時の水脈

あなたは知らんぷりばかり。私は知ったかぶりばかり。私は時々思います。あなたは本当は私の未来を全部知っているんじゃないかって。だから何があっても動じたりしないんじゃないかって。あなたは過去を振り返るような目で私や世界を見る。すべては予定調和だと知っているみたい。知ったかぶりをして口では未来なんてたかが知れていると言いながら必死で青い鳥を探す人々の群れを、あなたは微笑みながら見守っている。その行く末を知っていて知らんぷりをするように。

子供の頃、遠いどこかで私のことをずっと待っている人がいるような気がしていた。この道の先でこっちを向いて立っているその人の姿かたちが、私のもうひとつの目には見えていた。その人は私が笑おうが嘆こうが歩むべき道を進んでちゃんとそこにたどり着くんだということを知っている。期待でも理想でもなく、ただ知っている。
まだ小さかった私はその人を神様と名付けた。私だけの神様だから信仰するのも世界中で私だけ。でもどんなに祈り待ち続けても神様はその身体を使って私を抱きしめてくれたりその声を使って大丈夫だと励ましてくれたりはしなかった。それでも私はたしかに、目に見えない優しさに包まれていた。どんな悲しみもその優しさには敵わなかった。だから私は生きてこられた。どんなに傷ついた時でも、何度も何度も夜中に目が覚めても、死んでしまいたいと思いながら眠る夜でも、私は押し寄せるあたたかな波に包まれていた。すぐそばに神様の息遣いを感じていた。よしもとばななさんの「ともちゃんの幸せ」みたいに。神様はそうやっていつも私の背中を守ってくれた。私なんかを必要としてくれた。ふとした瞬間に心を繋げてくれた。違う世界を重ねるみたいに。どんな時も見守られていた。初めて子犬を抱いた時も、保育園のベランダで花の描き方を教わった時も、かたつむりを死なせてしまった時も、人が死ぬ瞬間を見た時も、そこには神様がいた。
でもそういう記憶のひとつひとつに、あなたも一緒にいたような気がするのはなぜなんだろう。まだあなたという存在すら知らなかった頃なのに、なぜあなたがそこにいたような気がするんだろう。
いつも近くにいた神様はあなただったんじゃないか? 私はそう思ったりもしたけど、本当はわかってる。たしかにあなたは私の神様に似ている。でもあの神様はあなたじゃない。イエス・キリストでもなければブッダでもない。あれは私だ。この道の先で待っているのはもうひとりの私なんだ。私が私を待ってるんだ。帰ってくるのを待ってるんじゃない。私が迎えに来るのを待ってるんだ。そこから先は私は私と一緒に終わらない旅をしなきゃならないし、あなたもあなたと終わらない旅をしなきゃならない。だから私はあなたを選ばない。あなたも私を選ばない。
それじゃあなぜ遠い記憶の片隅にあなたがいたように錯覚するのか。それはあなたと私が同じ時の水脈に触れたから。同じ時の流れと、繋がりと、そのしがらみを見つけたから。湿った冷たい土の山をかき分けて、指先で触れ合って手を繋ぐ遊びみたいに。ふっと同じ水脈に手が届いたんだ。その水脈は地球の血潮。すべての命を繋ぐ同じ血筋。私は無計画だった。なんの予感もなかった。ただなんとなく苦しんでいただけだった。それでも思いがけず巡りあった。それだけのことが私にこんなことまで考えさせる。
生きているとそういう瞬間がありますね。同じ時の流れに触れて、別々の生き方が二重に重なる瞬間が。過去も未来も関係なく何かとひとつになる一瞬が。それは甘美でロマンチックな運命なんかじゃない。神秘でもない。ただの予定調和なんです。運命とはちがう約束事なんです。それは私のような者にも、そしてすべての人にも平等に与えられた、この世界の優しさなんですね。神様。






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