感情の追伸

    日々の随想を綴っていると、しばしば書き上げてから、どうしてもその内容に収まり切らない思いが湧き起こってくることがあります。それは、その完成した文章のまとまりの後にそのまま連結させられるわけではなく、間に挿入すれば良いわけではなく、場合によってはつい先ほど書き上げたばかりの内容に反するような感情であることもあり、私は遣り切れない思いを抱えることになるのです。すぐにまた別の稿として書き始めることができるならば、この感情も居心地の良い場所に落ち着くことができるのかも知れませんが、そういったことは私には難しく、自分自身の矛盾や破綻に胸が苦しくなります。知的な文章の書き手はしっかりと自分の内に何かしらの体系に基づいた一貫性を有しているものですが、私はそのような存在からはかけ離れています。ある思いを形にする文章が完成したとしても、一か所に留まることを知らない思いがあり、それをどのように表現すれば良いのかが今の私には分からないでいます。


 毎週のように、こうして随想を綴り続けること自体は苦ではありません。随筆は日記よりも自分の感情や思いに正直になることができます。随筆を書く時間は私にとって安らぎの時間でもあり、自分の自由な思いを大切にできる、今の私にとって生活の彩りでもあります。私はこの随筆において何か正しいことを言おうとは考えてはいません。一つ一つの随筆は私自身の断片のようなものですが、その断片は未だに全体像において正しい自身の位置を見出し得ません。後から読み返すと、自分の愚鈍さに呆れかえることもありますが、なかったことにしようとは思いません。失敗も成功も自分自身という謎を解くための手掛かりだと考えているからです。


 随想を記していると、自分自身を内省しなければならないのですが、記しながら自分の意識に反旗を上げる思いが出て来ることは随筆を続けている中で最も不思議なことであり、楽しいことです。しかし、そのように湧き起こってくる思いに耐えきれない、向き合いきれないでいる私も同じ時に認めることができ、それが苦しく、また悔しいのです。このような思いは私自身に更なる内省を要求することになります。自己に対して誠実でありたいと願う分だけそれは向き合い切れない自分自身を見出すことになり、さらにまた苦しく、悔しい思いを抱えることを強いるのです。自分自身を追及する行いは決して客観的に正しい結果を私にもたらしてくれるわけではなく、また特別な達成感もなく、具体的な目標にもなり得ない虚無だと思うこともあります。


 今回、私はこのように普段は書ききれない追伸の概要を本文として随筆を記しているのですが、もしもいつか私の記す全ての本文が遣り切れない思いの追伸となることがあったとして、これまで記した文章の意味が塗り替えられることになって、そうしたら最後には形にならない思いだけが残ることになるのかも知れません。私の心のみならず、私が記す言葉にどれだけの意味が見出せるのか、書いている当人ですら疑問に思わずにはいられません。今も随筆を書きながら、私の内にまたどこからか別の感情が生まれつつあるのを感じます。それはこれからも私をこの随筆に駆り立てるものになります。そういった変遷を経て、自身に別の感情を認める時、私はこのように思わずにはいられません。───そもそも人の思いとは収まりのきくまとまった形をとるのだろうかと───。