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「私らしさ」の、その先へ

コーチングを始める前から、コーチングを始めてからも「私らしさってなんだろう」はずっと私の中の大きな問いだった。

私らしいことが分からない。
どれが本当の私?
私のやりたいことって?

「私らしさ」の探究は止まることがなかった。

そして、ある程度探究は進み、「あ、もうあったわ」という感覚になった。「私らしさ」の輪郭が見えた。

いつからだろう、今度はその輪郭に縛られるような感じが出てきた。

もう、この輪郭すら手放していいんじゃないか。
手放す時なんじゃないか。
「私らしさ」の、その先にある世界があるんじゃないか。
そんな感覚を得るようになった。

このnoteは、そんなその先につながるような、そんな思いを込めて書いてみる。


2024年6月

ここ数年、私にとって6月は、1年の中で節目になるようなことが多い月。休職したり、リモートで仕事を始めたり、個人で仕事を始めたり。良いことばかりではなかったけど、ただ、変化のきっかけになるようなことが起こっていた。

今年の6月も、何かあるかもな。と思っていたら、やっぱりとっても濃い月になった。場を開いたり、自分の中で大きかった家族の問題が完了したり。一旦、自分の中で見えていた、目指していたものを達成していった。

完全に分断されていたように感じていた世界が少しずつ混じり合い、自分の中のバラバラだったものもゆるりと混じり合っていき、気づけば、内から外に出ている。そんな感覚になっていた。

見たかった世界が見えている。満たされたいる。
ここから先は、それがずっと続くのかも。と思っていた。

はずなのに、、、


2024年8月

あれ??

なんか、何かが物足りない。感じがする。

自分を発揮して生きている感覚はある。腕も伸ばせないくらいの窮屈さを感じていた以前とは、比べ物にならないくらい、手足も含め全身をのびのびと使っている感覚がある。

なのに、「まだ。もっと。」「全然こんなもんじゃない」って声がきこえる。
不完全燃焼感。

「限界を決めたくない。」

誰かに求められるからとか、そうしていないと私の価値が無いから。という感覚ではなく、ただ自分の中から、もっとあるんだ。と、そう聞こえる感じ。

え??何??

もう何かするとか、大きく変化するとかめんどくさいんですけど!笑

って思っても、うずうず感。ムズムズ感。が全然拭えない。

なんなんだろう。この出し惜しみ感。


2024年8月7日

そんな時、アドベントカレンダーが始まった。

コーチ仲間が開催している、「コーチたちのつながり、コーチングの広がりを目的」としたnote企画。ひとつのテーマにそって、それぞれが想いをnoteにつづり、繋いでいく。(下記マガジンに、私のこのnote含め、みんなの投稿が載ります。)


テーマは、「陽炎(かげろう)~今見ている物語~」


初めてテーマを見た時、
「いまここ」ね!!
と、超〜〜雑な、拡大解釈をした。笑
(我ながら本当に雑すぎる。)


「いまここ」なら、自分の番のその日に、その時感じたことをサラッと残そうっと〜くらいの気持ちだった。

なのに、毎日アップされるみんなのアドベントカレンダーnoteを読んでいると、私の何かが突き動かされた。

みんな、本当に純粋な自分のいのちの声を綴っている。そう感じた。

誰かのためとか、誰かにどう思われたいとか、自分をこう見せたいとか、そんな思いからじゃなくって、自分のうちから、底から溢れる想いを言葉にしている。そんなものを受け取った。

それから、私も、noteに向き合い始めた。

私は、いま、何を見ているの?
私は、何を伝えたい?
私は、どう生きたい?


問うているうちに、やっぱりまだまだ自分を発揮しきっていないな。と思った。


なんとなく、私はイメージ的に、ふわふわぁ〜みたいなイメージがある。自分にもあるし、周りにもそう思われているという自覚もある。違わなくはないんだけど、


ただ、「猫かぶってるな、私」と思う時もある。


近しい人たちに、「猫かぶってる」と言われたり、「何を出し惜しみしてるん?」と言われることもある。


たしかに!!!!

私ってもっと、ふわふわぁ。な感じだけじゃなくて、毒舌的で、ドライで、冷静な感じもあるのだ。

それに気づいて、そしたら毒舌全開でnoteを書いたろか!みたいなモードになり、そうして、一度、6000字を超えるnoteが出来上がった。


あーーー!書いたぜ!スッキリ!!!
こんなこと思ってるよ!!!私!!!言ってやった!
これが!!!私の思っていることです!!
と何かをブツけるようなことが書けたし、

書くことで自分の中で気づきは色々あった。

だけど、書き終えて、読んで、

「で???」

って思った。

ただ何かに殴りかかっているような、そんな感じで、
全然、私のいのちの声が聞こえない。と思った。


私のやりたいことは、ただ自分の思いをぶつけることなの?

いや違う。

だけどじゃあ、どうしたら良いわけ???

猫をかぶっているとしたら、
かぶっている何かを脱いで、その先に何があるの??


あーもうめんどくさい。

別にいいじゃん。今のまんまで。
猫かぶってって何が悪い!被りたいからかぶってんだ!
ふわふわぁ。な私いいだろ!?

どうせまた、自分の奥底に、暗いシャドウでもあって、なんかややこしいことになってるとか、うんちゃらかんちゃらなんでしょ??(適当)


はぁーめんどくさい。


また試練???めんどいめんどいめんどいいいい!!!


と、いうやけくそ、投げやりモードな日々をちょっとの間、過ごしていた。

前置きが大変、長くなりましたが、ここからが本題!!笑

そこから、セッションも受けて、だいぶ落ち着いた。

自分の中で、今なら、願いベースで何かが書ける。そんな感覚になったので、書いてみる。


「陽炎(かげろう)~今見ている物語~」


私は、今、何を見ているのか。

コーチングをしていて、感じることがある。


一人一人のイマココが尊く、美しくあり、かけがえのない物語であると同時に、ふとセッションから離れて現実に戻る感覚があるとき、


あぁ、みんな、「今、この時代を生きる私たちの悩みをもっているんだなぁ。」と感じる。そして、世代を1つ超えるくらいでも、あぁー、結局同じ悩みだねぇ。と感じる。


私たちは、忘れがちだけれど、たった1人でこの世にポッ!と出てきたわけではなく、何千年の歴史の中の1人として、生まれて生きている。歴史を背負って、共通の社会で生きている。


普段、自分の日常を生き、色々な現実にぶつかると、自分はとてもとても個人的な悩みを抱えていると思う。だけど、個人的だと思えるそのことは、実は、全然個人的なことじゃなく、社会の問題だったり、みんな持っている内面化されていることだったりする。


こうして文字にすると、すごくドライに見えるかもしれない。コーチングマインドどうした?と思うかもしれない。(私自身がきっと一番そう思っている)

別に、一元化して、「だから、あなたの悩みや思いは大したことがない。」
「みんなおんなじような悩み思っているよー。悩む必要ないよー。」なんて言うつもりは全くない。


ただ、両方の視点があってもいいんじゃないか。と思う。

自分個人のものとして、内側に向き合い切る。

その上で、あぁ、今生きている社会があって、その中にいる「私」という存在をもっと俯瞰して捉える自分。

私は、なんと無くだけど、自分の暗い部分に向き合うのが、そこまで怖く無いような感覚がある。


「気づいてしまった。私の中のこんなに暗いものに。」と思い、絶望するというよりも、

「あぁ〜、そうやって社会に思わされてきたよねー。(よしよし)」

「また、この社会のトラップにはめられていたか!(っくそ!)」

「私に暗い影を落とすような発言をしてきた、あの人も、同じように社会のトラップにはまっているな!(ふむふむ)」

というような感じで、俯瞰して見ている自分が常にいる感じがする。


これもあんまり良いばっかりでもないと思っていて、自分の中にある感情は、感情のまましっかり感じ切りたいと思っている。それこそが私自身だから。ここが取り残されたままだったのが、コーチングに出会う前の私。


だけど、俯瞰した視線を常に持てるからか、自分の内面に飲み込まれるような感覚はあまりない。


私は、自分がそんな風に俯瞰して見れるのは、生まれ持った能力とかそんなのじゃなくって、大学院生の時に、ジェンダー・フェミニズム研究の考え方に出会っていたからかな。と思っている。


「The personal is political(個人的なことは政治的なこと)」


誰か1人の個人に起こっていることは、社会の構造的に起こっていることで、みんなに起こっている。という考え方。


逆に言うと、一人一人が声をあげれば、それが他の人の共感を呼び、連帯していき、社会を変える政治的な力にもなっていく。ということ。(多分)


私解釈すぎて、心配なので、Wikipediaも引用しておく。

個人的なことは政治的なこと(こじんてきなことはせいじてきなこと、英語: The personal is political)は、1960年代以降のアメリカにおける学生運動および第2波フェミニズム運動におけるスローガンで、個人的な経験とそれより大きな社会および政治構造との関係を明らかにしようとする言葉である。

Wikipediaより


私は、大学院生の時に、この考えに出会った時、「!!!!!」と衝撃を受けた。


そうなのか!!!
私の抱えている悩みや問題は、私がおかしいからではなくって、社会的な構造の中で起こっているものなのか。と。
表面化しているものは一見違うものに思えても、みんなにおんなじようなことが起こっているのか。と。


「あなたのせいじゃない」
「あなたはおかしくない」
「あなたは1人じゃない」
とそう言われた気がして、肩の荷がスッと降りるのを感じた。


すごく自分を俯瞰して見れるような瞬間だった気がするし、望む、望まないに関わらず、社会の一員であることを感じたような瞬間でもあった気がする。

コーチングに出会い、
全ての感情はあっていい。
どんな感情にも良い悪いはない。
とただ、いのちを肯定された時と同じような、安堵感があった。


「The personal is political(個人的なことは政治的なこと)」


今、これを読んでくれているあなたは、このフレーズを聞いて、何を感じるだろうか。


私はずっと、この考えを、この考えに救われた私のことを、ずっとどこかでシェアしたいという思いがあった。


だけど、ただ、シェアするだけは違う。
みんな知ってる?私は知ってるよ!を言いたいわけではない。

そんなの、いのちの声にならない。

というところに戻ってくる。

やっぱりコーチングを愛する者として、
その奥にどんな想いがあるのか。を大切にしたい。
そこを伝えてこそ、人に伝わる。


私は、何を伝えたいんだ?

私は、この考え方をもつことで、「社会への帰属意識」を少しでも持つきっかけになるんじゃないかと思っている。

どんなに色んなものが混じっていく感覚が自分の中にあっても、それでも、やっぱり世界は個別化していて、分断されているように感じる。

家族、パートナー、友人、コミュニティー、会社。

そこにいるときは安心感があるけど、どこかに必ず囲いがある感覚がる。その囲いの外に出ることを想像したら、その囲い自体を失ったら、囲いの中の何かを失ったら。想像するだけでも、襲ってくる孤独感。どうやって生きていけばいいのか分からない。


私自身、いつ、その外に弾かれるのだろう。と怯え、
すでに今も、弾かれているような感覚をもつ。


物理的に周りに人がいても、所属がない。安心がない。居場所がない。という感覚に簡単になる。SNSでのつながりは、時に、つながっているのに、逆に孤独を感じることもある。


私はビジョンを描くのが苦手だ。
人生計画を立てるのも苦手だ。


それでもポジティブな未来を想像してみようとしてみる。


例えば、私はここ半年ほど、自分の次なる向かい合うべき未完了は、「素敵なパートナーを見つけて、結婚して理想の幸せな家庭を築くこと」だと思って、なんとなくアンテナを立ててきた。


あんまり具体的アクションをたくさんしたとは言えないけれど、逆にどうしてそんなに具体的アクションをしないのか考えて見た。


そしたら、想像していった先にあるのは、刹那的な満たされた感じ、幸福感で、その後は、小さな部屋に閉じ込められ、社会から孤立していく感覚が襲ってくることに気がついた。


他にも、どんな未来を想像しても、最終的にいきつくのは、
「1人だ。寂しい。怖い。不安だ。」
そんな感覚が消えない。


だけど、どうだろう、それって本当なの??
そんなことある?


だって、私たちは「悩み」を通してさえも、実は繋がっているんだ。悩みでさえ繋がれるのだから、少しの想像力を働かせたら、もう本当は、なんにもしなくたって、ただ、みんな繋がっている。

だから、何かを打ち明けると、誰かと打ち解ける感じがするし、こころを込めて伝えると、共感を呼ぶ。私たちは、願いでつながっている。

私たちはみんな、生まれた瞬間から本当に、この社会の一員なんだ。

社会の一員であるということ。

当たり前に感じるのに、この感覚を持つことはどうしてこんなにも難しいのだろう。

社会の一員であるということ。


これを意識できれば、帰属意識を持てれば、自然と、そこに対して自分はどうしていきたいか。という意識も生まれてくるんじゃないかと思う。

その結果、お互いに「ある」もので、支え合うような社会が生まれていくんじゃないかと思う。仲良しの友達に、自然と手を差し伸べたくなるように。


そうやって、支えあっていけば、私たちは安心感を感じ、居場所を作ろう作ろうともがいたり、居場所を探そう、探そうとしなくても、もう「いまここ」が居場所なんだと思えるんじゃないだろうか。

では、「社会」とはなんなのか。
その「社会」を作っているのは、私たち一人一人なんじゃないか。

コーチングで自分の内を見るのもとっても面白い。
その中には、社会も、外の世界も、反映されていると思う。

だけどやっぱり、私たちは日常を生きていて、今の現実を生きている。


自分や、自分の周りの人だけを責めて生きていくのはもったいない。
あなたが責めたい誰かも、この社会の一員で、その人だけのせいではなく、色々な思い込みを持たされている。


もっと顔をあげて、社会を見渡して、広い視野を持てば、そこにもう、必要なものは全て「ある」のかもしれない。

「ある」のは、「たった今ある」ものだけじゃ無い。
歴史も、過去の人も、生も死も超えてなお、紡がれているものも全てがある。
そんな全てが私たちのリソースなんだ。

もっともっとそれぞれが広い視野を持って、どう生きたいかを問い続け、聞き、話し、対話し、支え合い、共生していけるような世界を私は見てみたい。


じゃあ、その一歩として、個人1人1人が、できることはなんだろう?

「声をあげていくこと」

これに尽きるんじゃないだろうか。

自分の、思いを、考えを、まずは自分が気づく。
受け止めてみる。
声に出してみる。
誰かに伝えてみる。

別に何もかも、全てを誰かに開示する必要なんてない。

自分だけの秘密があってもいい。

だけど、もし、声に出してみたい思いがあるなら、出してみる。
いきなり出すのが怖ければ、安心できる場所でだけ、出せばいい。
今、そんな場がないと思うなら、1on1コーチングの場は、そんな機会になりうる。


私は、もっと自分の声を聞いていきたい。
そして、みんなの声も聞いていきたい。


そうすることで、私たちは、つながりがあることに気づいていけると思うから。


そんなイマココの私の感覚をこのnoteを通して伝えたくなった。

我ながら、とっても中途半端で、未完成なnoteだな。と思う。
まだまだ探求途中のものだけれど、今日、私のアドベントカレンダーのタイミングが来てしまった。


何か、問いへの答えというよりは、問いが生まれるような感覚。

私は、今、私自身に、みんなに、社会に、何かを問うていきたいのかもしれない。

それこそが、いまの私のいのちの声な気がする。

そこには、完璧さも、正しさもなくても、本物さはあるんじゃないか。

この状態で出すことは、私にとって、自分がいまいる場所を、社会を世界を信じてみること。そして、何より、そうしようと思っている自分を信じることのような気がする。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます☺️

アドベントカレンダーが無くては、今ここの想いに到達できなかったな。と感じています。

ひとりひとりが純粋ないのちの声をつないでいくことの尊さを改めて感じさせてもらいました。

開催してくれて、本当にありがとう☺️
書き切る勇気をくれた2人の言葉を引用しておきます。

わたしにとってアドベントカレンダーは、いのちを表現する場。

自分のいのちの生かし方を表現する。
読んだ人たちと共鳴し合い、新たな物語が紡がれてゆく。
いのちの循環が起こる。

まほちゃん

今ここで、何を見ているのか、何に意味を持たせているのかは、きっとそれぞれが意識しないと気づけない。
そして、伝えなければ他者にはわからない。

みどりん

本当に本当に最後まで、読んでくださり、ありがとうございます!

このnoteを書きながら、日常の中で私の感じたことのネタ帳みたいなものがいくつか出来上がった。
ここに全部載せちゃおうかと思ったけど、あまりに長くなりすぎて、読む気が失せそうだったのでやめました。

これから少しずつnoteにアップしていこうかな。と思います。(宣言!)

とはいえ、私はすぐに力むので、シャボン玉を吹くように。を忘れずに。楽しく、軽やかに。

このnote自体が、私のまたひとつの旅立ちのようなnoteになっている気がします。旅立ちの機会を、改めて、ありがとう!

そして、noteを書きながら、改めて、どうしてコーチングをしているのか。そんな理由を自分で知ることができたような気がする。

素敵な機会をありがとう。アドベントカレンダー。



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