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葉桜
満開の桜よりも、葉桜を見る方が好きだ。
散ってゆく者と新しく芽生える小さな始まり。
大切な春を、過去を思い出させてくれる。
それなのに世間は、満開指数だとか公園でお花見だとか、満開を良しとし葉桜を見れば「残念だったね」なんて話して喜んでいる。
だから僕は、誰かと桜を見るのが好きじゃない。
自分の感覚が人と違うと思い始めたのは、小学校1年生の頃だった。先生の指示を間違えて受け取って、間違えた答えを作っていた。
強がっておバカなキャラを演じてみたけれど、やっぱり人と違うのはなんだか怖くてさみしくて、間違いを指摘されるのにいつも怯えていた。
だからいつも考えて考えて動いてみたけれどやっぱりダメで、から回った問題児は自分の事を否定する癖がついていた。
小学校の先生に精神カウンセリングを勧められた頃は、なにをするにも他人を真似て、いっつもびりっけつだった。
大人になってもやっぱり世間の当たり前とは違った場所にいて寂しかったけれど、1人だけおんなじさみしさを持っている人と友達になった。
人と違うから、わかろうとしても、わからない。
わからないということは、共感できないという事だ。
共感できないということは、もしかしたら誰も愛せないのかもしれない。
それくらい人の気持ちが分かるって大切なんだと思う。
夕方のニュース、今日もどこかで誰かが死ぬ。
僕たちはなんだか笑ってしまう。
朝のニュース、障害者が差別にあった。
僕たちは想像をして笑ってしまう。
感覚がズレてるって、生きている事すら罪なのかもしれないと感じてしまう。
友人も、恋人も、親戚も愛せていないのかもしれない。
世界の正しい愛は、離れている時もお互いを思い合っているそうだ。
僕にはそれができない。今目に見えているものの事しか大切に思えない。
それが凄く誇らしくて、申し訳ないなと思ってしまう。
だから僕は、自分のことしか書けない。
あんまり生きてないほうがいいな、と思って今日も冬を待ってる。
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