

 頭の傷に手をやった。思ったとおり、傷がない! 

「ぜんぶ、幻覚なんだから、コーキもすぐに生き返る。わたしの頭の傷だってなくなっているんだもの。わたしが目を覚ましたら、コーキも目も覚ますはずよ」

 目を閉じた。眠りから目覚めれば、現実にもどれる。

 白天使はわたしの肩に手をおくと、「傷口をわからなくするために植毛されたのよ。山田や桜庭は、変装した別人よ」

 茫然とするわたしに、白天使は言った。「自分を許せないの。罪に問われなくても、何事もなかった顔をして生きていけないのよ。理事長や院長や野崎のように厚顔になれない。だから、この世から自分を消してしまうしかないのよ」

「コーキは、コーキは、ママに生きててほしいって、きっと思っている」

「早く逃げなさい。あと五分もすれば、建物ぜんぶがふっとぶわ。それぐらいのことは、このわたしにもできるのよ。これは地震なんかじゃないの。端末機を使って、人工知能と接続したコンピュータの能力を極限まで高めたのよ」

 病院の敷地全体が回転でもするように振動した。

 ゴォーッズズズ……ドドッーン……ズズズズ…… 

 それまで体感したことのないはげしい揺れだった。全身が恐怖で凍りついた。いつのまにか、コーキの頭から手を離していた。

「コーキのピアスよ。持っていきなさいよ。いつか、わたしやコーキのことを思い出す日もあるかもしれないから」

 白天使はそう言うと、わたしの手に小さなピアスを握らせた。

「詩子ちゃん、お願い、コーキと二人きりにしてちょうだい」

 彼女は信じられないような力で、わたしを廊下へ押し出し、扉を閉めた。わたしは鉄の扉を叩きつづけた。その手を、強い力が止めた。キリだった。泣き喚くわたしの頬を打つと、「しっかりしぃよ」と言った。「あんたが、死んだら、うちがさびしいやろ」

  キリに引きずられて竹林に逃げた。わたしは旧館が炎上するのを茫然とながめた。建物の前面が崩れて病室が丸見えになった。閉鎖病棟はもはや存在しない。

 こんなことが、起きていいのか、こんなことが。

 自宅から駆けつけたヨシエさんは、奏香を抱きしめて泣いていた。なぜか、金子逸見がいない。野崎と院長は患者にまじって逃れてきたようだ。瓦解してゆく建物を指差し、野崎は笑い転げた。「見てくれよ。がんばったのにさ、このザマはなんだよ。これじゃあ、なんにもならないよ」

「まだまだやっていける」院長はメガネを外し、袖口でレンズを拭きながら、「上層部ものぞんでるはずだ。わたしたちの創った人工知能が、これほどの破壊力をもつと知ればなおさらだ」

「おれはもうごめんだね。こんな場所に閉じこめられて神経をすり減らす毎日には耐えられないよ。あと一分だって、我慢できない。やめさせてもらうよ。親子の縁をこっちから切ってやる」

 野崎は竹林を出て行こうとした。人々はなんの関心も示さなかった。キリはちがった。隠し持っていた剃刀で、野崎の首を横に切り裂いたのだ。大勢の警察官が、わたしたちを取り囲んだ。

     32 不等式の解

 崩壊した建物の中から八嶋悦子がゆっくりと歩いて出てきた。わたしのそばまでくると、彼女の好きなユリの花を思わせる笑顔を見せた。

「巡りあいましたね」

「あなたなら、わたしのミッションを遂行してくれると信じていたわ。何もかも壊れるとは思わなかったけれど」

「無事だったんですね?」

「地下トンネルは防空壕もかねていたのよ。新館につづくモニター室はなんともないわ」

「すべて、あなたが計画したことだったのですか?」

「そうよ。いつからわかっていたの?」

「あなたが、捨てていったココア色の靴を見たときです。わたしは同じ色の靴の踵で、あなたの頭や顔を殴ったので、サイズが違っていることに気づきました。あれは、双子の妹さんの靴ですよね」

「そうだったわね。わたしがいちばん、復讐したい相手はあなただったかもしれないわね」と彼女は言った。

 幾多が近づいてきた。真夏の風が、彼女の前髪を乱した。傷跡が残っていた。

「あの中学校に赴任したのは妹の瞳だった。お産で休暇をとる教師にかわって半年間の契約で行くことになっていたのよ。それなのに、彼女ったら初日から寝過ごしたの。ちょうどそのとき、わたしは八嶋との結婚生活がうまくいかなくて、兄の病院に逃げこんでいたのよ。研究は行きづまっていたし、退屈してたのかも――でもアルコールとは縁をきりたかったから、双子の彼女が、クスリのせいでつかいものにならないと、兄から連絡が入ったとき、思いついたの。わたし自身のリハビリになるんじゃないかって。そのつもりで、偽物の妹にかわって登校したのよ。本人ですものね、なんの問題もなかったわ」

 八嶋悦子はふふと笑った。そして、爆発音とともに病院の敷地全体が吹きとぶ様子を、なんの感情もない目で眺めていた。

「ずいぶん、大きな穴が開いたわね。わたしの心の中みたい」

 彼女は首を左右にふり、額に手をやり、溜息をついた。むくみのとれた顔は、木久馬瞳とは別人に見えた。

「教壇に立った一日目に、あなたから、屈辱的な目にあわされた。隆行はちょうどお休みしてたから、瞳が殴られたと思いこんだのよ。わたしが、イサカに命じて、彼女をわたしと同じ目にあわせるなんて思ってもみなかったのね。その頃の彼女は薬漬けで、昨日と今日の区別もろくにつかない状態だったから、そのまま病院送りになった。幸運なことに、千久馬病院の院長は組織の会員だったから、瞳を引き受けてくれたわ。わたしと兄が共謀すれば、家族を騙すことなんて簡単だった。わたしたちの研究を邪魔する、父や八嶋や宇梶や隆行や――みんな死ねばいいと思っていた。そのためには手段を選ばなかった。徳永や山田や石塚や和久井は何も知らずに、そうなのよ。だれに支配されているかも知らずに、わたしたちの思い通りに働いてくれたわ」

「ずっと半信半疑でした。手紙にも教師だったのは、妹で自分じゃないと書いてありましたよね。瞳さんをこの目で見なければ、確信がもてませんでした。首をふって、額に手をやる癖が、瞳さんにはなかった。わたしが暴力をふるった相手はやはり、悦子さんだったと気づきました。父の最期の言葉でも確信がもてました。詩篇45章10節と11節。あれは、あなたが首謀者だという意味だった」

 八嶋悦子は手をのばし、わたしの頬に触れた。

「病院で、あなたと顔をあわすたびに、弥生が無事に育っていれば、あなたのように勇敢な子になっていたかもしれないと、いつもいつも思ったわ」

「悦子さんがとても親切だったから、ぜんぶ、あなたがしたことだと信じたくなかった」とわたしは言った。「母に見捨てられたわたしを、目覚めさせてくれたのは悦子さんです。いつか、脳が萎縮しても、悦子さんの親切は忘れないと思います。いつまでも」

「どうしてそう思えるの?」

「靴に英語で、ダミーと書いてましたよね。悦子さんは家族を憎んでいた。わたしも、わたしがフツーじゃないのは家族のせいだと思っていました。でも、ちがうんだって、悦子さんが身をもって教えてくれたんです。自分が家族を憎んでいたんだって」

「そうね、たしかにそうね。わたしをどうするつもり?」

 悦子さんは幸せそうだった。

「弥生ちゃんとわたしは、短い間だったけれど友達でした。二人でおままごとをして遊びました。研究室には絵本の他にはなんにもないんだけれど、わたしたちは目に見えないお茶わんや、お皿やコップで食べたり、飲んだりしました。信じてもらえないかもしれませんが、わたしが困ったとき、弥生ちゃんは緑の羽根の妖精になって、なんども、助けてくれました。閉じこめられたときのおまじないも教えてくれました。『ぬけだせるぬけだせるぬけだせる』って……」泣くまいと思うのに、涙がとまらない。

「信じるわ」と悦子さんは言った。「黄金の仮面をかぶって、あなたに話しかけたことも知ってた?」

「院長がパルスと言うのを盗み聞きしたとき、黄金仮面が悦子さんだったと気づきました。最初は院長だと思っていました」

「AIの音声では、あなたを洗脳できなかった。わたしね、白状するとあなたといっしょに死ぬつもりでいたのよ。でも、弥生の意識体があなたを救うなんて……神さまはいるのかもしれない」

 幾多が、もういいかなと言って、彼女の手に手錠をかけた。病院の関係者の多くが逮捕された。八嶋監察官も例外ではなかった。

 彼女はすれ違うときに、囁いた。「アモンが新たな王」と。

  令和四年二月二四日、遠い国で、終わりのない戦争がはじまった。オレさまがいたら、大規模掃討作戦を敢行しなければならないとやかましく言っただろうか。

 感染症は治まりそうにない。カオスはつづく。

 でも、もうすぐ春がくる。

 ジャスミンの花のつぼみが、ほろこぶのを静かに待っている心地がわたしを落ち着かなくさせる。植物に再生があるように何かがはじまらなくてはいけない。

 そしてある日、いつもとちがう新しい一日がめぐってきた。そして、どんな宝石もかなわない春の饗宴がはじまった。

 家のまわりの生け垣に植えられた沈丁花の香りで、あたりはむせ返るようだ。来年も再来年も毎年、彼らはかならず咲き乱れる。

 わたしとヨシエさんは家の前のたんぼに自生しているセリを摘む。奏香は寝てばかりいるので、二人で畑仕事をする。

「何もさせなくて、ダメな母親ね」

 ヨシエさんは、油布佑介と離婚したけれど、いまも奏香の母親であることはやめようとしない。

「キリちゃん――そろそろかしら」

 ヨシエさんはつぶやきながら化粧気のない顔をあげる。ほつれ毛がそよ風にゆれて、あいかわらず美しい。

「夢みたい」とつぶやく。

 どうか夢なら目覚めないでと、祈った。

「奏香も起きてくるといいんだけど……」

「だいぶ、元気になったもんね」

「いろんなことがあったけど、過ぎてみれば、何もかもいい経験だった気がするの。どれかひとつ欠けても、いまがなかったと思えるの」 

「コーキと和久井ナースのことを思うと、つらくなるけど……」

「ごめんなさい。無神経なこと言ってしまって。コーキくんたちのことは、わたしもつらかったわ。おかあさんのほうとは奏香のことでお世話になったので、なんどか、お話させていただいたけれど、コーキくんは見かけた程度で話したことなんてなかった。でも、とても、きれいな少年だったわね。カッコよかったよね」

 わたしはうなずき、「ここんとこで――」と胸の真ん中を指さし、「ずっといっしょだから」と答えた。

 悲しむことはないと自分自身に言いきかす。けれどいまも、水を張ったたんぼや野草の花をながめると、胸に激しい痛みを感じる。ここにいっしょにいれば、自然の美しさを満喫することができたのにと、つい思ってしまう。

 好奇のコーキ、高貴のコーキ、光り輝くコーキ……。

 わたしのおじさんはひねくれ者だったけれど、はじめて会った日、しょげていたわたしを元気づけてくれた。

 なつかしい、たまらなく。

 いつか、また、会える。いまごろ、ランボーと遊んでいるかもしれないコーキ……と。

 形見のピアスはわたしの左の耳にある。

 アランフェス協奏曲をきくたびに、どうして、コーキを独りで逝かせたのかと悔いる。責任を感じる。逃げようと彼を誘ったとき、彼も白天使も拒んだ。二人の死は予感していた。それにもかかわらず、見過ごした。二人がそうしたいなら邪魔してはいけないと、心のどこかで思っていた。傲慢で薄情だった。彼を心の底から大切に思っていたのに、伝えることができなかった。

 ラップのリズムがいまも耳の奥で聞こえる。

 ヨシエさんはセリを両腕に抱えた。

 畔道のむこうに、車が停まった。

 助手席のドアが開くと、キリが降りてきた。

「キリッ」

「詩子ォ、ヨシエさん!」

 キリはわたしたちの名前を大声で言って、駆けてくる。少し痩せてきれいになっていた。

 呼び返す。「キリ、キリ、キリィ」

「詩子、詩子、詩子ぉ」

 彼女はまっすぐにむかってきた。そして、わたしの首にしがみつき、「長かったァ」と言った。

 わたしたちは手を取り合い、うなずき合った。キリは鑑別所に入っていたのだ。もしも、キリがいなければコーキのそばから離れられなかったかもしれない。キリはわたしを外の世界へ引き戻してくれた命の恩人なのだ。

「八カ月もかかったね」と言うと、「うちな、もー、さいごのほうは諦めててん。前科はあるし、どうにもならんと思てた。けど、ヨシエさんのモト亭のおかげで保護観察処分になってん」

 ヨシエさんはキリの荷物をタクシーの運転手から受けとると、

「あの人がそんなことに力を貸すなんて、どういう風の吹きまわしかしら。人って変わるものね。わたしたちも変わったから同じかもしれないわね」

「奏香ちゃんのことがあるからやろけど、ヨシエさんの気持ちがいまになってわかったんや、きっと」

 キリの言葉に、ヨシエさんの瞳はいつもよりもっとやさしい色に染まった。「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。この世界で起きていることは、わたしにはよくわからないの」

 わたしたちは鶏糞のにおいのする家の中にそろって入って行く。

「知ってた?」とヨシエさんが言う。「病院の近くにあった竹林なんだけれど、何十年に一度しか咲かないって言われている花が咲いたのよ」

 キリがうなずく。「詩子の手紙で知ったけど、竹林がひと晩で枯れたって」

 パジャマ姿の奏香が自分の部屋から出てきた。

「キリッ」と言うとを大きな目を見開き、絶句した。

「さァさ、大宴会にしましょうね」

 ヨシエさんはダイニングテーブルに花柄のクロスをかけて、池のある庭に出していた。四人で力を合わせて、食べ物や飲み物をいっぱい用意した。透明な足つきのグラスにワインを注ぎ、採れたての野菜でつくった料理をお皿に盛って、ローソクをランタンにともす。

「カンパーイ」奏香が言った。

「何に?」ヨシエさんが訊く。

「え~と」奏香はグラスをヨシエさんにむける。「大好きなママに!」

「うちも、天国にいるママイに!」

 ヨシエさんはコホンと咳払いをすると、「詩子ちゃんの旅立ちに乾杯」と言った。

 えっと驚くと、「隠してもだめよ。行くつもりなんでしょ、おかあさんを捜しに」

 奏香とキリの目は点になってしまった。

「あなたが悩んでいたことはよーく知ってるわ。気持ちはひとつなんだから、気にすることないの。それに、わたしたちがここに住むことに決めたのは束縛し合うためじゃないわ。抱えている古い絆を断ち切って、新しい絆をつくることが目的だったわよね。あなたはそれを達成したのよ。だからもういいの。断ち切れない絆のために行ってもいいのよ」

「ありがとう、ヨシエさん」

 奏香とキリは言葉をなくしていたが、しばらくすると、キリが口を開いた。「そやな。そーし。うちもがんばって、自分の居場所を見つける」

「わたしたちのような弱い者の住むスペースは狭いけれど、それでもなんとかなるはずよ」ヨシエさんは慰めるように言った。「なんとかならなくっちゃ、つまらないよねぇ」

 奏香は泣きじゃくった。「もう、ヘンなものも見えないし、声も聞こえなくなってた。でも、治っていないふりをずっとしてた。詩子が行ってしまわないようにイジワルしてたの」

 立ち上がって、奏香の薄い肩を抱いた。

「わたしは、ずっとずっと居場所のない子だった。でも、みんなと会えて、生きていける自信がやっとできた気がする。ここにずっとずっとみんなといることが、幸せだって、よーくわかってる。でも、どこかでオカンが生きていて、わたしを呼んでいる気がする。オカンは言ったの。みんなで森の中の家で住みたいって」

「きっと無事に暮らしてらっしゃるわ。さぁさ、乾杯のやりなおし」

 みんなで、ワイングラスをかかげた。

「悩みのタネに乾杯」

「苛立ちに乾杯」

「憤りに乾杯」

 そして、「すべての思い出に乾杯」

 心の中で、父とカシオペイアになった由衣に乾杯した。コーキと白天使にも。

 四人でいっぱい話した。もしかすると、一生分、話したかもしれない。二度と、だれかと、こんなに話すことはないかもしれない。ほんとに、みんなにさよならできるのだろうか。

「詩子ちゃん、いつか、愛するヒトと出会うと思うわ。そのときは思い切って、前へ進んでね」

 母のことを忘れなさいと、ヨシエさんは言っているのだ。

 明け方近くになると、母の声がいまも聞こえる。助けてくれと、母は声をかぎりに叫んでいる。胸がつまる。わたしも夢の中で叫ぶ。すぐ行くから待っててほしいと。 

 1+1≦∞

 不等式の解は等式でない故に無限大なのだ。そのためにさらなる現実を直視しなくてはならない。

 院長の言った異界とはどこにあるのか。

 わたしが幼い頃、母は機嫌のいいとき、「やっぱりマンガやわ」とかならず言った。母にとって人生そのものをマンガだと感じられる瞬間がもっとも幸せだったのだ。借財を負い、父に死なれ、残された二人の子どもと向き合う日々は、ドキュメンタリー映画のようにリアルすぎて耐えられなかったのだ。もしかすると、母にとって、夫も子どももマンガに出てくる登場人物の一人にすぎなかったのかもしれない。だから捨てることができたのだ。マンガ本を閉じるときのように、「やっぱりマンガやわ」と言いながら。

 わたしの読むマンガは閉じることはない。

 ある作家が、「学校も行かず働きもしないで三○歳なった人間と二○歳から一生懸命勉強して三○歳になった人間を比べると身も世もないくらいちがっている」と書いていた。

 わたしはかならず身も世もない三○歳になる。そして、一生懸命勉強した連中から社会のお荷物だのクソだのカスだのとののしられるだろう。だからと言って、競い合う連中の思い通りになったりしない。わたしたちは、わたしたちのやり方で〝競う子〟になる。

 もう歯ぎしりをすることはない。上あごと下あごのズレも、咬み合わせも、わるくたって平気。ブラックホールは口の中にはなくて、心の中にあるのだとわかったから。

 

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