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みんな春のせい

失敗やミスを犯すことを意味する言葉"やらかし"
今ではごく当たり前に耳にするものの、おそらくどこかの方言のはず、と思い調べてみると、やはり関西発祥の言い回しであるそうです。

なぜわざわざそんなことを調べたかというと、まさに近頃の私は絶え間なく"やらかして"いるからです。


お財布に小銭しかない状態で買い物に出てしまったことが一回。
お財布自体を家に忘れたことが一回。

必要な提出書類に抜けがあり、再提出したことが一回。

旅先で、ホテルの部屋に入るなりたじろいだことが一回。
確かにセミダブルベッドの客室を予約したはずが、目の前に並ぶのは二台のシングルベッド。
何かの手違いかと思い問い合わせると、ミスをしたのはホテル側でなく私であり、そもそもがツインの客室を予約していたようでした。
申し込み時に詳細を見直し、よく気をつけていたにも関わらずです。
一人で二台のベッドは不要なため、出来れば交換をと申し出たものの、その日は生憎の満室でした。


これらは全て先週の出来事で、もういい加減、自分のうかつさに嫌気が差します。

ところが、私からそんな話を聞いた友人は、即座にこう言い切りました。
「春のせいだよ」

聞けば友人もこのところ似たような調子であり、何か行動しようとすると、五回に一回はやり損なうのだとか。
それでも、それらは全て"春のせい"で、私たちに責任はないといいます。
「この時期は、身体が緩むし、頭もぼんやりしてくるんだよ。それで当たり前だし、そういうものなんだって」

友人は長年、野口整体の操法を受けつつ自らも学んでおり、そんな人が言い切るならばと、私の自己嫌悪も霧散して、早くも軽やかな気分です。


別の人たちに聞いてみても、既に予約済みの飛行機のチケットを重ねて購入した、仕事で使う大切な連絡先一覧を誤って消去した、初デートで盛大な寝坊をした、極寒の日にコートをどこかに置き忘れた、などそれぞれ奔放なやらかしぶりです。

普段それほど抜けていない人でもそんな具合なら、春のせいという説もより信憑性を増してきます。


私の人生最大のやらかしといえば19歳のパリ旅行で、現地の地下鉄メトロ駅から地上に出た瞬間、一歩も動けなくなりました。
ホテルまでの地図、住所や電話番号を記したメモが、手元にないことに気づいたからです。

そこは高齢のマダムがオーナーのため、住所や電話番号は宿泊客以外には非公開、どんなウェブサイトにも一切の情報がありません。
やり取りもメールではなく電話か手紙のみでした。

私の記憶にあるのはホテルと近くの通りの名前だけで、その頃はフランス語も初歩の状態でしたし、もしもネイティブ並みに言葉が出来ても、どうしようもなかったのは明らかです。
だって、一体だれに何を尋ねるべきなのか。
このあたり建物のどこかにある、看板のないプチホテルを探している、などという曖昧な話なのに。


日本の家族に電話をし、メモを探してもらうことも考えましたが、見つかる可能性は低そうです。ぼんやりとした記憶を辿ると、旅行前に不要な資料一式と共に、ホテルにまつわるメモや地図も捨ててしまった気がするからです。

ここへ来る前に滞在したロンドンでも出費がかさみ、これからまた一週間分、パリのそれなりのホテルを取り直すのは大きな痛手です。
こんなことならいっそシャルル・ド・ゴール空港に引き返そうか、チケットを変更して帰国するのが一番かもしれない、などとすでに気持ちはどん底でした。


そんな窮地に手を差し伸べてくれたのは見知らぬ一人の男性で、大荷物を抱えて呆然と立ち尽くす私を見かねてか、何かあったのかと声をかけてくれたのです。

私がつたないフランス語と英語で事情を話すと、男性は「自分にもそのホテルの場所はわからない」と残念そうに口にしました。
「ですよね、ありがとう」とすっかりあきらめる私に、でも、他にわかる人がいるかもしれない、とその人は側を通る人たちに片っ端から声をかけ始めました。


ひっきりなしに人の行き交う大通りにあっても、皆、首を横に降るか、気遣わしげに私の方を見るだけで、求めていた答えは得られません。

それでもその男性のあまりの熱心さゆえか、気づくと数人が立ち止まって人の輪が出来、何ごとかを話し合ったり、どこかに電話をかけてくれている人もいます。
早口のフランス語についていけない私は、当事者ながら蚊帳の外で、事態を見守るしかありません。


そのうちについにホテルの所在地が突き止められ、私は誰彼となく「Merci, c’est très gentilご親切に感謝します」を繰り返し、一同の笑顔と握手でもって即席の輪はほどけました。

その場には私の大恩人たる男性一人が残り、そう遠くないから行こう、案内するよ、と晴れ晴れとした笑顔です。私はまだどこか信じられない気持ちのまま、その人と連れ立って歩きました。


男性の趣味だという鉄道について、日本とフランスの電車の話などをするうちゆるやかな坂道の小路に出、帝政様式アンピールスタイルの建物の壁面に飾られた金のプレートに、目的のホテルの名も見つけました。

思えば、この時も二月末。まさしく春先の出来事です。
あり得ないミスで窮地に陥った私は、春のせいでどうかしてしまっていたのかもしれません。


さすがにそれほどの大失敗はそう無いにせよ、常になくぼんやりとし集中力を欠く時節とあれば、どんな想定外の出来事に見舞われないとも限りません。

ここはくれぐれも気を引き締めて、と言いたいのは山々ながら、そもそもそれが不可能なため、もし思わぬやらかしがあったとしても、気に病むことがないのが一番です。
だって、みんな春のせいなのですから。



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