聖域のカフェと世界チャンピオンの父があまりに規格外だった話
類は友を呼ぶ。
この言葉をあれほど噛み締めたのは初めてだったかもしれません。
私と友人が吉野神宮の参拝を終えたのはまだ午後早い時間で、私たちは後醍醐天皇をお祀りした神宮の感想を口にしつつ、長い山道を下っていました。
お腹は空いていないものの、広い境内を歩き回った疲れと身に堪える寒さのせいで、どこかでひと休みしたい気分です。
お茶を飲めるところを探そうと話していた矢先、山道を降りきる手前で、一軒家風のカフェが目に留まりました。
カフェは一見すると普通のお宅のようで、門柱の脇には立派な松の木が対で植えられ、その向こうには丸太や飾り物が無造作に置かれた前庭が拓けています。
敷地の左側には見晴らしの良い景色が広がり、右側に建つのはテラス付き日本家屋。そのガラス戸の内の、様々な装飾に満ちた室内の様子も外から窺えました。
まだこのカフェの世界観がよく掴めませんし、もし一人なら素通りしていたでしょうが、きっと面白いから、という好奇心旺盛な友人の強い主張で、ためらいつつ敷地内に足を踏み入れます。
前庭には人工の池も造られ、澄んだ水の中で鯉たちが悠然と泳いでいます。
その様子を眺めながら、やっぱり良いお店だ、生きものがこんなにきちんと世話されているのだから、などと話していると、母屋のガラス戸が開き、顔を出した女性が、良ければ中へどうぞと勧めてくれました。
お店は入り口で靴を脱いで上がるスタイルで、これもまた人のお宅にお邪魔したような気分にさせられます。
平日の中途半端な時間のためか先客の姿もなかったものの、私たちは二間続きの部屋の、手前側のテーブルに座りました。室内の様子に圧倒され、それ以上奥に進むことが憚られたのです。
奥の部屋の壁際にはお店の名物の動物ジオラマが飾られ、その隣の巨大な液晶画面は森の小径の映像を映しています。
そこかしこに花や植物、人形に楽器、旅行土産に写真やポスターが飾られ、どこに目を向けていいやら、いささか混乱するほどです。
お店を切り盛りする人当たりの良いマダムは遅い昼食を摂っていたようでしたが、それでも私たちのため、丁寧にサイフォンコーヒーを淹れてくれます。
聞けばこのお店は元々はごく普通の住宅で、マダムの夫がたった一人で、数年間かけて今の姿へと改築したそうです。
それまでは釘一本打ったことも無かったに関わらず、思い立ってやり始めたら誰に教わらずとも成功した、というから並大抵のことではありません。
とても素人仕事とは思えない完成度の室内を改めて見渡していると、ある違和感に気がつきました。
壁や柱、天井付近の装飾にも、妙に色艶の良い、立派な一枚板が使われているのです。
後でご主人に聞いたのですが
「多分、200~300は使こたん違うかな」
というその木は、言わずと知れた、吉野特産の吉野杉です。
「え。普通は床の間にしか使わない、特別な木ですよね!?」
私たちの驚愕にもご主人は楽しげに笑うだけです。
「そうやなあ。地元の人も、こんな使い方する人見たことないって、えらい驚いてたな」
地元の人が驚くのももっともで、こんな高級材を惜しげもなく使ったら、軽く数千万円に達するだろうことは私にも想像できます。
ものすごい道楽のようですが、ご主人曰く、良い木ならふんだんに使わなければもったいない、そうやって日本や吉野の林業を支えていきたいのだ、と。
このカフェを始めたのも一種の成り行きで、セカンドハウスとして購入した住宅を改築するうち、地元で評判が立ち始め、何かお店を開いてほしいとの要望に応えてのことだと話してくれました。
山の麓とはいえ高台のため眺望は抜群で、テラスは夏の夜など特に気持ちが良いらしく、こんな場所で長い時間を過ごせるのは羨ましい限りです。
ところがマダムはここよりも本宅の方がお好きだといい、何気なく住所を聞くとご自宅は京都で、そこから週に数日、このカフェに通っているというから驚きました。
ご主人も70歳を超えてなお仕事を続けながら、その合間を縫って夫婦で旅をし、方々で多くの人に会いと、そのエネルギーの強さには言葉が出ません。
そんなお二人を慕ってこのお店にやって来るお客さんが絶えないというのも納得でした。
その中でも特に足繁くここへ通う常連さんに並外れた人がいるらしく、その人は兵庫県赤穂市から奈良県吉野郡のこのカフェまで、片道3時間以上をかけて、月に何度もお茶を飲みに訪れるというのです。
いや、それはさすがに、などとその人の話題で盛り上がっていると、ふいにマダムがガラス戸の方に目をやり、大きな声を上げました。
「ほら!来た来た!」
まさかの、話題の人物の登場です。
そして、奇跡的なタイミングで現れたこの驚くべき人について、次回じっくり語ってみたいと思います。
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