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たかが髪されど髪

どんな髪型にしていいか分からない女性にとって、天賦の才など役に立たない。

── イーディス・ウォートン


コロナ禍で生活習慣がすっかり変わってしまった。ほとんど外食をしなくなった。朝夕の散歩を始めた。転職をした。動物を飼い始めた。

ここ数年、そんな話をよく聞きました。
未曾有のウイルス騒動は社会に大きな変化をもたらしましたが、個人の生活への影響もまた、軽視できないものでした。


私自身もいくつかの変化を経験し、そのうちの極めてささやか、かつ重要なもののひとつが、ヘアサロン通いをやめたことです。

その理由は、感染が心配だからではなく、施術中にマスクを着けているのがどうしても我慢ならなかったから。


いよいよ感染予防対策が本格化してきた2年前の春、訪れたヘアサロンで最初に告げられたのは「マスクを絶対に外さないでください」という一言でした。
カット中はもちろんのこと、カウンセリングや仕上がりの確認中、シャンプーの間もです。


その日、そこでの時間が散々なものだったのは、今でもよく覚えています。

顔周りや耳の近くのカットの度に、マスクを押さえながら紐だけを外しては着けを繰り返し、マスクの中に落ちた髪の毛に煩わされ、シャンプー中はマスクに水が染みて窒息しかかったりと、笑えないコメディさながらでした。


そもそも、お客の顔立ちや顔のパーツのバランスも見ず、どうやって似合う髪型にするのだろう、という疑問も湧きます。

美容師さんがいくら優れたプロであっても、透視能力があるわけではありません。
それで“骨格バランスと個性を生かした似合わせカット”なるものがなぜ実現可能なのか、私には理解できませんでした。


結果的に、二度と美容室には足を踏み入れまいと誓ったものの、時間と共に髪は伸びます。

全体のバランスが崩れるばかりか、扱い辛さも増してきたため、〈セルフカット〉のキーワードで検索したり、図書館でヘアスタイル関連の本を借り出したりを始めました。


その頃、様々な理由から自分で髪を切る人は珍しくなかったらしく、情報源は豊富でした。
特に日本語にこだわらなければ、それこそ無限にテクストや動画が見つかります。

海外の女性のセルフカットはとりわけ大胆かつ独創的で、ポニーテールを顔の前に垂らして切る、顔を深くうつむけ毛束を掴んでばっさり、三つ編みにして適当にばつん、などと思い切り良く豪胆です。


実は一番最初の方法を試し、毛先を切ってみたのですが、これは自然な段差がつき、思いのほか上手くいきました。

他にも手当たり次第に情報を漁り、かなりの数の方法を試みた気がします。
私の髪はある程度の長さがあるため、あれこれと試しやすかったのも幸いでした。


もちろん失敗は数知れず、人一倍不器用な私は、時に絶望感も味わいました。

どうしても左右の長さが揃わなかったり、目測が外れて短すぎたり、余計な段が入りすぎたり、毛先を軽くしすぎたり、逆に妙に重かったり。
クシを折る、ハサミを壊す、指を切るというアクシデントまでありました。


けれど、良いことだってもちろんあります。

思い立ったら気軽に髪型を変えられますし、ちょっとここが気になってきた、もう少しすっきりさせたい、毛先をきれいに整えたい。そんな際には、道具を手に鏡の前に座ればすぐに解決できます。

何週間も前から人気店を予約して、やきもきしながら待つ必要もなく、準備を整えわざわざ出掛ける必要もない。
美容師さんへのオーダーの仕方に悩み、結局望み通りの髪型にならなかった、と落胆して帰ることもありません。


全てを自分のペースで決められるのは、私のようなわがままな人間には嬉しいことです。

自分でハサミを入れて失敗しても、本職の人と同じ仕上がりになる訳もないことは承知のため、少しくらいなら目もつぶれます。

それに、どんなにひどい失敗をしてもたかが髪の毛。
時間が経てば目立たなくなり、やがては元通りです。


そんな風に考えて試行錯誤を続けるうちに、慣れも手伝い、自分が納得できる程度の腕にはなりました。

全体の長さを揃え、内側だけを軽くいたらサイドと顔周りにカーブをつけ、束間を残して毛先を散らす、という一連の作業も、今なら難なくこなせます。


流行の新しいスタイルにはできないものの、毎回ちょっとした技を試し、仕上がりに一喜一憂するのもまた楽しいものです。
数年前は、まさか髪を自分でカットする日が来るとは思いもしませんでしたが。

ただ、やってみるとどうにかなるもので、出来ることが増えていくのは、楽しい他にも自尊心と自信につながり、有益なことのように思えます。


先週末、新調したハサミを使ってみたら、あまりの使い勝手の良さに調子に乗り、すっかり切りすぎたことは置いておいて。

飽きてしまうか再び気の変わる日が来るまで、こりずに自宅美容室を楽しみたいと思います。




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