「しない」というこだわり

 三年生になった娘が宿題で『自己紹介カード』を持ち帰ってきた。新しく担任になった先生が配ったもので、「これを書いて、明日はみんなの前で自己紹介してね」とおっしゃったのを私も付き添い登校していたので聞いていた。
 娘が嫌な顔をしていたのは言うまでもない。

 夜になり夫が帰宅。「今日は宿題やったのかな?」と夫。苦い顔の娘はしぶしぶ自己紹介カードを出すも「書きたくない」の一点張りである。
 娘は「しないこだわり」というのがめちゃくちゃ強い。小学校へ行かない、体操服を着ない、学校へ歩いて行かない、習い事をしない、宿題をしない、自分でシャンプーをしない、挨拶をしない、、、と、とにかく色んなことをしない。
 それはどうやら色々理由があって、人から指図されたことをしたくない、好きなことしかしたくない、恥ずかしい、こわい、など、さまざまな思いがあるらしいのだけど、自己紹介もとにかくやりたくないし、自己紹介カードもぜったいに書きたくないらしいのであった。
 それでも宿題やらせたい派の夫は「字はお父さんが書いてあげるから、質問だけこたえて。」と優しく促す。娘は目に涙をためて私の方を見る。
「いやだって言ってるんだから、むりに書かせなくてもいいじゃないの。」と助け船を出す私。「そんなこと言ったって、いやいやばかりで逃げてたらずっとこのままだよ、やればできるんだから。せっかくやろうとしてるのにじゃましないでよ」とめずらしくムキになる夫。全く連携のとれていない夫婦で恥ずかしいのですが、正直に書きます。
 夫の言う『やればできる』とは、以前に夏休みの宿題で絵を描かなくてはいけなかった時、案の定描きたくないと泣く娘をどうにか説得して描きあげさせた時のことを言ってるのだ。夫は娘に、成功体験を積み重ねて自信をつけさせたいと思っているらしい。

 成功体験をさせるというのは、幼稚園や小学校でもしばしば見受けられる。娘は年長の時に幼稚園の運動会に出るのがいやで、遅刻してどうにか行ったが、先生にどんなに説得されても競技にはでなかった。それでもなんとかなんとか、最後のリレーだけは出て、走りきることができたのだった。先生は「よかった、できたね!」と何度も褒めてくださった。私も、それはそれで素晴らしいと思ったし、娘をたくさん褒めてあげた。けれども、べつに出なくてもよかったとも思っている。
 成功体験なんて、それは本人らしいことで、そしてもっともっとハードルの低いものから積み重ねていけば十分だと思う、とくに今のような時期は。

 娘は人前で何かをするとか、人に言われたことをするとかいうのがとにかく苦手だけれども、自ら望むものにはすごく積極的なので、そういうことで自信をつけていけばいいと思う。泣かせてまでやらせて、何か意味があるのだろうかとすごく疑問に思うのです。

 それで翌日、また私の付き添い登校で教室に入った娘は自己紹介の時間に周囲からの圧力と闘うことになった。自分の番になり、こちらへ注がれるクラスメイトの視線、担任の先生からの視線。先生から「自己紹介、言える?」と言われても、答えることもできない。「パスしておく?」という私からのことばも、娘を苦しめているんだと思う。前の席で別の子のサポートをしていた校長先生が「やめておこうか、ね。先生、パスで。」と担任の先生に言ってくださったのでその場ようやくおさまった。
 こういう時辛いなと思うのは、常に周りが「やる」方向で進めているということ。初めから「やらない」という選択は、なぜかない。
「できる?やめる?」「やる?やらない?」と必ず聞かれる。これは娘にとっても、私にとっても辛い。だってこたえはもう決まっているんだもの、「やらない」と。娘は、家ならこう言う。「やるわけないじゃん」と。
 もちろん先生方もいじわるでおっしゃっているわけではなく、はじめから「この子はやらない」と決めてかかれないから、ちゃんと本人の意思を確認してくださるわけなのだけど、正直、なんどもなんども聞かれるのは辛い。もう、放っておいてほしい。その場にいるだけでオーケーとしてほしい。娘が一番そう思っているのだろう。

 だから結局は「学校へ行きたくない」となってしまう。
「しないこだわり」を周りに理解してもらうことは案外むずかしい。私も理解するのにすごくすごく時間がかかったし、現に父親である夫はまだ理解できていない様子。でも、そういう「こだわり」もあるんだと、できればいろんな人に知ってほしいと思う。そして、私もそれを先生に伝えるべきだと、これを書きながらおもった次第です。

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