モノが纏う記憶、世界に触れること
先日おデートで街に出たとき、なんとなくドラッグストアに寄って排水口の水切りネットを買いました。
今買わなくてもどこでも買えるやん、とも思うのだけど、水切りネットを替えるというあまり気持ちよくない作業をする時、おデートの時に買ってもらった水切りネットよウフフ、と思えば少しは楽しくなるかなと思ってそうしたのだけど、事実、その度に良き記憶が再生されて、灰色の人生に少し色が差すような気がするのです。
今日は配達で日仏マルシェに行きました。
思いがけず知人が働いているHANDOVER FARMさんのブドウを直売していて、ご本人はいらっしゃらなかったのだけどなんだか久々にお会いできたような、ブドウに向かってご無沙汰してますと挨拶してしまいそうな嬉しみがありました。
そうなるとブドウ一粒一粒が知人の顔に見え今にも雄弁に語り出しそうな気がして、そんなブドウはスーパーのどこを探しても売ってないよな、と思って一房いただいたのでした。
僕が営むコーヒー屋caffè micioは「ヒト、モノ、コトの美味しい関係」をテーマに活動しているのだけど、作り手、売り手、買い手が喜びを共有するというのは、基本的にイメージの中でしか像を結ばないので実感するのはとても難しい。
人を大切にしていること、仕事を大切にしていること、暮らしを大切にしていること、これらが売り手にも買い手にも共有されているとき、殺伐とした資本主義社会に暖かみが差すように思うのだけど、そこには想像力が不可欠で、抽象より具象を、過程より結果を求める世相では、そんなものは非現実的だ、現実を見よ、と切り捨てられがちです。
でもね、その「現実」とは本当に、この世界に素手で触れた上で言ってるのだろうか?
口に含んだブドウは甘酸っぱくジューシーでお日さまの香りがして。
暑い農園で汗を吹きながら一房一房ハサミを入れ、潰さないようカゴに納めていくその時、知人はたぶん同じか、もっと強くこの香りを嗅いでいて、その時なにを感じどんな詩を紡いだろう、そんな想像をする時、時間や空間を度外視して喜びを共有できるような気がするのです。
それは確かに僕を揺らす、世界との接触点です。
若い頃、身の回りの人工物ほぼ全てが、誰が作ったのか分からないモノであることに気づいて、しかも「これは喜びの中で作られたモノだろうか?」と考えるとどうもそうでは無さそうで、ということは不機嫌そうな怖い顔をした人に囲まれて暮らしているような気がして、これはなんと不健康な生活かと思ったものです。
幸いなことにモノ作りをする友人に恵まれて、少々お値段は張るのだけど、できるだけそうした「祝福されたモノ」を生活に取り入れるようにしていくと、親しい友人に囲まれて暮らしているような、使う度に良き記憶が再生されるような気がしています。
それは個人的な記憶の反芻にとどまらない「あのときひどい夕立にあったよね〜」的な「記憶の共有」が本懐なのでは、と思うのでした。
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