幼少の頃の遊戯について

 ふと時折、私は自分自身のことがよくわからなくなります。何を求めているのか───それは今の私の思いに本当に適っているのか───実はそれとは別の何かを求めているのではないか───考えても考えても永遠に答えなど出せないと知っていながら、私自身の性質について悩み続けています。自分自身を騙しているような感じに囚われて、私自身という得体の知れない何かを確かめたいという思いが強まっていきます。しかし、それ自体が欺瞞に陥りやすい倒錯的な課題であるために、私はただただ漠然とした散漫な思考に耽っていくばかりなのです。そして、どうしてこのようなことを考えているのかさえ分からなくなっていきます。いつのまにか道を踏み外すような危うい思考の枠にはまることもあり、それに気づいた時に自分自身で驚いてしまうこともあります。


 そういった時には、私は意図して昔のことを思い出そうとしています。昔のことを思い出すこととは、すなわち私の求めや自我が生まれ出たころ───幼少期まで遡ることですが、自分がこれまで辿って来た道程を振り返ることによって、人生という長い道程における私の現在の位置はどこかを確かめなければ、未来に自身を繋げることが難しくなっていくと感じるからです。


 私は幼少の頃、人形や模型で遊ぶことが好きで、種類の異なる物同士を集めては、独自の空想の世界観や設定を作り出し、人物の台詞や効果音、客観的な語りなどまで一人で演じるのが楽しかったことを憶えています。人形たちは大抵の場合、剣や銃などの武器を持ちながら戦争や愛憎の物語を演じるのでした。武器などを手に持った人形を私が持ち、それらをぶつけ合わせることが楽しかったのです。私は即興の物語に机上で汗をかき、自分以外の誰に見せるでもない世界を想像していたのです。その物語に背景が必要になれば、身の回りの物を活用して、空想の姿に見合うようにしました。私の空想の世界では分厚い辞書は岩や砦になり、消しごむや瓶の蓋などは人形たちの椅子や枕になりました。武器をぶつけ合わせる度に銃声や剣の交わる音などが私の口から発せられ、人物の喜怒哀楽を表す台詞や物語を補足説明する語りも同じく発せられるのでした。


 当時の私にとっての人形や模型遊びの楽しさは架空の世界を作り上げて、自己没入することができるからだったと思います。私自身がそれら人形や模型などを塵から創造したわけではありませんが、その机上にある限りの物は全てが私一人の想像力の産物であり、その世界を否定したり、意見したりする存在はいませんでした。当時は全くと言ってよいほどに客観性が生じなかったために、誰の目も気にすることなく、恥じ入ることもなく、自分の世界を作り上げていました。


 しかし、そのような時代も今となっては遠く、月日は巡り、いつからかもう私は人形や模型などで遊ぶことがなくなりました。その頃のことを思い返すと、拙かったけれど自由に自分の世界を無邪気に楽しく作り上げていた頃が懐かしいです。以前、物置の奥に眠っていた思い出の人形や模型に触れてみたのですが、何も想像力が働きませんでした。それどころか、どうして私はこのような物に夢中になっていたのだろうと、手に持って不可思議に思うに至りました。その人形や模型からはもう何も物語が発展することはないのでした。私はできることなら、夢中になって人形遊びをしていた頃の心を今でも持ちたいと思っています。ですが今では、幼少の頃のような遊戯は例え周囲に誰もいなくても、つい恥じ入る心の方が勝っています。自分自身がついていけなくなったのか、あるいは逆に自らを置いてけぼりにしてしまったのか───いずれにせよ、もうあの頃には戻れないのだと感じます。今の私は別の対象に関心を持っていて、かつての興味とは異なる方向を向いていることがわかります。いつからか幼少の頃に励んでいた遊戯を私は忘がれてしまっていたことに気付きます。そうでありながら、当時の楽しさを求める心は残っているように自覚しています。年を経て、大きな意味合いを感じられない楽しさに私はどうして情熱を注いでいたのか───今はただ、幼少の頃の無垢な楽しさを思い出しては追いかけるに留まるのみです。