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【エッセィ】蛙鳴雀躁 No.18

 やはりnoteのAIサマのお気に入りリストには入れてもらえませんでした。この身を委ねようと、粉骨砕身しても、ルビさえまともに記入していただけず、なぜか、柳沼深雪と書いて、夫にルビ(カタカナとひらかな)をふってもらうと、まるかっこの中に(やなぎぬまみゆき)となり、服部海人は(はっとりうみひと)に。
 正しくは、〝やぎぬまみゆき〟と〝はっとりかいと〟です。
 実は、ワープロであっても、私はルビが記入できないのでしかたなく、長編小説では〝会堂〟と書いてうしろに(ジナゴク)と書いていました。一律にルビがふれないのであれば、それなりにわかるのですが、「妬く」という字にだけ、ひらがなの「や」が文字の上にくっついているのです。ワカラン。段落をとってある箇所が、とられていない。

 悪夢はどこまでつづくのか!

 どうすれば、横30文字、縦40字に設定できるのか、行間が自動的に挿入されるのか、パソコンを使って仕事をしている娘たちに質問しても、長文は書かないので、わからないと答える。
「noteにはきっと年齢制限があるんや。70歳までとか――」と、眉間にしわを寄せて言うと、次女は、「トシいってても、たいていの人は上手につかいこなしてる」と切り捨てられる。
 携帯電話の出現以来、もともと電子機器に弱かった私の能力は、容量を越えてしまったようです。だったら、おとなしく家事にいそしめばよいものを、それができない。

 なんでやねん。

 今回の拙作「コーベ・イン・ブルー」の時代設定は、1989年。写真の端っこに映っているのは、当時、飼っていたポメラニアンのハナコです。たくさん飼ったので、この子を特定するのに家族会議をしなくてはなりませんでした。神戸港まで連れて行ったのは、どの子だったのか? 夫婦ともども記憶が過去に張りついているわりには、新しい事象を脳が受けつけないばかりか、過去のことも明瞭ではなくなっています。

 ふーむ。

「AKB」が流行った頃から、感覚が時代の変遷に適応できなくなった気がします。最初は、地方に住んでいるからだと、自らを慰めていました。秋葉原なんて行ったこともなければ、原宿ファッションも見たことがない。
 神戸は、おしゃれな街だと、かつては言われていました。異人館がブームの時代もありました。女の子が途切れることなく、北野坂を闊歩していました。いま、異人館はつぎつぎと閉鎖されています。需要がなくなったのです、残念ながら。

 20年前、東京で山の手線に乗ったとき、車窓の風景が雑然としていて、手をのばすと洗濯物にとどきそうに見えたのです。神戸のほうがマシだと勘違いしましたが、新宿のビル街を目にした瞬間、「さすが首都」だと高層ビル群に圧倒されました。
 その後、梅田の第4ビルの一室を借りて、読書会をすることになり、林立するビルの谷間に立つと、どっちへむかって歩いていけばいいのか、行くたびに迷いました。4つある大きなビルが同じ形状で、離れて建っているため、何をめざして行けば、たどり着けるのか、見当がつかない。
 引き比べて、東西南北のはっきりした横長の神戸は、街の中心、三ノ宮駅周辺の街並は、震災があったにもかかわらず私の若い頃とさほど変わっていないように感じます。神戸市役所などの建物は建て直され、新しくなりましたが、京都のようにあたらしいものとふるいものとが混在する優雅な景観ではありません。新幹線の神戸駅周辺に至っては、ダイエーの創業者、中内氏の逝去にともない、見る影もないありさまに。なぜ、こんなことになったのか? 個人的な意見ですが、港と造船の衰退が原因だと思っています。

 神戸港の現在は、働く人々の気配と熱気の感じられない場所にかわりました。60年代から80年代にかけて、コンテナ貨物の取扱量が世界3位を誇った時代もあったのです。1位はニューヨーク、2位は欧州の玄関口であるロッテルダム。しかし80年代の後半から90年代にかけて、繁栄が失われていくさまが目につくようになりました。その当時、日経新聞を読んでいたのですが、新聞の片面を使って韓国の造船所や台湾のコンテナバース(高尾)が掲載されていました。神戸の川崎造船所をはじめとして、ポートアイランドや六甲アイランドのコンテナバースと肩を並べる規模に驚き、もうダメかもしれないとなんとなく思いました。
 円高がすすんでいたからです。加えて、韓国も台湾も、港湾は24時間稼働していました。神戸はしかし、夜間、積み荷を取り扱う作業ができなくなっていました。働き方改革はこの頃、すでにはじまっていたのです。
 現在の神戸港は、70位以下です。2022年現在、1位から10位まで、中国各地の港がその座を占めています。簡単に言えば、製鉄も造船も家電も韓国や中国に追い抜かれたのです。船舶電話の仕事をしていたので、その過程を体感した気がします。

 1989年に年号が昭和から平成にかわり、3月に日本最初の高炉、新日鉄製鉄所・釜石が百年の歴史に終止符をうちました。そして天安門事件があり、ベルリンの壁が撤去されました。
 90年代に入ると、東証の日経平均の株価はみるみるうちに下がり、バブル経済の崩壊と言われ、金融関係に勤めていた人びとは意気消沈し、神戸に入出港する船舶の数も目に見えて減少しました。同じ時期に、中国の改革・開放路線がはじまったのです。
 積み荷の減少にともない、停泊時間もどんどん短くなっていきました。巨大なコンテナ船に乗船する船員の数も減少の一途をたどり、船長のみ日本人で、あとは外国人という状態から、船長さえも日本人ではなくなっていきました。
 商船大学は人気のある大学でしたが、船会社が日本人船員を雇用しなくなり、卒業後の彼らはどこに就職したのでしょうか。

 一方で、景気のいい話もありました。
 ナイトクラブを経営している方からうかがった話で申し訳ありませんが、バブル崩壊以前、証券会社に勤める男性客は、百万円をホッチキスで止めて、店の女の子の中で少しでも気に入った子がいると、壱万円札を1枚、2枚とちぎって渡していたそうです。もちろん、チップです。震災後の1年間は、日本全国からやってきた土建屋サンが大盤振舞いをしたそうです。
 稼いだお金を、そんなことに使っていると、家で待つ妻は予想だにしなかったと思います。
 
 だらだらと、どうでもいいことばかり、なぜ書き連ねるのか――。

 パソコンに原因があるとわかっています。小説にかぎってはワープロで書いてパソコンで手直しています。ところが、英語の部分にかならず青いアンダーラインが2本引かれ、関西弁には赤の波線が引かれているのです。古傷をえぐられるような気分になり、「おまえは、東京の編集者かっ」と罵倒したくなるのです。
 英語は辞書を丸写ししているのに、なんで、青線がつくのか?
 まったく語学の才能のない私には、これが堪えるのです。気分が滅入るのです。
 老人性の鬱病かもしれません。
 かつての知人に、お見舞いの手紙を出すと、「あなたの毒舌が好きでした。後悔しないでください」と返事がかえってきた。
 思わず、仁王立ちになり、「後悔なんぞ微塵もしとらん」と叫びました。毒舌だとも思っていない。本音をしゃべっていただけのこと。それの何が悪い!
 世間が狭くなろうと、エライ人のご機嫌をとるくらいなら、死んだほうがマシだ。
 けっして、思い通りに機能してくださらないAIサマにも宣言すべき時がきたのかもしれません。
「イバラのお恵さまをナめんじゃねぇぞ!」

「コーベ・イン。ブルー」
 まだ一行も書けない。手書き原稿だった原文はどこへ消えたのか、手元にない。1部だけとっておいた掲載誌は、黄ばみ、表紙は剥がれています。リサイクルにも出せないしろものになりはてています。出るのは溜息ばかり……。自分ひとりのためだけに書いているのだから、どうでもええやん。せやせや、どーせ負け犬なんやしと、もうひとりの私の声。はよ、寝よ。


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