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ドラマ「silent」2話から 苦悩の底にある人

1.はじめに

 ドラマ「silent」の2話を観ました。以下、ネタバレの内容を含むので、気になる方はご注意ください。この記事の目的は、ドラマの考察ではありません。ドラマの確かさを裏付ける記事を目指しました。そして、苦悩の底にある人、また、苦悩する人にどう接したら良いか、戸惑う人に届くといいな。

2.母と想とのやりとり

 目黒連が演じる主人公・想と篠原涼子が演じる、その母が台所で洗い物をしている場面でのやりとりが2話の最初の方で出てくる。ざっと書き出してみる。

 母「ん?」
 想「なにか手伝う?」
 母「うーぅん。大丈夫」
 想「うん」
 母「ねぇ、想、耳どうした?」
 想「なにが?」
 母「えっ。なんか聞こえにくいかなぁって思って。お母さんの気のせいか」
 想「気のせいじゃ…ないかな。たぶん」
 母「いつから?」
 想「ん?だから、うん、気のせい」
 母「いつから?」
 ここで蛇口の水を想が止める。
 想「卒業式の後から」
 母「聞こえにくいの?」
 想「なんか、ずっと耳鳴りみたいなのしてて。すごいうるさい」

 彼の挙動への違和感から母は想に聞く。母は鋭い。最初は探るように。しかし、想の反応を見て、違和感は確信に変わる。
 このとき、想はただ一人、嵐の中、立ちすくんでいる。苦しみは抱えきれない。でも、誰にも心配はかけたくない。特に母には。
 しかし、想の異変を確信した母はひるまない。想の苦悩に切り込み続ける。誤魔化しきれない想は現状を告げる。
 この後、母と想は医師にかかる。おそらく母のなんとかしたい意思からだ。そこで、医師は「親戚に難聴の方はいませんか」「遺伝性かもしれない」と確認する。母は自分を責めた。想をこのように産んでしまったことを。母には母の抑えきれない苦悩がある。

3.苦悩の底にある人

 自ら選んだ選択によって、苦悩する場合と異なり、突然の病気や他者からの暴力によって苦悩する人は、冷静にその原因を探る状態にはない。ただただ立ちすくむ。何が起きているのか分からず、混乱している。「なぜ自分が?」という怒りもあるかもしれない。そこに当たり前だった日常はない。無力で、死をも選びたくなる。
 例えば、想の直面した世界。音が聞こえるのは当たり前だった。恋人の声や音楽を聴くという行為は喜びだった。しかし、だんだん聞こえずらくなり、やがて聞こえなくなる。それは自分という存在の根幹に関わることだ。
 病気であることもつらい。治療もつらい。それを心配されるのもつらい。元気だったころの自分を知っている人には会いたくない。この世に居続けることがつらい。今の自分を説明する言葉がない。
 2話では、想を母が車で駅まで送る場面が出てくる。別れ際に、想が母に発する言葉が「お母さん、ごめんね」。自分のせいで母が苦しんでいる。だから「ごめんね」。誰も何も悪くない。けれど自分のせいで誰かを悲しませている。自分なんか。これは紬への想い、行動にも共通する。そして、これが苦悩する人の心理だ。

4.私の経験

※以下、過酷な内容が書かれているので、つらい記憶に悩まされている方は読み飛ばして、次の5.社会福祉士として、に進んでください。

 私は中学入学と同時に、いじめに遭い、それが1年間続いた。蹴る、殴るの暴力はいじめの前提だ。恐怖は人の感覚を麻痺させる。奴隷への道がそこにある。犯罪行為が露見しないための”見張り役”や、買い出しに行く”パシリ”、母の作ってくれた昼のお弁当を売る、お小遣いを上納する、お金がなくなれば万引きしてお金を稼がせるなどは定番だ。性的ないじめも。いじめの本質は相手の尊厳を踏みにじることにある。
 顔にアザができることもあった。しかし、その状態でも私は誰にも相談しなかった。何が起きているのか分からなかった、というのが正直なところだ。担任の先生は心配して、相談室に連れて行き、「その顔、どうした?」と聞いてくれる。ひたすら沈黙する私に原稿用紙を先生は渡す。話せないなら書いてごらんと。「理科の実験のとき、つまずいて、顔が顕微鏡に当たりケガをしました」とウソを書いた。
 中学生のカバンは重い。10人近い人のカバンをそれぞれの自宅に届ける毎日のルーチンがあった。それを母の友人が見ていたようで、心配して母に告げる。帰宅するなり、母は怒る。「そのカバンの子達の名前をすべて言いなさい」と。私は「好きでやっているんだ」とウソをついて、その場を去った。
 振り返ってみれば、すべてバレバレだ。
 その後、私は不登校(当時はそんな言葉はなかったが)を繰り返しながらも、自分のことを誰も知らない高校に行った。奇跡としか言いようのないほど人に恵まれ、徐々に信頼できる友達ができた。
 しかし、この順風満帆の陰には、母と父の人知れぬ動きがあったことを30歳の時に知る。事件から18年後だ。私の様々な決断を、ときに全面的に、ときに不本意ながらも、信頼して、受け入れ、見守ってくれた。親となった今、その姿勢を私も引き継ごうと思っている。
 ここの部分を読んで心配される方もいると思うので、付記する。私のいじめの経験は、30年以上、昨日食べた晩ご飯よりも鮮明な記憶だった。冗談ではない「トラウマ」である。しかし、幸いにして、人との出会いに恵まれたことに加え、有能で温かな臨床心理士に出会い、EMDRという専門的な治療を受け、その記憶は、はかなげな「思い出」に変わった。今、文章を綴っていてもフラッシュバックはない。

5.社会福祉士として

 結局、苦悩を癒やすのは人だ。癒やすどころか、心を掘り下げてくれさえする。大切なものに気付かせてくれる。「あなたのおかげです」ーーそんな人に出会えるのが、人生の醍醐味だ。
 そんな自分の経験が活かせないだろうかと模索し、20代から、民間の団体で、週末を中心に子ども達の相談援助活動を続けている。
 ここでも、子ども達(その後は大人)の変化、成長、成熟、存在は学びだけでなく、私の人生の支えにすらなっている。
 1995年、とある新聞の取材を受け、私の手記と活動内容が載った。SNSはおろか、ネットニュースもない時代である。そこから、相談の量が増え、内容も多様なものになった。自分の経験だけでは、対応できないケースが増えてきた。専門性を高めるために、働きながら通信制の学校に通い、地元の知的障害者施設で実習を積み、社会福祉士(ソーシャルワーカー)の国家資格を取得した。自分の経験を押しつけないための「傾聴」スキルを磨くため、産業カウンセラー資格も取得した。

6.苦悩のなかにある人と関わる

 自ら相談に来る人もいる。本人ではなく、その家族やパートナーからの相談もある。後者は専門的には「Involuntary Clients」(自ら申し出ない人)と呼ばれ、「アウトリーチ」(手を伸ばせば届く範囲のさらに外の人に手を差し出すこと。日本語の語感的には”おせっかい”かな?)の対象になる。
 当事者が自ら告げてくれた言葉は、どんなに不確かでも尊重する。
 家族などから聞いた話は、いったんアースして、つまり、忘れて、「本人」の言葉を待つ。話を聞いても「自分と同じだ」「過去の誰々と一緒だ」とは思わない。
 関係を作り、深めるためには、創造的退行も必要だ。つまり、意識的に、自分の専門性や経験、大人としてのプライドは脇に置いて、相手の存在に、関心と興味をもつ。感覚としては、相手を可能性のかたまりとして、接する。「すごっ」という気持ちを会う前から抱いている。
 大事な点がある。それは繊細な事実を、本人の同意なく、絶対に他人に話してはいけないということだ。社会福祉士などの専門職は、法律で「守秘義務」が明記され、一年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する罰則規定もある。一般的にも、不用意な他言は「アウティング」と呼ばれ、その罪の深さが知られるようになってきている。
 ドラマでは1話で、想の妹が勘違いから、兄の耳が聞こえない事実を、かつての想の友達であった湊斗に話してしまう。お母さんが、怒気と悲しみを湛え「お兄ちゃんにちゃんと謝りなさい」と諭すシーンだ。ドラマはここから動き始めるが、アウティングはときに当事者を絶望に追い込む。しかし、自分も含め誰もが過ちを犯しがちな点だ。法律ぐらいでは縛れないぐらい、この引き金は引きやすい。
 最後にもう一つ。苦悩する人の「大丈夫」という言葉を真に受けてはいけない。全然大丈夫じゃない場合の方が多い。この大丈夫を突き抜けるには、ドラマのお母さんのような、その人の一生を引き受けるような覚悟が必要だ。この部分を読んでくださっている人は、自分の命に引き換えても惜しくはない人のことを想って、関わろうとしているのだから、杞憂に過ぎないだろう。その覚悟がない人は、そっとしておこう、静かに。

7.終わりに

 まだ2話ですが、「silent」は非常に素晴らしいドラマです。役者、スタッフ、脚本、演出ともに申し分ない。録画を繰り返し観ています。観る度に新しい発見があります。何度もこみ上げるものがあります。
 音を消して映像だけを観る経験もしてみました。また、新たな発見と感動がありました。
 みなそれぞれに語りたい点がある、魅力的なドラマですよね。
 そんな中で、このドラマの想とお母さんに強い光を当てて、今回は自分の気持ちを綴ってみました。
 今はドラマの続きが楽しみとだけ記して、終わりにします。

※この記事のヘッダーの写真は、家族で沖縄に行った際に、海辺で二人の小さな娘たちの背中を撮したものです。



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