ドレミからやり直す

久しぶりに投稿をします。
年明けから仕事がバタバタしていたり、他に優先すべきことがあったりと、文章を書きたいなと思いつつも手が付かず3月になってしまいました。
それでも書き記しておきたいな、と思うことがあったので記そうと思います。

最近、“音楽との付き合い方を見直す”というようなことをしました。なんだか大仰な話のようですが、「冷静に色々思い返してみたら、無茶苦茶反省すべきことがあった」という話です。
僕自身の心の整理のために記していこうと思います。

この頃、僕の周りでは音楽活動が活発な人たちが増えていて、皆それぞれ個性を活かした活動をしています。新しく音楽を始めた人も増えて、とても喜ばしいことです。
一方、僕はその環境の中で、何をやってもウンチクばかりで実力が伴っていないという事実が次々露呈してしまい、それに心をすり減らしていました。挙句「果たして僕が“DJ”だとか“音楽好き”を自称して良いのか」と考えることが増えました。ですから現場からも少し距離を置いていました。
そうして悩んでいるうちに「そもそも自分の音楽との付き合い方に問題があるのではないか」と考えるに至り、ある日「なぜ音楽をやりたいと思ったのか」という所に立ち返ってみることにしました。初めて音楽をやろうと思った時のことを思い返してみたのです。

僕の音楽の始まりは小学生のとき。
邦楽のロックバンドに憧れていて、初めてギターに触ったのは小学5年生。亡き伯父が譲ってくれたガットギターです。その頃はロキノン系というか、いわゆる下北系ギターロックが盛り上がっていた時期で、親や兄の影響もあり、そのあたりのバンドの曲を色々と聴いていました。子供だったので、曲の本質を考察するようなことはできませんでしたが、とにかくロック少年でした。
そうして同年代の友達よりも一足早くロックに触れ、幸いにも家族の理解があったため、小学生の段階で“ギター”という選択肢を持つことができました。本当に恵まれていたのだな、と感じています。
11歳の時、何故か最初に開いたのは「10歳若返る、趣味のギター」というシニア向けの教本で、「オーラ・リー」だとか「大きな古時計」などを弾いていた覚えがあります。
付属の教則DVDを何回も再生して練習。難しいところはとりあえず見なかったことにして、やりやすい所からなんとなーく、出来るようになっていく。別に発表する場所なんて無いのだけれど、部屋に籠もって何時間も弾いていました。
独学ですし技術はとりあえず二の次で、
とにかくお調子者でギターとロックをアイデンティティとして思春期を過ごしました。何をやっても楽しかった記憶があります。

社会人になってからバンドをやらなくなったり、練習へのモチベーションが上がらず、ある時からクラブに通うようになりました。そこでDJというものに出会いました。これが衝撃で、僕の人生において大きなターニングポイントになったと言えます。
もちろんDJというものは立派な音楽表現なのですが、事実として楽器が弾けなくても、楽譜が読めなくてもとりあえず形にはなるものです。その頃、バンドのような人間関係を作ったりすることが嫌になっていた僕には、溜まった表現欲求を発散するには良い手段でした。

始めてみると想像以上に奥が深く、夢中になりました。仲間とイベントを作りオーディエンスも増え、日々の充実度とともに承認欲求も高まっていきました。
しかし僕はDJというものの入りやすさや、その手軽さに甘えすぎていたのだと思います。「表現活動をしたい」と言いながらも、そのための努力からは逃げ続けていた気がします。ゆえに仲間が増え、時間経過とともに実力の差が露呈し始めた今になって、DJや音楽活動を自称することへの罪悪感が生まれたのでしょう。長く所有しているギターでさえ、触っている時間だけ長くて、基礎が何も出来ていない。学生の頃から全然上手くなっていない。なぜなら練習をしていなかったから。

何においても“才能”という言葉は都合が良くて、多くの人の視野を狭くしている気がします。音楽においても、それで生計を立てている人や、活躍している方々の努力は、誰でも挑める範囲の初歩的なものでさえ“才能”という一言で片付けられてしまいがちです。
しかし、これは昔から言われていますが“何者か”になれた人たちは往々にして血の滲むような地道な努力を陰でしていて、誰しも恰好悪い“最初の一歩”があったはずなのです。
それでも彼らがずっと向上心を持ち続けられるのは、恐らく多くが「何者かになりたいから」ではなく、第一に「音楽が好きだから」なのですよね。

僕はいつの間にか、「才能がないから」と“才能に関係なく誰もが挑める小さな壁”からも逃げ、純粋に楽しむことよりも、承認欲求を満たして居場所を作ることに傾倒していたのかもしれません。
今までの自分を振り返り、自尊心だけが膨らみ続け、努力からは逃げて来たことを深く反省しました。

思い返せば最初は、ひとりぼっちでも楽しかったのです。
音楽をやる理由は、誰かに認めてもらうことではなく、仲間に入れてもらうことでもなく、もっと純粋な“楽しい”という気持ちがあったはずなのです。

似た話で、先日友人と「最近は、音楽を始めても即インターネットで世界レベルの比較になってしまうから、下手な時期を下手なりに楽しむ時間がなくて、バンドマンなどは中々増えない」というような話をしました。

確かにそんな気がします。ネットで検索しても「どうやって認められるか」というような話を多く見かけます。なので、良く言えばセルフプロデュースが上手い、悪く言えば自信過剰で図太い人しか残らない。
結果的にアマチュアの間でもどんどん競争が苛烈になるから、素人目も肥えて、求められる実力が高くなってしまう。
つまり社会全体の風潮として、純粋に物事を楽しむことよりも“発信をする”という行為(承認と居場所づくり)の優先度が上がってしまっているのではないかと考えます。
だから初心者でも、何より先に誰かに見て欲しいし、少しでも承認欲求が満たされないと心が折れて病んでしまう。
プライドを傷つけたくないから、辞めてしまう。
チャンスの分だけ競争も増えたインターネット社会の弊害と言えるでしょう。
そんなの正直息苦しいし、勿体ないですよね。

下手だから音楽をやってはいけないということは、無いはずです。
実力が自分の表現欲を満たすに足らなければ、練習をすればいい。
それだけの話なんですよね。

ギターも、DJも。
最近は昔から触ってみたかったベースも買いました。
幸い僕の周囲の皆さんは、心から音楽を楽しみ肯定してくれる人たちが多いので、見習ってまた一から練習してみようと思います。

やっぱり音楽には一番近くにいて欲しいから。
いままでごめんね。
ドレミからやり直します。

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