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誰かと空を眺める話

(8月9日FBより)

赤と青のあいだにまだ名前のつかない色がたくさんあって。
たぶん、名前をつける必要はなくて、きれいだね、って誰かと眺められたら、それでいいんだと思う。

先日のポストについて、たくさんのフィードバックありがとうございます。気にかけてくださる人の多さにびっくりしています。
一番ひどかった6月ごろと比べると、頭の調子はだいぶと良くなっています。

言語化したことで、知ってもらう機会を作れたのが良かったのかもしれない。開けられなかった扉を開けて少し頭の風通しが良くなった。
それは思わぬ効果もあって、DMなどで「実は自分も」というリプライをたくさん貰った。みんなそれぞれ苦しんでる。大小は関係ない。幸福も苦しさも定量化して比べられるもんじゃない。あなたが今どう感じているかだと思う。

ある人のそれは共有されないまま蓋をされ、心の深いところで傷として刻まれている。決して癒えていない。むしろ時おりジクジクと膿んで痛みを発している。
その痛みを言語化して、扉を開いて風通しを良くしたい。そんな思いが、今回のポストを書くにあたり無かったわけではないけど、人知れず追い詰められている人があまりに多くて驚きとともに少し悲しくなった。
そのしんどさ、分け合おう?

一生は重き荷を負うて遠路を行くがごとし、と家康は言ったけど、人類史を眺めれば荷を一人で負うた者はいない。必ず誰かと負うてきた。

ありがたいことに、方々から会おうと声がかかる。会って色々話していると、どうやら僕はクソ真面目でストイックで遊び下手で極端(10⇔0思考)だということが分かった。薄々は気づいてはいたのだけど、人と話すことで諸々が浮き彫りになる。
そういや一日中シリアスな現実(歪んだ認知なのだけど)の中で暮らしている。人と会わなくなったこの数年は顕著だ。

話していて、
「そっかぁ〜。パレスチナ問題とかインボイスとか気候変動とかどうでもいいや〜、って時間も必要かもですね」
って言った途端、涙が溢れた。

どうでもよくなかった。

幼少の頃から、この世のあらゆる理不尽が許せない。
正しく生きてどうして傷つけられなくてはいけないのか。
その歪んだ仕組みを、ヒトの本性を、知りたい。理解してより良い未来を残したい。そのためにあらゆる角度から学びを深めてきた。

だけど、それらは一人でやるべきことではなかった。なんなら、人類の存亡は僕の肩にかかってるぞ、ぐらいに盛大に勘違いしていた。
理解力の無いこのポンコツ頭め!勉強も熟考もまるで足りない!と自分を追い込んできたけど、いちコーヒー屋がそんなことをする必要はまったく無かった。
ひとりじゃ手に負えない難題を勝手に背負い込んで勝手に潰れていたのだ。

さりとて、それらを手放して、明日から恋ゲーや推し活や不倫騒動や猫動画のことだけ考えて生きていく方がいいのか?

違う。仲間を信じればいいのだ。
散々、そのつらさも引き受けますよと呼びかけてきたのに、自分がそうしてもらうのはとても苦手だ。

「これを機に人生後半をより良く、そしてより多くの人のために」と思ってたけど、落ち着け、そうじゃない。そのクソ真面目さが君をここまで連れてきたのだけど、少しぐらい手放しても問題ない。

悔しくて泣いたんじゃない。ここまでよくがんばったね、って自分に思えたから泣いたんだ。

もうちょい、ぼんやり過ごしてみます。

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