悪友の憂鬱について

    日頃から、ある悪友につきまとわれていて、私は悩んでいます。その悪友とは古くからの付き合いで、現在では私のあらゆる知り合いの中で最も長く一緒にいます。悪友は私の赴く所には必ずと言ってよいほどについてきて、いわば私の心の影となっています。振り払おうとしても、そうできる類のものではなく、その度にむしろその悪友と離れることのできない絆を痛感させられます。悪友を拒み続け、疲れた私がしゃがみ込んで、両手で顔を覆っていると、それでもその悪友は背後から私の肩にそっと手を掛けてくるのです。まるで優しい友人のように手を掛けてくるのですが、それが不快である私が更に拒み、そして振り返った時には、しかしその悪友の姿はありません。その後には私はやがて言い様のない疎外感や抑圧感に苛まれてしまいます。悪友を振り払っても尚、悪友の影が残り、私はそれに支配されているようです。私は悪友を無意識の内に求め続けているようであり、それに気づいた時にそれでも私に寄り添ってくれる───肩に手を掛けてくれる存在がその悪友しかいないことが辛いです。私は長い間、この悪友との距離をどのように保てば良いかについて悩んでいます。


    辞典によると、私の悪友は憂鬱と称されています。それは鈍い灰色の曇り空のような晴れ晴れとしない閉塞的な感情の有り様と言われています。確かにその通りだと思いますが、それは私にとっては飽くまで喩えの表現であり、長く付き合っているのにも関わらず、実態を掴むのがとても難しい存在です。
日常の生活を送っていると、不意に悪友が現れます。例えば、とある日のこと───対面しながら知人と談笑している際には、私の視野の外にその悪友の気配を感じます。私は目の前の知人との関係に集中できなくなり、更にはその関係に疑念を抱くように仕向けられてしまいます。また歓楽にあって、その一瞬の沈黙の際には憂鬱はその間にすかさず割り込んで、耳元で私が不安になるようなことを囁いてきます。そうして、周囲に好ましい談笑の輪ができているというのに、私は一人だけ別の空気に包まれているかのように無邪気に笑うことができなくなっていきます。また別の時───一人で趣味に没頭している際にも悪友の憂鬱は現れて、趣味に夢中になっていたはずの私の思考を掻き乱します。悪友は忘れた頃に、私が固く扉を閉じたはずの密室の中に侵入してきます。憂鬱は常に私の周囲に滞留しているようであり、重々しく淀んだ空気を作り出します。そして私の平安に侵入するに止まらず、私の心をも徐々に支配しようとするのです。


    憂鬱は時と場を弁えることのない呪いのようなものであり、それは例えば、弱っている状態を癒そうとする心には重く耐え難いものです。この悪友は長い付き合いにも関わらず、私の境遇を一向に理解しようとしているとは思えませんし、私の求めていない時に敢えて狙いを定めて、近づいてきているのではないかと思います。


    しかしながら、この悪友が必ずしも私にとって不都合ばかりな存在ではないところに私の悩みがあります。憂鬱は辞典で言われているように暗い存在ではありますが、憂鬱が側についているからこそ───私の心を暗く閉ざすように仕向けているからこそ、私は自らの進むべき道へと向ける目を鋭くしたようにも思います。

    憂鬱がいなければ、私は自分自身の暗い感情に無頓着でいたかも知れません。暗い感情を知らず、それに向き合うことがなければ、あるいは体の良い向き合い方を体得していたなら、どれほど私は幸福だっただろうかと思います。ですが、あり得たはずのそのような未来も私には最早暗いものとしか映りません。憂鬱によって暗くされていく私はどのような未来にも光を見なくなっていくように感じます。しかし、それは悪いことばかりではなく、安易な希望に惑わされない私自身を鍛えるために必要な経験だったのです。憂鬱と付き合う上で、私はそう考えるようにしています。

    長い間、悪友の憂鬱と付き合ってきて、私はもう憂鬱に支配されてしまっているようです。憂鬱が導くがままの思考を自ら望んで辿ってしまっていると私は自己理解を得ています。きっと私がどのような境遇に陥っても───何を考え、行動していても、悪友である憂鬱は私の側に存在し続けてくれるだろうと思います。憂鬱の存在しない人生など私には想像ができません。私は未だにこの悪友との付き合い方に難しさを抱えています。これからもこの悪友とは付き合っていかなければなりませんが、憂鬱には果てしがないということ───私にとって絶望であり希望であるということの理解が、この悩みに関しての全く解決にならないひとまずの答えになります。