鬱の時に鬱映画よく観てた

『リリィ・シュシュのすべて』を観たいなとずっと思っているんだけれど、どうにも勇気が出ず観れないままでいる。打ちのめされたくない。悲しくなりたくない。奪われていく様、取り返しのつかないものを見たくない。そんな思いに勝てないでいる。
鬱病だった時期にこの映画のことを知っていたら、観ただろうなと夢想する。鬱病だった時期はセンシティブな、鬱映画と呼ばれる映画を観たくなってわざわざ観ていた。悲しくなりたかったんだと思う。慣れ知った感情は落ち着く。別に、追い込まれて一層死にたくなりもしなかった。この世に絶望している身で救われない主人公たちを観ても特に刺さらず、胸も痛まなかった。光の差さない終幕に、しんみりと納得してカタルシスを得る。ダンサーインザダークやレクイエムフォードリーム、今観たら辛いだろうな。悲しみにどっぷり頭まで浸かっている状態で悲しみを観ても認識できないのかもしれない。悲しみは空気。だった。
とはいえ殴られたように打ちのめされた映画はあり、それは『カポーティ』。カポーティは冷血は未読だが短編を読んでおり、好きだったのだ。軽い気持ちで観ただけに、もうあのエンディングの、叶えられた祈りからの引用(正確には引用の引用)でがっくりと具合が悪くなってしまった。聖テレサの言葉。難解さのある言葉だしどうしてそんなに?って感じですが妙に恐ろしい気分になってしまい。真に受けてしまいました…。

真に受けると言えばレクイエムフォードリーム、特典の原作者セルビーとサラ役バースティンの対談すごく良くて本編よりも沁み入ったこと覚えている(本編、少なくとも沁みるってものではないよな)。セルビーの、
人はあまりにも絶望に落ちると前進するんだ
という言葉(古い記憶なのでうろ覚えごめん)。
セルビーの声は実感と真実に満ちていたから、当時の私は深く感動した。勇気の出る言葉なので、今でも思い出せば支えになる。
絶望して人生おじゃんにしてる人なんていっぱいいるじゃん犯罪史、と言いたくなるかもしれない。
無自覚に絶望してはいけない、と常々思う。そもそも自分の持つ気持ちに、感情に、無自覚でいてはいけないのだ。そこは手綱なのだ。自分を放し飼いにしたら、あっという間に自分を見失って手に負えないモンスターが出来上がる。はっきり悲しんでしっかり絶望しよう。
そうでないとどこかで自分の感情を取り違える。
親に愛されなくて悲しかったことを、世界に受け入れられていないから悲しいのだと取り違えたり。
あのときあの人に認めて欲しかったのが叶わなかったが為に、それ以降自分より優れた人を忌避したり。
弱っていないと愛されないのだと思い込んだり。
叱られただけで突き放されたと感じたり。

あまりにも可愛い。愛を求めるだなんて正直可愛い、人類総可愛い。取り違えて過剰反応してしまうのはあまりにショックだったからだ。特に幼少期、身近な誰かが世界の全てであった時期には。
そうして人に嫌われることを恐れてしまう。
知らず知らずのうちに、自分から見放されていく。自己に向ける集中はどんどん削がれていく。そうして集合的な荒波に呑まれていく。
自分に愛を向けるというのは、ちゃんと見てあげるということなんだと思う。簡単なことだと思っていつまでもやらないでいるのなら難しいことだと思って集中して取り組むしかない。
自分が絶望に落ちた時に、ちゃんと前進できるように。

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