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誰からも必要とされなくても

 だいたい一年前のことだけれど、星野源とオードリー若林がふたりで語らうNetflixの番組、『LIGHTHOUSE』をみた。暗黒の20代を過ごしたふたり。若林から星野源に出る矢印が強烈すぎて、そりゃあんなふうにわかってくれたら好きになっちゃうよね、と笑ってしまった(未視聴の方のためにふわっとする)。

 星野源が言った言葉、「誰からも必要とされなくても、楽しく生きられる人になりたい」。星野源ですらそうなのかと思うのと同時に(星野源はあれだけ光を浴びているのに暗い部分を失わない稀有な人だと思っている)、その焦燥感をかつてわたしはもっていたと、心のどこかが疼いた。

 子どもが保育園に通い始めたことで俄然いそがしくなった。泥で汚れたズボンやタオルを洗濯機に放りこみ、子どもが寝た後で干す。夜のうちに翌朝保育園に持っていくものを袋に詰め、次の日の朝食、夕食の準備。朝起きればまんまと騒ぎ、保育園から家に帰った瞬間にまんまと叫ぶ子は、準備時間を与えてくれない。これが必要とされるということか……?と思ったけど、たぶん違う。これはただ単に衣食住的に必要とされているだけで、星野源の言っているのはたぶん承認欲求だ。

 谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)の帯には、「「本当にやりたいこと」「将来の夢」「なりたい自分」こんなテンプレに惑わされないために」とある。これまでの人生で何度聞いたかわからない(たぶん主にリクルートが発しているんだろう)この呪詛に似た言葉を、するすると解体してくれるような本だった。本書の主張は丁寧で、自分の「衝動」を見つけて観察して知性によって計画を立て、自分なりの人生を生きよう、ということ。「本当にやりたいこと」には、他者の欲望がするりと入り込んでくる。漫画やビジネス書、哲学書を引用しながら解説してくれるのでわかりやすく、この欲望(執着とか単なる惰性、中毒も含む)ときちんと区別した上で「衝動」の見つけ方を指南してくれるのもうれしい。そして抽象的な「生き方」ではなく、ちゃんと仕事への結び付け方も教えてくれる。

 わたしがいまの仕事に就いたとき、「あなたはその商品を嫌いになってしまうかもしれないね」と大学の先生に言われた。だが幸いにも、自分の扱う商品をいまだ好きなままでいる。だから毎日それなりに気分を落とさず仕事に励めている。「好きなことを仕事にしないほうがいい」という見えない誰かからの進言は間違っていると体感的にわかるけれども、その「好きなこと」は思っている以上にじっくり見極めたほうがいい、というのがこの本がいう大切な部分だろう。

 ほかにも好きな文章はあったのだけれど、とくにこの箇所が好きだった。

深さのある欲望を捉えようとするのは、喩えるなら、海面から底の方を覗き込んで、海底の岩や砂粒を押しのけて漏れ出してくる微かな気泡を見つけるようなものです。どこから気泡が湧き出しているのかがわかりづらい。底までは距離があるし、そもそも海が凪いでいなければ見えづらいでしょう。強い欲望と違って、目立った感情的高揚が伴わないものなので、体感できる刺激の強力さを探索の手がかりにはできません。

谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)p. 69

「偏愛」の場合は、「好き」の細かなコンテクストの違い、質的な違いに注意を向けます。偏愛は、フラットに並べて語ることができるものではないのです。

谷川嘉浩『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)p. 69

 偏愛とは、クローゼットや引き出しの中を整理することだったり、野鳥を見分けることだったり、誰に言われるともなくいつの間にかずっと続けている習慣のようなもの。「衝動を知るには、偏愛している具体的な活動を解釈し、適切に一般化された形でパラフレーズすればよい」。

 公務員や銀行員になる、教員免許を取る、正社員になるといった人生の安全ルートが音を立てて崩れつつある現代、結局自分の中に生きる道を探るしかない。……というのは少々大仰だけれど、「ていねいな暮らし」とは程遠くも、日々の「好きなこと」の積み重ねが、いつか「誰からも必要とされなくても、楽しく生きられる人」に向かう道に繋がっていたらいいな、と思う。


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