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やや大きくなった鳥獣戯画のごとき犬

最良の友は常に四つ脚以上である。

──シドニー=ガブリエル・コレット


「わあ、やっと会えたね!」
「この子か……可愛い」
「子犬ちゃん。噂は聞いてたんですよ」

4月からこちら、こういった言葉をどれほどかけられてきたでしょうか。
『鳥獣戯画のごとき犬』という話にも書いたように、4月初頭に大型犬の子犬を家族に迎え、早くも2ヶ月が経過しました。


ありがたいことに犬友達や近所の人たちも笑顔で歓迎してくれ、子犬が新しい暮らしに慣れるための”社会化”は順調に進んでいます。

毎日元気でよく遊び、後ろ脚でひょいと立って踊るような仕草をするのも相変わらずです。
最近はこのまま二足歩行を極めるつもりなのかと疑うほどで、後ろ脚で器用にバランスを取り、人やテーブル、棚にもたれかかってはいたずらにいそしんでいます。


何にでも興味津々のため、目に入るもの、手の届くもの、口にくわえられるものを逐一おもちゃにし、全く油断がなりません。
一時だけのつもりで床に置いたカバンもすぐに持ち去られてしまうため、ともかくすぐにものを片付ける習慣が身につきました。

"家を綺麗に保つには定期的にお客を呼ぶのが一番"だとは聞きますが、幼い動物の存在はそれに劣らない効果があります。
子犬の襲撃を避けるべく家中がどんどん整頓され、このままならミニマリストの住居も夢ではないかもしれません。


それにしても、久しぶりに犬と暮らして感じるのが、その”目覚めた人”のごとき有り様です。

たとえば散歩に出かける時。

子犬は嬉しくてたまらないといった様子で小走りして体を弾ませ、公園に着くなりまずは辺りの空気をいっぱいに吸い込みます。
草や花や昆虫にも目を留め、においをかぎ、土を気まぐれに掘ってみます。

人や犬に出会うと喜んで駆け寄って行き、頭からしっぽの先まで全身に喜びをみなぎらせてあいさつをし、一緒に遊ぼうと誘います。
あらゆるものに関心を持ち、興味を引くものの正体は納得するまで自分で確かめ、常に驚きと発見のめまぐるしいサイクルの中にいます。

まだ生まれて5ヶ月の子犬にとって、世界は隅々まで新鮮で、謎と楽しみに満ちた場所のようです。


その探求を満喫している様子には笑みを誘われますし、怖いもの知らずであらゆるものに触れようとする精神、どんなものにも夢中で心を傾ける様は"今ここにいる"という究極の状態を体現しているようにも思えます。

それは哲学用語で言う〈現前性〉、心理学用語での〈フロー〉状態そのものです。


フランスの哲学者ブレーズ・パスカルは「人間の不幸はすべて、部屋の中で静かに座っていられないことから生じる」と書きました。
子犬は完全にその不幸から逃れています。

ひとつところに座るどころでなく、いつも動き回っているのになぜか。
それは、子犬が激しく動きながら、その実、少しも動いていないからです。


パスカルの言うひとつところは"今ここ"のことであり、"その時その場所"だと私は解釈しています。"今ここ"にいないからこそ、その人は不幸なのです。

では、"今ここ"にいない人はどこにいるのか。それはその人に尋ねてみない限りわかりません。

けれど、ある場所にいながらにして、どこか全く別の場所に心をさまよわせている時、その瞬間を存分に生きることはできないでしょう。
気もそぞろで、魂がよそに飛んでいる人が、そこで十全に生ききっているとは思えません。


子犬が"動きながら動いていない"というのはそんな意味で、決して、いついかなる時でも、その場から意識が離れることがないのです。
その心は常に現在にあり、過去にも未来にもさまよい出ず、過ぎたことに執着したり、先のことへの心配や不安もありません。

かわりに目の前に現れるもの、起こることなど移り変わっていく現象を味わい、そこに集中することで、生の連続性かられません。


"猫は小さな哲学者"だとよく言われるものの、子犬もまた、その意味で卓越しています。

それもまるで、長く苦しい修行を積んだ、聖人や達人と呼ばれる人さながらなのです。しかも何の努力もなしに、いかにも自然に、そんな位置に達しています。

動物には人間のような自我や想像力が無いせいだ、と言われればそれまでですが、生命としての理想的な有り様に、純粋な眩しさと羨ましささえおぼえます。


また、子犬を見ていてもうひとつ実感するのが、疑いを持たない強さです。
自己嫌悪や自己猜疑心にとらわれている犬は漫画にしか存在せず、自らについて思い悩むことがない子犬は朗らかな自信に満ちています。

決して出し惜しみや駆け引きをせず、気になるもの、好きなものに真っ直ぐ向かい、本心や好意を隠すことはありません。
その態度は堂々としたもので、自分はここまで正直かつ確固とした態度を保てるだろうかと考えさせられます。

子犬の見飽きなさは外見上の可愛らしさ以外にもそんなところにあり、学ぶことのあまりの多さに今更ながら驚きます。
先代犬と14年も暮らしていたくせに、ですが。


けれど残念ながらうちの子犬のような大型犬は近くでもめっきり姿を減らし、少々のさみしさをおぼえます。

脚本家の三谷幸喜さんは黒いラブラドール・レトリバーと暮らしているそうで、エッセイにもよく登場するその愛犬は「時々テーブルに上る以外はとてもいい犬」だそうです。
それにならうと、うちの場合は「いつもテーブルに上る以外はとてもいい犬」というところでしょうか。

このすばしっこいうさぎ犬がどんな風に成長するか、謹んで遊び相手を務めつつ、間近で眺めていたいと願います。



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