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駄文なので読まなくていい話(2024.1/14の日記)

 アルバイトの日。今年初だったので、社員の人やアルバイトの後輩たちと「今年もよろしくお願いします」の挨拶をして業務を始めた。そこまで忙しくならず、年末のせかせかがちょっと落ち着いたのかなと思う。

 アルバイトの後輩と、帰省して何をしたかおしゃべりした。成人式どうだったんスか、と聞かれたので、友達と最近オススメのアニメ・漫画の話をして帰ったよと答えた。後輩にもオススメを聞いたら、地元の友人と同じアニメを挙げたので帰ってから見た。
 そしたらめっちゃ良かった。いっきに18話見通してしまった。話題の作品を避ける逆張りオタクなので、「ふーん、なんか盛り上がってるね」でタイトルだけ知っていた。見て良かった。私のファンタジー好きの良いところを突いてくる。

 長命種の主人公が回想するシーンがたくさんある。回想の中の主人公がフェードして、現在の主人公の表情に重なる描写がたくさん用いられているのだが、何十年と経っていても姿が一切変わらない。勇者パーティーの他のメンバーは年をとったり、亡くなっていたりする。現在冒険を共にする人たちとも時間の感覚が違うのが切ない。時間って限りがあるんだな~と思う。あと私も魔法使えるようになりたい。

 最近読んだ勇者パーティーのミステリー小説が重なって、ファンタジーで冒険で仲間で、という物語への憧れがむくむく育っている。今読んでいる小説も魔女が出てきてほっこり面白い。

 この魔女の小説は、YouTubeでオススメしている人がいてなんとなく買った。本を開いてみて、小学生のとき夢中で読んでいた物語と同じ作者が書いていると分かった。びっくりして、懐かしくてちょっとうるっとした。当時毎日図書室に通っていた。大抵魔女や妖精や錬金術師や、ゴブリンや魔王や魔法のたくさんが出てくる物語を読んでいた。自分はいつの間に魔法を信じなくなったのかなと思った。

 よく思い返すと、小学生のときだって本当に魔女や妖精がいるとは思っていなかった。4年生では詠唱する系の子どもになっていたけど。それはまた別の話で。魔法があるとは思っていなかったけど、そういう不思議な出会いの可能性を考えて毎日わくわくしていた。目に入る不思議なことを特別なものに変換する能力が備わっていたと思う。

 黒猫を見かけたら「ついて行けば魔女の家にたどり着けるやつだ」と考えていただろうし、始めて見る青い花は、夜に光る妄想をしていただろう。これだ、本質はこれだ。自分でわくわくできる能力だ。目にしたものを自分が楽しくなるように変換して飲み込む遊びをしなくなった。いや、今もしているけど、変換の仕方が変わったのだ。今はもっと現実を見ている。

 非現実な妄想に繋げることがほとんど無くなった。木々がざわついても、もう「何かがやって来る」と考えなくなった。経験豊富で冷静に怒るオジサンを見ても、もう「きっと若い時海外で殺しを習ったスパイなんだよ」とは考えなくなった。置き換え方が違う。

 出会った人を「物語の人物として認識する」のは今でもやっている。でも、例えば理不尽に怒る人を「そういう漫画でいる人だな」と思う程度だ。解像度が違う。私が魔女の小説を読んで感じている「魔法を信じなくなった」は、きっとこういうことだと思う。

長ったらしくよく分からないことを書きました。純粋に魔法を信じるあの頃に戻りたい、という日記でした。

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