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前向きな陰キャが本当にオモロいのか?

なるほど。高倉大希さんの『自己否定と思考の深さ』というタイトルのエッセイ文を読んで何か妙に納得しました。

自己の否定を繰り返すことで思考の深みに達することができるということ。でも単に否定を繰り返すネガティブな人間は「真にオモロい人間にはなれない」とそう語っているのです。それはただ他人に迷惑をかけまくる人間で終わってしまう。

では真にオモロい人間とは何なのでしょうか?それについての一個の解として「前向きな暗い人間」という概念を挙げています。その形容矛盾的な表現に、何かしらのお洒落さと暗い人間であると自認する自分に

陰鬱でも前向きになろう。そしてオモロくなろう。と決意を新たにさせてくれる

そんな文章だと感じます。

ただ、私はここで一歩、立ち止まって考える必要がありました。私はここに一つのある反例を挙げねばなりません。挙げずにはいられないのです。

心苦しくもありますが、それは私自身の「オモロさ」が鬱状態に作った自己否定の瓦礫の山と、その苦しみから解放されたいという願う前向きな気持ちがあるにも関わらず、全くもって「オモロさ」に結実していない点にあります。(笑ってくれるとありがたいです)

そして、何より「自己否定を繰り返す人間」は前向きであってさえもしても、本当にこのオモロさを獲得できるのだろうか?という疑問がここで生じてくる訳です。

昨今、「陰キャでつまらなそうな奴でも実はオモロいことができる」というようなテーゼが巷に蔓延しているように思います。「ADHDが無能なだけではなくて、ある一面においては天才性を発揮する」というな言説とある程度重なるところはあるでしょう。

このような、社会的に一見マイナスにみられる(陰キャは数的には少数でないけれど)マイノリティに対して同情的に接近することにより、票を得ようとして(バズろうとして)このような救済的な言説を拡散する人間がいることは、否定できないと思います。

私は上記のエッセイがそのようなものだと言いたいのではありません。そうではなくて、私がそういう言説を目にするたびに、オモロくなけらばならない、バズらねばらないというように強迫的に感じてしまうということがないとは言えないということ。これが息苦しくないといえば嘘になるでしょう。

前向きな自己否定がオモロいというのは、バズのためのメタメッセージとして捉えてしまう人がいてもおかしくはないと思います。私もそうでした。

自分自身が長らく大学生のころかSNSに執着して、オモロくない自分を直視し続けたからこそ、インターネットに潜む罠には注意をした方が賢明だと感じています。広く拡散されたことが事実とは限らない、このことを私も改めて胸に刻もうと思います。

それにしても、前向きに生きることは大事なことです。それは揺るがないと思います。

何かとてもとても喧嘩腰なタイトルですが、高倉大希さんのエッセイはいつも面白く拝読させてもらってます。

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