ヴァントゥイユのソナタ
むかしむかしのこと
、といってもカフェ・モンタージュを始めてから2年目くらいのことだったかと思うけれど、コンサートにいらしたお客様のひとりから一つのメールが届いた。
そのお客様が誰だったのか、名前もメールの内容も(おそらくコンサートの感想?)忘れてしまったけれど、ひとつだけ覚えているのは
という内容のメッセージだった。
まず、ヴァントゥイユのソナタとは何だろう。
調べてみると、プルーストの「失われた時を求めて」の中に出てくる架空の音楽作品のこと、とのことだった。
架空ときたか。
ヴァントゥイユというのが作曲家の名前、ソナタというのは、主人公スワンがヴェルデュラン邸のサロンを訪れた際に「私たちが見つけたソナタ」といって、ヴァイオリンとピアノのためのあるソナタのアダージョがピアノだけで演奏されるのを聴いて、スワンはその曲を以前にヴァイオリンとピアノで聴いたことがあったことを思い出す…という場面に出てくる。
つまり、ヴァントゥイユのソナタも「思い出す」ことの装置として、小説冒頭のマドレーヌinお茶と対をなす象徴になっているということなのだ。
ともかく、そのヴァントゥイユのソナタを思い出している最中の主人公の脳内再生と思われる音楽の描写を読んでいると、トーマス・マンがその20年後に書いた「ファウスト博士」、その中に繰り広げられる作曲家レーヴェルキューンの超越的な音楽描写があるのだが、プルーストの流儀はそのひな型になっているのではないかと感じられてきた。
こうした音楽の描写は、音楽作品の分析と見えて、実際は極めて文学的な意図を持って挿入されている。つまり、芸術作品を言葉で描写する形を取ることで、人の心情を表すのとは別の高揚感をもたらす効果というのは、例えば以下のバルザック作品中の画家のセリフの中に顕著である。
この言葉どおりに書かれた絵は、その場にいる人にはまったく理解の及ばない代物であるが、なおも言葉は続く。
逆に、文学の描写という形式を持って、新たな高揚感を生み出そうとした音楽の例もあって、それは例えばリストの交響詩やワーグナーの楽劇において、室内楽ではヤナーチェクの『クロイツェル・ソナタ』などはその白眉といえるだろうか。
トーマス・マンは『ファウスト博士』の音楽描写を、バルザックに倣って結んでいる。
作曲家ヴァントゥイユのモデルはフランクであるといったり、最近はその弟子であったルクーであったり、人によってはフランクの後継者であるピエルネだと主張する人もいるという話である。いずれも大規模のヴァイオリンソナタを書いた作曲家である。
セザール・フランクの楽派、文学と音楽の交差という点でも、交響詩の生みの親であるフランクの流れが、おそらくは文学の形式でここに置かれている。
音楽と文学の描写の狭間にあるもの、ヴァントゥイユのソナタはその意味では純粋な文学作品だともいえるのであろうが、そうであるとすれば、そのソナタを聴きたいと願う事は、「本を読むように」音楽を聴きたいと願うことでもあるだろう。
さて、そろそろ開演です。
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2022年10月19日(水) 20:00開演
「フランキスト」- C.フランク生誕200年
ヴァイオリン:高木和弘
ピアノ:福井真菜
https://www.cafe-montage.com/prg/221019.html
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