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憧れのお店

そのお店は、A市の駅前裏通りにあります。
気軽に楽しめるフレンチの小さなお店で、ご主人が作るお料理は絶品、奥様の接客とお人柄はそれはもう素晴らしく、なのにお値段は控えめ。
SNSどころかウェブサイトもなく、通り過ぎてしまうほどの目立たない店構えですが宣伝など必要ない老舗の人気店で、わたしが大好きな作家も通うお店なので、店名は『B』とします(その作家は昔コロッケのおいしいお気に入りの定食屋さんを、今年の干支を使った仮名で紹介していました。そう、あの人です)。

A市で会社員生活をしていた20年ほど前、わたしはお勤め仕事に悩みながら、この『B』さんで1人ランチを食べることでかろうじてエネルギーを振り絞っていました。多い時は週に3回ほど通っていた記憶があり、相当エネルギー不足で浪費家でした。今は倹約精神とエネルギーはありますがお金がありません。
ともかくそんな勤め人だったわたしが、『B』さんの美味しいお料理から元気を貰ったのはもちろんですが、何より接客担当の奥様の働く姿が美しく、キリリとしていて本当に輝いていたので、「わたしも頑張ろう」と思えたのです。
あの頃はわたしよりもずっと大人に見えた奥様だけれど、実際はたぶん「ちょっと年上」くらいです。でも、当時の自分があまりにも至らなく幼く甘かったため、自分とは別世界の落ち着いた大人の女性として眩しく映りました。そして、「いつか自分もあんな大人になれたらいいなあ」「どうしたらあのように生き生きと働けるんだろう?」「仕事って何?」「働くって何?」と思っていました。

そしてランチを食べながらふと「営業されてどれぐらいですか?」と尋ねたら、奥様は「13年経ちます」とおっしゃっていました。
「13年」と聞いたわたしは、「13年かあ。すごいなあ。わたしが学生の頃からお店やってるんだなあ」と思ったものです。住む場所も仕事も転々としていた当時の自分にとって「13年」ってすごかったんです。
そして結局、このA市で働いた時期に、「いつか自分でお店をやろう」と決心しました。

現在わたしが営む店は昨秋で15周年を迎えましたが、その2年前の13周年の時のほうが、数字としては中途半端でも「あの時の『B』さんと同じ年数が経過したんだなあ」などと感慨深い気持ちになったものです。その感慨が冷めやらぬうちに、なんと『B』さんご夫妻が突然わたしの店を訪れてくださり、13周年はさらに特別感を増しました。
『B』さんに通い詰めていた時期は20年ほど前の2年間だけでしたが、A市を離れてからも何度か『B』さんには伺っていて、わたしが喫茶店をしていることも伝えていました。でも、憧れのお店の方がまさかこんな山奥まで訪れてくださるなんて、感激して畏れ多くて緊張で手が震えました。
珈琲はうまく淹れられたかどうか自信がないし、わたしが焼いたケーキに至っては、『B』さんの手の込んだデザートを知っているだけに謝って逃げ出したくなる始末でしたが、嬉しかったです。

わたしの営む店が存在するのは、たぶん『B』さんでのランチのおかげです。『B』さんでランチを食べながら力を捻り出して会社に向かい、働くということについて思い悩んだ未熟な時期があって、今があります。今も相当未熟なままなのですが。

『B』さんは、今年でおそらく32周年。すごいなあ。
年齢と同じで、お店の周年も追いつくことができません。
そして人と同じで、お店からもたくさんのことを学べます。
そんなお店があふれる世の中は素敵だなあ、と春の風の中思いました。



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