イスラエルに移住したロシア人の望郷…『声優夫婦の甘くない生活』
イスラエル最大の都市テルアビブには、耳に入ってくるのはロシア語、店の看板はキリル文字、という大きな「移民街」がある。今や、この国の全人口の約2割はロシア系ユダヤ人だと言われる。
ロシア系住民は、少なくとも政治的な文脈では存在感は小さくない。外相などを歴任したアヴィグドール・リーベルマンが党首を務める極右政党「我が家イスラエル」は、近年のイスラエル政治でキャンティング・ボートを握る場面も多い。だがそれは、人口の2割という、民主主義の数の上での存在感であり、概して「新参者」とみなされるロシア系住民の地位は、イスラエルではまだ十分に確立されてないと言わざるを得ない。
以前、イスラエルに行ったとき、知人から「ロシア系住民はレバノン国境付近などに多く住んでいる」という話を聞いたことがあった。レバノン国境付近は住宅の価格が特に安いのだという。なぜならば、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラによる越境ロケット砲攻撃の犠牲になる可能性があるからだという。自分の命と引き替えにイスラエルでの生活を成り立たせている。ロシア系住民にはそうした人たちも少なくないのだ。
映画『声優夫婦の甘くない生活』のストーリーは、イスラエルのロシア系住民が直面する「甘くない」状況をベースに展開されていく。
東欧革命をきっかけに最終的には崩壊するソビエト連邦から、ユダヤ系ロシア人が雪崩を打つようにイスラエルに移住した時代、1990年9月から物語が始まる。この年の7月末、「アラブの盟主」たらんとするサダム・フセイン大統領のイラクが、湾岸産油国のクウェートに侵攻、ソ連・東欧と同様、中東も激変期を迎えていた。イスラエルが1967年の対アラブ戦争で占領したエルサレムは、ユダヤ教の聖地であり、イスラム教の聖地でもある。フセイン大統領は、そのエルサレムの奪還も掲げていて、元はソ連で開発されたスカッド・ミサイルによるイスラエル攻撃をちらつかせていた。1991年1月にクウェート奪還のため米軍がイラク軍を攻撃した「湾岸戦争」の前夜。住民1人1人に防毒マスクが配られ、イスラエルの街には緊迫した空気が漂っていた。
そんな騒然とした時期に、ロシアから移住してイスラエル(おそらく地中海に面した平原部にあるテルアビブ周辺)に暮らすことになったユダヤ系ロシア人夫婦が主人公。夫のヴィクトル、妻のラヤはともに、ソ連で欧米映画のロシア語吹き替えをなりわいとしてきた声優だ。作品の英語のタイトル「Golden Voices」は夫婦2人の美声のことを指しているとみられる。
ロシア系移住者は、イスラエルの日常言語であるヘブライ語を話せない者も多いことから、就職に苦労し、経済的に恵まれない人も少なくなかった。ソ連では、映画の吹き替え声優として数々の名画の主人公の声を演じてきた2人だったが、一般的なロシア系移民の境遇の例にもれず、なかなか思うような職にありつけない。
ソ連では、独自の映画文化が熟成される一方、手に届きにくい欧米文化へのあこがれも強かった。そんな国の名声優だったヴィクトルは、マーロン・ブランドといった人々のあこがれのハリウッド俳優の声を巧みにまねることが求められていた。ヴィクトルは、演劇のオーディションにも挑戦し、どんな有名俳優の声でもまねしてみせる、と見栄を切るが、「オリジナリティーがない」と思われて、あえなく落選してしまう。ソ連的なやり方はイスラエルでは通用しないことを思い知らされる。
何もかも、ソ連と異なるイスラエルの現実。新天地で疎外感を感じた夫婦は、経済的には貧しかったものの文化的には豊かだったソ連時代にノスタルジアを覚える。ソ連を去ったインテリ層の望郷の念は、イタリアの名監督フェデリコ・フェリーニ作品へと向かっていく。作中でヴィクトルは、以前モスクワ映画祭で、いったん上映禁止になったフェリーニの作品『81/2』について自ら文化省を説得して上映を実現させ、その作品がグランプリに輝いた、という経験を、フェリーニとの記念撮影写真を見せながら、甘美な表情で語ったりもする。
ヴィクトルは、非合法映像の吹き替えという闇仕事などを経て、劇場で上映されるフェリーニ作品の吹き替えという仕事を得る。フェリーニよりもむしろ、ハリウッド映画の『ホーム・アローン』の吹き替え版を作りたいという映画館経営者を説き伏せる形で。それにより、イスラエルでの仕事と、ソ連へのノスタルジアを同時に満たすことに一応、成功する。自分に内緒で怪しげな仕事に手を出す妻ラヤとの葛藤など「甘くない現実」も山積しているが、それでも、自身のノスタルジアにも支えられる形で、新天地での生活は大きく前進していくようにもみえる。
監督のエフゲニー・ルーマン氏は、自身も映画と同じ1990年にソ連から移民してきたロシア系だという。自分ががイスラエルで体験した辛酸を盛り込みながら、新天地で活路を切り開いていく、たくましい「同胞」へのシンパシー、愛情がにじみ出ている作品といえるのだろう。
作品は、12月18日から、東京のヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館などで公開の予定。