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映画「窓ぎわのトットちゃん」を観て。

黒柳徹子さんの著書である「窓ぎわのトットちゃん」を映画で観てきた。
たくさんの奇跡で溢れていて、クスッと笑える時やグッと感情をこらえるシーン、悔しさや愛おしさ、そして今を生きることの尊さを、トットちゃんのめぐる日々を見つめながら共有できた時間だった。

この映画から私が受け取ったのは、「想像力は創造力」であり、「一つだけが正解ではない」というシンプルだけれども、勇気の溢れるスタートラインがいつだって自分の目の前に広がっているという可能性。
そして、「ほんとうの幸せってなんなのか」を考える種をこの映画から頂いた。

制限が蔓延って、本当の自由なんて手に入らないのが当たり前だという刷り込みや、可能性や多様性の否定が日常である世界に、「本当にそうなの?」という超絶シンプルな疑問という名の一滴の雫を水に投げかけることで、世界は大きく変わることだってあるのだという感覚を、トットちゃんの生きる姿を通じて、取り戻せたような気がする。

一瞬で過ぎ去る子どもの頃の純朴な心。
制限の奴隷になってしまった人たちからは、子どものその純朴な心は時として鬱陶しく、邪魔で、排除したいもの。けれども、何が悪いのか、何が正解なのか、誰も教えてくれない。自分は楽しいのに、自分を取り巻く空気が、いつの間にかひんやりと冷めていって、いつの間にか自分は「いい子でじゃないんだ。」と自信を失いそうになっている。

Stay in the line.
これを守れることがいい子の条件に、無意識のうちに制限の蔓延る世界ではなっているんだよね。

わからなくはない、制限の世界で生きる大人たちの考えも。
それは、私が大人の仲間入りを果たしているところがどこかであるから。
けれども、トットちゃんのように、現在進行形で純朴な心を宿している自分もどこかにいるわけで、この大人の醸し出す「正解を振る舞うこと=いい子」という温度感には、違和感を覚えるところも本音である。そういえば、「なんで大人って、こんな酷いこと言うんだろう?するんだろう?」って大人を見ていて思ったことがあったような気もする。

また、正解を振る舞えることは、いつの間にか「成功する」という結果につながっていると大人になればなるほど感じるようにもなる。それって、ある意味で自分らしさを忘却していくいく過程にも繋がっていて、本当にそれでいいのだろうかとも思ってしまう。

トットちゃんを出迎えてくれた学舎、トモエ学園。
ここでトットちゃんはのびのびと成長していく。

一生忘れることのできない友たちや先生たちとの奇跡ともいえる出会いと、一生色褪せることのない共に生きた鮮やかな時間。毎日がキラキラ輝いて、眩しくて、愛おしくて、やるせなくて、それでもずっと自分の根底に優しく残り続ける大切な記憶たち。トモエ学園で生きるトットちゃんの姿や学友たちとの過ごす時間を見ていて、こういう心の中にある原風景のような優しい記憶が、自分を根底から支えている幹のようなものになっているんだよなと改めて思う。

ヤジを飛ばしにきた悪ガキたちに、それ以上の熱量で歌ってみんなで立ち向かっていく姿勢。「トモエ学園、いい学校。」このみんなの歌う姿には思わずグッときた。小林校長の背中が何よりもそれを物語っていたね。

そして、忍び寄る戦争の影。
戦争は奪っていくばかりで、何一つ私たちに豊かさを恵んでくれるものではない。命を奪うだけじゃない。時間も、心の伸びやかさも、美しい文化も言葉も、音楽も、愛情も、創造性も、あらゆる豊かさを奪っていって、時に心に大きな傷跡を残してどこかに去ってしまう。そんな負の連鎖しか生み得ない戦争に、何か意味はあるのだろうか。

なんで歌っちゃいけないいんだ。なんで喜んじゃいけないんだ。
なんで華美ではいけないんだ。なんで豊かになってはいけないんだ。
なんで幸せであったらいけないんだ。
なんで自分らしくいたらいけないんだ。
ねえ、なんでだよ。

そういう、やるせない「なんで?」という燻った感情が心を覆い尽くす。
だから、もう一度考えていかなければならない。本当に戦争に意味はあるのかと。それはみんなをほんとうに幸せにするのかと。

そして、泰明ちゃんとトットちゃんの雨のダンスシーン。
本当は惨めになりそうなのに、二人の豊かな想像する心が、奏でる音たちが、世界を彩り豊かにするこの瞬間。想像力が、今という現実世界を創造する瞬間。

ああ、心が伸びやかに生きるって、こういう瞬間を享受できるかどうかなのかもしれない。この瞬間は何人たりとも、どんな現象であっても、誰にも、何物にも止めることのできない美しい刹那で、一生輝き続ける宝石のような時間になる。たとえそれが長くなくても、一瞬の輝きであったとしても。

「楽しかったね。」泰明ちゃんのこの一言。
優しい響きのこの一言。この一言で幸せだと思える。
言葉にできないこの胸の高鳴りを、幸せと呼ぶのかな。

「楽しかったね。」
そうだね、ほんとうに楽しかったね。幸せだったね。

この映画をみて、心という土壌に考えるという光の種がたくさん蒔かれたような気がする。想像すること、創造すること、思うこと、考えること、伸びやかであること、可能性はいつだって無限大であるということ。たくさんの光の種が蒔かれたから、この光の種をぐんぐん芽吹かせて、花咲き誇る瞬間がきっと訪れる。その瞬間を優しく見守り、待っていたいと今、思う。

いくとしもくるとしも、優しい瞬間がたくさんある実り豊かな月日であることを願って。

映画「窓ぎわのトットちゃん」劇場パンフレットより。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
Bless you :)

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