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私の過去


私の事を少しお話しします。

私は
複雑な家庭事情や人間関係
そして病気が原因で
五年以上ひきこもりでした。

その時は親に月5千円のお小遣いをもらって
生きていました。

ひきこもり生活はベッドの中で
寝ながらMDで音楽を聴いたり
ゲームをしたり小説を読んだり
たまに夜に漫画喫茶に行くことも。

美容院にも行けなかったので
髪の長さは腰くらいまでありました。

夏と冬は親にお金をもらってお洋服を買う。
何処に行く訳でもないけれど
昔からお洋服が好きだったので
それだけが毎年の楽しみでした。

心が辛い時、
母の運転で夜にドライブしたりもしていました。
その時はMr.Childrenさんのくるみを聴いて
声にもならない声でボロボロ泣きながら
自分の心に言い聞かせるように
歌っていました。

悲しくて苦しくてたまらなかった。
気が狂いそうな日々でした。

閉鎖病院に入退院を繰り返しました。
田舎の病院。
外との連絡手段は
テレフォンカードを使っての電話だけ。

病院は冷たく暗く毎日誰かの悲鳴がした。

寂しくて怖くて何度も親に電話していたら
テレフォンカードが切れてかけれなくなる。

早く帰りたかった。
何度も夜に泣いた。
寝るときは拘束具をつけられて
眠ることもありました

退院しても薬の副作用で足は痙攣しっぱなし。
眠ることも困難で親に足を抑えてもらっていた
疲れきって意識が飛ぶまで眠れない。

その時の良い思い出といえば
母親がベッドの中に湯たんぽをそっと入れてくれたこと。
その温もりが母の愛の温かさだと思った。
毎夜、涙が出た。
その湯たんぽから愛情を感じた。

それでも心はずっと愛情飢餓状態。

母にYUIさんのto MothrというCDをプレゼントしたことがある。
それでも私の想いは届かなくて
そのCDは自分で割って捨てました。

母に振り向いてもらいたい一心だった。
自分の欲しい愛ももらえない
思いも届かない。

喧嘩した後はベランダにMDを持って出て
ベンチで泣きながら手首を切っていました。
その時は平井堅さんのRingという曲を聴いていました。
自分を慰めるように。何度も何度も。

飛び降りる振りをしたことは数えきれないほど。
死ぬ勇気さえないくせに。

毋の頭を叩いたこともありました。
ずっと暴れていました。
自分が壊れていく感覚
どうしようもできない感情と身体。

母に言われました。
お前も兄と一緒だと。
その言葉で心はまた壊れていきました。
暴力なんて振りたくない
私を助けてほしかった
一緒にしないでほしかった。

だってお母さん、私、
お兄ちゃんが暴力を振い続けていた時は
ものすごく辛かったよ。
必死で止めてたよ。耐えてたよ。

でも一緒なんだよね。
そりゃそうだよね。私は酷い子供でした。


強迫観念も強く
毎日何度もコンセントに埃がないか
鍵はちゃんと閉まってるか
水道の蛇口はちゃんと締めたか
色々なことを家中を見回り確認していました。
それで疲れて眠るんです。

外出すればパニック発作で倒れて
救急車に乗ることも何十回とありました。
瞳孔が開いていたこともありました。

何も見えない光のない日々。
孤独で寂しくて愛に飢えていた。

ある日
母と喧嘩をした後
母が家から出ていったので
私は捨てられたと思いました。


そして
飛び降りました。


心が痛かった。苦しくてたまらなかった。


夢をみた。
救急車の中で肩を吊りながら寝ていて
父と兄が交互に会いに来てくれた。
父は帰る時に、また来るからね。と言って
出て行った。
私はそれが寂しくて泣いていた。
そんな夢だった。


その夢から覚めた時、
私はどこにいるのかわかりませんでした。
自分が飛び降りたことさえ覚えていません。

後から聞いた話だと落ちた時にはまだ意識はあり
痛い痛いと呻いていたそうで。

そして手術後、
私の意識がない時に病室にお見舞いに来てくれたのは
父と兄で、父は私が見た夢と同じように
帰る時に、また来るからねと言っていたみたいです。

病院の先生が意識はなくても耳は聴こえるから話しかけてくださいと言ったので
意識のない私に毎日声をかけていたんです。

母は病院に来てはいたけど病室には入れなかったみたいです。
私の顔はパンパンに腫れて
骨折した腕は真っ青。

肺と内蔵を損傷し鎖骨と腕、肋骨を骨折、
脊椎も曲がってしまいました。


胸下には手術の跡がくっきり残っていて
冬になると今でも痛みます。
腕にはボルトがずっと入ったままです。

入院中はずっとコルセットを巻いていました。

また歩けるようになるのかは
わからなかったらしく
父は車椅子を一人で
お店に見に行ったと聞きました。

そして私が
とてもショックだったのは
手術の輸血のサインは親ではなく
兄がしたという事実。

それを聞いてまた絶望する。
どうして死ななかったんだろうと思いました。

入院中、エホバの証人がお見舞いに来たいと言っていましたが私はそれを拒否しました。

もうこれ以上苦しみたくない。
そんな事実など忘れ去ってしまいたい。

死に損ねてしまったから、
また生きなくちゃいけないから。

ただひたすら
歩くためのリハビリを頑張りました。

毎日、毎日、その日を必死に生きた。
そんな日々でした。

閉鎖病院に入院した時に
希死念慮かが強かったので
電気治療で脳に電気を流して
記憶を飛ばしたのですが
その記憶が全部戻ってくることはありませんでした。
なので昔のことを覚えているのは断片的です。

辛いことばかり残り
楽しい記憶は消えていった。

自分はどんな性格だったのか
何が好きだったのか。

覚えているのは警察官になるのが夢だったこと
でもエホバの証人は警察官になれません。

音楽も好きだったから歌手にもなりたかった。
でもエホバの証人として生きるには必要のないこと。
夢などみるだけ無駄でした。

話が長くなってすみません。
まだ書きたいことはありますが
今日はここらへんにしときます。

また次回に書けたらいいな思います。

けど、こんな過去を思い出しながら
書くのはパワーがいりますね。

途中何回か涙が溢れました。

では、また次回。

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