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はじめての山と谷

「山も谷もあります」。

友人夫婦の結婚記念マグカップに、登山靴と一緒に書いてあった手書きの文字。
最初に見たときは、ただ単に「人生、いいときも悪いときもあるけど、一緒にガンバ!」という意味だと思っていました。
でも、よく考えると、「山」も「谷」も両方とも苦しいもの。
「山」は登って乗り越えて、「谷」は落ちて這い上がるもの。

オープンして16年目のわたしがやっている喫茶店にも、山も谷もたくさんあります。

一番深い最初の「谷」はオープン2年目。
「半年間の休業」という深い深い谷に落ちて、なかなか這い上がることができませんでした。這い上がるどころか、一時廃業を決意して閉店の張り紙までしたことがあります。それでもまた再開できたのは、支えてくれたお客様と店を取り巻くすべての人々のおかげです。

一方、最初の「山」はオープンから3年目の冬の朝。
それは、わたしがはじめて一人で迎えた高原の冬。
店ではじめてのクリスマスライブを予定していた12月。
その年はシーズン序盤からバンバン雪が降り続いていて、ライブ前日夕方まで何度も除雪したにもかからわず、当日朝5時の駐車場には、なんと60㎝以上の雪が積もっていました。
うんざりしながら除雪機を始動させようとするも、エンジンがかかりません(原因はわたしが操作の仕方を間違えていたのですが、もちろんこの時点では気づきません)。
暗闇の中、深々と積もった雪の中で絶望するわたし。
駐車場の広さは車10台分。雪かきスコップでの手動除雪では、時間も体力もとうてい間に合わないのです。
今は朝5時。午前11時には演奏者が来る。午後にはお客様が来る。
除雪の他にも会場の準備、料理の準備、全部一人でやらなくちゃいけない……。

まず頭にひらめいたのは、「中止しよう」という考えでした。
今から東京の演奏者に電話をして大雪を告げて、予約してくれたすべてのお客様にも中止の連絡をしよう。
とにかく「無理しない」というのが、わたしの性分。要するに、逃げること、無難なことをまず考える後ろ向き体質。
でも、もう一つ考えが浮かびました。
今はまだ真っ暗な朝5時。こんな時間に電話をすることはできないし、演奏者が東京を出発するのは、朝7時を過ぎてからだろう。それなら、これから2時間、どれだけ除雪できるかやってみよう。午前7時まで一人で除雪してみて、やれるだけやってみて、それから電話をしよう。

そう思いながら、もう手は動いていました。
気が遠くなるような雪の量を目の前にして、放り出したくなる気持ちを抱えながら、なぜか手は動いていました。
「やめようか、どうしようか」とずっと考えながらも一瞬も手を止めませんでした。
そして、2時間が経ちました。
案の定、ほとんど除雪はできていません。
膝上まで雪が積もった車10台分の駐車場を、雪かきスコップで1人手で除雪したって、たかがしれています。
ところが、2時間1人で必死に除雪した後のわたしは、中止の電話をするのが惜しくなりました。こんなに頑張ったのに、無駄にしたくない!
そこで、もう起きているだろうと、当時車で30分の距離に住んでいた姉夫婦の家に電話して泣きつきました。すぐに駆けつけてくれた義兄が、ダメ元で除雪機のキーを捻るとなんと問題なくエンジン音が轟いて、そこではじめて自分の操作ミスに気づきます。なんてこと。
そして、午前10時に駐車場の除雪が終わりました。

ヘロヘロになって店内に戻ると、留守番電話にご近所さん達からメッセージが入っていました。
「雪、すごいけど、大丈夫? ウチの除雪が終わったらすぐに行きます」
「除雪、大丈夫? なんかあったら連絡ちょうだい」
「除雪機、動いてる? 大丈夫?」
体の力が抜けて、涙が出て、でも初めて感じる幸福感と達成感で体中が満たされた瞬間です。そして、ちょっぴり興奮した声でご近所さん達にお礼の電話をしました。

予定通りに演奏者が到着し、予約してくれたすべてのお客様が大雪にもかかわらずご来店され、ライブは大成功に終わりました。

今思うと、それほど大した「山」ではない気がします。
そもそも、当時はいろんなことに不慣れで経験が浅く、自分の段取りと操作が悪かっただけ。
でも、あの頃の店にとって、あの時のわたしにとっては、はじめての大きな大きな「山」でした。

その後も様々な「山と谷」が繰り返しやってきました。そしてきっとこれからも、もっと高い「山」も、深い「谷」もあるでしょう。
でもこの最初の「山と谷」を忘れずに、高ければ高い「山」ほど、深ければ深い「谷」ほど、乗り越えて這い上がった時の達成感は大きいと信じて立ち向かい、そして時には回り道も休憩も道草もして、周りの景色を楽しめるようになれればと思っています。

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