2020/9/30の雑談
#「学校の当たり前をやめた」の工藤勇一先生。最近あちこちで目にする。「カンブリア宮殿」にも出演して話題になってた。
この先生のいってることは、よく考えると「あたりまえ」。
学校は、社会にでるための準備期間のはずなのに、学校と社会とで分断が起きている。
フィンランドの小学校では、「どんな他者とも、対等に会話ができること」をグローバルスタンダードと捉え、小さいうちから自分の考えを表現する力を養うんだって。
反面、日本では小学校にあがると「正解をもとめる」作業が増え、自由に意見をいう機会が減ってしまう。
社会にでれば、唯一絶対の「正解」なんてないことは明白なのに。
学校で刷り込まれた価値観(たとえば、周りに合わせるのがいい、とか勉強時間は長い方がいい、とか)が、社会にでたときそのまま通用するの?
そうでなければ、学校教育の12年間て時間のムダ、って思う。
社会にでたら、まったく別のスタンダードとぶつかりあって、その中で主張しなきゃいけない。その訓練を、小さいうちからやっている国と、日本の子どもたち。「どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」って思うだろう。
理想の共同体をつくるために、学校をつくる
地域のビジョンを実現する手段として学校をつくった例もある(長野県大日向小)。町と、学校と、家庭とでおんなじ価値観を共有することで、子どもたちが迷いなく発信できる。自己肯定感につながる。
大人だって、道に迷うことがあるじゃない。これまで築いてきた価値観を粉々にされたり、「これでいいのか?」と不安になったりする。その時、何歳でも学び直しがきくような場所、新しい視点をもらえる場所があったらいいな。
デンマークにあるフォルケホイスコーレは、まさにそういう場所。日本にないなら、自分たちで作ったらいい。
保育園や幼稚園でも、「みんなおんなじがいい」っていう価値観、あるよね。本当の意味で不公平を減らすんだったら、ひとりひとりに違う対応をすべきなんだけどね。だって、人それぞれニーズが違うのに、同じ対応しかしてくれないっていう方が不公平。「おんなじ」っていうのはつまり、一部の人にしか当てはまらない基準を、みんなに当てはめようとしているってことでしょ。
モンテッソーリ幼稚園のある園長先生の話。勤めていた普通の幼稚園で、自分のクラスだけ勝手にモンテッソーリ教育にしてたって。かっこいいね。モンテッソーリってもともと、知的障がい児の発達過程を観察して編みだした教育法だから、ひとりひとり違って当たり前、というのが前提にある。
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「教員時代の忘れられない5人」