見出し画像

今日の一福

2024/03/18


 象牙色のスライドドア―。
 中はこぢんまりとした診察室。白衣に眼鏡の老人がひとり。ファイルに目を落としたままもぐもぐ言った。

「やあ、ジョン。入りなさい。調子はどうかな」
「えっ、ドクター? いつものドクターは」
「彼は急なオペでね。代わりに私が話を聞こう。もちろん無理にとは言わないが」
「いいえ。でも、僕はジョンじゃないです」
「そうかね、ジョン。ええと、君はそう…当院の治療を拒否したそうだね」
「拒否だなんて! 先生、僕は信じられないだけですよ」
「と言うと?」
「犬です!」
「ふむ?」
「犬をやったっていうじゃないですか! 自分が犠牲になるのは嫌だからって、あいつら…。それも片道切符ですよ。ひどい話だ。全部で57回…8回だったかな。戻ったのもいるんだったかな。はじめての子はライカっていうメス犬で………」
「…」
「と、とにかく、とんでもない虐待じゃないですか! かわいそうだ。信じられない。それがあいつらの持続可能な社会ですか。幸先良い未来ですか。地球ってのはイカレてますよ!」
「それで? まともな君はどうしたいのかな?」
「ヴィーガン食は出してもらえませんか」
「うちはレストランじゃないんでね。だが君にそういう要望があるなら、他に紹介状を書いてもいい」
「僕を追い出すっていうんですか」
「いや。だがここは病院だからね。病院は治療をする場所なんだよ。我々の方針、我々のやり方で。それを嫌だというなら…」
「薬は出してもらえるんでしょうね」
「おや、君は薬は飲むのか」
「まさか薬までもらえないっていうんですか」
「君のその薬のひと粒に、何千何万のライカが犠牲になっているんだがね」
「えっ」
「ライカはまだいい。彼女にはとりあえずでも名前があった。だがその薬のひと粒になったライカたちは? 何千何万のマウスかラットか、これに至るまでの膨大な実験動物の無名の命は、君の命に劣るというのか。それともマウスより犬の方が尊い? かわいい? 君のお好み?」
「そ、そんな! それとこれとは」
「落ち着いて。これは尋問ではないからね。君がどういう魂なのか。何を思って何を考え、これまで何を行い、今後どうしていきたいのかを明らかにする。それがこの私が君にしてやれることだからね」
「………あなた、あなた誰なんですか。なんなんですか。本当は」
「ジョン」
「僕はジョンじゃない!」
「では、誰かね」
「……………」
「いや、いいんだよ。くり返すようだが尋問ではないからね。裁判でもない。強いて言うなら…で、どうしたいんだったかな。この地球から脱出したい? その、ライカのように?」
「さっきから」
「ん?」
「その羽ペンで何をしてるんです」
「当然、記録だよ。君の心音は愉快だな。言うだろう―――灰は灰に塵は塵に。目に見えることはいちいち違ったとしてもだね。君らみんなおんなじなんだよ」
「なんのことです。なにを」
「そんな大声を出しなさんな。安心なさい。地球はおそらくこれからも自由に大らかに持続していく。君らのご都合通りとはいかんかもしらんがね。大昔からそうしてきたのだ。淡々と、粛々と、大ベテランさ。そう心配なさんな。安心なさい。君らが持続可能かどうかは端から問題にもなっとらんのだ」
「も、もう、もういいです。もう帰ります―――ドアは」
「お好きに」
「ドアはどこだ!!!」
「片道切符」
「えっ」
「ライカだけじゃないんだよ。君もようやく安心したろう。まさか嫌だってことはないだろうね?」

 バチッと音。
 おえっとムカついて寝返りを打った。午後。時計は15時を過ぎていた。
 「起きたか」という夫の声。それに電子タバコの煙のにおい嗅ぐうち、みるみる象牙色の光にとける夢の色合い。………

「………じょん」
「なんだよホームズ」
「人類がたいへんだ」
「やめとけ」
「なんかあたまわるい夢みた」
「どんな」
「わすれた」
「へーえ!」

 ブッと屁でもコクような調子で行ってしまった。
 が、すぐに戻ってきてコップをくれた。「水飲め」と。まあ安心しろと。

「マジで大変なら忘れないだろ」

この記事が参加している募集

#スキしてみて

525,870件

#SDGsへの向き合い方

14,661件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?