2024年7月度の句会についての所感

「「季語を考えましょう」?
投句する以上季語を考える選ぶなんて前提当たり前でしょ?
私が雑に季語を選んでいるとでも思いましたか? 
私はその様な、
俳句に対する、季語に対する冒涜の如き行為は一切しませんよ

2024年7月度の房州オンライン句会に参加しました。
結果は、主催者である亀山こうきさんのサイトで発表されると思います。

まず、他の投句者の方へのお詫びを申し上げます。
特選、並選、気になった句を選べず、何のコメントもできませんでした。
大変申し訳無く、失礼な事をしたと心苦しく思っております。

ただ、言いたい事があります。
「選句期間があまりにも短過ぎるので、もっと長くしてほしい」

何しろ、50句を超える作品が投句されているのですよ。
私はパッと見で、大雑把な選句や評価なんて絶対にしたくないのです。
よく論理的に吟味の上で適切に選句・評価したいのです。私ならね。

まずは品詞分解して単語の意味を調べ再確認し、句の構造
しっかり把握し
理解する自分の感情感想なんて最後でいい。
何故なら、そうしないと作者に大変失礼ですので。
また、投句は作句する以外に、ストックの中から出してできますが、
選句や評価はそれができません

ちなみに、私は以下の2句を投句しました。
① ゆく夏や蜩交じる蝉時雨
 帰省せり迎ふる祖母の小さき手ぞ
結果は①が0点、②が3点。まぁ、妥当なところでしょう。

ここでも気になることがあります。もうね。直接面と向かって反論したい。
①に滝口照影さんから、以下のコメントが寄せられました。
「季語を考えましょう。」

私は以下の様に思いました。ごめんなさいね。本当に呆れましたから。
「私なりに季語を考えたからこうなってるの。文句ある?
よそ様へ投句してる以上季語を考えるなんて前提当然でしょ。
先生なのにそんな事も分からないの?
何の受賞歴も一切無い素人にこんな事を言わせるの?
それに、私に季語の何をどの様に考えてほしくてそのコメント書いたの?
理由も書かれていないし、そんな書き方で分かる訳が無いでしょ。
何をどの様になぜ」が無い。ただ「季語を考えましょう」との
上から目線。何様なの? 「俳句の先生」だから何?
俳句の先生・指導者だろうとアマチュアだろうと、
レベルに関係無く俳人は俳人私も本気で取り組んでるの。
得られるもの(思考の材料)が私に全く無い失礼なコメントだな。
本当に腹立たしい。もどかしい。今度からは具体的に書いてほしい

ちなみに、この句の原形は「七月や蜩交じる蝉時雨」で、
2022年7月26日(火)のエピソードをその当日に作句しました。
この時はまだ歳時記や季寄せを持っておらず、
季語は全てインターネットで調べておりました。今年になって最新の
新版 角川季寄せ』(2024年1月24日 初版発行)を
買った後にもう1度季語を調べて、季語「ゆく夏」を知りました。
「今までしっくりこなったけど、上五の季語はこちらが断然良い
私の夏への惜別の情を表現できていると、客観的に判断できる
残り2つの季語は実際の景の音の情報なのでこのままが最適」と
推敲の上で判断し、「ゆく夏や蜩交じる蝉時雨」を完成句としました。

自句自解は俳句の世界では嫌われますが、解説の為にいたします。
まずは
テレビ番組『プレバト!』の俳句コーナーで有名な夏井いつき先生の
お言葉を引用いたしますと、これは「基本形」と呼ばれる型です。
具体的には上五に季語を置いて「や」で詠嘆し、中七下五で1フレーズ
そして名詞止めになっています。
後ろ側から作り、取り合わせる頭の季語を最後に考える」という
極めて基本的な作句方法です。

次に季語
ゆく夏(晩夏)、蜩(初秋)、蝉時雨(晩夏)
晩夏同士の季重なり、且つ晩夏と初秋の季違いです。

そして句意の景
夕方に、夏の蝉達のとても大きな蝉時雨がしていて、そこに小数の
蜩の鳴き声が交じっておりました。家のすぐ近く。裏は山です。
「えっ? まだ7月なのにもう蜩が鳴いてるの?
聞こえている蝉時雨は夏の蝉達なのに」と思って家に帰って
掛け時計の日付を見ると、「7月26日(火)」の表示。
「ああ。もうすぐ夏は終わってしまうのか。残念だな……。
どおりで蝉時雨に蜩の鳴き声が交じっていた訳だ」との思いが
句になっているのです。実に素直でしょ?
俳句は実体験を素直な気持ちでありのまま描写するのが最良
これが私の信条です。皆さんもその様な気持ち、ありませんか?

最後に、句の構造と3つの季語について。
中七の季語「」、下五の季語「蝉時雨」は
蝉の鳴き声という共通点があり、違うのは季節感。
感動が無くはないのですが、この2つの季語は音質と音源の情報としての
機能程度
であり、この句においては季語としての力は強くないのです。
それこそ「この句においては、私は季語として使っておりません」程。
最後に上五の季語「ゆく夏」。
この季語は映像も音声も無く五感の情報は一切無い時候の季語です。
でも、とても大きな季語なんですよね。
短歌を嗜んでいる方ならご存知でしょうけど、「秋の暮」という
和歌の時代から使われていた伝統的な季語がありますが、
それに劣らぬ程の大きさや力強さを持っている晩夏の季語です。
ゆく夏」が主季語、「」と「蝉時雨」はセットで脇役の季語なのです。

今度は、読者の視点から「ゆく夏や蜩交じる蝉時雨」の句を
読み解いて参ります。
スタートからいきなり「ゆく夏」という大きな季語が出てきて、
「や」で詠嘆して強調されています。
「「夏が終わってしまう!」と作者は悲しみか、寂しさか、嘆きか、
その類の気持ちなんだろう」。中七へ入ってすぐ「蜩」が出てきます。
「えっ? 先程「ゆく夏」と書いてたよね? 何故ここで蜩?
まぁ取り敢えず先へ進むか」。直後に「交じる」が続いています。
「蜩が何かに(判別がつく程度に)交じる。それは姿? 鳴き声? 場所?
何だかよく分からないけど先へ進むか」。
そして最後の着地が「蝉時雨」。
「夏の蝉達が一斉に鳴いている声の大きな音の事だな。
一斉に鳴き出したり止まったり。ああ、そういう事か。
先程書いてあった「蜩交じる」は蜩の鳴き声が蝉時雨に交じっているのね。
蝉時雨は晩夏の季語なので、本来なら蝉時雨に交じらない筈の
蜩の鳴き声が交じっている
。蜩は初秋の季語よね。
最初に晩夏の季語「ゆく夏や」があったので、まさに晩夏から初秋への
季節の変わり目
で、作者は夏が過ぎ去ってしまうことに対して
嘆いていたり、寂しがっていたりして、とにかく作者にとっては
夏が過ぎてほしくなかったという句なのね」

この様に読み解く事ができます。
つまり、季語3つは全てよく吟味した上で使っている訳です、私は。
それに対して「季語を考えましょう」と、それも先生たる者が
コメントしているのですよ。
「この人、本当に俳句の先生なの?」と疑われて当然です。

何の受賞歴も一切無い素人でもこの季語の使われ方は
読み解けるんですよ。この句から作者の気持ちも読み解けますし、
景も脳内に聞こえるんですよ。

季語3つによる季違い且つ季重なりの句は、実は先行作があります。
夏井いつき先生ご自身の動画チャンネル
取り上げていらっしゃいました。

高野素十 打水や萩より落ちし子かまきり

季語は打水:三夏、萩:初秋、子かまきり:仲夏
型は私の句と同じ基本形且つ名詞止め
です。
滝口照影さんは俳句の先生として、高野素十のこの句に対して、
「季語を考えましょう。」とコメントできるのですか?」という事に
なりますよね。また、「素十と私の句では何がどう違うの?」という事にもなりますよ、当然。「具体的に論理的な説明はどうなりますか?」と。
私は「ゆく夏や蜩交じる蝉時雨」を投句した時には既に素十の句を
存じておりましたので、後出しではありません
ですので、滝口照影さんは「俳句の先生」として、私に安易な言い逃れは
決してできなくなります。
俳句の先生ともあろう者が、素十の句「打水や萩より落ちし子かまきり」を
知らなかったとは言わせませんよ

何故なら素十のこの句を知っていて考察していないと、
季語3つによる季重なり且つ季違いの良し悪しの判断基準を
俳句の先生俳句の指導者として持っていない事になりますので。

ここには敢えて書きませんが、AIであるCopilotに質問してみました。
Copilotは、素十の句と私の句の共通点と違いを明確に示しております。
そして、どちらの句に対しても「季語の使用については問題は無い」と
答えています。これで論理面からの裏付けは取れました。
AIは感情を考察する事はあっても、
物事を感情的には判断しませんからね。

滝口照影さんは、千葉県の館山市俳句連盟に所属されており、
2020年度の房日新聞の俳壇選者でした。
いわば先生レベルなのです。

でも、選者や添削者の皆さんには冷静にお考えいただきたいのです。
私が参加しているのは以下であり、私の主催でも私のサイトでもない。
句会:『房州オンライン句会』、添削:サイト『俳句添削道場』。
両方ともよそ様のサイトを、私はお借りしている立場なんですよ。
なので参加する以上は、「季語を考えて、選ぶ」なんて前提当然
それこそ季語だけでなく、単語1つ1つを厳選する」程。
大雑把に季語や言葉を選んで投句するなんて論外即刻ゴミ箱行き
品詞分解と句の解析の結果、「どう考えても雑な句」があったなら、
そんな句なら自分のサイトやSNSにでも書けば?」と思いますよね。

とても大切な事ですので、繰り返します。
先生レベルなら、こんな事位は最初から分かり切っているでしょう?
季語の何(配置、種類、語そのそもの等)私に考えさせたいのかを
具体的に書いてください
ね。何故わざわざあんな書き方したの?」と、
私は言いたいのです。季語を考えて選んだ結果があの形ですから。

相手の鑑賞・作句レベルを推し量った上でそれができないのであれば、
それは先生と呼ばれるものではないのです。有名・著名な俳人であっても
滝口照影さんは先生とお呼びするに相応しい」と判断できる行動や言動が
見られない限り、少なくとも私は先生とはお呼びしませんし、認めません
あの様な指摘のし方なら、少し俳句をかじれば誰にでもできますので。
先生レベルなら先生レベルの事をなさってください
アドバイスの仕方1つであっても例外ではないのです。
できるから「俳句の先生」なんですよね?
できなかったら先生ではなく、俳人。勝手に他者が先生と呼んでいるだけ

私は句の推敲や評価の判断に以下を使っております。
季寄せ、国語辞典、古語辞典、AI、インターネットの情報
何の受賞歴も無い素人でも、ここまでしております
繰り返しますが、投句する以上は、選句する以上は、
私に言わせればここまでして当然。単語1つ1つ
それをせずに投句するなんて論外。また、
何も調べずに、よく吟味せずに他者の句を論評・選句するなんて論外

ここで、「そこまで言うお前は、一体どのレベルだ?」との
反論は当然考えられます。ですので、2024年7月29日(月)現在の
以下の情報を載せておきます。

作句歴:約2年、俳句鑑賞歴:約3年、受賞歴:無し
短歌の創作歴はブランクを含めて約5年、受賞歴:無し
短歌鑑賞や創作が先であり、そこから俳句へも進出
サイト『俳句添削道場』のデビューは2024年3月29日(月)
現在、同サイトでのランクは師匠15段、合計点:162点
(↑病状悪化の為、5月は殆ど参加せず、6月は全く参加せず
↓以下の実績をお持ちの山口雀昭さん↓
「HAIKU日本の写真俳句」にて
2019年秋「青空をわが物顔の花芒」
2020年「デデッポッポ夏の悲しき野鳩かな」
2022年「秋まつり鬼灯ならして帰る道」
2023年秋「青空を我が物顔の花芒」、冬「冬花火窓を開ければ西の天」以上全て秀作
「夏井いつきの365日俳句」で特選を獲得されていらっしゃる
その山口雀昭さんが『俳句添削道場』に投句なさった
菖蒲湯の香りに浸り唱歌かな」の句の問題点を具体的且つユーモラスに
指摘し、私の添削提案「菖蒲湯の香り爽やか唱歌かな」で、
山口雀昭さんに「大変勉強になりました。添削いただいた
「菖蒲湯の香り爽やか唱歌かな」。この御句いただきます
いつもありがとうございます。これからもよろしくお願い致します」と
言わしめた程の鑑賞力、作句力が有る。

長くなりましたので、別の記事に書きたいと思います。
今回は以上です。
長文を最後までご覧くださり、ありがとうございました。

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